
2025年2月24日
ベトナムのお話
訳あってブログを閉鎖してましたが、チャンスを見て色々復活させて頂きたいと思います。
まず今(2025年2月末)はベトナムのホーチミン郊外にあるブンタウというリゾート地にいますので、
とりあえずベトナムのブログ記事を復活させました。
(なるだけリンク先も復活させましたがこれが大変で、色々お見苦しい点はご容赦下され)
初ベトナム!!料理旨し!!(≧∇≦)
https://www.funkyblog.jp/2015/04/post_1042.html
ベトナムの〜屋台でボラれ〜フォー食べる〜
https://www.funkyblog.jp/2015/04/post_1043.html
ベトナム初ライブ!!
https://www.funkyblog.jp/2015/04/_functiond_s_id_var_js_fjs_dge_1.html
ベトナム2本目!!現地バンドの抱える問題点
https://www.funkyblog.jp/2015/04/post_1044.html
ベトナム食レポ
https://www.funkyblog.jp/2015/05/post_1046.html
そして旅日記のベトナム編はこちら〜
(まだまだ増える予定です。チャンネル登録よろしくです)
https://youtu.be/MoIGYUPLsN8?si=nk0QWfKfp_QzHCWt
ベトナムの古都「ホイアン」で名物料理を食べまくるドラム仙人ことファンキー末吉
ベトナムのチャム島にある手つかずの楽園のようなビーチで泳ぐドラム仙人ことファンキー末吉(パンツで)
ベトナム・ダナンでドラム仙人ことファンキー末吉が必ず飲む・食べる・行く場所はここ!
ベトナムいちの映えスポットにやってきたドラム仙人ことファンキー末吉
ベトナム流の飲み会を満喫するドラム仙人ことファンキー末吉
ベトナム・ダナンから南北統一鉄道の寝台車に乗ってドラム仙人ことファンキー末吉が目指すは密かに見つけた桃源郷
源郷にある高級ホテルで大ピンチのドラム仙人ことファンキー末吉
ベトナム・桃源郷の朝日に癒やさされるドラム仙人ことファンキー末吉
今回のブンタウ編は数ヶ月先のUPになる予定です。
チャンネル登録をしてお待ち下さい。
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2023年4月23日
お知らせ
諸事情によりブログを休眠致します。
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2022年4月16日
中国ロックを作った男インターネットライブ
日本のロックはいつ始まった?・・・と聞かれても諸説あってなかなかこうだと断言できるものはないと思われるが、ここ中国では明解である。
中国ロックは1986年5月9日、北京工人体育館で開かれた「第1届百名歌星演唱会」にて、崔健が「一無所有」という彼のオリジナルソングを歌ったことによって始まった!!ということに対して反論する中国人は誰もいない。
流行歌手に混じって、左右の長さの違うボロボロのジーパンを履いた若者が、その独特のしゃがれ声で歌う今まで聞いたこともなかったような音楽に、大人たちはおしなべ反感を露わにし、反して若者たちはその新しい音楽に熱狂した。
「俺は何も所有してない」という意味深なメッセージは、天安門事件の時に広場を占拠した若者達に歌われたりして、西側諸国が彼の写真を天安門事件の戦車などと共に多く掲載したこともあり、彼は「反体制のロッカー」というレッテルを貼られ、中国共産党から目の敵にされることとなる。
彼の進む茨の道を横目で見ながら、90年に私が出会った中国ロックの第二世代のロッカー達は、「俺たちのロックは政治とは関係ない」というポリシーと共に、中国共産党が進める経済政策と共に商業的に大成功した。
そんな第二世代のロッカー達だって当時は私にこう叫んでいたのだ。
「俺たちはロックを聞くことも演ることも出来ない!!Fuckin' govermentはロックを恐れてるんだ!!」
確かに中国共産党が「右向け」と言っても、崔健が「左向け」と言ったらみんなそっちを向いたかも知れない・・・
この巨大な国の支配者達が、どうしてそんな若者の好きな音楽ジャンルに対していちいちめくじらを立てなければならない?
それはひとえに「ロックにそのパワーがあった」からである。
その昔、この国のひとりの支配者は、鹿を見せて「これは馬だろ?」と言った。
「いや、これはどう見ても鹿でしょ?」と発言した者はみんな殺された。
だから人々は口を揃えて「これは馬だ」と言った。
これが「馬鹿」という言葉の由来であると言われているが、私にはこの昔話こそが中国共産党がロックを恐れていた理由だと思えて仕方がない・・・
私はとある機会を得て「中国ロックと中国社会」という論文を書いたことがあったが、そこでも書いた通り時代は変わり、今はそんな彼のファンだった若者が中国共産党員となり、そして今回のこの彼のインターネットライブをスポンサーする大企業のお偉いさんになっているのだろう・・・
かくして彼がこの大規模なインターネットライブをやることは、インターネットで拡散され、ここ数日私のタイムライン上は全てその話題で埋め尽くされていた。
ここ銀川の小さなライブハウスでは、そのネットライブを見ようぜというイベントが行われていたので、どうせ見るなら大音量で大画面で見たいなということで行ってきた・・・
いや〜とにかく音がいい!(◎_◎;)
主催者側から何度も「是非イヤホンで聞いて下さい」というアナウンスが字幕で流れて来たが、こうしてライブハウスの音響で大音量で聞くと、ちょっと音は痩せてると感じるものの、ほぼライブと遜色はない。
そしてステージ!!
ライブ前にカウントダウンの分数と共に設営の様子とかメンバーのインタビューとかが流れて期待感を煽るのだが、ステージの三方が映像を流せるスクリーンで囲まれていて、曲とリンクしてステージが変幻自在に変わるのが感動的である・・・
懐かしい老朋友のサックスの劉元やギターのエディー、彼らは崔健の初期からのバンドメンバーだったが、さすがに老けたなぁ・・・まあ人のことは言えんが(笑)
崔健はと言えば、まあ彼も老けたのだろうが昔と変わらん・・・
彼は彼であればそれでいいのだ。
昔私が所属していたアミューズという大手事務所のトップからこう言われたことがある。
「お前らが音楽だけよければ他はどうでもいいと言うアーティストだったとしたらうちは要らんぞ。そんな音楽だけの音楽家なんかうちは全く興味はない」
太ってたら痩せろ、ファッションに常に敏感にしろ・・・
何よりも若者をターゲットにした商売に私はついていけなかった。
当時若者のファッションにズボンをずらして穿いてパンツを見せるのが流行っていたが、「お前らはこの歳でそんなファッションで街を歩けるか?」とメンバーと喧嘩した。
しかし十数年ぶりに見た崔健は相変わらずのシンプルな服装で、相変わらず「ファッション」とか「流行」とかに全く関係なく、トレードマークの赤い星(彼は生粋の愛国者で、これは中国を意味しているのだろう)のキャップを被って無精髭を生やしている。
相変わらずのしゃがれ声で、相変わらずの全くサービス精神のないMC(笑)
変わったのは「テクノロジー」だけで、そんな全く変わらない彼を世界最高のテクノロジーがただただそれをサポートする・・・ただそれだけである。
彼がそれに乗っかって何か自分を変えるということは全くない・・・
彼の音楽は、バンドサウンドから変わってCuBase(当時)による打ち込みに傾倒していってからあまり聞かなくなったが、昔のヒット曲(と言っても彼の楽曲は大っぴらにメディアに乗ることが出来なかったのだが)を昔風のまま歌うこともあり、大きく変えるアレンジもあった。
「不是不明白的」という、中国では最初に中国語でラップをやったと言われている楽曲では、昔のアレンジとは全く異なり、テンポを落とし、電子系を取り入れて、まあそれでも「今風」ではないのだが、彼独特の世界観なのだろう、昔のファンとしては最初はちょっとがっかりしたが、最後には拳を振り上げて画面に向かって「イエー!!」と叫んだりしている・・・
途中彼はKORGのシンセかなんかでノイズを発生さえてソロパートをそれでパフォーマンスしてたが、それがまた素晴らしい!!
