2020年4月 5日
カンボジアにてドラムレコーディング!!!
思い起こせば去年の年末ぐらいからカンボジアでドラムが録音出来ないか探している・・・
この時はプノンペンに遊びに来たさわだんが、英語が達者だということで片っ端から電話をかけてくれて探し当てたのだ。
よく飲みに行ってるHIBACHIの近所の、ここは普通の自宅内のホームスタジオ・・・
ここをFacebook投稿してみたら地元のミュージシャンからいくつか反応があった。
「ここ俺の友達んとこだよ」
外国人である私が地元のミュージシャンと知り合うというのは、よく行っているライブバー「Oscar」に飛び入りセッションして知り合うのである。
最近になってわかったのだが、ここはプノンペンで一番いいライブハウス。
外国人も含め日替わりでいろんなミュージシャンが客である年配の白人客相手に古めのロックを演奏している。
その中に実は重鎮ベーシストがいた!(◎_◎;)
いや、重鎮であるかはその後にわかるのだが、
とりあえずHIBACHIで一緒にメシでも食う・・・
この時に彼が連れて来たのはカンボジアで一番上手いというドラマー!!
こうやってミュージシャンの知り合いがどんどん増えてゆく・・・
その時に私は彼らに相談した。
「スタジオを作りたいんだ」
私は自宅のある八王子には自宅スタジオがある。
X.Y.Z.→Aをはじめ、アースシェイカーや筋少や、ここでも色んな名盤が生まれている。
そして北京、初代のこのスタジオは中国の高度成長の煽りを受け、立ち退きで引越し、次の場所ではちゃんと防音までしてかなり本格的に作ったのにまた立ち退き(>_<)
今ではもう北京にスタジオはない・・・ということはそこの機材を全部持って来ればここカンボジアでもスタジオが作れるということだ。
ところが機材は持って来たとしても、そのメンテ、新たな機材を揃えなければならなくなった時に困るのが、
「レコーディング機材の専門業者」があるかないかが大きな問題である。
この会食の時に聞いたが誰も知らない。
それではということで、「じゃあレコード会社とかのスタジオとかないの?」と聞いてみたがそれも知らないと言う・・・
くっくま孤児院の美和さんの話では、一般貸ししてるかどうかはわからいが、どうやらひとつだけレコード会社の大きなスタジオがあるという話であったのだが、この辺のミュージシャンが知らないとなると探しようがない・・・
プロユースのスタジオや音響機材など、そもそも一般向けに広告など出しはしないのだ。
知ってる人だけが知っている、そんな業種なのだから仕方がない・・・
その後、北京のエンジニア方言(FangYan)をこちらに呼んで調べさせた時に、中国人コネクションでいろいろ調べてくれた。
それでもこの段階ではこちらでドラムがレコーディング出来るスタジオはまだ見つかっていない・・・
そんな中で中国で新型コロナウィルスによる新型肺炎が始まった・・・
その時に私は毎年のように日本でツアーを廻ってた。
中国は旧正月辺りになると絶対に仕事はないので、毎年この時期には日本でツアーを廻るのだ・・・
ツアーの途中で頚椎症性神経根症になってしまった為、暖かいところということで、療養も兼ねてここカンボジアにやって来た。
その時にはドラムなど叩くつもりもないのでスティックすら持って来てない。
コロナの蔓延してないどこか暖かいところを療養を兼ねてのんびり廻るつもりだったのだ・・・
ところが布衣のボーカルLaoWuが、コロナで自宅待機をしている全ての人に捧げる歌を作りたいと言うので、この状況でどこかでドラムが録音できるかどうか考えてみたが、中国で録音しようと思っても、もう既に中国では爆発的に感染者が増えている。
日本もあれよあれよという間に第二の感染国となってしまった・・・
そんな時期に感染国を行ったり来たりすることも出来ないので、そこで考えついたのは布衣とRebellioNとのコラボである。
その時に出来上がった曲・・・この時にはRebellioNのみんなは「LaoWuがどうしてこんなに急いでこの曲を仕上げようと思っているのかわからない」と言っていたが、今となってみればこれは「今の日本」である。
さてそれからしばらくしたら、もう中国へも日本へも戻れない・・・(>_<)
中国は現行の全てのVISAを無効にし、当然ながら私の労働ビザも無効なので入れないし、
日本は母国なので入れないことはないが、2週間の隔離(自宅待機?)を余儀なくされる。
ってか、成田に着いたら公共交通機関、タクシーも含め全部乗ったらあかんっつうたらどうやって家に帰るん?
家の人に車で迎えに来てもらうしかないらしく、そしたらその迎えに来た人も2週間は隔離状態となる・・・
無理やん(>_<)
カンボジアも日本よりは数十分の一ではあるが感染者がどんどん増えてゆき、
ついに外国からの入国を禁止!!
私はこの国を出たらもうこの国には帰ることが出来ず、かと言って出ても入れる国はなく・・・
VISAが切れるまでここでいるしか選択肢はなくなったのである・・・
(幸いカンボジア政府はVISAの延長処置をしてくれることとなった)
ここで暮らすのはよい!!仕事はないが部屋はある。
ところが布衣の新しいアルバムのレコーディングが始まった・・・
こればかりは人にドラムを叩いてくれと言うわけにはいかないので、どうしても自分でここ、カンボジアでドラムレコーディングをしなければならないのだ・・・
本格的にスタジオを探す・・・
まずはくっくま孤児院の美和さんに連絡を取って、そのレコード会社のスタジオとやらを探してもらう・・・
ところだ探し当てたのはひとつの電話番号、Mr.Laという人だということだが、クメール語も話せない私がプアーイングリッシュで話しても全く話にならないだろうということで、日本人の方に会社のクメール人に電話をしてもらった。
常備している機材や、ドラムセットの状況とかを聞いてもらったりしているうちに話が途切れた。
めんどくさくなったのだろうか・・・「どうやら外国人には貸さないみたい」
(>_<)
中国でもそうである。ひとつのコネが暗礁に乗り上げたら別のコネを探す!!
先日HIBACHIだ会食したグループにMr.Laの連絡先をアップして、
「誰かこの人知り合いじゃないか〜」
重鎮ベーシストが「俺知ってるよ〜」・・・って、こいつむっちゃ顔広い!(◎_◎;)
そこから直でFacebookで繋がり、本人と英語で話せ出せたのだが、
「じゃあ土曜日にスタジオ見に行くよ、機材等チェックして、問題なければ日曜日にレコーディングしよう」
とまでなったのだが、そこから何故か連絡が返って来ない(>_<)
ちょうどその時、Oscarで働いてたタカシという日本名を持つヤツが食い詰めて「何か食べ物を恵んで下さい。インスタントラーメンでいいです」と連絡して来た(笑)
ちょうどいい!!メシ食わせてやるから働け!!
というわけでDr.Laに電話をかけさせる・・・
「ダメです。うちの機材じゃFunkyさんに満足してもらうレコーディングは出来ないと断られました」
(>_<)
ところがタカシはそこでOscarの常連ドラマーに連絡を取り、そこからある人・・・おそらくこの国の重鎮プロデューサーなんだと思うがそこに繋がった。
ドラマーにお礼を言う・・・返事に
「あなたのプレイはOscarで見たことがあります。素晴らしいドラミングです」
みたいなことが返って来た。
顔の広い重鎮ベーシストも、このドラマーも、そしてこのタカシも、みんな私のドラムを聞いて、そいで私を好きになってこれだけ動いてくれる・・・
ドラムが上手くてよかったぁ・・・(笑)
冗談はさておき、この重鎮プロデューサーと繋がって、念のためにその重鎮ベーシストに
「この人知ってる?」
と聞いた時の反応が面白かった・・・
「よくここまで辿り着きましたねぇ・・・」
きっとそういう立場の人なのだろう、面白いのがこの人はタカシとは話さない。
「本人じゃないと話さないって言ってますよ」
とタカシが困って私にそう言ったが、
中国でもそう、偉い人は相手がトップの人しか話さない。
決定権を持ってない下っ端と話したって埒が明かないことを知っているのだ。
一応Facebookのグループを作ってタカシも傍観させてたのだが、
これがまた例によって遅々として進まない(>_<)
「きっと忙しいのでしょう」
とタカシは言う・・・
そしたら待つ!!
劉備元徳は諸葛孔明を手に入れるためにあばら家に2度行って待ちぼうけをくらってやっと3度目に会ってくれた。
(三国志演義より)
相手のことが絶対に必要だと思ったら待つ!!
それが相手に対する「礼儀」となるのだ・・・
そして連絡が返って来た時にすかさず
「お会い出来ませんか?」
こうして初めて会うことになった場所がなんと外国人用の音楽学校・・・
ここの3階のリハーサルスタジオに機材を持ち込んでレコーディングしようということになったら話が早い!!
「じゃあ次の金曜日に!!」
ついにこの国でレコーディング出来るのか・・・感激もひとしおである。
とにかくスケジュールさえ決まってしまえば録ることは出来るだろう・・・
問題はドラムセット・・・このスタジオのドラムセットをちゃんとチェックしてなかったが、出来ればこのセットを借りたいのう・・・
重鎮ベーシストに連絡してみる・・・
「このドラマーとこのプロデューサーは一緒に仕事してますから大丈夫でしょう」
繋がるのう・・・
しかしみんながこのドラマーと連絡が取れない。
きっとコロナを恐れて田舎に疎開しているのだろう・・・
ということでプロデューサーが別のドラムセットを探して来てくれた!!
念入りにチューニング!!
ドラムの向こうに座っているのはくっくま孤児院の美和さんとソバン先生、そしてくっくまバンドのダビッとティアルッ。
向学のために見学というのもあるのだけれども、実はスティックを持って来てもらったのだ。
こんなに長くここに滞在するとは夢にも思ってなかったのでスティックすらない(>_<)
それぞれのドラム演奏の絵も撮っといてくれということでバンダナもない(>_<)
イオンに買いに行ったけどなかったのよ〜この国でバンダナしてる人なんか見たことないし〜(笑)
というわけで美和さんが持ってるというのでそれも持って来てもらったのだ・・・
プロデューサーが黙々と仕事をする・・・
きっと真面目な性格の人なんだと思う。
このレコーディング、是非とも成功させなければならない。
この日に最高の音でちゃんとレコーディングさえしとけば、
今後中国の仕事はこの国でやってしまうことが出来る。
「カンボジアなんかでちゃんと録れるの?」
と聞かれたら
「布衣のニューアルバム聞いてよ、あれカンボジアで録ったから」
と言えばよい。
その音が最高のものであれば今後もこの国で仕事を受けることが出来るし、
音が悪ければもう2度とここでレコーディングするチャンスはない・・・
ところが問題発覚!!
彼が用意したこの日のシステムでは、ドラムのパンチイン、パンチアウトが出来ないのだ!(◎_◎;)
思わず頭を抱えてしまったが、
よく考えたらこれは「音質」の問題ではない、「プレイ」の問題なのだ。
初めてのレコーディングの時、そう、爆風スランプの初期のアルバムなどはアナログの時代だったのでパンチインなど出来なかった。
今ではデジタル編集が当たり前になり、ドラムを叩きながらどこでパンチインをするかを考える時代・・・
要は最初っから最後まで間違わずに1回でベストテイクを録ればそれでいいのね!!
やってやろうじゃねーか!!・・・とレコーディングが始まったが、
次の問題は暑さ・・・(>_<)
クーラーや扇風機のノイズが入らないように、叩く時はオフにしてもらったのだが、
例えその数分間だとしてもカンボジアでクーラー止めて運動(ドラムを叩く)したら暑い・・・(涙)
こりゃ長くはやってられんぞ・・・ということで、
「テイクを2テイク録ります。その後映像をシューティング。そして次の曲!!」
譜面にはしているが、曲は覚えてないので実際はテイク1は「試し」である。
一応録音はしているが、いろんな試行錯誤はこの時に全部してしまい、
実際にテイク2の時が本チャン、つまり「一発OK」で全曲録り上げてしまおうというものである。
俺なら出来る!!いや、他に選択肢がないんだからやらねばならぬ!!
修羅場に突入!!
