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X.Y.Z.→A オフィシャルサイト 爆風スランプトリビュートアルバム WeLoveBakufuSlump
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おまけComplete」
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2024年8月25日

世界のどこかにあなたのことが大好きな人がいる

わけあって(何があったかは想像にお任せします)ブログを閉鎖してましたが、ぼちぼち復活していきます。
(過去記事も様子を見ながらぼちぼち復活していきます)

今日のお仕事・・・4万人のドラマーが参加するという中国最大のドラムコンテストの審査員で呼ばれて、この国のスーパー小学生、スーパー幼稚園児の演奏に肝を潰した。

その中にひとりのドレッドヘアーの小さな女の子がいて(後にその子は男の子だと聞いた・・・スマン)、私はその子が一番いいと思ってたが、残念ながら入賞はしなかった。

入賞したのは・・・残念ながら誰が誰だか覚えていない・・・
みんな同じスタイルの手数系で、ヘタしたら叩くフレーズまで全部同じだったのだ。

「どっかにお手本のドラムプレイがあってみんなそれをコピーしたの?」
私は主催者に聞いてみた。

「いや、課題曲はうちが作ったけど、模範演奏は作ってない」

じゃあ誰がこのドラムソロを作ったの?

中国にはそれこそ何千何万のドラム教室がある。
日本は「ピアノやバイオリンは習い事だけどドラムやエレキギターは遊び」みたいな感覚があるけど、中国はどちらも立派な「教育」!!
この現代において、子供達が自由に楽器を選べるとしたらバイオリンを選びますか?(失礼)
ギターは習得するまでに弾き方など演奏法を習得しなければ演奏出来ないけど、幸いドラムはスティックさえ持てば誰でも音は出る。
そんなこんなでドラムを習う子供は日本の数十倍、いやおそらく数百倍多いのだ。

私が行ったことがあるドラム教室で一番大きなものは、生徒が2000人!!!(◎_◎;)

あるドラム教室のチェーン店の「ドラムの先生にドラムを教えに行く」仕事をした時には、その教室は全国に800の分校があると言う・・・
「じゃあここはおそらく中国いちでしょ?」

「いや、中国で4番目だよ」

そんな無数にある全国のドラム教室でドラムを習う子供達の最終目標がこのコンテストである。

そしてここで優勝すれば、そのドラム教室にはまたいっぱいの生徒が集まる。
ドラム教育はこの国では「巨大な産業」なのである。

そんなドラム教室のとある先生が、自分はそんなにドラムを叩けないけど(いいドラマーが必ずしもいい先生とは限らないし、いい先生が必ずしもいいドラマーとは限らないのでそれはどうでも良い)、その先生が一生懸命この32分音符の連打によるドラム譜面を書いた。

そしてそれを・・・売った!!

他の教室の先生達はこぞってそれを買って、子供達はこぞってそれを練習した。
話に聞くと子供達はこの1曲だけを8ヶ月間毎日練習してコンテストに挑む・・・

「これでいい」わけではないが、「これが現実」である。
コンテストの主催者もなんとかこの流れを変えたいと思っているがなかなか難しい。

今回このコンテストに入賞した、いや決勝戦に参加した100人の子供達は、もう全国のどのコンテストに行ったって入賞するのだ。

子供も嬉しい、親も嬉しい、ドラム教室もウハウハ・・・この大きな流れがそう簡単に変わるものではない。

その大きな流れに乗れなかった子供たち・・・私が今回大好きになったドレッドヘアーの子供などは当然ながら落ち込む・・・

だから私はその子に言った!!
「私はあんたのドラムが大好きだ!!今日入賞したどのドラマーよりもあんたのことが大好きだ!!」

私は日本でとても売れているバンドのドラマーだった。
私が暮らしていたその世界は「売れていること」だけが唯一正しい世界だった。
だから私はその世界を後にして中国に逃げて来た。

売れてるバンドがいいバンドなの?
じゃあ売れてないバンドはクソなの?

同様に、
入賞したドラマーがいいドラマーなの?
落選したドラマーはクソなの?

ついでに言おう。
成功して大金持ちになった人間がいい人間なの?
じゃあ貧乏な人間は悪人なの?

世の中なんて、成功する人間よりもしない人間の方がよっぽど多いのだ・・・

「私は(僕は)ルックスが悪いからモテない」と思ってる人たちに言いたい。
モデルみたいな人たちが美人(イケメン)で、他は全部ブスなの?