テクノロジーは「使う」ものであって「使われる」ものではないんだということを彼はその「人生」で胸を張ってそう伝えているような気がした。
ネットで流れて来た、このライブを見ている人からのとあるメッセージ、
「他に誰がいる?天下の宝刀まだ衰えず、初心と全く変わらない」
「ここにもいるぞ!!」と叫びたかったが、残念ながら私の人生は彼に比べたら紆余曲折、死ぬまでには私もそうなりたいとがむしゃらにドラムを叩き続けるのみである・・・
3時間を超えるネットライブはあっという間に終わり、アンコールは「視聴者が1億人を超えたらアンコールするよ」とアナウンスが流れる!(◎_◎;)
この時点で視聴者4000万人、「いいね」は既に1億を越している。
日本で、いや世界でこれだけの視聴者を集められる人間がどこにいる?!!(◎_◎;)
画面は主催者が彼に対する長いインタビューに切り替わり、その間にライブハウスでは彼の曲を大音量で流す。
「一块红布」という彼の昔のヒット曲だ。
(このブログ記事でこの曲のことに触れてます)
共産党の色である赤い布で目隠しをしてこの曲を歌う彼の意味深なパフォーマンスに中国共産党は激怒し、それから今に至るまでこの曲をこんなインターネットライブでさえ正規に演奏することは出来ない。
だがロックを愛する若者はみんなこの曲を愛している。
ライブで聞けないならライブハウスで大音量で聞いて合唱する。
Rock'n Roll never die!と西欧人は言った。
中国ロックがどれだけ商業化されていっても、私が愛した中国ロックは決して死んではいない!!彼の歌声が、いや「生き様」が私にそう強く感じさせた。
私も彼のように胸を張って我が道を生きてゆこう、
「それがロックなんだ」
そう強く感じた夜だった・・・
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2022年2月27日
Roland電子ドラム使用レポート3(最新機器VAD706 )
コロナの為に延期になってた北京公演の為に先に北京入りした・・・
「北京にいらっしゃるならVAD706という新製品を叩きに来ませんか」
とRolandから連絡が来た・・・
「ヒマやしええですよ〜」
というわけでお邪魔しに行って来た〜・・・
感想はと言うと「何コレ?生ドラムやん(笑)」というルックス!!
音色は自分の音源モジュール T D 50XからS Dカードにバックアップして持って来てるので全く同じ!!
でも叩き心地はちょっと違う気がする・・・
同じようなメッシュパッドなのだが、その締め具合が違うのか、はたまたセンサーがちょっと違うのか・・・
どちらにしろ生ドラムだと全く違うのでそれと比べると「同じ」と言える程度である。
カメラマンがちゃんとした写真を撮ってくれたので、お礼に何か叩いて映像でも撮ってプレゼントしますよと言うと大喜び!!
ドラム叩いて喜んでもらえるならこんな嬉しいこともないので、さて何を叩こうかなと思ったのだが、世にある電子ドラムのDEMO演奏は大体最初から最後までひとつの音色で叩くのが多いので、こりゃやっぱり途中で音色をぽんぽん変えるのが良かろうということで、やっぱ「Vision Rocks」!!
ところがこれ一度やってるので、やっぱ別バージョンを叩かなきゃなぁ・・・
ということで時間を頂いてまた全部の音色を聞いてセットリストを組み直す・・・
オープニングの音色が一番イメージを印象付けるので、今回はティンパニの音を選んだのだが、「さてどんな風に闘うかなぁ・・・」と思って叩いていると、時々ティンパニの音程が変わる!(◎_◎;)
「これさっきは音が低かったのに今なんでこんなに高い音なんですか?」
と素直な疑問をぶつけてみると・・・
「ハイハットの開け具合で音程が変わるんです」
!(◎_◎;)・・・そりゃ凄い!!・・・ということでしばらく遊んでみる(笑)
録音はやっぱパラで録った方がよかろうということで、USBケーブルで音源モジュールとパソコンを繋いでProtoolsを回して録音する・・・
ところが前回と全く同じセッティングなはずが、何故かProtoolsがフリーズしてしまう!(◎_◎;)
出力がこのように32chのうちに無駄なものが多いので、チャンネルを半分以上減らして回してもやっぱりフリーズする!(◎_◎;)
仕方がないのでLogicを回してみたが、それはちゃんと最後まで止まらずに回った(ほっ)
ところが後でファイルを開いてみるといくつかのチャンネルで時々デジタルノイズが乗るのよねぇ・・・(>_<)
原因は不明!!
パソコンや設定は同じなので、USBケーブルが悪かったのか(前回はTypeCタイプで直接パソコンに繋いだが、今回はアダプターでTypeCに変換した)、もしくは音源モジュールの TD50Xのバージョン(ファームウェア?)が古いのか・・・
どちらにしろ、ちゃんと(でもないけど)叩き終えて持ち帰ってMixDownしようと思ってたが、
「じゃあ今の動画もうアップしていいですか?」
とスタッフの人・・・!(◎_◎;)
あかんがな!!そんなアンプからの生音を携帯で録ったようなん・・・
「ちゃんとミックスしたいい音のを送りますから!!」
と言うのだが・・・
「まだ音頂けませんか?もうあれアップしていいでしょ!!」
・・・と嬉しくて嬉しくてたまらんのかい!!(笑)
しゃーないのでむっちゃ焦ってミックスしましたがな〜(笑)
自分から「何か叩きましょうか」と言い出したのが悪かったのだが、そこそこ練習もせずにこんな難しい曲叩いたらあかんやろ〜(笑)
特にプログラムの切り替えは間に合わんかったのが多い〜(>_<)
まあでもRolandの皆様には喜んでもらえたしよかったよかった・・・
さて本番が近づいて来たある日、Rolandさんからこんなお願いが・・・
『Funkyさん、このVAD706単体もステージに並べて叩いてもらうということは可能ですかねぇ・・・」
ちょうど北京のステージは2段重ねの雛壇みたいになっていて、ドラムセット2台だろうが3台だろうが並べるスペースはある!!
そもそも最初の電子ドラムを使ったライブでは一曲を最初から最後まで電子ドラムで叩いた曲もあったので(その後変更して前半は電子ドラム後半は生ドラムに変更)、電子ドラムだけで叩く曲を作ってその曲だけ隣に並べたVAD706を叩けば良い・・・
「いいですよ!!」と安請け合いしたものの、当日のセッティングや配線が大変(>_<)
毎回のマルチトラックのセッティングに加えて、この新しい電子ドラムの入力を加えたわけなのだが、見事にアサインを間違えてて録音されてなかった(>_<)
DVDになると言うのでこれでは発売出来ない(涙)
・・・というわけで映像を見ながらアフレコ!!