バラードはいいのだが、2曲ほど難しい曲があり、
「なんでこんな難しいアレンジしたんやろ」
と悔やんでも仕方ない・・・何とか全曲録り終えた!!\(^o^)/
このプロデューサーの第一印象・・・笑わない人だなぁ・・・
でもこの段階で既に笑顔が溢れてる。
「お前は大したヤツだよ」
そんな笑顔・・・そして一緒に修羅場をくぐり抜けた「連帯感」が生まれている・・・
「後日一緒にメシでも食いませんか?」
中国でもお世話になった人には食事をご馳走する。
これは中国の仕事なのである、ちゃんとその予算は計算してある・・・
この国に最初に来た時に、何か30年前の北京と同じ「匂い」がした。
中国ではコネがないと何も出来ない。
かと言ってひとつだけしか持ってなかったらやっぱり何も出来ない。
ひと昔前、アジアブームの頃、
「私は誰々さんと知り合いなんですよ」
などと言ってた人はみんな撤退して日本に帰ってしまった。
「どこをどう伝って行ってもこの人に繋がる」
ぐらいのコネがなくてはどうしようもないのだ・・・
この国カンボジアで、私は生きてゆける自信がついた。
(レコーディング終了後にシューティングのためOKテイクに合わせてドラムを叩いている絵です)
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2019年7月 1日
北朝鮮プロジェクトまとめ
<<プロローグ:北朝鮮? いいですよ、行きましょ!!>>
2006年のある日、中国は北京で暮らしていた私を訪ねて来た「荒巻」と名乗る日本人・・・
彼は学者で北朝鮮とチベットを専門で研究していると言う。
10年以上(当時)に渡り、20回を超える(当時)渡航歴の中で築き上げた「コネ'」がある彼は
「僕だけはどこでも歩けますし何でも撮ることが出来るんです」
と言う・・・
事実、当時テレビで流れていた北朝鮮の映像はほとんどが彼によって撮影されたものだと後で聞いた。
「ファンキーさん、北朝鮮に行きませんか?」
その一言が私の人生を「奇異なもの」に変えたのだ。
「同じ後悔するなら飛び込んで後悔したい」
という人生観を持っている私は二つ返事で行くと答えた。
そしたら荒巻はひとつのDVDを私に手渡した。
「じゃあとりあえずこれ見といて下さい」
ハリウッドの映画「スクール・オブ・ロック」!!
ロック馬鹿な主人公が、何かの間違いで優等生ばかりの小学校の教師となり、
何を教えることもないのでロックを教えていたらその学校が「スクール・オブ・ロック」、すなわち「ロック学校」になってしまったという、笑いあり涙ありの素晴らしい映画だった。
「見ましたよ。素晴らしい映画でした!!」
数日後こう言ってDVDを返しに行ったら荒巻は喜んでこう言った。
「そうですか!!じゃあ北朝鮮に行ってこれをやりましょう!!」
こうしてこの「北朝鮮ロックプロジェクト」は軽いノリで始まった。
当時の私は何の期待も不安もなくこのようにブログに記している・・・
ブログ記事:北朝鮮に行ってくる(?!!)
ところが行ってみて私の感覚は大きく変わった!!
彼女たちの笑顔が私の全てを変えたのである。
<<第1章:平壌をロックに染めてやる!>>
北朝鮮のビザは、諸外国のようにパスポートにハンコを押すのではなく、
このようにペラペラの紙に別紙として発行される。
Web記事:北朝鮮のVISA
北朝鮮に着くと「案内人(兼通訳・・・兼監視員?)」がふたり付く。
噂によると二人がお互いに関ししているという話も聞く・・・
ところが荒巻は長い渡航歴の中でこの案内人自体に「コネ」がある。
案内人というよりも案内人を派遣する団体との関係で、こうしてコネのある案内人を回してもらえるのだと言う・・・
そんな中で初めての北朝鮮渡航!!
ブログ記事:北朝鮮美女軍団ロックバンド
ブログ記事:北朝鮮渡航記
<彼女たちの笑顔こそが「ロック」だ!!>
この渡航によって私は180度変わった。
私の中での大きな「価値観」が変わってしまったのだ。
私は「北朝鮮の子供たちは笑わない」と思ってた。
笑ったとしても作り笑いしかしないと思ってた。
しかし実際にこうして子供たちと交流してみると、
笑ったり泣いたりケンカしたり、
日本なんかよりももっと個性豊かな子供たちがそこにいた。
日本の偏ったメディアの報道により、
中国で暮らしている私でさえ事実を歪んで捉えている・・・
それがイヤでこそ私はこうして日本を捨てて外国で暮らしていたのではないのか・・・
ここから私にとってのこの「北朝鮮ロックプロジェクト」が本格的に始まった。
<<第2章:北朝鮮のオリジナル・ロック曲>>
ブログ記事:北朝鮮にロックが響く(前編)
Web記事:世界はRockを求めてる!北朝鮮Girlsロックバンド計画
6月9日高等中学校の国語の先生にいくつか詩を書いてもらったのだが、
その中でこんな「ロック」な詩を見つけた!!
물음표(クエスチョンマーク)
ナヌンヤ ムルンピョ サランハジヨ
나는야물음표사랑하지요(私はクエスチョンマークを愛する)
나는야물음표사랑하지요(私はクエスチョンマークを愛する)
ジシグィ ノプンタプ サアガルスロク
지식의높은탑쌓아갈수록(知識の高いタワーを築けば築くほど)
ジヘソゲ セムソンヌン ナウィ ムルンピョ
자혜속에샘솟는나의물음표(知恵の中で湧き出る私のクエスチョンマーク)
コギウィ ビミルムン オソ ヨルラゴ
거기의비밀문어서열라고(その秘密の門を開きなさい)
ソンゴンウィ ヨルシェルウル アンギョズジヨ
성공의열쇠를안겨주지요(成功のキーを与えてくれる)
ムルンピョ ムルンピョ ナヌン ゾアヨ
물음표물음표나는좋아요(クエスチョンマーク、私は好きなんだ)
ウリ ハムケ オルダ ソクサギョ ズヌン
우리함께오르자속작여주는(みんな一緒に昇ろうとささやいてくれる)
ムルンピョ ムルンピョ ナヌン ゾアヨ
물음표물음표나는좋아요(クエスチョンマーク、私は好きなんだ)
オンゼナ センギョナヌン ムルンピョ
언제나생겨나는물음표(いつも生まれるクエスチョンマーク)
これを詞にして「北朝鮮初のオリジナルロック曲」を録音すべく、
録音機材、北朝鮮の機材は使い物にならなかったのでギターやベースも担いで2回目の渡航!!
途中「軍部からの中止命令」にも負けずこの曲が完成した!!
ブログ記事:北朝鮮にロックが響く(後編)
そしてこれらの活動を日本テレビのニュース番組で特集してくれることになった。
ブログ記事:放送日決定!!
「放送されたら、右側なのか左側なのか、どんな団体からどんな圧力をかけられるかわかりませんよ。ちょっと海外にでも身を隠してた方がいいんじゃないですか」
と言われていたが、局が用意した多数の苦情受付電話回線は鳴ることがなく、日本の人々に大きな感動を与えて番組は放送された。
<<第3章:チベットで発見した「ロックとは何か」>>
何か自分の能力を超える作品を生み出した時には、身体中の細胞がそのレベルに追いつこうとするかのように気が狂ったようになる時がある。
Runnerを生み出した時がそうであった・・・
荒巻は悩む私をチベットに連れて行って、そこでラマの高僧と問答を交わし、悟りを開いてゆく・・・
ブログ記事:チベットにて悟った「ロックとは何か」
<<第4章:次世代の部員との本気のセッション>>
3度目の訪朝はメディアでもブログでも多くは取り上げられていない。
しかし「交流」という点では一番実のある渡航であった。
今度は自ら少女たちの中に入ってドラムとアコーディオンの楽曲を録音。
心を通い合わせなければ完成しない楽曲のために、何度も話し合い、ぶつけ合い、1週間のガチのセッションの中で、少女たちから大きなものを教わる。愚かなのは実は自分だったのである!!
<<第5章:新人類たちとのロック>>
鎖国しているようなこの国でも世の中はどんどん変わってゆく・・・
ちょっと時間のあいた4度目の渡航では見るもの全てが大きく変わっていた・・・
荒巻とこの「6月9日高等中学校」とのコネだけで北朝鮮でこれだけのプロジェクトを行なっている。
しかし子供たちがここを卒業してしまえば荒巻のコネが届かないところに行ってしまう・・・
特に軍部に進んだ生徒は(北朝鮮ではそれが一番のエリートとなる)、もうどんなコネを使ってもこのような外国人と接触することは出来ない。
ところが校長先生の計らいで卒業生のひとりと会うことが出来た。
そしてこの世代の子供たちはもう「新人類」。
その子供たちと彼女たち自身の手による「オリジナル楽曲」を作り出す。
北朝鮮版「けいおん」である。
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝(初日)
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝2日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝3日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝4日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝5日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝6日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝最終日
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝番外編1:遊園地
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝番外編2:よど号乗っ取り犯人と酒を飲んだ!!
<<第6章:はるかなる北朝鮮〜さようなら愛弟子たち>>
ブログ記事:北朝鮮ファンキー末吉ロックスクールの生徒たち
ブログ記事:5回目の訪朝
ブログ記事:無事出国!!北京空港にて
金正日体制が終わった直後の最後の渡航。
少女たちにとって「将軍様」とはどんな存在なのか?
あの涙はホンモノなのか?
この国はどうしてこんなに金があるのか?
そして何より、「何故このロックプロジェクトがこの国に受け入れられたのか」の謎が解き明かされる。
<<番外編>>
北朝鮮ロックプロジェクトは、これら一連の物語を本にまとめて出版すると共に封印されました。
ブログ記事:北朝鮮プロジェクトついに書籍化!!
その他ブログ記事
ブログ記事:北朝鮮初のオリジナルロック曲
ブログ記事:今日からまた北朝鮮・・・
ブログ記事:持ち込み成功!!
ブログ記事:北朝鮮のタブレット分析(序章)
ブログ記事:北朝鮮に初めてiPhoneを持ち込んで国際電話をかけた日本人
ブログ記事:北朝鮮のタブレット分析(フライング編)
ブログ記事:北朝鮮のタブレット分析(アプリ編)
ブログ記事:朗読CD本日より発売開始!!
ブログ記事:朝鮮学校の秋祭りでドラムを叩こう!!