世界のどこかにあなたのことを一番美しいと思ってあなたを愛する人がきっといる。

同様に、世界のどこかにあなたのドラムが大好きで、そんなドラムを叩くあなたのことがが大好きだと思ってる人がきっといる。

だからあなたは「あなたのドラム」を叩けばいいんだよ!!
私はそんなあなたのことが大好きだ!!!!

このコンテストの入賞者達はある種の「天才」である。
でも「この曲」しか叩けない。

そしてそれは「音楽」ではない。
ある種の「スポーツ」である。

君たちが大人になって、いろんなことを経験して、ある時人生に絶望した時に、ひょっとしたら「音楽」に救われるかも知れない。
その時にやっと君たちは「音楽をやりたい」と思うだろう。

君たちは若い、その時に始めたって全然遅くない。
でもコンテストに落ちたからってドラムをあきらめるなんて全く意味はない!!

あなたはいち早く音楽を始めればいい。
神様はそのチャンスをあなたにくれたんだよ。


爆風スランプが27年ぶりに(年数には諸説あり)新曲を発売した。

ある友達は「Runnerみたいなのを期待してたのに」と言った。
それもそうだろう、Runnerは爆風スランプの代表曲なのだから・・・

でも私はこの曲を作って、この曲を誇りに思う。
こんな曲を一緒にやってくれた仲間を誇りに思う。
Runnerみたいな曲じゃなくてこの曲を発売してくれたレコード会社に感謝する。

日本の皆さんにはあまり理解できないかも知れないけど、中国では私は昔の爆風時代よりも有名になっている。
だから「Funkyが昔やってた暴風楽隊っつのはスゲーらしいぜ」と勝手にそう思われている。

だから私はそんな中国人たちが失望するような作品を出すわけにはいかない。
くだらない曲(Runnnerがそうだと言いたいわけではない)を出すぐらいなら爆風なんかやらない方がいいのだ。

中国では伝説がひとり歩きして、「Funkyはもの凄い大スターだったのにそれを捨てて中国に来た」みたいに思われてるけど、それは半分以上は虚構である(笑)。

ある時期売れてたのは事実だけれども、私は自分の人生で「俺はとっても売れてたバンドのドラマーだったんだぞ」など、そんなことを誇りに思ったことなど一度もない。

でも「口から火を吹き、放尿をし、ステージで脱糞と出産以外全てやった!!」と豪語するバンドのドラマーだったことは誇りに思う。

人生で大切なことなんて、いっ時の名声やあり余るお金なんかじゃない。
「キラキラとした時間」
それさえあれば一生それを抱いて生きてゆける。

もし一度だけ過去に戻れるなら・・・
私は爆風が一番売れてた頃に戻りたいとは思わない。
「こんなバンドが売れるの?」と言われながら、「大きくってすみません号」に乗ってはちゃめちゃやってたあの時代こそが一番「キラキラしてる」時代だった。
私はその頃の自分を誇りに思う。

もし過去に戻れたとしたら、昔の自分にこう言ってやりたい。
「無理して変わらなくたっていんだよ。どこかにきっと今のあなたを大好きな人がいる。その人に向かってだけ音楽をやればいい。その人に向かってだけ自分の一番大切なドラムを叩けばいい」

この子のドラムを聞きながらそんなことなど考えてしまった「今日のお仕事」でした・・・

Posted by ファンキー末吉 at:09:41 | 固定リンク

2019年3月22日

「ある愛の歌」中国語版



このDEMOが見つかってから、最初に考えたことは、
「彼女に歌ってもらってこの中国語版を作ろう!!」
ということである。

李慧珍(Li HuiZhen)・・・今では海南島の三亜に住んでるというのでツアーのついでに会いに行って来た。

全くもってもう40歳も過ぎているというのに、
相変わらずのノーメイクで肌つるつる!(◎_◎;)