これを見ながら
全く同じように叩くってこれどうよ!!・・・
・・・ところが録音し始めてみると最後にリットが〜かき回しが〜(号泣)
どうにかアフレコが終わってこんな感じ・・・
ドラムソロはしゃーないのでこのVAD706の部分のみオーディエンスマイクのみ(涙)
でも乱れ叩きでプログラムチェンジパッドを叩きながら次々に音色を変えてゆくのん面白い(笑):
(3:30辺りから)
というわけで面白いオモチャ(笑)で遊ぶのも終わってこのVAD706で一番印象に残ったのは・・・
電子ドラムやろ?どうせハリボテやろうと思ったらバスドラなんかむっちゃずっしりと重い!(◎_◎;)
「何が入ってるんですか?まさか重さまで本物のドラムに似せる為に?」
などと質問してみたら・・・
「開発のこだわりで、この中には色んな回路がいっぱい入ってるんです・・・」
って!(◎_◎;)!!!
一度中を開けて見てみたいのう・・・(笑)
というわけでこのこの新製品も貸してくれるわけでもなく(笑)北京の倉庫に眠ってたロートタムやらキャノンタムやらを銀川に送って複合セット最終形をセットアップ〜!!
布衣の新曲ではこのセットを使って、一応4種類の太鼓、
1、生ドラム
2、電子ドラム
3、ロートタム
4、キャノンタム
の全てを叩くという暴挙に出ました〜(笑)
次のレポートはそのレコーディングのレポートを!!!
続く
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2022年2月 3日
Roland電子ドラム使用レポート2(複合セット)
(前回の続き・・・)
コロナのためお借りしている電子ドラムを引き取りに来れないということでずーっとお借りしている(笑)
私が詰めているドラムスクールには、現在私しか叩いていない校長の生ドラムと、ステージにどどんと置かれた電子ドラムセット・・・
私の使い方と言えば、ドラムの練習は生ドラムでやって、基礎練習は電子ドラム!!
100万円以上する高級機種が練習台に(笑)
いやこのメッシュパッド(?)っつうのの叩き心地が普通のドラム練習台より気持ちいいのよねぇ〜
まあ生ドラムから比べたら全く同じではないけど、生ドラムではリズムは叩いても、基礎練習する気にはならんなぁ〜・・・ウルサイし(笑)
しかし、私とてこのような高級機種をただの練習台として埋もれさせておくつもりはない(キッパリ)!!
考えるに、電子ドラムはこれほど高性能になったとしても、やはり生ドラムではない!!
言うならば、アコースティックギタリストが、まあエレキも弾くけどやっぱアコギやな〜というのと同じである。
いや、でも世界では今では逆の現象も見られている・・・
例えばRoland社が世界に誇る電子ピアノ!!
調律は要らないしマイキングも要らない、シンセと違ってタッチも限りなくアコースティックピアノに近い!!
今ではもうステージにアコピがあるという状況の方が珍しく、クラシックや一部のアコースティックJazzを除いては、もう完璧にアコピに取って変わっているのが現状である。
ドラムの世界もいつかそうなるんやろか〜・・・
現状では多くのピアニスト達も、調律の問題やマイキング、ステージでのモニターはPAでの最終的な音作りの難しさを考えると、やはり電子ピアノの方が結果よいということでそちらを選ぶ傾向にある。
しかし、そういうピアニスト達も、家に生ピアノがあったら電子ピアノ弾かんでそっち弾くやろ〜(笑)
ただし、音楽が多様化している昨今、生ピアノだけで表現出来ない音楽もある。
ロックやポップスやJazzでもフュージョンチックな音楽には、今ではシンセサイザーのサウンドが不可欠であったりする・・・
そうすると、生ピアノの上や横にちょこんとシンセを置いたり、私にとってのエレドラはそんな感じの使い方かな・・・と思い立ち・・・組んでみた・・・
リハで使ってみる・・・
・・・ってこれが大変!!まず音色を選ばないかん(>_<)
これがこのTD50Xの音色ってむっちゃ多いのよね〜(涙)
ライブの録音を聞きながら、「この曲ならこの音色かなぁ〜」とか考えながら割り当ててゆく・・・
不累:68 Ana Hybrid
等不急:49 Back Street
啤酒:48 Sharp Popper
1,羊肉面:同
2,怎么办:43 Euro Studio
出发:41 Rock Maple
在你身旁:13 Loud Rock
5,莲花:不用
6,好风:04 Modern Jazz
7,荒野:12 Jazz Gig
8,就在那:17 Organic DnB
9,绿韭菜:同
我爱你:24 Jazz Machine
酒:68 Ana Hybrid
秋天:53 Forged Wood
罗马表:20 COmpreSS
丢:62 Space Disco
三峰:66 Plugs&Layers
ちなみに左側にあるのはプログラムの番号、これもRoland社のSPD-ONEという、叩いたらステレオでプログラムが出て、更にクリックがステレオで出るというスグレモノ!!
ツアー中にPAエンジニアとミーティングを重ね、最終的には彼がいじりやすいように、クリックチャンネルの右側もソロ楽器等を入れて、私はクリックの左側だけを聞くようにしている・・・
・・・てか、曲終わって電子ドラムのプログラムも変えて、同期のプログラムも変えてからカウント出してって大変やなぁ〜・・・・と思ってたら、予想通り初日にはプログラム番号を間違えたりしとるし〜(涙)
(混合セット初日のレポートはこちら〜)
いやね、複合セットはとにかく見栄えが壮観なのよ〜(笑)
左足がいつも迷う(笑)
布衣のようなアンダーグラウンドバンド(それでも食っていけるのだから中国は凄い!!)では、毎回自分のドラムセットを持って行くというわけにもいかず(っつうかこの広い中国では無理(>_<))、生ドラム部分は毎回その小屋のドラムを使わせてもらうので、当然ながら左右の色が違うようになるわけだが、なんか高校生の頃寄せ集めでツーバスセットを組んでた時(当時はツインペダルというものはまだ発明されてなかった)を思い出して懐かし〜(笑)
中国では(って日本でもそうか?)いわゆる多点セットってのは流行ってないらしく、見に来た人はこのルックスだけで度肝を抜かれる〜・・・
ワシらの時代はツインペダルもなかったからバスドラふたつ並べるだけで「スゲー!!」ってなもんで、タムなんかたくさん並べた日にゃ「なんて凄いドラマーなんだ!!」ってなもんやったけどなぁ・・・・(笑)
まあ初日なので色々問題は噴出するだろうなとは思ってたが・・・
一番大きなのは「モニター」の問題!!