ブログ記事:朝鮮学校のイベント
<<結びの言葉>>
ひょんなことから北朝鮮に「ロックの教え子」を持った。
でも国際情勢がこのようである今、私がこの「ロックの愛弟子」たちに自由に会いに行くことは出来ない。
こんな「世の中」にしてしまったのは誰でもない、私たち「大人」である。
この子たちの時代には、この子たちの世代の手によって、こんなバカげた世の中をなくしてくれることを心から願う。
<<書籍紹介>>
このプロジェクトを記した書籍はこちら
電子本はこちら
この書籍は朗読CDとしても発売されてます。
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2019年6月16日
ある愛の唄プロジェクトまとめ
「ある愛の唄」
1988年春、その1年後に爆風スランプから江川ほーじんが脱退することが決まり、「それまでにヒット曲を生み出せなければバンドを終わる」という状況の中、私は苦しみ抜いて「Runner」を生み出す。
同年のNHK紅白歌合戦にこの曲で出場し、願い通りこの曲はヒットするものの、「ヒット曲が続かねばバンドは一発屋として終わる」と言われ、また苦しみ抜いて「リゾ・ラバ」を生み出す。
その苦しみの果て頭の中でぽんと何かが弾けた私は、1990年5月に初めて中国北京を訪れ、偶然地下クラブで演奏するロックバンドのライブを見ることとなる。
「中国で本物のロックを見つけた!!」
インターネットもeメールも普及していなかった時代、興奮した私は所属事務所にそのレポートをFAXで毎日送りつけるが、所属事務所はそれを無視していた。その後、アジアブームが訪れ、アジアに進出したい所属事務所は私ではなく、別の歌手を北京に行かせて「彼が北京でロックを見つけた」という取材企画を組むこととなる。
爆風スランプがその事務所に移籍した時のトップとのミーティング。議題は末吉の個人活動について。社長は私にはっきりとこう宣言した。
「当社は爆風スランプの末吉くんとビジネスをしたいのであって、末吉くんの個人活動には興味がない」
つまり「お前は爆風スランプにだけ曲を書いとけ。ほかの曲には興味がない」ということ。爆風スランプっぽくない楽曲を生み出しても誰からも必要とされてない状況が続いていた。
「楽曲は生み出した自分の子供と同じである」と考える私は、爆風スランプの楽曲としては必要なしとされてしまった、膨大な数の生み出した楽曲をなんとか形に残そうとして、この「ある愛の唄」というコンセプトアルバムのデモ音源を作成した。
<デモ制作>
そのデモ音源は、当時近所に住んでいた歌手の卵である「キョンマ」こと岸恭子(現眞辺恭子)がアルバムの全編を歌って制作した。しかし私自身その後、日本に失望して中国に渡ってしまうことになり、いつしかこのアルバムのこと自体もすべて忘れ去ってしまっていた。
デモ音源
<コンセプト>
当時サンプラザ中野以外の詞が採用される状況ではなかったなか、このアルバムの詞は全曲私の手によって書かれた。ある女性が生まれる前から伴侶が死ぬ前までを組曲にしたコンセプトアルバムである。
のちに、池川明さんが「おぼえているよ。ママのおなかにいたときのこと」という本を出版されて、私もその本を読むことになるが、そのもっと前から私は「赤ちゃんが自分で母親を選んで生まれてくる」という考えを持っていて、それがこのアルバムのコンセプトの中心となっている。
<天安門にロックが響く>
さらに同時期、私は中国で出会ったロックの話を元に「天安門にロックが響く」という小説を書いた。
この小説が「小説現代」に掲載され文壇デビューとなった。
そしてこの小説が原作となって、漫画「北京の春」が発刊された。
この本は中国語に翻訳され、香港、台湾で発売された。
中国共産党のお膝元である中国大陸ではもちろんご法度であるが、中国人である私の妻(当時)の両親が北京から来日した時に見つかってしまいこっぴどく説教をされた。
「中国では絶対にやってはいけないことがふたつある。ひとつは色ごと、もうひとつは政治批判!!家族の中でそんなことやってる人間が現れたら一族郎党どんな目に遭わされるやらわからない」
と・・・
実は、この小説のモデルとなった中国の女性シンガーと、天安門事件で人民解放軍に殺される恋人との話が、アルバムに収録されている「ママの初恋」という曲になっている。
また、このコンセプトアルバムの主人公は、いくつかの大恋愛を経て最終的に中国に嫁いでゆき安住の地を手に入れるところなど、この小説とリンクされている部分も多い。
<キョンマとの再会>
私は長くこのアルバムのことを忘れていたが、デモですべての楽曲を歌っていたキョンマがこれを大切に保管してくれていた。
これを末吉に渡した時に彼女はこう言った。
「よかった。やっとこのアルバムを末ちゃんにお返しできた。この楽曲たちはあなたの生み出した大切な子供たちです。どの子もとってもいい子です。私もライブで時々歌うけど、聞いた人はみんな涙するんだもの」
私はまるで忘れていたこのアルバムを「初めて」に近い気持ちで聞くことになり、これを聞いて自分でも涙した。
その後、前回のクラウドファンディングでキョンマ自身が「出張ライブ」の出資者となり、このアルバムの楽曲をライブで再現しようということにもなった。
<制作開始>
そしてついにアルバムが仕上がった!!
(こちらで購入できます)
そして2019年5月19日にアルバム全曲再現ライブが行われた。
そして、このアルバムの楽曲は「世界中のより多くの人に歌ってもらいたい」というコンセプトにより、現在のところ「著作権フリー」にしている。
その流れを受けて、歌手の山下直子さんもこのアルバムを歌って下さった。
そして今、世界中の人たちに歌ってもらうべく、キョンマ自ら歌うベトナム語版、
そして中国の著名歌手「李慧珍」が歌う中国語版と、
カンボジアくっくま孤児院の子供たちが歌うクメール語版の制作が始まっている。
ブログ記事「ある愛の唄中国語版」
ブログ記事「ある愛の唄中国語版その後」
ブログ記事「中国の契約書との戦い」
ブログ記事「クメール語バージョン制作開始!!
ブログ記事「支援は人のためにあらず」
ブログ記事「クメール語版「中国のマドンナ」
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2019年6月 3日
ボーカルレコーディング@くっくま孤児院
くっくま孤児院に古いMacBook Airとインターフェイスやマイクなども置いて来て、バンドのメンバーが自分たちでボーカルレコーディングが出来るようにしている。
エンジニアはキーボードのティアルッ君。
キーボードプレイヤーの仕事というのは今やパソコンを使える人というご時世なので、「覚えておいて損はないよ」とばかり彼に色々と基本的なことを教えておいた。
「自分たちで録音してデータを送ってね」
ということで最初にデータが送られて来たのだが、
まあ最初なので仕方がないが色々不備があるのでまた指示をして送り返す。
これを数度やり取りしていると、ティアルッ君のスキルがどんどん上がり、歌録りの音質自体は今やもう何も問題がない。
ボーカルのスレイクォイのレベルも元々高いのではあるが、
ここにひとつの欠点を発見!!
まあここのみんなは音楽教育を受けたことがないので当然なのだが、
「ソルフェージュ能力」というか、
新しく与えたメロディーを把握する能力とか、一度間違って覚えてしまったら直せないところがあるようだ。
それだったらというわけでタイでボイストレーナーをやっているMIMIさんに声をかけてカンボジアまで来てもらった。
まずは発声法!!
これ歌の基本だそうで、「お腹から声を出す」!!
せっかくなのでバンドのメンバーや他の子供たちにもみんなに指導してもらいました。
そしていわゆる「ソルフェージュ」の基本!!
音を聞いてそれが何の音かがわかるようにする訓練をゲーム形式でやってみました。
ずっと昔に「笑っていいとも」のゲームコーナーで、お笑い相手に同じようなゲームをやっていて、ゲストの森口博子は全部一瞬で答えるのに、お笑いの人たちは「何でわかるの??!」とびっくり。
森口博子が逆に「何でわかんないの??!」とびっくり!!(笑)
確か小学校の音楽の聴音のテストでも同じようなのがあったのを覚えているが、
私は小さい頃ピアノをやってたせいか労せずして全部わかったが、
同級生が全くわからないのを不思議に思ったことを覚えている。
「才能」でも何でもない。
要は訓練!!平ったく言えば「慣れ」である。
コツがあって、「これはドの音です」の時に、頭の中に「ドレミファソラシド」を思い浮かべて、出題された音がその頭の中で鳴っている音のどれに当たるかを考えればそれで良い。
もし鍵盤を弾きながら「これかな」とか探してゆけば誰にでも出来ることで、
「要は頭の中で鍵盤を弾く」みたいなもんで、
これが出来ればメロディーを覚えるのも楽だし、
メロディーが違っていいれば頭の中で瞬時に違っていることを認識出来る。
初日はとりあえずここまで。
次の日はMIMI先生はボーカルのスレイクォイの個人レッスン。
私はヒマなので(笑)ドラムのダビッにドラムのいい練習方法を伝授した。
この練習はリズムのウラ拍を意識する為に非常に有効な方法で、
メトロノームを表で聞くと、どうしてもそれに合わせてリズムを「置いて」ゆくようになってしまうが、ウラで聞くとこちらがずれると容赦無く置いてかれるので非常にシビアなリズム練習となる。
いや初めてでこの速度でやれるようになるっつうのはなかなか大したもん!!
さてやるだけやったら最後に大目的のボーカルレコーディング!!
エンジニアのティアルッ君は私の知らないショートカットキーとかも駆使しながらなかなかのもの。
この曲のBメロの一部分、ボーカルラインを間違えて覚えているのでそれをやり直しているうちにトラブル発生!!
何度かやり直してるうちに、突然ボーカルのスレイクォイから何の反応もなくなったと思ったら・・・泣いているのだ!(◎_◎;)
よほど悔しかったのだろう。
泣いていることすら知られたくないという感じで両手で顔を押さえて泣いていた・・・(写真自粛)
水を打ったように沈黙が広がる・・・
私はメンバーの様子をまず観察した。
3人のメンバーは誰も言葉を発しない。
一緒にこの孤児院で暮らして来た「家族」である。
誰よりもスレイクォイのことを知ってるのだろう。
「こんな時こいつは何も言わずにほっとくのが一番なんだ」
と言わんばかりに「無言の暖かさ」で彼女を包み込んでいる・・・
5分だろうか10分だろうか・・・
かなり長い沈黙を破って彼女が口を開いた。
「大丈夫です。歌います!!」
彼女は逃げることなく、甘えることなく、自分で乗り越えた!!
これだからレコーディングをやると格段にレベルがアップする。
この修羅場を乗り越えた者だけが「次」に行けるのである。
かく言う私も爆風スランプの1枚目のアルバムをレコーディングする時に、
叩けなくてこっそりトイレに行って泣いた・・・
当時はアナログレコーディングなので、ドラムのパンチインパンチアウトなどがまだ出来なかったので尚更である。
ドラムが間違えたら全員最初からやり直し。
最初から最後まで間違えずに叩けて、そのレベルが自分や他が納得するものであって初めて他の楽器の録音が出来るのである。
今やもうデジタルの時代になって、ドラムであろうがどんなに細かいパンチインパンチアウトが出来るようになっても、この「経験」によって今の私がある。
「これぐらいパンチインパンチアウトなしで最初っから最後まで叩ける」
という「自信」が今の中国でのステジオミュージシャンの仕事をする上での何よりの「ルーツ」となっているのである。
人生においても、今後どんな困難があっても、
逃げることなく、甘えることなく、こうやって全て自分の力で乗り越えていって欲しい・・・
見ればMIMIさんが隣で涙目になっている(笑)
このまま録音して全て終了!!・・・と思ったら、
歌いすぎてスレイクォイの声が枯れて来ているので翌日に持ち越し!!
翌日も声は回復してなかったので、
前日のボイストレーニングで一番声が変わったベースのスレイレアッにコーラスを歌ってもらう。
そのレコーディング風景を見ているスレイクォイにも、
自分が歌っている時と違った目線でレコーディングを見ることが出来る。
「ああこういうことなのか・・・」
ということがわかったんじゃないかな・・・
頑張れみんな!!
こうやって自分の力で乗り越えてゆくことを、おじさんは「ロック」と呼んでいるんだよ。
こうやって自分の人生も「ロックの精神」で乗り越えていって欲しい・・・
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カンボジア希望の星プロジェクトまとめ
<<くっくまバンドとの出会い>>
2018年8月、私は中国での仕事を終え、少しだけ空いた時間をどう過ごそうかと考えていた。
日本に一時帰国してもよかったのだが、往々にして日本行きのチケットは高い。
だが東南アジアなら往復3万円ぐらいでゲット出来る。
別にどの国でもよかったが、その時に一番安いチケットがプノンペンだったので、こうして2度目のカンボジア行きが「偶然」決まったのである。
プノンペンに着いて、別に何の予定があるわけではない。
前回来た時に立ち寄ったライブハウスに行ったり、
また、「デスメタルバンドがある」という噂を聞いたので情報を探したりしていた。
その時のブログ記事:希望の星になれ!!
カンボジアのデスメタルバンドには少々興味があった。
最初にカンボジアに来た時、ポルポトの大虐殺に関する遺跡を見て、この国で生まれた「ロック」というのはどんなロックなんだろうと漠然と考えていたからである。
結局デスメタルバンドを見ることはなく、私のSNS投稿を見た人が紹介してくれたくっくま孤児院に足を運んだ。
この孤児院は、もともと「ソバン先生」という、この方も孤児だった人が、自分たちで孤児を引き取って、自分たちのお金で孤児たちにご飯を食べさせて、学校に通わせていたのが前身である。
当然ながら資金には限界があり、運営が行き詰まった時に日本人スタッフと出会い、日本からの援助を受けて今の形になったのだという。
ソバン先生の素晴らしいところは、子供たちにカンボジア伝統舞踊とかの「芸能」を教え込んだところである。
実際、この孤児院の子供たちは、みんなで伝統舞踊を踊ったりして少しでも孤児院の運営費を稼いだりしている。
その流れの中に「バンド」があった!!