海が見下ろせる高級マンションでシングルマザーとして子育てに忙しい・・・

彼女と最初にあったのはもう25年前、
まだ彼女が19歳の頃であった。

ホリプロの全中国オーディションで銅賞を獲得したが、
中国側の意向で、日本で鳴り物入りでデビューした「中国のホリプロ3人娘」からは外された。

「彼女を何とかしたい」
という日本側の思いから、中国で発売する私のアルバム「亜州鼓魂」の中で2曲歌ってもらうことになった。

彼女のロック的な喉に惚れ込んだ私は、彼女のアルバム「在等待〜未来を待ちながら」をプロデュース、このアルバムがヒットして現在の彼女がある。

彼女曰く、
「Funkyは私の大切な人、誰も相手にしてくれなかった私を彼だけが相手にしてくれて私の今がある」
と語っていたが、
「中国にロックを根付かせよう」
という夢を持っていた私にとっても彼女のロック的な「喉」はなくてはならないもの。

一緒に中国大陸を龍のように駆け上る夢を見ていた・・・

当時は今と違ってインターネットもなかったし、
携帯電話もなかったので、連絡はポケベルに電話番号を打って、固定電話で折り返しの電話を待つという状況・・・
とてもじゃないが日本と中国とで離れて一緒に音楽活動をやることは無理だった。

思えばここが人生の分かれ目、
ここで早々と日本を捨てて中国に渡っていたらまた二人の運命は違っていたのだ。

「一度分かれた枝は、絡みつくことはあっても二度とひとつの枝にはならない」
という言葉を本に書いたことがあるが、
まさにこの時に分かれた二つの枝は、別々のところに生えてゆき、時々戻って来ては絡み合うだけのそれぞれの人生を送っている。

ただ、お互いにとって「大切な人」であることは今も昔も少しも変わっていない。

ある時は「メシでも食おう」となって久しぶりに会ったり、
またある時は「バンドをやりたいの」と言って呼び出されたり、
最後に会ったのはこの時かな・・・

そう言えばX.Y.Z.→Aの楽曲を提供して、そのオケをそのまま使ってレコードを出したこともあったなぁ・・・

そう言えばとあるロックイベントで、中国伝説の女性ロッカー「罗琦(Luo Qi)」のステージを最初に見た時、酔っ払って会場から
「あそこに立つのはあいつじゃない!!お前があそこでロックを歌うべきだ」
と彼女に電話したこともある(笑)

またある時には、
「ちょっと聞いて!!事務所がねぇ、ぼちぼちロック路線に戻ってもいいんじゃないかって・・・」
などと喜び勇んで電話が来たこともある。

しかし「一度分かれた枝は、絡みつくことはあっても二度とひとつの枝にはならない」・・・

思えば彼女も「流行歌」を歌って、
こんな高級リゾート地にマンションを買って、子育てをしながら時々呼ばれて歌を歌いに行くような生活の方が「幸せ」であっただろう。

私はこうして別のバンドでアンダーグラウンドのライブハウスを汗だくで周り、
そしてツアー先で久しぶりにまた彼女に会いに行く・・・

「やあ、元気?・・・今日はちょっと大切な話があって来たんだ・・・」

ところで今回用意したこの資料・・・

「ある愛の歌」製品ももう出来たので、それを持って来ればよかったのだが、カンボジアに忘れて来た(>_<)

データで渡してもいいのだが、そうすると苦労して決め込んだ曲間の長さが違って来ると思い、旅先で何とかCD-Rをゲット!!

これがもう大変(>_<)

VHSだのビデオテープが普及せずに直接DVDにすぐ以降した国である。
どこにもCD-Rなんか売ってないどころか若い人はその存在すら知らん!(◎_◎;)

苦労して見つけてCDに焼いて、せっかく持って行っても彼女んとこにCD-Rを再生する機械がないどころか、今日びパソコンにもCDドライブなど付いておらん(>_<)

しゃーないのでその場でデータで送り直す・・・

くちゃくちゃ思い出話などをくっちゃべりながら聞こうとする彼女を制し、
「これはちゃんと時間とって、ひとりで歌詞の訳を見ながら集中して聞いてよ」

そう、これは私にとって「勝負」である。
もしも彼女がこれを気に入ってくれたら、
今度は「ロック」ではなく、「ポップス」で中国大陸を龍のように舞い上がる夢を一緒に見れるだろう・・・

分かれた枝はもう二度と一緒になることはないが、
こうして付かず離れずで一緒にまた夢を見れることになれば幸せである。


「どうしてあの時にこのDEMOのことを忘れてしまったのだろう・・・」
そんな話を彼女としていた。

思えば25年前ふたりが出会った時、
その時にこのDEMOを効かせたところでピンと来なかっただろう。

また、彼女が現役バリバリだった頃だったら、事務所もそう簡単には首を縦に振らないだろう。

「こういうことはね、神様が決めてるのよ」
彼女が笑ってこう言った。

たとえ彼女がこれを好きになってくれたとしても、
今後はレコード会社や所属事務所など、これから乗り越えなければならない山はいっぱいあるけれども、
兎にも角にもこうして賽は投げられた。

中国語版のみならず、
キョンマ本人によるベトナム語版、
そしてくっくま孤児院の子供たちによるクメール語版も進行中〜

そして何より、新たな日本語バージョンがナッキーこと山下直子さんにより制作されてます!!