表の音はPAエンジニアに任せるとしても、演奏してる人間が、電子ドラムと生ドラムを行き来する時に音量が同じじゃないとキモチワルイ(>_<)
またモニターというのは演者の前にあり、ドラムセットは後にある。
ある時は後ろから聞こえて、ある時は前から聞こえるというのもちとキモチワルイ(>_<)
また、私の生ドラムの音はデカいらしく、この数百人ぐらいの小屋なら、モニターからなんか返さなくてもステージ上どこにいても生音で聞こえて来るが、エレドラはモニターの前から離れると聞こえて来なくなる・・・
そこで解決策として、次からエレドラ用のアンプも用意してもらって、それをドラムんとこから爆音で発音させればどうかということになる。
結論から言うと、ひとつではやっぱ足りんかった!(◎_◎;)
どんだけ大きいねんワシの生音(>_<)
・・・というわけで2つ持って来てもらおうともなったのだが、それより先にメンバーの方がこの状況に慣れてしまった(笑)
問題は他にも色々と噴出した・・・
まず基本的な使い方として、メタル系のヘビーな音色は、生ドラムよりエレドラの方が迫力あるかなと思っていたのだが、実はそれが逆で、盛り上がる時に生ドラからエレドラになると逆に盛り下がるという・・・
原因には大きく分けて二つあるのだが、まず生ドラムの迫力がエレドラより凄いということ(ワシだけか?笑)。
ボリュームを上げれば誰が弾いても大きな音になるのとは違って、力の限り叩いて相手に届かせようとする(ワシだけか?笑)生ドラムの音の方がはるかに「説得力」があるのだ。
「表現力」という点でもそうである。
MIDIで言うと、ベロシティー(強さ)というのはたかだか127段階しかないのだ。
しかもその全てにそれぞれ127種類の音色を割り当てているわけではない。
それに反して生ドラムは無限にあるのだ・・・
このブログでも書いたが、私はスネアの音色だけでも大きく分けて4種類、それを大きく振り下ろすのと小さく振り下ろして力を入れるのも加えると8種類、そしてそのベロシティーは無限に細分化されていることを考えると、「表現力」という点においてはエレドラが生ドラムに勝るわけはない。
要は「使い方を誤った」のである。
誰がアコギや生ピアノの泣かせる独奏をエレキやシンセでやりますか?
「楽器」にはそれぞれの「持ち味」があるのだから、そこを「奏者」が上手く「持ち替え」なければならんということであった(>_<)
この教訓から、「派手な曲は基本生ドラ!!」ということで方針は決まり、その代わり、ちょいと何もせずに遊んでいる左足でサビとかにエレドラのバスドラも一緒に踏んでやるとか・・・(これなかなか良い)
手は足りないのでスネアとかを足すのはこの曲では出来んが、他の曲ならこのような考え方で全く別の「アディショナルな使い方」は出来そうだ・・・
それより何より、逆にレコーディングではループやループっぽい叩き方をしている部分をエレドラで叩くと、これがなかなか良い!!
ループでもないし、かと言って生ドラムでもないといった「エレドラ独特の良さ」を表現出来る・・・
こうなると「音色選び」が何よりも重要になって来るのだが、ちなみに私はクリックを聞くイヤホンと一緒にエレドラもイヤホンで聞いているのだが、実際にPAスピーカーから出てる音が楽曲に対してよかったのかどうかは、唯一下で聞いているPAエンジニアにしかわからない。
「あ、あの曲のエレドラがとても良かったよ」
と終わった後の打ち上げ(この年になっても年間100本のツアーで必ず打ち上げをする笑)でエンジニアが言ってたので、
「どの曲?どの曲?」
と聞いたが・・・・「忘れた」と(>_<)
まあ最終的に音色を決めるのにはまだまだ長い長い時間が必要です。
それに70音色もあるのだ、まだ全部理解出来てない(涙)
さてそれより他に、ライブで使うならではの問題が噴出して来た・・・
エンジニアがこう言う・・・
「エレドラの音をもっと出そうと思ってもねぇ〜そしたら他の音がマスキングされちゃったりさぁ〜生ドラだと全部それぞれをEQして上手く調整してんだけどねぇ・・・」
これはタムのチューニングのやり方とかを聞かれた時にいつも言うことなんだけれども、
「レコードで聞いてるタムの音は生のタムの音ではない」
ということである。
中音域にはギターやボーカルなどのメイン楽器が密集していて、それにマスキング、もしくはそれを際立たせる為にタムのその辺の周波数をカットする。
結果聞こえて来るのはアタックとボーンという「鳴り」の部分だけで、生のタムでそんな音を作ろうとするからヘッドをベコベコに緩めて全く鳴らないチューニングにしてしまう・・・
みたいな現象がPA席では逆のこととして起こってるわけである。
生ドラムの音はもうサウンドチェックでそれなりのEQをかけて作り上げているのだが、どの曲でどんな音色が出て来るやらわからんエレドラを目一杯上げることは出来んということだ・・・
解決策としては、全音色それぞれをPAの意見を聞いて内部で全部EQするのはあまりにも現実的ではない。
というわけで、とりあえずとしては「パラで出す!!」ということである。
現状の2ミックスだけでは、ざっくり中音域をカットするとスネアの音色にも影響するし、パラで出しとけば、まあ音色は曲によって変わるにしろ、全体的にミックスするための必要な周波数帯域をあらかじめ空けておくことが出来る・・・
というわけでそうなると今度は結線が大変!!
これから更に「バスドラ」「スネア」「ハイハット」の単独回線が増えるということである(笑)
出力先を変えるのはここ〜
ここでDirect1をバスドラ、Direct2をスネア、Direct3をハイハットにして、残りは全部マスターアウトにしとく。
まあエフェクトとかもマスターに行くけど、それはまあ致し方あるまい・・・
布衣は全てのライブをマルチで録音しているので少々バランスが悪くても後で調整出来る・・・
というわけで色々あったけど、Roland海外支社の人が「こんな使い方してる人いない」と言うからには世界初の複合セットでのドラムソロ!!
いや、これRolandさんが運んでくれてセッティングまでしてくれるから出来るんであって、毎回コンサートでこれは無理!(>_<)
はい、そして次はRoland中国のお膝元、上海!!
実はこの日は車のトラブルで電子ドラムが時間通りに着かなかったのよね〜(>_<)
(詳しいレポートはこちら)
せっかく用意してもらった「叩いたらプログラムチェンジ」パッドも結局使えんかった〜(>_<)
でも複合ドラムソロはいつもと同じ〜!!
さて次の蘇州では、ついにオープニングに「ひとりドラム」!!Vision Rocksの複合ドラムセット版です!!
今回の目玉は叩いたらプログラムをチェンジしてくれる便利なパッド!!
(スネアの向こうの小さな三日月型のやつ)
複合セットでは音源モジュールがちょっと手元から遠くになるのでこれあると助かる〜
ドラムソロは同じような感じ〜(笑)
(この日の詳しいライブレポートはこちら)
終演後に電子ドラム嫌いな私をここに引きずり込んだ張本人のインタビュー!!
ここにはRolandの製作の方も来て下さって一緒に飲んだんだけど、興味深い色んな話を聞かせてもらった・・・
やっぱ一番苦労したのはハイハットなんですと!(◎_◎;)
そう言えばあれは複雑極まりないコントロールやろうなぁ・・・
じゃあ次に複合セット置けるステージは北京公演か?