この子たちの演奏を聞いて私はぶったまげた。
音楽などを「仕事」にしていると、私の場合は普段、音楽を聞いて「楽しみ」にするということはない。
全て「仕事」になってしまうのだ。
楽曲を聞くと、その作り方、メロディーに対するコードの当て方とかアレンジとか、
そんなものを常に分析してしまって「疲れる」ので普段の生活では全く音楽などは聞かない。
ところが時々、そんな「仕事脳」というのをぶっ飛ばされる音楽に出会うことがあり、
この子たちの演奏がまさにそれであった。
この奇妙奇天烈なシンセフレーズ、
タイのルークトゥンを彷彿させる楽しいリズム、
元々はカンボジアの古い歌謡曲らしいのだが、
そのメロディーの作り方など、おおよそ日本人には全く発想にないこの音楽に「仕事脳」はノックアウトされてしまったのである。
ブログ記事:カンボジアRock!(◎_◎
これこそが「縁」、こうして私はくっくま孤児院のこのバンド「くっくまバンド」と出会ったのである・・・
<<希望の星になれ!!>>
この動画をSNSにアップした時に、それを見た人は多かれ少なかれ、この孤児院にこれだけの機材が揃っていることにびっくりしたようである。
これも日本からの支援なのであるが、
「他に支援が受けられない貧しい孤児院もいっぱいあるのに・・・」
という意見が出て来る前に、私はこう宣言した。
私はこの子達から演奏機材を取り上げて別の孤児院に回せばいいのではなどとは考えない!!
私が出会ったのはこの孤児院だったわけだから、まずこの孤児院に「音楽」を支援する!!
そして私はこの日、こう心に誓った。
「俺がこの子達をカンボジアで一番の大スターにする!!」
そしたらこの子達は下の子達を食わせていけるというだけではない。
この子達がカンボジアの全ての孤児達の「希望」になる!!
何の才能も環境もない孤児が、頑張ってこんなに成功したんだ!!俺だって!!私だって!!
そう思ってさえくれれば、もう泥棒や売春なんかやらなくたっていい!!
「孤児がのし上がるにはもうなにも犯罪を犯すだけが選択肢じゃないんだよ」
そんな世の中になったとすればそれこそ「大成功」ではないか!!
人を助けるには「力」が要る。
でももしこの子達がそんな大きな「力」を手に入れたとしたら、
この子たちはきっとそんな恵まれない孤児のためにその「力」を使うだろう。
絵空事を言ってるのではない。
この子達には「何か」そんな「力」があるように思えて仕方がないのだ。
考えてみれば、カンボジアの孤児達であるこの子達こそが直接的な「ポルポトの被害者」ではないか!!
だからこそ思うのだ。
この子たちの笑顔こそが「ロック」なんだ!!と・・・
老い先短いこの私が生きてる間にどれだけのことが出来るかわからんが、
たとえ私がいなくなっても、
たとえこの年長組の子達が就職したり結婚したり、バンドが出来なくなっても、
その下の子達がその「夢」を引き継いでゆけばそれでいい。
そしていつかこの国の「希望の星」になってくれればいい。
いつまでも「笑顔」で頑張って欲しい・・・
<<その後の活動>>
私は別のプロジェクトとして「ある愛の唄プロジェクト」というのをやっている。
まずはこの子たちにこのアルバムのクメール語(カンボジアの言語)バージョンを録音してもらおうと思い立った。
ブログ記事:クメール語バージョン制作開始!!
翻訳作業に入った子供たちがメッセージを送って来てくれた。
ブログ記事:支援は人のためにあらず
それから私はまた一度カンボジアに渡った。
この子たちはそれに合わせて一生懸命辞書を引きながら訳詞を考えてくれたようだ。
最初に取り掛かってもらったのが、アルバムの最後を飾る「ある愛の唄」という曲。
でもクメール語で歌ってもらった感覚としてはあまりいい感触ではなかった。
もちろん私自身はクメール語が全くわからないが、
なんとなく「乗っていない」というか、語呂が悪く聞こえたのだ。
そもそもはこの曲は長く一緒に暮らした伴侶の死に対して歌う歌である。
その内容が子供であるこの子たちにちゃんと理解出来ているかどうかにも疑問が残る・・・
そこでちょっと目先を変えて、アルバムの中の「中国のマドンナ」という曲をその場で内容を伝えてクメール語の詞として考えてもらった。
ブログ記事:クメール語版「中国のマドンナ」
ちなみにこのやり取りは日本語で行う。
この孤児院の子たちは日本の支援で大きくなったので、みんな片言の日本語を喋るのだ。
こうして2日がかりで出来上がったのがこのテイク!!
この歌声を聞いて、私は思わず涙が出て来た。
もちろんクメール語は全く理解してないのだが、何やら心の底から伝わって来るものがあるのだ。
私はこの動画にクメール語の歌詞とその意訳を載せようと思って、パソコンでクメール語の歌詞を打ってもらった。
ところがそれをGoogle翻訳にかけてみて発覚したのだ。
歌詞の内容が全然違う!!!(◎_◎;)
私はこの孤児院のお母さまである美和さんに連絡を取って、
一体どうなっているのかを調べてもらった。
全く違う文章が送られて来たのかも知れないし、
実際Google翻訳がバカだっただけなのかも知れない。
返事が来るまで私はひとり勝手な想像を巡らせた。
歌詞を書いているのはボーカルのスレイクォイ。
今回わかったことは、彼女は自分で作詞が出来る。
詞を書く時の非常に前向きな気持ちもひしひしと伝わって来る・・・
ひょっとして彼女には「書きたい詞」があって、私の説明を無視して勝手にその「書きたい詞」を書いたのではなかろうか・・・
これが私の頭をよぎった「想像」である。
こう考えると、2日目に2番の内容を説明して書き始めた時の、何やら「引いた」感じの態度に思い当たる節がある・・・
数日して美和お母さまが本人と話したと言って連絡をくれたのだが、
「日本語がそんなに完璧にわからないので、大元のとちょっと内容がずれたところがあるかも知れない」
ということであった。
でも私は自分の「想像」通りであったらいいなと逆に思う。
この子はこのメロディーを聞いて浮かんだ、「どうしても表現したい」ことがあった・・・
それはこの日本から来た「先生」の意見を無視してもどうしても書きたかった・・・
それは全然悪いことでも何でもない。
表現者としてそれほど強いものを持ってるということは非常に大切なこと。
そう考えると、クメール語もわからない私がこんなに強くこの歌に惹きつけられるのも頷ける。
この子はそうまでして「表現したいこと」があったのだ・・・
真相はどうなのかはわからない。
でもどちらかと言うと、私はそうであってくれた方が嬉しいかな(笑)
ひょっとしたらこの子はそれほど「強いもの」を持っている。
だからひょっとしたら本当にこの子はカンボジア一番の大スターになるかも知れない・・・
しばらくは勝手にそのように思い込んでおくことにした・・・
<<オリジナル曲作り>>
作詞が出来るとすると、制作方法は大きく変わってゆく。
私はもう既に日本で200曲を越える楽曲を作って発表しているので、
その中から彼女たちに好きな楽曲を選んでもらえれば「バンドのオリジナル曲」などすぐに出来てしまう。
とりあえず権利が自分だけにある自由に使用できる曲を100曲ほど置いて帰ったのだが、
この子たちがまず最初に選んだのはこの曲!!
元々中国のアイドル歌手に書いた「红舞鞋(HongWuXie)」という曲なのだが、
美和お母さまの話によると、この曲を再生した途端に「ワオー」とみんな飛び上がったらしい。
それならばということで、この曲に詞をつけてもらった。
ブログ記事:くっくまバンド新曲
これは最初のリハーサル風景・・・この後、この曲がどんどん進化してゆく・・・
2019年6月9日のリハーサル
2019年6月9日のライブ
そして2019年6月18日のライブ
<<仲違い>>
2019年6月9日にプノンペンで小さなライブを計画していたのでカンボジアに向かおうとしてた時、美和お母さまからメールが・・・
「メンバーが今仲違いして関係が険悪なんです・・・」
小さい頃から歌手になるのが夢であったスレイクォイ。
そして今ではプロの音楽家になりたいと思っているそれぞれのメンバーだが、
意識の点でも、「楽器演奏」という点でもボーカルと差が出て来てしまう。
歌を歌うという「楽器演奏」は小さな頃からやれるから経験値が高くなるが、
バンドメンバーはそれぞれの楽器演奏を小さい頃からやってる人などいないわけだからそれも当然である。
バンドあるある(笑)・・・
要はそのボーカリストがそのメンバーとずっと一緒にやりたいと思うか、
もしくはバンドメンバーを切り捨ててひとりでやっていきたいと思うかである。
美和お母さまがひとりひとりに考えを聞いて間に立つ。
でも初ライブに向けて練習しているうちにだんだんと雪解けを感じて来た。
ブログ記事:くっくまバンド初ライブ
考えてみればこの子たちは一緒にこの孤児院で育った「兄弟姉妹」のようなものである。
言わば「兄弟喧嘩」・・・
私が見るに、この子たちはむしろ「自分だけは」という考えは持ってないと思う。
一緒に育ったみんなと共に上を目指そう!!・・・そう思っていると思う。
力を合わせて頑張るのだ!!きっと君たちの夢は叶う!!
<<DTM>>
ボーカルのスレイクォイだけでなく、
今はバンドのメンバー全員が「プロになりたい」という夢を持っている。
ドラムのダビッはまあ私がドラマーなので教えることは多いとして、
ベースのスレイレアッも、まあ私が教えられることは何でも教えてゆこう。
だが困ったのはキーボードである。
「キーボード」という楽器はみんな小さい頃からピアノを習ってた人が担当する場合が多いが、
メンバーの中で一番年上のティアルは、孤児なのだから当然音楽教育など受けたことがない。
プレイヤーとしては大きくスタートラインから遅れているのである。
ブログ記事:キーボードという「楽器」
ところが昨今、ピアノも全然弾けないのにアレンジャーとして活躍しているミュージシャンは多い(私もそのうちのひとり)。
そのためにはコンピューターで音楽を打ち込む方法、DTM(デスクトップミュージック)」を習得することが必須となる。
くっくまのみんなのパソコンにはどっかから無料のDTMソフトをダウンロードしているようだ。
ティアルッはそれを私に見せて
「これどうやって使うんですか?」
と聞くが・・・
いや、ワシにもわからんし・・・(>_<)
自分だけの特殊な環境で慣れてしまうと、
他の人からのアドバイスは受けられなくなるし、
何より将来他のプラットフォームでの互換性がなくなるので、
ここはとりあえず私が使っている「Logic」というソフトを余っているMacにインストールして持って行った。
ティアルッよりソバン先生の方が興味を示している・・・(笑)
最初はMIDIでのキーボード録音のみ教えて、
何か曲が出来たら送ってもらったり、
こちらからLogicファイルを送ってそれを見て色々研究したり・・・
さらには2019年6月の渡航の時に、マイクとインターフェイスも持って行って、ボーカルをレコーディング出来るようにしておいた。
もちろんエンジニアはキーボードのティアルッをご指名である。
今後は毎月私が楽曲のオケを送って、それに詞をつけてボーカルトラックを送り返してもらう作業をする。
これは私の「業務」としてやってもらう。
何故なら最近中国で私の楽曲を購入したいという話が多いのだが、
私自身が歌っているDEMOだと「いい曲も悪く聞こえる」そうで(笑)、
彼女の声でちゃんとしたDEMOを録音してくれるとありがたい。
この「仕事」をやってもらいながら、
その中でバンドが気に入った曲があればそれを練習してもらうだけで「レパートリー」がどんどん増えてゆくという寸法である。
2020年10月には最上級生のティアルッが高校を卒業する。
それまでに何とか「音楽で食ってゆく」という足がかりが出来ていればなあと思う。
<<結婚式での演奏>>
カンボジアでは結婚式が盛大に行われる。
踊りや歌など、それこそ4時間5時間ぶっ通しで行われる。
この子たちは時々そういうところに呼ばれて伝統舞踊を踊ったりする。
そこでこの「バンドバージョン」の存在に重きが置かれて来るのだ。
日本のアマチュアバンドは本当に「出口がないなぁ」と思う。
毎回ライブハウスに決して安くない「ノルマ」を払って、
自分たちが呼んだお客さんの中だけで延々演奏し続けて、
一体「出口」はどこにあるのだろう・・・
私はカンボジアのこの結婚式の状況を聞いた時に、
カンボジアならではのバンドの「出口」があるのではと思った。
大きな結婚式では歌手や生バンドを呼ぶと言うが、
それはあくまで有名なカンボジアの曲を歌ってもらうための「コピーバンド」の仕事である。
日本でも同様に酒場などでの「箱バン」という仕事があるが、
その仕事の中には自分たちのオリジナル曲を演奏するチャンスはない。
しかしカンボジアでは4時間も5時間も演奏し続けるのだから、
中に何曲オリジナル曲を演奏しようが咎められることはない。
これを私は大きな「出口」だと感じた。
くっくまバンドは来たる乾季の結婚式シーズンに向けてカンボジアの有名曲のレパートリーを増やすために一生懸命練習している。
その中で歌えるオリジナル曲を増やしてゆきたい。
人前で演奏するということは大きな「経験」になる。
客の反応を見て演奏や歌い方、詞もひょっとしたら変えた方がよいかもとか色々試行錯誤することが出来る。
そうして「完成」されたオリジナル楽曲をCDに焼いて、
出来たらその結婚式で売ってゆけばよい。
将来カンボジア一番の大スターになって多額の金を稼ぐようになったとしても、
その始まりはいつもそんな数ドルの小さなものであるから・・・
だから私と一緒にやった2回のライブでは、
この子たちがその練習風景を録画したDVDを1ドルで売ることにした。
毎回ライブの度に何かを売ってゆこう。
今はそれが1ドルでも、将来それがもっともっと大きなお金で売れるものになってゆくはずである。
頑張れくっくまバンド!!カンボジアの希望の星になるのだ!!