このアルバムは元々「著作権など関係なく、世界中の色んな人に歌ってもらいたい」というコンセプトで作られたものです。

「これを歌いたい」という方はお気軽にこちらにご連絡下さい。
出来る限りのサポートは致します。

まずは出来上がったばかりの完成版聞いてみて〜こちら〜

Posted by ファンキー末吉 at:12:13 | 固定リンク

2007年6月28日

チベットにて悟った「ロックとは何か」

ムルンピョを聞きながら考える。
「この歌声はこんなに澄んでいて、聞いてて心が洗われるのは何故なのか・・・」
答えは簡単である。彼女達の心が澄んでいるからである。

日本のテレビで放送したバージョンのミックスダウン
(ひとつひとつの音を最終的に整えて完成させる作業)
は、自分自身の手によって北京の自宅スタジオで行った。
しかしこれを世界発売するためには、
もっと音を磨いて世界レベルにまで持って行かねばならない。
そのためには世界のロックの頂点、ゴッドハンドとも言える
Wyn Davisにミックスダウンを任せたいと思っている。
そうすればこの楽曲はアメリカはもちろんのこと、
世界を震撼させるレベルの音にまで磨かれるに違いない。

ところがそこで考えた!
磨くのは「音」だけでいいのか!
もっと磨かねばならないものが他にあるのではないか!

「ロック」なんだから、楽器の音は歪んだ音をたくさん使う。
もともとは澄んだ音色であるギターにディストーションと言うエフェクターをかけ、
それをスタジオで更にはマーシャルと言うどでかいアンプに通し、
そのボリュームを限界まで上げることによってスピーカーが悲鳴をあげさせ、
もっと汚い音になるように作ったりする。

「ロック」はもともとそう言うもんなんだから仕方がない!
その「汚す」作業は私が責任を持って担当させて頂いた。
しかしそれをやる人間の「魂」が汚れてたとしたら
そんな作業に、いやこのプロジェクトをやってゆくこと自体に何の意味があるのか!!!

片や物質文明の最高峰の場所であるアメリカで「音」を磨く。
そしたら片や精神世界の最高峰の場所で「魂」を磨いてくるべきであろう・・・
「それだったらいいところがありますよ」
そう言われて連れて行かれたところが、
まさに世界の精神世界の頂点とも言うべき聖地「チベット」であった。

俺はチベットならラサに一度言ったことがある。
その時の話
五体投地と言う荒行をしている人を何人も見た。
大地にひれ伏して頭を地面にこすり付けて祈り、
そして身体を頭のところまで持って来て起き上がり・・・
そんな小さな一歩一歩を進みながらチベット仏教の総本山、ポタラ宮殿を目指す。
何百キロも何千キロもの道のりを、何年もかけて進んでゆく。
やっとポタラ宮殿までたどり着いたら、
彼らはそこに全財産を置いて、また同じように五体投地をしながら帰ってゆくのである。
彼らの表情に苦しみはない。
溢れんばかりの喜びがあるだけである。
あまりに感激して言葉が出てこなかった。

今から俺が行くところは、ラサのような観光化された大都市ではなく、
もっとディープなチベットだよと教えられていた。
北京から始発の飛行機で蘭州に飛び、そこから車をチャーターして延々と走る。
昔は3日間かかってたと言うその道のりを、
今回は整備された高速道路を走って1日で走り抜けた。
着いたらもう真夜中である。

「大丈夫ですか?頭は痛くありませんか?」
と俺達をここまで案内してくれたラマの高僧が優しく俺に尋ねる。
標高が3500メートルを超えていると聞いた途端に軽い頭痛に襲われた。
聞かなければ何ともなかったかも知れないが軽い高山病である。
数日間はここに身体を慣らさねばならない。
ゆっくりと山に上ったり村を探索したりして過ごす。