その時にはじっくり彼の苦労を感じ取って叩かせて頂こう・・・・と思ってたらコロナで北京公演延期?!(◎_◎;)
・・・続く
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2022年2月 2日
Roland電子ドラム使用レポート1
ことの始めはキーボードの張張(ZhangZhang)がRolandのモニター(もちろん鍵盤の)になり、
「電子ドラム担当の人がFunkyさんのファンで、是非紹介して欲しいって言ってるんです〜」
ということで飲んだことが始まり・・・
まあ開口一番「電子ドラムって嫌いなんですよねぇ〜」とか言ってるんだから、先方もさぞかし戸惑われたことであろう(笑)
「じゃあ一度使ってみて下さい」ということで私が詰めている寧夏回族自治区銀川のドラムスクールに電子ドラムが届いた!(◎_◎;)
本社がある上海から、わざわざ担当社員である中国人スタッフ(彼もドラマー)も来てくれてセッティングをしてくれた!(◎_◎;)
結線とか設定とか、ややこしそうで自分では絶対にやれんし〜(>_<)
色んな音色を叩いてみる・・・
ちなみにそれ専用のアンプも送ってもらった。
何故なら、エレキギターはギターとエフェクターとアンプでひとつの楽器やろ〜
ならエレドラもそうであるべきやと思ったのよ〜
酒場とかでエレドラしかなくて叩くこともあるけど、パタパタいうPadの音の方がデカい場合も多く、せめて生ドラムのように(私が叩く場合は特に)爆音で聞かないと全く叩く気がしないと思ったのよ〜
しかし音色が多い!!70種類を全部叩いて見たけど、多すぎて覚えられん(>_<)
でも個人的には生ドラムをシミュレーションした音色よりも、生ドラムでは絶対に出ない音色の方が好きなようである・・・
リムショットもちゃんとそんな音が鳴る!(◎_◎;)
ちなみにJazzでのブラシ奏法にも対応しているらしいが、それは色々と設定が難しくまだ実現していない(>_<)
軽く100万円を超えるこんな高級機をぽんと貸してくれてるお礼に、ラテン系の音色を使って「炎の靴」を叩いて、ビデオを撮ってみた・・・
ちなみに録音はステレオアウトからのライン録音なのであるが、どうも叩いている時に聞いている音と違うのよね〜
だんだん使ってゆくうちにわかって来るのだが、この専用アンプでも正確に音を再生し切れてない!(◎_◎;)
特に私の場合、自分が叩く生ドラムの音って相当デカいので、必然的にアンプの音量をむっちゃ上げることになる。
そうすると特にバスドラとかの低音は既にスピーカーが悲鳴を上げとる(>_<)
理想はと言えば、どデカいPAセットで余裕を持って再生しないと、ドラムとかの打撃音って正しく再生されないのではないかと思う・・・
まあ音色的には実は音質のいいヘッドホン(私の場合はライブでも使っているイヤホン)で聞くのが一番なのよね〜音圧はないけど・・・
というわけでその後ずーっとイヤホンでエレドラを聞くこととなる・・・ちなみに職業病の難聴なので音量いつも最大(笑)
さて、Rolandの私担当(と勝手に思っている)スタッフの王くんも上海に帰ってしまい、その後ひとりでこの高度な機械と格闘することになる・・・
ありがとう王くん〜
ちなみに私は機械は得意である!!
自慢になるが、今ではアマチュアバンドでも「同期」と言ってプログラムに合わせてライブをやったりするが、当時プロのバンドでも誰もやってなかった頃、爆風スランプでは私が全部音源を打ち込んで、ステージでイヤホンでクリックを聞きながらプログラムを出していた(ドヤ顔)・・
というわけで、パール楽器のVisionシリーズの為に作ったこの曲を、Rolandの電子ドラムで叩いてみようと思いつく〜!!(笑)
この曲は組曲になっていて、パート毎に音色を切り替えて叩いたら面白かろう〜というわけで、まずは「Set List」というものを作って、気に入った音色を順番に呼び出セルようにしてやる・・・
これで「叩く」ということに関して準備完了なのだが、問題は「オケをどのように聞いて叩くか」ということである。
私は「ひとりドラム」の演奏とかでは、左にクリック右に伴奏データを入れたMP3を再生して、その出力を二股で分けて、片方の両チャンネルを自分のイヤホンで聞き、もうひとつの右側だけをPAに送る。
その方式でイヤホンを使うと、エレドラの音を聞くイヤホンはどうするんだ?ということになる・・・
どうせエレドラはライン録音で、外の音は全く録音されないのだからどちらかをスピーカーで出してもよいのだが、この音源モジュールには『Mix in」という端子があって、音源をそこに繋ぐと、エレドラのイヤホンからその音源も聞こえる、しかもそのボリュームも本体で調節出来るという便利な機能がある・・・
ところがもっと便利なのは、ステレオのオーディオデータとクリックデータを用意しておけば、そのオーディオとクリックと同時に再生してくれるという機能もあるのだ!(◎_◎;)
これだと今までのようにオケがモノラルで我慢することもない・・・
とりあえずこの方式でオケを聞くことにする!!
準備としてはステレオのオケデータと、その同じファイル名に「_Click」を付けた二つのデータを用意して、それをSDカードに入れて、Songでそれを再生すればよい。
オケは本体のSongのボリュームで、クリックはClickのボリュームで調整出来るので便利である・・・
いや〜この曲久しぶりにステレオで聞いたわ〜(笑)
さて次はどうやって録音するかということなのであるが、どうやらこの音源モジュールTD-50X本体(SDカード)に叩いた音データと共にMIDIデータも録音出来るようである!(◎_◎;)
MIDIで録音出来たら、最終的に音色も変えることが出来るし言うことない!!・・・と思ったら、この録音形式は曲の途中で音色を変えられないことが判明(>_<)
そしてまたこの分厚い(言うてもPDFですが笑)説明書を隅から隅まで読んでいると、何とこのエレドラの音源モジュールTD-50Xをパソコンに繋いでマルチトラックでレコーディング出来ることを発見!!
さっそく繋いでProtoolsを立ち上げてみるのだが・・・
いやね、この32chの出力ってむっちゃ無駄が多いし〜(>_<)
まずCh11以上はひとつの音色が二つのチャンネルにアサインされている・・・つまりステレオチャンネル使ってモノラル(>_<)
そしてデフォルトではDIRECT出力、つまりCh3〜10にもKickやSnareなど同じ音色がアサインされてても更に無駄やろ〜(>_<)
ところが一度試しに録音してみたら新たな問題が〜!!!
Ch11以上に録音されている各ドラムの音がペラッペラ!(◎_◎;)
よく調べてみると、この音源モジュールには、太鼓単体の音と共に、オーバーヘッドマイクの音や、部屋の残響の音(Room)、そして電気的なエフェクトの音など色んな要素の音があってこの音色になっているのであって、それがデフォルトでは全てCha1-2のMasterにアサインされている・・・
そして一番困ったことに、叩きながら聞いている伴奏データやクリックもここにアサインされているので、このチャンネルの音は結果的に使えないということになるのだ(>_<)
というわけで、このページでそのアサインを変えてやる・・・
そうするとこんな理想なアサインとなるわけである・・・
(オーバーヘッドやRoom、エフェクトとかをDIRECTアウトにアサインし、Clickの音はイヤホンからだけ聞けるようにし、プログラムの音もDIRECTアウトにアサインしている)
実際に録音してみると、Tom2のPadは接続されておらず、AUXにも接続されていないのでこのチャンネルは無音・・・つまり無駄である・・・
あとCh11より上の、2chとも同じ信号が来てるんなら、ひとつを殺してモノチャンネルにしてしまえばトラック数も容量も節約になるのだが、後で何が起こるやら分からんので一応このままにしておいてテンプレート作成〜!!
いざ録音!!
とりあえず、録音してみて思ったことは、音色によってやっぱ音量がかなり違う・・・(>_<)
ミックスダウンで何とか整理してみたけど、これってライブで使うにはやっぱ各キットのそれぞれの音色をエディットせないかん?!(◎_◎;)・・・大変やん!!(涙)
一応シンセとかでも、なるだけデフォルトのまま使いたいのよね〜キリないし(笑)
あと、これらの音色作った人(特に生ドラムの音色)凄い!!・・・ドラムがわかってるっつうか、ちゃんとしたドラマーが製作に参加してるな・・・
サンプリングの音を録音した人も凄い!!自分もドラムのレコーディングしてるからわかるけど、スネアやタムのチューニングもちゃんと出来てるし、Roomとかオーバーヘッドとかちゃんと録音されてるし、そのレコーディングエンジニアも凄い!!