<<その後>>
ボーカル録音開始!!
2019年9月14日のライブ
涙のボーカルレコーディング
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2018年10月26日
クメール語バージョン制作開始!!
このプロジェクトのクメール語(カンボジアの言語)バージョンの制作が始まった!!
日本語の楽曲を外国語に訳して歌う、というのにも色んな考え方があるようだ。
日中間で色々仕事をさせて頂いたことがあるが、
まずヤン坊マー坊の中国語版を作った時は、
「原詞から少しも意味を変えることなく」
というのがクライアントからの発注であった。
私たちの世代なら誰でも耳にタコが出来るぐらい聞いた、
天気予報で流れるあの「僕の名前はヤン坊〜」というアレである。
実はこの歌詞にはあまり知られていない3番があり、
その中に「双子」という言葉が使われていた。
ヤン坊とマー坊は双子の兄弟〜みたいな感じだったと思うが、
ところが「双子」というのは中国語で「双胞胎(ShuangBaoTai)」、
つまり「胎盤が二つ」と書くのでどうも歌詞にするにはよろしくない。
何とか「仲良し兄弟」とかに出来ませんかねぇ・・・
北京から日本のクライアントに国際電話までして、そう相談した記憶がある。
サンプラザ中野が北京オリンピックに合わせて
「Runnerと玉ネギを中国語で歌いたい」
という話もあって、LaoWuに歌詞を発注したのだが、
「どんな細かいところも変えてくれるな」
と言うので「無理!!(>_<)」となって、結局中国語の喋れる日本人に丸投げした・・・
だって中国にはロッカールームなんてないし~
ペンフレンドもようわからんし〜
コンサート会場の上に野菜が乗ってるって中国ではどうなの?(笑)
うって変わって二井原実。
X.Y.Z.→Aの英語版を出す時に彼は、訳詞の人に
「ええよ別に〜作りやすいように所々変えてくれても〜」
と言っていたのを覚えている。
私の場合は考え方が二井原に近い。
いつもやってるやり方としてはこうである。
まず日本語の詞をそのままその言語に直訳する。
私の場合、その時に色んな注釈をいっぱい書き加える。
例えばこのアルバムの歌詞で言うと、
M1の
「この人が私の父となる人 その愛ゆえに今 生まれてゆく」
はM10の
「ママがパパを愛してあなたが生まれたの これだけは覚えててね...」
とリンクしてますよ
とか
M4の
「河の見える小さな部屋で」
は後に結婚して住むM8の
「黄河のほとりの丘の上に 私たちの家がある」
とリンクしてるんですよ
とか、興醒めのようなことでもどんどん書き込んでおくのだ。
(このアルバムのDEMOフルバージョン)
歌詞は、奥に別の意味があったとしてもそれを限定させるように表現するのではなく、聞き手に想像させるように作ってゆく。
でも訳詞者にその裏の意味を託すのでは楽曲がまた違った意味になってしまう可能性もあるので、
無粋ではあるけれども敢えて細かく書き加えて、その直訳から「詞」にする時に、その人のセンスで、その人なりにぼやかせて貰えば良い。
いや私なんぞはむしろ、
「根本的な流れが合っていれば、細かいところなんかどんどん変えていってくれて良い」
ぐらいに思っている。
「中国のマドンナ」とか別にどこの国にしてもらってもいいし、別にシチュエーションは黄河のほとりじゃなくてもいい。
河でもいいし山でもいいし、要はM4とM10が同じシチュエーションであればそれでいい。
M3「ゴメンね」にしても、まだ初恋を知らない頃の青春の甘酸っぱさが表現出来れば、内容やシチュエーションが全く違ってもいいし、M11「娘の初恋」も、要は次の曲「娘の嫁ぐ日」が感動的になる「娘のエピソード」であればそれでいい。
要は「訳詞」というよりは、その言語で「作詞」して欲しいのだ。
この「クメール語(カンボジアで使われている言語)版」は、くっくま孤児院の子供達自身で詞を作ってくれとお願いした。
ところがこの詞の直訳用原稿を書いている時のこと、突然こんな考えが頭をよぎって筆が止まってしまった・・・
このコンセプトアルバムの物語は、主人公が雲の上で自分で両親を選んで生まれて来て、
母の愛から次には自分の娘への愛となり、
父の愛から恋人に対する独占欲や嫉妬心となり、
最後には愛する人と巡り合って幸せに暮らし、その伴侶を看取るまでの物語である。
でもこの子たちは孤児なのだから、ヘタしたら両親の愛どころか両親の顔さえ知らずに育っている?
母親から、父親から愛情を注がれたことなど全くない子供たちだっているんではないのか?・・・
そんな子供達にこんな物語を作詞させるのて・・・あまりに残酷なのではないか?・・・
そんなこと考えてしまったらもう全く筆が進まない・・・
数日間ずっと悩んでいたのだが、ある日やっとこんな考えに至った。
私は(当たり前だが)孤児になったことはないので、この子たちの本当の気持ちはわからない。
両親は仲悪くて離婚したけど、この子たちに比べたら幸せに育てられた自分が・・・
などと、私は「この立場」でこの子たちを見ていたのではないか?
高いところから低いところを見てるようなその考えこそが一番良くないことなのではないか?
そんな風に考えてることこそ、ずっとこの子たちとの間に「壁」を作っていることではないのか?
私がそんな真綿で包んであげるようなことをしたところで、この世の中はこれからも、容赦なくこの子たちに「現実」を浴びせかけてゆく・・・
異国の地でこの子たちを、母親代りとなって育てている楠美和さんの顔が浮かんで来た。
彼女は決してそんな風に、真綿で包むようにこの子たちと接してはいないだろう。
ある時はぶつかり合い、ある時は突き放し、いつも「同じ目線」でこの子たちと接しているに違いない。
20数人の子育てって・・・どんなん?・・・(涙・・・笑)
そもそもが「歌」などは全て実体験を歌っているものではないのだ。
「歌手」とは「役者」に似ているものだと思う。
自分の体験してないことを、自分が体験した経験からシミュレーションしてそれを「表現」する。
つまりはその世界観を「演じる」わけだ。
だからこの子たちなりに考えて、この子たちなりに「想像」して、この子たちなりに「表現」して欲しい。
年長組は、もう数年でこの孤児院を卒業して独り立ちする。
この国でこの社会に出た君たちは、また容赦なくいろんな「現実」を浴びせかけられ、強く逞しくそれと戦って生きてゆくことだろう。
そしていつの日か、あの時に「想像」した通り、理想の伴侶を見つけ、幸せな家庭を築き、子供を作り、命がけで子を愛し、育て、いつかこの歌のように伴侶を看取り、または看取られながら神のみもとへ召されてゆく・・・
そうなって欲しい。
まあその頃には私は絶対に生きてはおらんがの(笑)
雲の上からそれを楽しみに見ておくぞ・・・
この「クメール語版」は、この子たちを「希望の星」にするためのほんの序章。(関連記事)
まず「作品」を残して、それを自分たちの「商品」にする。
自分たちが売る「商品」を自分でたち自身で頑張って作るのだ。
一番好きな曲の順にそれをライブで歌って、その「商品」をお金にしてゆけばいい。
今回作ったクメール語版のCDをライブで売って、それで下の子たちを養っていけるようになれば言うことない。
上の子が巣立っていったら、下の子がまたこれを歌い継いでゆけばよい。
そんなこんなしてるうちに、次はバンドのオリジナルアルバムを作るぞ!!
このバンド
そしていつか君たちはカンボジアで一番の大スターとなって、この国の恵まれない子供たちの「希望の星」となるのだ!!
その時に、このアルバムの最後の一行、
「世界中の全ての人々が、本当に幸せに召されてゆくことができますように...」
とクメール語で歌って欲しい。
私が生きてるうちにその姿が見れるかな(笑)
このクラウドファンディングは、
「まあ100万円もあればアルバム一枚ぐらい作れるだろう」
ということで始めてますが、
このアルバムの先には、このようなもっともっと壮大な「夢」がいっぱい控えてます。
共感して下さる方は、是非ご支援のほどよろしくお願い致します。
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2018年8月30日
希望の星になれ!!
「縁」というのはそもそもがこのようなものなのかも知れない・・・
この商売、「休みを取る」という感覚がない。
スケジュールがぽっかり空く時、それが「休み」である。
最近は北京でいる時よりも中国のどっかの地方都市でいる時の方が多いので、
その最後のスケジュールが終わってその後にスケジュールが入ってなかったりしたら、
「ムズムズ・・・どっか南の国に行こうかな・・・」
などと考え始める・・・
いや別に日本に帰ったっていいのだが、
往々にして日本への航空チケットは高い(>_<)
というわけでいつもその時々で一番チケットが安いアジア諸国を探すのだが、
それが今回はたまたまカンボジア!!
何と上海から往復で3万円ぐらいで来れたのだ\(^o^)/
プノンペンに着いて真っ先に前回ドラムを叩いたバーに行ってみたのだが、
なんと白人がカントリーを歌う店になっててがっかり(>_<)
他に生演奏をしてるバーはないかと探したが、
この日は月曜日なのでライブは休み(>_<)
しゃーないなぁ・・・と、ふと考える・・・私は一体何をしたいのだろう・・・
前回はドラムを叩いて楽しかった。(映像)
まあ「休み」なのに「仕事」であるドラムを叩くのも変な話だが、
「趣味」でもあるのだからそれは仕方がない・・・
まあドラムが無理なら、カンボジアにデスメタルのバンドがあるみたいなのでそれを探してもみたかった。
ポルポトの大虐殺の子孫がどんなデスメタルをやっているか興味があったのだが・・・
まあそんなこんなで初日は何の収穫もなく、ホテルのプールサイドでぼーっとしてたのだが、
何やらタイムラインに色んな人から書き込みが・・・
「プノンペンで日本人が運営している「くっくま孤児院」のお子さん達が「くっくまバンド」というのを組んで一生懸命練習しています(^^)機会がありましたらぜひ」
まあええよ、ヒマやし(笑)・・・そしてこれこそが「縁」だったのである。
何の期待もなく、ただヒマであるからということで向かったこの孤児院、
まあ一応ドラムセットはあるだろうということで、「ひとりドラム」が叩けるような準備だけはして行った。
まあどこでどんな状況で叩こうがやることは一緒なのでそれはまあいい。
問題はその後に彼ら達の演奏を聞かせてもらってびっくりした。
!(◎_◎;)・・・いい!!この音楽、むっちゃいい!!