LamaVillege.JPG
(写真:寺院とラマ僧が住む家)

SougenUndoukai.JPG
(写真:草原での運動会)

ButaSanpo.JPG
(写真:村を散歩する豚の親子)

3日目になり、ようやく身体が楽になった。
さて「魂を磨く」と言うことはここで一体何をすると言うことなのだろうか・・・
それを見つけるのも修行のひとつである。
俺はとりあえずラマ高僧の許可を得て、若い修行僧の1日に密着してみることにした。

朝6時半起床。高原の朝は夏でも凍えるように寒い。
暖房はヤクと呼ばれる牛の糞を乾燥させてそれをストーブで燃やす。
寝床の傍らには小さなテーブルがあって、ここが彼らの寝床でもあり勉強の場でもある。

彼の名はデンパ君。
中国語をそんなに喋れないが、
ここで会った全てのラマ僧がそうであるのだが、
その笑顔が自分の心をふわっと包み込んでくれて、
それだけで魂が救われるような気になる。

デンパ君のその日の一日は部屋での読経から始まった。
俺はそのお経をとりあえず隣に座ってずーっと聞いていた。
読経が終わればお寺に行くのだが、
デンパ君はその前に俺にどうも朝ごはんを作ってくれるようだ。
お椀を出して来て、その中にバターを入れる。
炒った米のような粒を入れてお湯を入れるのでお粥のようなものなのかと思ったら違った。
それに小麦粉のようなものを入れて片手でこね始めるのである。
ツァンパと呼ばれるおだんごのようなチベット料理なのであるが、
これが味が全然なくてひたすら不味い・・・。
デンパ君は気を利かせて別のお椀にお湯を入れてくれて、
丁寧にそれに砂糖を入れてくれて飲めと言うのだが、
これも残念ながら飲めたものではなく断念。

お寺に向かう道すがら、いきなり彼が道端に座り込むので
何をしているのかと思ったらおしっこをしていた。
見ればラマ僧は全てこうやって用を足す。
ラマ僧の袈裟の下はパンツを穿いておらず、
そのまましゃがんだらすぐ用が足せるように出来ているのである。
寝る時は寝間着に着替えるでもなく、
ラマ僧達は一日中その袈裟を着て過ごしている。
デンパ君の家には着替えの袈裟があるわけでもなく、
洗濯も入浴もそう頻繁にする生活には見えないが、
高山で空気が薄く、非常に乾いていて汗もかかないのでそんなに気にならないのであろう。
ただ、うんこはどうやってするのかは今だにムルンピョ(疑問符)である。

さてお寺に着いたらラマ僧がたくさん集まって来て全員で読経する。
堂内は暖房もないのでとても寒く、
夏でこのぐらいなんだから冬は相当な苦行だろうと想像した。

昼前になると「問答」が始まる。
ラマ僧達が仕掛け手と受け手に分かれて、
仕掛け手が受け手に大仰に質問を出してぱんと手を叩く。
受け手はその質問に答えてゆくが、
仕掛け手は更にその答えの矛盾を引き出す質問をしてぱんと手を叩く。
こうして問答は延々と続くのだが、
それは結論の出ない仏教の奥儀にまで入ってゆき、
逆に言えばこうして修行僧は仏教の奥儀を学んでゆくとも言える。

Mondou.JPG
(写真:問答を行う修行僧たち)

午後には授業がある。
デンパ君は俺なんかにかまってたために遅刻をしてしまった。
「もう始まってるよ」と道行く修行僧から教えられて、
走って教室に飛び込んで行った。
それを見て思った。
日本だったら「遅刻したら叱られる」と言う意識で走ってゆくのかも知れないが、
彼はきっと「遅刻してありがたい話を一言でも聞き逃したら惜しい」と言う意識で走って行ったのだ。

その後にも問答がある。
夕方の問答はお寺のふもとの林の中で行われた。
先生がその「勉学の林」とも言うべきところでひとりで読経を始めると、
村の中に木霊するその声を聞きつけて
全ての修行僧がそこに集まって来て一緒に読経を始め、
それが終わるとまた問答が始まるのである。

問答を見ていて思った。
修行僧達は非常に楽しみながらそれをやっている。
打ち負かされそうになって必死で相手を論破する奴、
「お前それは違うだろ」とぷっと笑ってたしなめる奴、
「よく出来ました」とばかりさっさと終りにする奴ら等等・・・。