もっと凄いのは、そのサンプリング音源から胴の厚さとかをエディット出来たり、太鼓とマイクの距離とか、バスドラのビーターの種類まで変えられるん?!(◎_◎;)
やらんけど(笑)・・・でもこのデジタルエンジニアも凄いと思うわ〜・・・(感心)
とりあえず今回のレポートはここまで!!
いや〜わからないことがあったら王くんにメッセで聞きまくってたけど、
「国内でここまで使いこなしてるドラマー初めてです」
とか言われてちょっぴり嬉しかったけど、どんな質問にも答えられる王くんも凄いし、これ・・・まだまだ機能のほんの一部分なのよね〜(>_<)
ってか実はもっと大きな問題なのは、私はエレドラを単体で使うチャンスはまずないのよね〜・・・
使うなら、生ドラムの中にエレドラを組み込んでくるっと回ってどちらも叩きたい・・・
この人みたいに・・・
この人は左側にキャラの違うドラムセットを組んでくるりと回って叩き分けてるけど、それをエレドラでやりたいのよね〜
・・・というのも、最初から言ってるようにエレドラは生ドラムの代用ではない!!(と私は思っている)
全く別の楽器なのだから、エレドラでしか出来ないようなものを演奏する別楽器としてセットしたい〜
例えば流行歌でよくある、LOOPの部分とかをエレドラで生で叩くとか・・・そんな使い方をしたいな・・・
というわけで次のレポートは、最終形のこの形に至るまでのレポート!!
実はその生ドラとエレドラの複合セットをライブで使ったのよね〜
録音のやり方はまた全く違ったものになるし、ライブのPAエンジニア、そして一緒にプレイしているメンバー達の反応はどうだったのか!!
お楽しみに!!
Posted by ファンキー末吉 at:19:01 | 固定リンク
2021年10月15日
布衣2021年ツアー番外編海南省「三亞」
9月25日に予定されていた三亞でのライブが、小屋の都合で中止になっていた・・・
本来ならばこの三亞が今回の最終地になるので、「中国のハワイ」と言われている(ハワイと同じく物価は高い(>_<))この海南島のリゾート地で数日遊んでから帰ろうと思ってたのだが、海口から銀川に帰る飛行機がこの日が一番安いということで、強制的に銀川に帰らされることになっていた・・・(>_<)
ところがその飛行機が何かの原因で欠航!!!(◎_◎;)
それならば海口近くのビーチリゾートに行くぞ!!と思ってたのだが、撮影が入った(涙)
もう海は諦めていたロック界の加山雄三(自称です)なのであるが、撮影終了後に全員高速鉄道に飛び乗って三亞に行くことになった!(◎_◎;)
今回はただでさえ雲南省で現地オフが多く、たっぷり遊ばせてもらったのであるが、更にバンドからのプレゼント(涙)・・・ありがたくて本当に泣くところであった(笑)
夜中に三亞着!!いつもなら会場近くの一番安いホテルに泊まるのだが、今回は海に面したコンドミニアム!(◎_◎;)
これでも8人で泊まってひとり頭で割るとひとり1000円ちょい!(◎_◎;)
その日はバタンQ (死語)で翌日はやっぱ海に入るしかないでしょ!!!!
しゃーないなぁ〜・・・(涙)
海だ〜!!!(涙)
ちなみに海パンは持って来てないのでパンツで入ってます(笑)
ちなみに海岸から見た宿泊場所・・・一等地ですなぁ・・・
昼飯は初めて食ったココナッツ鶏鍋!!!(◎_◎;)
鶏肉スープにココナッツの身を入れているだけなんだけどこれが美味い!!(涙)
ちなみにこのココナッツの身もそのまま食べてて、想像以上に甘くない!(◎_◎;)
ココナッツライス!!
ココナッツの実の中でご飯を蒸した?・・・でもタイのマンゴーライスとかと違ってそんなに甘くない!(◎_◎;)
午後はみんな昼から飲んでまたり〜
ツマミは生ニンニク齧りながらビール?!(◎_◎;)・・・いや、ワシもやるけど(笑)
晩飯は自炊!!飲みながらゆっくり作ります〜
酒に弱いLaoWuはもう潰れてるし〜(笑)
かなり豪勢な夜・・・酔っ払ったメンバーのひとりが私にこんなことを言った・・・
『Funkyさんは布衣がアンダーグラウンドだった頃からの知り合いでしょ?こうやって豪勢な夜を過ごせるぐらいのバンドになったってどんな心境ですか?」
いや、こいつらオーバーグラウンドなんも今日一日だけやし〜
いつも安宿に泊まって小さな(でもないけど)ライブハウスでやってるだけやろ〜(でも満杯になるけど)
・・・ってかこの贅沢、高々ツアー経費に数万円乗っけただけで買えるんですけど〜(笑)
夜にはここで住んでいる李慧珍が来てくれました〜
ある愛の唄プロジェクトの中国語バージョン・・・もう始まっとるのか?!!録音した音源を聴かせてくれた!(◎_◎;)
始まったならそう言えよ〜(涙)・・・慰問に行くなりそうするのに〜(>_<)
まあ中国ではあるある〜自由にするが良い!!任せた!!
2021年9月26日
Posted by ファンキー末吉 at:12:19 | 固定リンク
2021年10月11日
疯狂的石头(Crazy Stone)サントラ盤制作
もう20年近く前の話になるのではないか・・・この映画音楽!!