聞けば彼らは当然ながら孤児なので音楽教育を受けたこともなく、
耳コピで見よう見まねで弾いているだけだそうなのだが、
この演奏が私の心を鷲掴みにした。
思えば1990年に初めて北京に行った時、地下クラブで偶然見た黒豹のライブ、
当時の稚拙な彼らの演奏から口ではうまく説明出来ない「何か」を感じて、
そしてその後の自分の人生が全く変わってしまって今も私は中国でいる。
同じような「何か」をこの演奏から感じ取った。
黒豹はその後中国ロック界の重鎮となったわけだが、
この子達にも「何か」を感じる・・・
実はこの子達とはまた別の小さな縁があった。
秋に日本語の歌を歌うイベントがあるらしく、
この子達が今練習している曲が偶然にも「Runner」。
この子達が歌ってくれる「Runner」を聞きながら不思議に思う、
「こんなこともあるんだなぁ・・・」
たまたま慰問に来た人間が、たまたまその時に練習してる曲の作曲者だっただなんて・・・
園長さんはこの曲を作ったのが私だということは知らなかったので、
「実はこれ・・・私が作曲したんです・・・」
と言ったら、子供達が私にこう言った。
「すごーい!!(◎_◎;)作曲ってどうやってやるんですか?!!」
その時に私は心に決めたのだ。
「俺が何でも教えてやる!!」
北朝鮮で「ロック」を教えて来た人間である。
カンボジアでこの子たちに何を教えるなんて私にとってはしごく簡単なことである。
Facebookの私の投稿を見て、ある人がこう書き込んだ。
「いよいよカンボジア編スタートですね*\(^o^)/*」
「北朝鮮プロジェクトに続いて」という意味なのだろう。
私はこう返信した。
「北朝鮮に比べたらはるかに障害は少ないですよ(笑)」
映像に立派な演奏機材が映ってるのを見て、後々
「なんだ、この子達は恵まれてるじゃないか。他にもっと大変な孤児院はいっぱいあるのに」
などと言う人が現れるかも知れないので先に言っておこう。
私はこの子達から演奏機材を取り上げて別の孤児院に回せばいいのではなどとは考えない!!(キッパリ)
そもそもが、この子達に小さい頃から伝統舞踊を教えたこの孤児院の創設者が素晴らしいのだ。
「貧しい人に食べ物を与えるのが援助じゃない。釣竿を与えて釣り方を教えて、その人達が自分の力で食って行けるようにすることが大切なんだ」
と言った人がいたが、その通り、この子達は実際に伝統舞踊を踊ったりして収入を得ている。
まだまだ日本などからの支援の額には及ばないが、
それでも「自分で食ってゆく」何らかの「技術」があることは素晴らしい!!
他にも困っている孤児院はいっぱいあることも事実だろう。
でも私は「たまたま」この子達と知り合った。
だからこの子達を先に援助する!!
そして私はこの日、こう心に誓った。
「俺がこの子達をカンボジアで一番の大スターにする!!」
そしたらこの子達は下の子達を食わせていけるというだけではない。
この子達がカンボジアの全ての孤児達の「希望」になる!!
何の才能も環境もない孤児が、頑張ってこんなに成功したんだ!!俺だって!!私だって!!
そう思ってさえくれれば、もう泥棒や売春なんかやらなくたっていい!!
「孤児がのし上がるにはもうなにも犯罪を犯すだけが選択肢じゃないんだよ」
そんな世の中になったとすればそれこそ「大成功」ではないか!!
人を助けるには「力」が要る。
でももしこの子達がそんな大きな「力」を手に入れたとしたら、
この子たちはきっとそんな恵まれない孤児のためにその「力」を使うだろう。
絵空事を言ってるのではない。
この子達には「何か」そんな「力」があるように思えて仕方がないのだ。
北朝鮮ロックプロジェクトが始まって最初に平壌に行った時、6月4日高等中学校軽音楽部の女の子達と初めて会って私はこう思った。
彼女たちの笑顔こそが「ロック」なんだ・・・
考えてみれば、カンボジアの孤児達であるこの子達こそが直接的な「ポルポトの被害者」ではないか!!
だからこそ思うのだ。
この子たちの笑顔こそが「ロック」なんだ!!と・・・
老い先短いこの私が生きてる間にどれだけのことが出来るかわからんが、
たとえ私がいなくなっても、
たとえこの年長組の子達が就職したり結婚したり、バンドが出来なくなっても、
その下の子達がその「夢」を引き継いでゆけばそれでいい。
そしていつかこの国の「希望の星」になってくれればいい。
いつまでも「笑顔」で頑張って欲しい・・・
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2017年11月26日
プノンペンで心のスキマ埋められる・・・
どういう流れでカンボジアまで来たかということはまた別のブログ記事に書くとして、
私はタイから朝一番の空路で、私を誘ってくれたホーチミンのレオさんは陸路で向かい、
プノンペン市内の日式ホテル「東屋」で合流ということになっていた。
レオさんはバスで6時間かけて向かっているということで、
それまで屋上の露天風呂にでも浸かりながら待とうということになった。
貸切状態でこんな感じ・・・
ところがここにひとりの日本人が入って来た。
(まあ「国籍」を確認したわけではないが、このホテルを利用するんだから勝手に「日本人」と思っただけなのだが・・・)
サウナで汗を流しながら色んな現地情報を聞いていたのだが、
「じゃあビールでも飲みますか!!」
ということになって、カンボジアビールで乾杯!!
ホーチミン在住の刺青だらけのベーシスト(今バスでこちらに向かっている)が取ってくれたホテルが完全日本式なで、露天風呂に入ってたら地元の日本人と意気投合してカンボジアビールで乾杯!! - Spherical Image - RICOH THETA
夜は市内のライブハウスでドラムを叩くからそこで会おうということでとりあえずここで別れた。
地元の人たちに連れて行かれたプノンペンの歓楽街・・・
プノンペンの歓楽街なう〜 ここにライブハウスがあるらしい・・・ ドラムでも叩けたらちっとは世界を平和に出来るかな・・・ - Spherical Image - RICOH THETA
ライブハウスというよりは箱バンの入ったガールズバーという感じだったがとりあえずドラムを叩く!!
ライブハウスというよりは生演奏の入ってるガールズバーみたいですが叩きますよ〜!!! 世界平和のために!!! - Spherical Image - RICOH THETA
そう、私は昼間の約束を全く忘れてしまってたのよね(>_<)
というわけで彼から連絡が来て合流〜
そして連れて行かれたのがこんな店!!
入り口に看板はない。
民家のような雑居ビルの1階のとあるドアを開けて入るといきなりこんな空間が現れるのだ!(◎_◎;)
「ここは日本料理屋です。
普段は予約でしか営業してくれず、
しかも予約は1日1組までしか受けてくれません。
今日は特別に開けてもらいました」
そんな店があるのか!!(◎_◎;)・・・しかもカンボジアで・・・
そして彼は私に強くこう注意した。
「この場所を人に教えてはいけません!!
オーナーの写真を取ってもいけません!!
オーナーの名前をアップしてもいけません!!
約束ですよ〜」
とりあえず日本でもなかなか手に入らないという珍しい酒を頂く・・・
つまみはまず海ぶどうが出て来る・・・カンボジアなのに・・・
茄子とイカの塩辛の一品!!
モッツァレッラチーズの一品!!
漬物も絶品!!
ここは果たしてカンボジアなのでしょうか・・・
カンボジアのプノンペンにある看板の出てない日本料理屋・・・私は心のスキマを埋められたに違いない・・・ - Spherical Image - RICOH THETA
もう夜中の2時は過ぎてるであろうか・・・
「ほなもうぼちぼち帰ろうかな・・・」
そう言った私に、写真をぐるりと回して向こう側に座っている彼がこう言った。
「お代は要りません。ここは私が払っておきますので・・・」
!(◎_◎;)
「ファンキー様が満足されたらそれが何よりの報酬でございます。ホーッホッホッホ!!」
そう言って彼はトゥクトゥクに乗って帰って行った・・・
翌朝、目が覚めたら二日酔いで頭が痛い・・・
一体どれだけの酒をあそこで飲んだのだろう・・・
試しにポケットをまさぐってみるとお金は全然減っていない・・・
今晩もあそこに行くのだろうか・・・
いや、今晩行ってみたら、きっと昨夜入り口だったところは壁になっててドアが消えているのだ・・・
プノンペンの夜に心のスキマ埋められた・・・
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2014年10月27日
朝鮮学校のイベント
日本の至る所に朝鮮学校が存在していることは知っているが、
普通に日本人社会だけで暮らしていたら、そこに足を踏み入れたり、
ましてやこうしてそのイベントに出演する機会などは滅多にない。
ワシの場合この辺のおっちゃんおばちゃん達の知り合いが増え、
北朝鮮ロックプロジェクトがきっかけになってこのようなチャンスが増えて来た。
朝9時に学校に入ってみたら校庭には何とも立派なステージが組まれていた・・・
しかも客席にはテーブルまで並べられていて、
「飲むのか?飲むのだな!!」
という雰囲気満載である(笑)
ちなみにテーブルの高さがあまりにも低すぎるのではという疑問が頭をかすめたが、
この時点では「普通のテーブルの数が足りなかったのね」ぐらいにしか思わなかったのだ。
後にこれには長年のイベントによって培われた大きな理由があることが判明する・・・
テーブルには今日のプログラムと屋台で売られている食品等のメニューが貼られている。
食うのか?食うのだな!!(笑)
とりあえず屋台の営業が始まるまでに自分の物販売り場を確保!!
客も多いだろうということで全てのアイテムを大量に持って来た。
ちなみにワシは知っている。
このイベントで立ち並ぶ屋台には実は朝鮮学校存続の大きな役割があることを・・・
前回この学校を訪問した時に、あまりの生徒数の少なさにびっくりした。
6年生などは生徒がおらず、人数の少ない学年は他の学年と一緒に授業をする。
まるで過疎地の学校のようだが、
これも在日が5世6世の時代となり、民族教育の必要性が薄れて来たためなのか、
それよりも気になるのは、そうなると学費による収入がなくなるわけだから当然ながら学校自体の運営が厳しくなるわのう・・・という余計な心配が頭をかすめる。
ちなみに先生は朝鮮語で授業をするので、
少なくともネイティブに近い朝鮮語を喋れる在日の人とかに限られる。
決して本国北朝鮮から教師が派遣されるわけはないのだから、
「さぞかし人材不足やろうなぁ・・・」とまた心配もしてみる・・・
学校の3階にある資料館にはこの学校の歴史が写真と共に綴られているが、
それを見るとまさに「日朝間の政治に振り回されて来た学校」である。
歴代の大阪府知事の歴史の中ではこの学校に多額の援助をした時代もあったし、
ご存知のように橋下知事はその援助を一切カットした。
横山ノックの写真もあったので横山知事の時代は援助をしていた方なのだろう・・・
ここで日本国の税金を使って朝鮮学校を維持するべきかどうかの議論をするつもりはない。
大阪府民が選んだ代表者が自分たちの民意を反映すればそれでいいだけの話である。
ただおっちゃんおばちゃん達は何とか自分たちの母校を存続させようと思っている。
そこで考えついた・・・というか自然発生的なのかどうかはわからんが、
父兄や卒業生たちが自分とこの食材などを持ち込んでそれをここで売って、
そのお金を学校に寄付して存続して来たのだと言う・・・
アジア的というか大阪的というか、その発想の面白さや、
おっちゃんおばちゃん達の母校も大変なんやなぁという思いもあって、
ワシも仕入れ値がかからないいくつかの物販の売り上げは寄付することにした。
本当は一番ピンポイントであるこの本をそうしたかったのだが、
本の場合はお金を払って出版社から仕入れるので、
この学校の運営のみならずうちの家計も大変なのでそれは通常に売らせて頂いた・・・
昼頃になると会場にはいい匂いが満載して腹が減る・・・
朝鮮独特のメニューで言うと、まず代表的なチジミ!!
日本ではちょっと珍しい(沖縄ではあるそうだが)豚足のおでん!!
定番のキムチ・・・
やはり定番の焼肉・・・
え?焼肉?・・・焼肉ってどうやって焼くの?売店で焼いてくれるの?・・・と思ったら・・・
何とこの低すぎると思ったテーブルは七輪を置いてちょうどよい高さなのだ!!(驚)
さすがは何十年の間に培われたこのシステム・・・
ちなみに七輪には学校の名前が書かれている七輪もあり、
長年のこのイベントの歴史が伺える・・・
・・・ってか焼肉焼きながら見るイベントって珍し過ぎるやろ!!(笑)
生徒たちの出し物に続いて焼肉の煙の中でワシの出番!!