最初のうちはロックで例えると
「飲み会でロック談義をしている感じ?」
みたいなことを思っていたのだが、
よくよく見てみると根本が全然違う。
どちらかと言うと「ジャムセッション」に近いのである。
相手がどう答えるかによってこのセッションは全然違う方向に進んでゆくし、
テクニックやネタが多いミュージシャンほどいろんなセッションに対応してゆけるのと同じように、
やはり仏教の奥儀に深い人の方が問答が深く面白いものになってゆくのである。

なるほど・・・
そして俺はこの問答の天才、今世紀不出の天才と言われ、
30代でこの寺のナンバー2にまで上り詰めたラマの高僧相手と、
後に問答をするハメとなる。

翌日は山に登り、川を見たり、いろんなことを考えながら1日を過ごした。
例えばこうである。
この村の命の源であるこの川は、
上流では地下(アンダーグラウンド)から湧いたとてつもなくきれいな湧水
であるにも関わらず、人里まで流れて来るとゴミを捨てられ汚くなってしまう。
これは音楽も同じではないのか。

Kawa.JPG

汚れた水がまた地下に戻ればまたきれいな湧水となって湧いて出てくるように、
音楽もまた地下に潜ればきれいな湧水のようになることが出来るのか・・・

Koketsu.JPG
(写真:川の上流の更に上には、修行僧が修行した洞窟「虎穴」がある)

また例えばこうである。
この川の上流にはところどころに水車小屋がある。
しかしそれはその水車の力で穀物を挽いたり電気を起こしたり
そんなことをしているのではない。
1回まわせばお経を1回読んだことになると言われているマニ車と呼ばれる筒を、
水の力で延々と回し続けているのである。
もちろんそれは村人のため、
ひいては世界中の人が救われるように一生懸命それを建設したのである。
つまり何の生産的なことをしているわけでもない。
この寺の僧侶の人生もそう言う意味では同じである。
物を生まないのである。
究極には彼らは一生女性の身体に触れることもなければ子供も作らない。
物を生まないから心がきれいなのか、
心がきれいだから物を生まないのか・・・

Maniguruma.JPG
(写真:水車小屋)

ちょっと前までは電気も通じてなかったこの村は、
今ではホテルもあればインターネットもある。
そう言う意味では俺が住んでいる貧民街よりは進んでいるかも知れない。
しかしそこに住んでいる俺は物質文明にどっぷりつかった生活を送っているのに、
ここで住む僧侶たちの生活はまるで違う。

・・・うーむ・・・

Kangaeru.JPG
(写真:考える)

かくして問答の日はやって来た。
俺はまず自分がどんな人生を歩んで来たのかを説明した。
金も名声も一番あった頃の自分が実は幸せではなかったこと、
北京に来てから今までになかった幸せを深く感じていること、
北朝鮮の子供たちと出会ったこと、
そして自分自身も感激し、人も感激してくれたこと・・・
ラマの高僧は相変わらず全てを包み込んでくれるかのような笑顔で、
それをうなずきながら聞いていた。

テンションが上がって来たので立ち上がって続けざまに問答をふっかけた。

「人はみな平和を愛するのに世界にはなぜ平和が来ない!!」
「信仰が人を救えるとしたら音楽で人を救えるや否や!!」

しかし問答はこれ以上続かなかった。ラマがこう答えたからである。

「音楽は人を救えるよ」

その笑顔は優しく俺の全てを包み込んでくれてた。
俺はへなへなとまた座り込み、彼に質問した。

「どうして音楽は人を救えるの?」

彼はこう答えた。

「音楽はひとつの手段でしかないからさ。
大事なのは人間。君は音楽を使って人を救おうとしている。
だから人を救えるのさ」

そして彼はこう続けた。

「どうして戦争がなくならないか。それは仏教では縁起と言う。
もし私があなたを殺したとする。するとあなたの家族が私を殺す。
そうやってその縁起は延々と繰り返されてゆく。
戦争を起こす人もみな世界を平和にしようと思って戦争を起こす。
それは平和にするための方法論がそれぞれの人たちによって違うからなんだよ」