日本では全く知られていないが、中国ではその年のタイタニックの売り上げを超える大ヒットとなった映画音楽を実は私がやっていた・・・
これには色んな話があるのだが、実は友人の友人で寧浩(NingHao)という若い映画監督がいて、その友人から頼まれた・・・
「撮影で予算使い果たしちゃって、音楽を付ける予算があと4万元しか残ってなくて、誰もこんな安い値段じゃやってくれないって困ってるんです。末吉さんやってくれませんか?」
北京にスタジオを作ったばかりで、そこで録音すれば別に他所に出てゆく経費もないし、まあ若い才能を助けるのは「ライフワーク」だから喜んで引き受けた。
後で知ることになるのだが、4万元と言うと約60万円・・・当時は中国の映画バブルは始まっていて、映画音楽だとゼロがもうひとつは付くというのが相場だったので、いわゆる「タダ同然の仕事」である。
実はこの寧浩(NingHao)という監督が自分も昔バンドをやってたりして、音楽には非常に思い入れがある人間で、結局1ヶ月かかって作った音楽を全部作り直したりもした(涙)・・・
まあ誰もが「こんな低予算の映画なんか売れるわけはない」と思ってたわけで、私も
「彼の初監督作品を、思い残すことないように自分の出来ることは何でもやってあげよう」
と思ってたので、まあ非常に辛い制作活動ではあったが、彼のためにと頑張ってやってあげた・・・
ところが最後の最後で監督が数場面の音楽にどうしても納得しない(>_<)
もう私も数ヶ月こればっかりやってるので限界で、監督が
「じゃあ別の人間を立ててもいいか?」
と言うのでさすがに私もOKした。
その人間が原芸(YuanYi)という、当時は売れないバンドのキーボーティストであった。
「おお、お前か〜・・・じゃあよろしく頼むわ!!」
既に面識があったので話は早いと思ってたら、彼は数曲作った後に監督のあまりの神経質さに嫌気がさしたのが逃げ出しよった(怒)
監督が「じゃあこの場面についてミーティングしよう」と言うのに電話も出やがらない!(◎_◎;)
もうね、私なんかこれをずーっと数ヶ月やり続けているのに、たった数日で逃げ出すとは何事だ!!と私は怒りが収まらないが、音楽監督としてはちゃんと仕事は完結しなければならないので、煮湯を飲まされてるような気持ちで(飲んだことないから知らんが)最後まで仕事をやり遂げた・・・(涙)
そして誰も想像もしなかった事態となった・・・この映画が中国映画史上稀に見るほどの大ヒットとなったのだ!(◎_◎;)
ポスターにはでかでかと私の名前と彼の名前が書かれている・・・
それからである、彼の大進撃が始まったのは・・・
彼は「この映画の音楽は全部自分が作った」かのような触れ込みで映画音楽家として大成功し、若い音楽家を何人も雇って、自分の名前で仕事を取って来ては彼らにやらせて、まるで「音楽工場」のように仕事を量産して大金を稼いだ・・・
数年後彼と再会した。
誰かと飯を食ってる時に彼も呼ばれたんだったと記憶しているが、彼はブランド物の高そうな服に身を包み、見るからに高価な装飾品を身に纏っていた。
その身なりにカチンと来たが、彼はと言うと、やはり私に対して負い目があるのだろう、それはそれは平身低頭な態度で私に接する・・・
それがまた卑屈に感じてカチンと来るのだが、中国では人と喧嘩してはろくなことがないので煮湯を飲まされる思いで(飲んだことないから知らんけど)我慢した。
それから大音楽家になった彼の仕事も呼ばれてやったりするが、今だに彼の私に対する態度はそんな感じである・・・
そんなこんなで十数年、ここに来て「この映画のサウンドトラック盤を出さないか」という話が来た。
こんな大ヒットした映画のサントラが今まで出てなかったのには理由がある。
今でこそ中国の権利関係には日本なんかより厳しいが、昔は昔である。
香港の会社なのでそれでもちゃんとしようと思ったのか、「契約書にサインしてくれ」と言うが、あいにくその日は私は北京にいなかった。
会社は困って院子にいた嫁に「じゃあ貴女でいいからサインして下さい」ということで嫁がサインした!(◎_◎;)
というわけで私はどんな契約書だったのかも知らないというのが現実である(笑)。
こんなものが有効なのかどうかはわからないが、エンディングテーマを作って歌ったラッパーが「この曲を発売したいんだけどいいですか?」と連絡して来た。
「いいも悪いもお前が作ったんだから俺は別に意見はないけど、映画会社が権利を主張して訴訟になるかも知れないよ」
と警告はしておいたが、
「いいんです。訴訟になれば話題になってますますこの曲が売れますから」
と言うので「さすが中国(笑)」と感心した記憶がある。
そんなこんなで、この挿入歌を私がプロデュースしたデビューアルバムに入れようという布衣にも同じこと「もし訴訟になったら話題になってアルバムが売れるから入れちゃえ入れちゃえ(笑)」とこの曲のフルバージョンを作って入れて、今では彼らの一番のヒット曲になっている。
それによって私と作詞をしたボーカルのLaoWuは当時著作権がまだ確立してなかった中国では数十億円「儲け損ねた」ということになるのだが、まあそれも笑い話として笑い飛ばしている(笑)。
実は数年前から「サントラ出しませんか?」という声はあったのだが、そのマルチがもうどこにあるやらわからない(>_<)
権利関係もクリアではないのでぶち捨ててたのだが、ここに来てその音源が見つかった!(◎_◎;)
「布衣がこの歌を歌ってて誰も何も言って来ないんだから権利関係は大丈夫でしょう」
と布衣のマネージャー・・・
そもそもどんな契約書だったのかも見たことないのだから、私からは何も言えることはない。
発売元がその事情を知った上で発売したいんだったら「じゃあいいですよ」としか言いようがないので、その制作が始まった・・・
何故「制作」しなければならないかと言うと、実はこの映画音楽にはたくさんの中国民族楽器が使われている。
これは私から監督への助言で、
「重慶の土着のストーリーなんだから民族楽器を多用しよう!!その方が国際的に評価される映画になるから・・・中国人音楽家だと民族楽器に対して固定概念があるから逆に使いにくいけど、私は中国の民族楽器を一番理解している外国人音楽家。任せなさい!!誰にも出来ないような素晴らしい音楽をつけてあげるから」
ということで多用したわけだが、これがまんまと成功して、今だに
「あの映画の音楽は他とは全く違う」
と評価が高い・・・
ところが、効果音的に1秒だけ琵琶とか、そんなものがたくさん並べられてもサントラ盤にはならないので、そんな短い曲(?)は繋ぎ合わせて一曲にしてしまえ!!と思い立ったが最後・・・こうして今、自分で自分の首を絞めているというわけだ(笑)
まあ時間のある時にちまちまと作業して、琵琶は琵琶曲、ギターはギター曲ということで何とか「曲」にして納めた。
ところが発売元からこんなメッセージが来た・・・
「冒頭のピアノ曲は入ってないんですか?」
ピアノ曲は原芸(YuanYi)が作ったものなので私が勝手に使うわけにはいかない。
それに、個人的にはこれを聞いた途端に私は嫌な気分になるのだ(>_<)
そもそも私はキーボードを弾けないので、彼のように画面を見ながら「ちょちょいと」ピアノを弾いて「一瞬で完成」というわけにはいかない。
画面を見ながらテンポを打ち込んで、それに合わせてちまちまと音楽を打ち込み作業をしなければならないので彼の数倍時間がかかるのだ・・・
それを本当に「ちょちょい」と数時間だけやって、それでオイシイ所だけ全部持って行った彼が憎たらしい・・・
私はその後、この映画の大ヒットを受けて、私が受けた安い値段まで有名になってしまったので、同じような「タダ同然」の値段で何本か映画音楽を受けて、数ヶ月同じ格好で・・・と言うのも、日本から院子に遊びに来た友人が、朝私の仕事してる姿を見ながら街に出かけて、夜になって帰って来た時に「ファンキーさん、全く同じ格好でずーっと仕事してたんですか!(◎_◎;)」ということから「同じ格好」と言うのだが、それをひとつの作品で数ヶ月続けるわけだから、そのうち嫌になってもう映画音楽はやらなくなった・・・
そんな私に比べて、原芸(YuanYi)と来たら「上手いことやりやがって!!」・・・そう、私が彼に対する嫌悪感は、上手くやれなかった自分の「嫉妬心」なんだなと最近わかって来た。
今更ではあるが、エンディングクレジットの原芸(YuanYi)は、ポスターとは違って「音楽編集」になっている・・・
監督の私に対する「誠意」が今更ながら伝わって来た・・・(いや彼は一日で逃げたから編集もやってないが・・・笑)
もう60歳も過ぎて、今さら若い衆に嫉妬してどうする・・・
というわけで、映画に入っている全ての音楽を全部洗い出して表にする・・・
50数曲作った中で、彼が作ったのはほんの数曲・・・まあまた面白くない感情は湧き出て来るものの、映画を全部通して見ると、彼の数曲は「私には出来ない感性」が確かにある!!