叩く前は飲めないからこの匂いが大変なのよ・・・(笑)
そうそう、ワシのつぶやきやFacebookの投稿を見て、たまたま大阪にいた落合みつを君がかけつけてくれた。
いや〜勇気あるなぁ・・・
「朝鮮学校」と聞いただけで「怖い」という人や、
ワシがこんなおっちゃんおばちゃんと仲良くしてただけで反感を感じる日本人もいる中で、
わざわざこうして自分から飛び込んでくる歌手もいるんやなぁ・・・
というわけで、せっかくなので一緒に1曲歌ってもらう!!
一緒に連れて来たベースの浅田くんは多少ビビってたらしいが(笑)、
いや、みんな来てみたらええんやと思うよ。
実際自分の目で見てからいろんなことを自分で考えればいい。
見えてない部分が多くて論じることがいろんな問題を生んでいるというのも事実やしな・・・
ちなみにベースの浅田くん、新潟から大阪に引っ越して来てまだ1ヶ月で友達もまだ出来てないと言うが、日本人の友達より朝鮮人の友達の方がいっぱい先に出来たな(笑)
そしてこのイベントでワシが一番やりたかったこと。
平壌6月9日高等中学校軽音楽部のみんなと作ったムルムピョをこの朝鮮学校の子供たちとコラボして歌ってもらうことである!!
あれからもう7年・・・彼女たちとまた会ってこの曲を演奏することは叶わないけど、
海を越えてその同胞たちに歌ってもらうのは感慨深い・・・
次には是非軽音楽部とかと一緒に演奏も生でやってみたいね。
他の朝鮮学校の人からも声かけて頂いたし、来年には是非!!
というわけでライブ終了!!食うぞ!!!
おっちゃんおばちゃん達、いろいろお世話になりました。
7時には酔いつぶれて終了致しました!!
この辺にはしょっちゅう来ますんでまた飲みましょう!!!
ひとりドラムツアーの軌跡はこちら
北朝鮮ロックプロジェクトまとめはこちら
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2013年3月 7日
北朝鮮に初めてiPhoneを持ち込んで国際電話をかけた日本人
今年から北朝鮮に携帯電話が持ち込めるようになったということはネットニュースなどでも伝えられて来た。
ところが「持ち込めるようになった」のと「実際に持ち込める」のとは大きな違いがある。
例えば中国など国際免許が通用しない国で、
「現地で免許が取れる」
という風には早くから伝えられていたのだが、
ところがワシのような不法就労の身では
やれ居住証だやれZビザだと現実的には
「免許など金でバッタもん買った方が早い」
というのが現実である(笑)
「北朝鮮で外国人用にSIMカードの販売が開始され、
携帯電話で国際電話がかけられるようになった」
というニュースは既に流れていたが、
「実際私たちのような旅行者が本当にそれが出来るのか」
というのとは現実としてまるで違うのである。
奇しくもワシは今年になって北朝鮮に入国した最初の日本人であるらしい。
北京発平壌行きの飛行機は相変わらず中国人客を満載してたが、
平壌空港に着いたらその中国人客は皆携帯電話を税関職員に差し出してるではないか・・・
「ほら見てみぃ」という気持ちで私も携帯電話を差し出した。
大体にしてニュースというのはこんなもんである。
誰もそれを確かめもせずに流しているのだから・・・
あきらめてそのまま税関を出ようとしたら、
いつもの案内人がやって来て
「携帯電話の預かり証はもらいましたか」
と言うので、
「あ、そう言えばもらってねえや」
とばかり引き返す。
案内人が二言三言税関職員と話していたと思ったら、
職員はなんとそのまま携帯電話をぽんと渡してくれた。
「え?!!ウソー!!」
ワシはつい取り乱してしまったが、
追い打ちをかけるように案内人はこう言った。
「外国人用に電話のカードも売ってますけど買いますか?」
ワシはついに絶叫した!!
「え?!!ホントに買えるの?!!すっげー!!!」
空港内であまりに狂喜乱舞していたので案内人に注意されたぐらいである(笑)
見れば税関を出た所にこんな看板がある。
まるでネットにつなげんばかりのポスターではないか!!(ワクワク)
ワシは迷わずSIMカードを購入した。
一番安いパックを中国元で支払う。
450元・・・日本円でだいたい7000円ぐらいであろうか・・・
中国から持ち込んだGSM携帯もあったが、
ここでは3G携帯しか使えないと言うので、
迷わずiPhoneにこのSIMを挿すことにした。
「iPhone5か?」と聞かれるので「4Sです」と答えたが、
よく見るとカウンターの裏にはSIMカッターが2つ置いていて、
おそらくひとつがmicroSIM用、もうひとつがnanoSIM用で、
客の電話の種類によって通常のSIMをカットするのだろうと思う。
SIMにはPINコードが設定されていて、
カウンターのお姉ちゃんが「0000」打ち込んだら、
なんと見事にiPhoneはこの北朝鮮製のSIMを認識しているようだ。
試しに電話をかけてみたいのだが、
「この携帯は国内にはかけられません。国際電話だけです」
と案内人が言う。
まあどうせこの国内に電話をかけるような友達はいないのだ。
ワシは迷わず嫁の携帯に電話をした。
ワシは興奮している。
なにせ日本人で初めて北朝鮮国内から日本に携帯で電話しているのだ。
それを受ける歴史的な相手は嫁!!
平壌から愛を叫ぶのだ〜!!!!!!!!
電話の呼び出し音が鳴る。
ワシの心臓は興奮でもう飛び出しそうである。
嫁が電話に出た!!
ワシは興奮してまくし立てる。
「奥さん?!電話番号表示されとる?!!
これ平壌のSIM!!凄いやろ!!携帯で電話しとるんやで!!」
嫁:「ふーん・・・」
この歴史的な大きな目撃者であるべきその相手は「ふーん・・・」(号泣)
ワシは涙を拭いて携帯を切った。
兎にも角にもワシは北朝鮮にiPhoneを持ち込んで国際電話をかけた初めての日本人となったのだ!!!(涙)
見ればKoryoLinkからメッセージも届いている。
Thank you for choosing koryolink.You have 4200.00 Won and valid until 2013-03-05To recharge your account or check on your balance please
「おうっ!!」とばかり嫁にSMSを送ってみるが、
残念ながらSMSは送れないようになっているらしい。
同様にネットにも接続出来ないらしい。
しかしこの記事によれば2月末からネットに接続も出来るという話である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130306-00000021-jij-kr
まあわからんけど・・・
「出来るようになった」と「実際出来る」というのは大きな違いなのだから・・・
さて、このKoryoLinkのSIMなのであるが、
高い金を出した割にはあっと言う間にチャージがゼロになってしまった。
中国と同じで受信しても通話料を払わねばならないのだろうが、
受信もちゃんと出来た。
「パパ〜あれどこに置いとったっけ?」
これでおそらく1000円は吹っ飛んでいるのだろう(笑)
まあいい、たっぷり楽しんだ!!
ファンキー末吉、北朝鮮で最初にiPhoneで国際電話をかけた日本人・・・
携帯オタク以外には自慢出来んか・・・
ちなみに中国、日本から持ち込んだ全てのSIMはローミングが出来なかったので、
現状あの国で携帯を使うのはこのSIMを購入する以外ない!!!
以上!!携帯マニアにはヨダレもののレポートであるが、
実はもうひとつとても大切な事実がある。
核実験を行って世界的に孤立している北朝鮮であるが、
それと相反するように実は外国人に対してどんどん門を開いているということだ。
アメリカと敵対しているというこちらの報道だけを見たのでは頭を抱えるだろうが、
実際同じ飛行機に乗り合わせたアメリカ人女性は、
アメリカの会社が平壌に開いた事務所に赴任して来る人であった。
テレビ等のニュース等では読み解けないいろんなものが世界にはある。
この目で見て自分で判断しないとなかなかホントのことはわからない
というのがワシの持論である。
天安門事件だって日本で報道されているのとはだいぶ違ってたし、
チベットやモンゴルの人権問題に関してもワシが見て来たものと報道とは大きくかけ離れている。
報道が「視聴率」つまり「ウケ」を追求するようになったからこうなるのだろう。
情報が溢れている昨今であるがゆえに、
我々はもっといろんなことを考えながらその情報を選択しながら受け入れていかねばならないのではないかと強く思う。
北朝鮮ロックプロジェクトまとめはこちら
Posted by ファンキー末吉 at:22:07 | 固定リンク
2006年9月21日
MengMeng(モンモン)の物語
重田から電話があったのがもう数ヶ月前。
「末吉さん、テレビ見ましたぁ?」
「いや、うちテレビないから・・・」
「超級女声、何気に見てたらMengMeng(モンモン)が出てて吐きそうになりましたよ」
超級女声とはいわゆるアサヤンの中国版みたいなオーディション番組で、
数年前からこれが大ブームになり、ここで優勝すれば、
いや、参加していいとこまで行くだけで、もう国内では大スターとなる。
「MengMeng(モンモン)」とは、ワシが昔プロデュース「させられてた」女の子。
「吐きそうになる」と言うのは、
この母親であるモンモン・ママが、北京の2大有名ママのひとりで、
これと関わりあったらタダ同然の仕事を延々とさせられたりして、
ワシの周りの人間は既に「MengMeng(モンモン)」と言う名を聞いたり、
見たり、電話がかかって来たりするだけで吐きそうになるのである。
北京にはこう言う親子はけっこういるらしく、
だいたいにして父親はおらず、歌好きの子供のマネージャーを母親が務め、
まあいわゆるリエママのようにステージマネージャーまで務め、
往々にして娘は男と付き合ったこともなく、
24時間、完全無菌培養で「成功」することだけに「人生の全て」をかける。
書いてるだけで吐きそうである・・・
「MengMeng(モンモン)」も例外なく男と付き合ったこともなく、
変な話、一緒に遊びに行く友達もいない(と見受けられる)。
ワシら仲間の鍋会に来た時も、
まあその時は珍しく(ほんとに珍しく)モンモン・ママが一緒に来なかったので、
「こりゃMengMeng(モンモン)が羽目を外すのを見ることが出来るかも・・・」
と思ってたら、8時を過ぎた頃から矢のように電話が入り、
結局MengMeng(モンモン)は鍋食ってそのまま自宅に帰ってゆく。
後で聞いたらそれでもかなり門限破りの時間だったらしく、
結局MengMeng(モンモン)はこっぴどく怒られてしまったらしい。
全てにおいてこんな感じだから彼氏なんて出来るわけもなく、
また本人も別に恋愛なんぞに興味もなく、ある時なんぞ
「私バラード歌えないんだよね、何が悲しいのかさっぱりわかんないし」
などとほざいてたので
「これはいかん!」とばかり、モンモン・ママに意見したことがある。
「プロデューサーとして失礼を承知で言わせてもらうけど、
MengMeng(モンモン)がこれほどの才能を持ちながら伸び悩んでいるのは、
ひとつにはあなたが完全無菌状態で育て過ぎているところにあると思う。
例えば彼女の好きなR&Bのルーツはブルースである。
汚れ、傷つき、ボロボロになって搾り出すような心の悲鳴、
それが美しい魂の叫びとなって歌となる。
このままで行くと彼女は一生そんな歌は歌えないよ」
まあいささか失礼ではあるのだが、
「まあたまには遊びに行ったり恋したり、失恋したり、
傷ついて初めて成長するっつうのもあるんじゃないの?」
と言うことである。
そしたらモンモン・ママはぴしゃりと一言。
「女の子は傷つかずに一生を終えるのが一番幸せなんです!!!」
年の頃は50過ぎ(かな?)