なるほど、そうである。
北朝鮮は朝鮮民族を日本人が侵略したことを絶対に許さないし、
日本は北朝鮮の日本人拉致事件を絶対に許さない。
だから俺達大人たちの時代に平和を成し遂げることは並大抵のことではない。
この代でだめなら、それをあの子たちと私たちの子供の世代にそれを託したい。

「Funkyさん、あなたは北朝鮮で会った子供たちの笑顔に涙したと言う。
それは何故か、
子供たちにはその固執しなければならない方法論がないからである。
あなたはこの村の川がどうして汚れてゆくのかと言った。
人間も同じである。
子供は生まれて来た時にはみんなきれいな心で生まれて来る。
人間はもともとはきれいなものなんだよ」

俺はここで出会ったいろんなラマ僧たちの笑顔を思い出した。
みんな素晴らしい笑顔であった。
「人を救える」と言うに相応しい何かがある。

「この村であなた達の生活を見ました。
私の生活は音楽半分と生活半分。
あなた達の生活は信仰がほとんどで生活はちょびっとだけ。
私も自分の音楽と言うのをあなた方の信仰の域まで高めたいと思っている。
でも私にはあなた方のような生活は出来ない。
何て言うか・・・あんた達・・・凄いよ・・・凄すぎる・・・」

俺はちょっと胸が熱くなっって言葉が詰まって来たが、かまわずに続けた。

「いろんな宗教はみんな自分を害する者を愛せよと教える。
そんなことが出来るわけない!
俺だって自分を害した奴は憎い。
とてもじゃないけどそんな域にまで達することなんて出来るわけない。
難しすぎるよ。世界平和?俺みたいなちっぽけな人間が何言ってんだ。
そんな大それたことなんかもともと俺に出来るわけないんだ・・・」

ついつい泣き声になってしまった。
ラマ僧は優しく俺に言った。

「出来ることを少しづつやればいいんだよ。
私たちの最終的な目標を知ってるかい?
それは仏になることなんだ。
そのために少しづつ頑張って生きてる私たちは、
毎日を本当に幸せだと感じている。
私たちの生活は北京や日本の人たちに比べたらそりゃ貧しいかも知れない。
でも私たちは人の物を盗ったことがない。
人を害したことがない。
私たちの生活なんて簡単なもんなんだよ」

この人達の口から
「人生なんて簡単なもんなんだ」
と言われたら
「なるほど」
と思わざるを得ない。
この人達はその生き様でそれを証明してるではないか。

「仏教で一番大切なことは何か教えてあげよう。
それはふたつある。
ひとつは菩薩心、そしてもうひとつは覚悟」

ラマは紙に中国語でそのふたつの言葉を書いた。
覚悟の覚は実は私の本名、両親が与えてくれた私の名前なのである。
心の中でずーっとぼやけてたものが、
この言葉を聞いてはっきり見えたような気がした。

私は宗教心と言うものを一切持ち合わせていない。
中国語で行われた上記の会話で、私はしばしば「信仰」と言うことばを使ったが、
それは日本語の「信仰」とは少しばかりニュアンスが違う。
そのニュアンスを適切に表す日本語がないかとずーっと探していたのだが
それがやっと見つかった。

それは「道」とかいて「どう」と読む。
つまりこう言うことである。

ロック道とは武士道と見つけたり。
技を磨き、己を死ぬまで磨き続ける。
だからロックを志すには覚悟が必要である。
覚悟さえあればその剣は揺れることなく、
人を切るにあらず、人を救うものとなる。

世界中のロックを志す者たちよ!
貧乏を恐れるな!胸を張れ!
くじけずやり続ける覚悟を持てばそれでいい!
胸を張ってこう言おう!
俺達の人生なんか簡単なもんだ。
人の物を盗らず、人を害することもなく、
ただ酒を飲んでロックをやる。
素敵な人生じゃないか!

翌日、ラマ僧達を集めてムルンピョを聞いてもらった。
作り手の魂に一点の曇りでもあれば、
世界一心のきれいなこの人達にはそれがわかるだろう。
それだったらもうこのプロジェクトは封印しよう・・・

チベットの山の中で聞く彼女たちの歌声は、
その空気と不思議に溶け合っていて心を打った。
聞き終ったラマ僧達の表情もそれを語っていた。

よし!決まった!!
俺は自信を持ってこれをアメリカに持ってゆく。
そして覚悟を持ってこのプロジェクトを続けてゆくぞ!!


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