二井原の嗜好で言うとストライクゾーンど真ん中
であるこのちょっと中年太りのこのおばさんの顔を見ながら、
人から聞いた、とある悲惨な物語を思い出した。
その歌手も、同じくこのように無菌培養で母親に育てられ、
20も後半になって初恋を経験し、もちろんのこと母親に大反対され、
まあそれもそうである。
母親としたら娘を取られたら本当にひとりぼっちになってしまうのである。
結果その娘は思い悩んだあげく自殺してしまった・・・
・・・まあ人の家庭である。もうこれ以上とやかく言うのはやめよう。
その代わりこの思いを歌にしてプレゼントしてやろう。
そして出来上がったのが「紅舞鞋」と言う曲。
その靴を履いたら死ぬまで踊り続けてしまうと言う伝説の靴の話である。
DEMOを作り、詞のコンセプトを説明する。
「あんた達はもうこの靴を履いてしまってるんだよ。
もう脱ぐことは出来ない。死ぬまで歌い続けるんだね。
それでいいんだよね」
そしてその曲は
中国文化部主催オリジナル曲新人歌手コンテストで全国グランプリを受賞した。
そんな彼女を見初めたとある企業が彼女をイメージガールに起用し、
その企業のイメージソングを作って彼女に歌わせようと言うことで
去年(もっと前か?)ワシにその製作依頼が来た。
当時「紅舞鞋」はまだコンテスト参加のための録音状態で、
伴奏のみのラフミックスしかなく、歌入れもTDもしていない。
彼女達は彼女が歌を歌って稼ぐ収入だけで暮らしているので、
歌入れしようにもTDしようにも金がないのである。
北京に出て来たこんな親子を食い物にする悪い奴らもいるらしく、
デビューを餌に騙されたことも一度や二度ではないらしく、
ワシとしても結果的に彼女達から金をむしりとるみたいなのはいやなので、
「ないならないなりのモノでいいじゃない!」
と言うことで、その予算で出来る限りのこと(つまり伴奏のみのラフミックス)
で終わらせておいたのである。
モンモン・ママはワシにこう言った。
「ファンキー、だからあんたはこのイメージソングの製作費で、
何としてもあの紅舞鞋を完成させて!」
つまり1曲分の製作費で2曲録れと言うことである。
吐きそうになってきた・・・
じゃあスタジオ代どうすんの?
エンジニア代どうすんの?
ミュージシャンfeeどうすんの?
みんな1曲いくらよ?2曲ぶんないじゃない・・・
「ファンキー、大事なのは紅舞鞋よ。
こっちの曲は思いっきり手ぇ抜いていいから。
そっちの金ぜんぶ紅舞鞋につぎ込んで!」
かくしてそのイメージソングはワシの新しいシステムの実験台となり、
(関連ネタ:http://www.funkycorp.jp/funky/ML/102.html)
そんな思いっきり手を抜いたその楽曲は、
そのまま中国のエコロジー楽曲コンテストに出品され、
「エコロジー楽曲大賞」を受賞した。
呼ばれて会場にも行ったが、
あまりにお恥ずかしいので呼ばれても壇上には上がらんかった・・・
あとで主催者が激怒していたと言う話である。
「何であんな手抜きの曲がグランプリなんか取るんじゃろ・・・」
と人に漏らしたことがあるが、彼はその時こう答えた。
「手ぇ抜いたからグランプリ取れたのよ。
一生懸命作ってたらきっと落選してた。
それが中国よ!」
なんかわかったようなわからんような・・・
ワシは昔、李慧珍の「猜愛」でも十大金曲賞を受賞しているので、
(関連ネタ:http://www.funkycorp.jp/funky/fixed/sakkyokusyou.html)
実は都合3つも賞を取ってる作曲家である。
何の役にも立たん!!
この国で儲かるのは歌手のみ!
裏方は何も儲からんのである。
さてMengMeng(モンモン)であるが、
じゃあそれから順風満帆かと言うとそうでもなく、
レコード会社から手が上がることもなく、
いや、現実には上がっているがモンモン・ママがその話を潰してると言う噂もある。
実際ワシの知り合いのレコード会社はワシを通してコンタクトを取っているが、
モンモン・ママは
「あんな小さいレコード会社じゃ話にならん!」
と話を断っている。
現実そのレコード会社は半年で潰れたのでよかったと言えばよかったのであるが・・・
さて1年ほど連絡もなく、平和に暮らしていたワシにいきなり電話がかかって来た。
「ファンキー、久しぶり!!私よ、モンモン・ママ!!」
吐いたらいかん!吐いたらいかん!!
唾液を一生懸命飲み込みながら話す。
「超級女声で勝ち残ってるらしいじゃない?よかったよかった。おめでと!」
「それなのよ。私達は瀋陽地区から参加したんだけど、
そのおかげで北京でのプロモーションがあんまし出来てないのよね。
ちょっと協力してくれない?
何社かインタビューに行くから思いっきり褒めちぎってちょうだいね。
あと、誰かロック界でMengMeng(モンモン)褒めちぎってくれる人紹介して」
「ロック界?なんで?・・・」
「あら、うちの娘ロック歌手じゃないの!ロック界からも賛辞を頂きたいわ」
吐き気通り越して頭が痛くなって来た・・・
かくして次の週にはいよいよ飛び道具「紅舞鞋」を歌うと言うので、
ワシは初めて「超級女声」と言う番組を見に行った。
見に行ったと言うのは、うちにはテレビがないので、
その時間に合わせてテレビがある村のレストランにテレビを見に行くのである。
情けないと言えば情けないが、なんか普通の村人になったみたいで心地よい。
金曜日夜8時、生放送である。
出稼ぎ労働者で満席のそのレストランのテレビにかぶりつく。
始まっていきなり勝ち残っている6人で踊りを踊る。
最終的な6人に残っていると言うのは相当なもんである。
一緒にテレビを見ている老呉(LaoWu)の話によると、
彼の知り合いの歌手は地区大会の第3位で落選したが、
それでも全国的には超有名で、それ以降すでにバンバン稼いでいると言うから、
地区大会第1位で、現在最終的な6人と言うのは物凄い成績である。
6人が2人づつのペアに分かれ、その2人が戦い、勝ち組と負け組みに分けられる。
つまり第一試合は勝ち抜き線なのである。
司会者はそれぞれにインタビューし、歌う曲の名前を聞いてゆく。
MengMeng(モンモン)は、いきなり「紅舞鞋」である。
なんでいきなり最終カードを切るの?!!
ワシはもう気が気ではない。
老呉(LaoWu)の話によると、今日はこの6人の中から5人を選ぶと言うことは、
この第一試合に勝ち残っておくことが一番近道なので
ここでまずこの最終兵器を先に出したのであろう。
久しぶりにこの曲を聞くが、何かアレンジがちと違うような気がする。
見ればワシのアレンジではなく、生バンドが勝手にアレンジを変えている。
お前ら!コードまでかってに変えんなよ!!
音もちょっと外してたみたいだったし大丈夫だろうか・・・
ドキドキしながら審査発表を待つ。
結果は・・・・落選!!!
最終カードを使いながら落ちてしまった!!
まるでウルトラマンが最初にスペシウム光線を使って怪獣は倒れなかった!!
みたいな衝撃である。
楽曲と言うのは不思議なもので、
言うなれば自分が生み出した子供のようなものである。
どんな駄作でも可愛いし、
でも時々、親のひいき目なしにとんでもないいい子が生まれる時もある。
何か自分が書いたのではなく、別の大きな力が書かせたような、
そんな楽曲がワシにも何曲かある。
ランナーやリゾラバのような商業的に大成功した楽曲だけでなく、
人知れず名曲と言われる曲もあれば、
誰にも歌われずにお蔵入りしてしまっている曲もある。
ワシのような自分で歌う人間でない限り、
生み出された子はすぐによそにもらわれていってしまい、
生みの親より育ての親、つまりそこでどのように歌ってもらうかで運命が決まる。
「紅舞鞋」はひいき目なしに名曲であるとワシは思うが、
MengMeng(モンモン)にその運命を預けた以上、
MengMeng(モンモン)ダメならもうそこまでの運命である。
老呉(LaoWu)曰く、
「詞ぃ誰が書いたんだ?コンセプトはいいんだけど言葉選びがあんましよくねぇなぁ・・・」
しかしそれも仕方が無い。
もらわれて行ったところで詞を与えられ、それを歌われて初めて楽曲なのである。
負け組みに落とされた彼女は、またその中で敗者復活戦に臨む。
その間、他の2組の戦いが終わるのを待たねばならない。
ビールを飲みながらひたすら待つ。
そして敗者復活戦!!
と思いきや、次は歌ではなく、人気投票による戦いである。
全国から携帯電話による投票、それには1票につき1元のお金がかかる。
ひとりで100票投票してもよい。100元かかるだけの話である。
人気の歌手だとひとり1000万票集めることもあると言うから、
このビジネスだけでも相当なビジネスである。
1000万元と言うと、日本円にすると1億5千万円なのである。
少なくともこの投票の段階だけで3億円以上は動いている。
恐ろしい番組じゃ・・・
さて、この投票で敗者復活かと思えばそうではなく、
これは勝ち残った3人の中からひとりを「落とす」のである。
日本の試合方式は「受かる」人をだんだん作ってゆくが、
中国ではどうも「どんどん落としてゆく」方式であるらしい。
かくしてこの投票により、
3人の勝ち組と3人の負け組だったのが2人の勝ち組と4人の負け組みに分けられ、
その負け組4人がまた2人組で勝ち抜き線を行うのである。
番組の進行がカメよりも遅いだけでなく、CMもいたる所に入るので、
番組開始から既に1時間以上経過し、
レストランではもう既に門を閉め、従業員のメシの用意が始まっている。
「知り合いが歌い終わったらすぐ帰るからね」
そう言ってビールを更に追加する。
すぐに敗者復活戦が始まるのかと思ったら、更にゲストのコーナーがあり、
3人のゲストがそれぞれ持ち歌を1曲づつフルコーラス歌う。
やっと始まるかと思ったら、その3人のゲストが一緒に更に1曲歌う。
もうやめてくれー!!早く歌ってくれー!!
さすがに番組もすぐには歌わせない。
それぞれの参加歌手のイメージビデオ、ファンへのインタビュー、
そしてまたCM。
最高視聴率を誇るこの番組のCMは最高値段がついていると言う・・・
やっと敗者復活戦が始まった頃には既に番組開始から2時間以上たっていた。
MengMeng(モンオン)が歌う。
今度はミディアムテンポのダンスナンバーである。
「受かると思う?」
一緒にテレビを見ている老呉(LaoWu)に聞いてみる。
「ちょっとアブナイところだなぁ・・・
聞いてみろよ。他の歌手と違って声援が断然少ない。
親衛隊がいないんだな。
それも結構不利じゃないかなぁ・・・」
確かにほかの歌手の応援団は若い健康的な男女が多いが、
MengMeng(モンモン)の応援団はどうもオタクが多いと見受けられる。
メガネをかけたデブのオタクがびっしょり汗をかいて応援している。
吐きそうである。
「この娘、ちょっとココ・リーに似すぎてるなぁ・・・」
老呉(LaoWu)がそうつぶやく。
ココ・リーとは台湾で活躍するアメリカン・チャイニーズの歌手である。
そう、彼女はココ・リーに似ているから
「小ココ・リー」としていろんなイベントでココ・リーの歌を歌って生きてきた。
それで母子ふたりが食ってこれた。
ココ・リーに似てるからここまでこれた。
そしてココ・リーに似てるからここまでしかこれなかった。
今歌っているこの曲もきっとココ・リーの曲なのだろう。
彼女が一番得意で、そして一番歌ってはいけないナンバー。
しかしバラードが歌えないんだから仕方が無い。
最終カードの紅舞鞋はもう歌ってしまっている。
彼女にはもう切るべきカードが残ってないのである。
・・・審査発表・・・
これで勝ち残れば勝ち組である。
後は残った負け組ふたりが戦って負けた方が落選。
「負けるだろうなぁ・・・」
残ったビールを飲み干し、更にビールを追加しようとしてたらいきなり、
「勝者は・・・MengMeng(モンモン)!!」
やったぁー!!!残ったぁ!!!
と言うわけでビール腹をさすりながら家路に着いた。
めでたしめでたし・・・
数日してまたモンモン・ママから電話があった。
「見てましたよ、テレビ。よかったじゃない。次で決勝戦でしょ」
もうここまで来たら優勝できなくても既に超有名人である。
「違うのよ。また今週戦って初めて決勝戦なのよ。
あの番組はとにかく戦わせるから・・・
(間髪入れず)
ところで!今週の金曜日空いてる?
MengMeng(モンモン)の後ろでドラム叩いて欲しいのよ。
アジアドラムキングがバックで叩いてくれたら絶対票も集まると思うのよ」
かんべんしてくれーーーーー
丁重にお断りして電話を切った。
来週も村のレストランで影ながら応援させて頂きますぅ。