例えば喧嘩をする場面、そこに私はロックなど暴力的な音楽を当てていたが、彼はそこに例えばピアノとバイオリンを使って(ホント簡単で腹が立つ笑)悲しい音楽を当てて来る・・・
確かに「喧嘩をしなければならない状況は悲しい」のである・・・
私は私でこだわりがあり、物語のキーとなる「宝石」が出て来る所には琵琶の音色、悪徳不動産屋はエレキギター、重慶の田舎泥棒にはバンドのサウンド、香港の泥棒には電子系と、コンセプトに基づいて音楽を当てているが、彼はピアノとバイオリンでそのコンセプトをぶち壊したことになる・・・
ところが効果は大きい・・・私はあまりにもそのコンセプトに縛られ過ぎて、もういくつかの場面にはそのコンセプトで音楽は当てられなくなってしまったのだ・・・
「Funky、映画音楽で一番何が大切か教えてやろう・・・それは"气氛(QiFen)"それが映画音楽の全てだよ!!」
監督が私にそう言った・・・結果原芸(YuanYi)が付けた音楽は「正しかった」というわけである・・・(>_<)
いや〜それにしてもこの映画音楽はよく出来ている・・・(感涙)
原芸(YuanYi)が付けた部分を除いて、知る人しか知ることが出来ないが(笑)、各楽器によって登場人物を表現しているコンセプトも素晴らしい!!
作品が売れるということはやはりそんなことなのだ・・・
人知れず「思い入れ」がその作品を上に押し上げている・・・
そんな感想を改めて感じた・・・
主役の郭涛(GuoTao)が私に言った。
「主役の私も音楽の貴方も何の賞も貰えなかったけど、貴方の音楽がなければこの映画は絶対に成功してなかった!!」
かく言う彼は、無名だった役者が中国では知らない人はいないほどの大俳優になった。
私だけが「上手くやれずに」今だにこんな感じである・・・
でもそれでいいのだと思う。
私はこの若き監督、寧浩(NingHao)のために数ヶ月の時間を費やして、自分の「思い入れ」をいっぱい詰め込んでこれらの音楽を作った。
それによって寧浩(NingHao)は有名監督になり、主役の郭涛(GuoTao)も大俳優になり、ちょちょいと数曲だけやって逃げた(笑)原芸(YuanYi)も大音楽家になった。
そしてみんなが私に感謝している・・・
私は「ドラマー」なのだ!!
コンテストに出ても賞など取ったことはないが、誰もが一目置く「優秀な」ドラマーである!!
いつも若い衆にこんなことを言っているではないか!!
「下手なドラマーは"ドラムが下手くそ"だと評価される。いいドラマーは"いいバンドだね"と評価される。ドラム人生とはそんなもんだよ・・・」
十数年ぶりにじっくりと全て見させて頂いたこの映画・・・本当に「いい映画」である!!
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2021年4月 5日
幸せな監視社会?
「倭僑のススメ」というタイトルで講演会をして廻っていたことがある。
中国人は長い戦乱の歴史の中で、「地縁、血縁、金」しか信じないと言われている。
だから「自分の国が住みにくい」と思ったら、国境を越えて新天地を目指す。
そしてよその国で、その国の言葉を学び、文化を学び、そこを新天地として「華僑」となる。
陸路で国境を越えられる中国と違って、四方を海で囲まれた島国である日本ではなかなかそれをしない。
「ひょっとしてこの国は自分にとっては住みにくいのかも・・・」
と思っても、皆さんは我慢してそこに「合わす」しかないと思っていたのではありませんか?
「この国は自分にとっては住みにくい」
この言葉を発する時、講演台でいつも私は背中に冷たいものが流れるのを感じていた。
「こんな素晴らしい国は他にないじゃないか!!何を言ってるんだ!!」
そんな「同調圧力」を、受けてもないのに想像して勝手に背筋が寒くなるのである。
実際私は、日本の「芸能界」、大手プロダクションのシステムの中で、いつも「住みにくい」と強く感じていた。
日本ではいつも「変わり者」と言われ、いつも輪の中から弾き出されては疎外感を感じていた。
かと言って「合わす」ことは苦手だ、どうしよう・・・
ところが飛び出してみたら、中国というところはこんな自分をそのまま受け入れてくれる、私にとっては素晴らしいところだった。
世界は広い!!今のままの自分そのままで生きてゆける世界がどこかにきっとある!!
日本の若者よ!!どんどん外に出て行って「倭僑」となろう!!
というのが講演の主な内容である。
ちなみにこの講演はこんな言葉でオチをつける。
中国人なら「華僑」、日本人なら「倭僑」、
じゃあフランス人なら「仏教」?
おあとがよろしいようで・・・
と、笑い話はこのぐらいにしといて、その頃から比べて世の中は大きく変わっている。
日本人は国が長く平定されたことがある歴史のためなのか、
「法律はお上が自分を守ってくれる」
という感覚が今でも根強くあると思う。
ところが中国人は逆に、
「法律なんか上が下を搾取するためのものだ」
と思っているところがあるように思える。
だから
「見つからなければ法律など破っても構わない」
と思ってたりする。
中国人が日本に来て、夜中の赤信号で車も来てないのに渡らずにずーっと待っている日本人を見て笑ってこう言った。
「意味ないでしょ?(笑)」
確かにここで信号を渡ったところで危険でもなければ誰にも迷惑もかけない。
しかし、私もついそうしてしまうのだが、日本人は何故だかつい赤信号で止まってしまうのだ。
中国人なら渡る・・・それのどこが悪いのだ?・・・
そんなことを言ってたのも今は昔・・・
今では、車を運転している全ての中国人は、真夜中の赤信号でも必ず止まる!!
誰も見てなくても、他に車が来てなくても今は必ず止まる!!
何故か?・・・それは国じゅうの至る所に設置されている監視カメラにある。
民主国家の日本では、もし防犯カメラの映像で罰金を請求されても、不服なら裁判で争うことになるだろうが、中国では「いやがおうなし」に罰金なのである。
今私は中国の北の外れにある地方都市「寧夏回族自治区銀川市」にいるが、そんな田舎街でも至る所にこんな監視カメラがある。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
日本で言うと電柱(もうないか?)ごとに全て監視カメラが設置されているような状態である。
噂によると、こんなに数多くの監視カメラの設置、それを全てチェックして違反者を特定、そんな人件費も含めて莫大な費用がかかっているだろうけど、そんなもの、これだけ多くの人民から片っ端に罰金を取れば、あっと言う間にペイしてしまうよ、と・・・
この罰金に関しては、もう10年近く前になるが、私は駐車違反で取られたことがある。
その時には、違反が発覚するのは「車検」の時、その車の持ち主が車検を受けようとすると、何月何日このナンバーがどこで違反したかがずらりと出て来た。
「自分がやったんでなければやった奴連れて来て払わせろ」
ということである。
拒否すればその車はもう二度と乗れない。
それだけである・・・
IT大国となった今の中国では、それが全部デジタル化されている。
違反をすると車のナンバーに紐付けされている電話番号にSMSメッセージで通知が来る。
アプリを入れておくと、そのアプリに撮られた写真も送られて来て、支払いもそのアプリ内でデジタルマネーで支払うことが出来る。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
その昔は誰も安全ベルトなどしてなかった(ように見えた)中国であるが、今では私が助手席に乗っても必ず「しろ」と言われる。
交差点ごとの監視カメラで撮られた瞬間に、それはその運転手の罰金となるのだから運転手も気を遣う。
ちなみに飲酒運転は捕まれば「いやがおうなし」に「刑務所」である。
おかげで飲酒運転や交通違反は劇的に減った!!
そしてそれに対する人民の不満は(私の周りでは)「皆無」である。
要は「違反しなければ良い」のである。
交通事故は減るし、別に悪いことは何もない。
「うっかり違反」はよく起こるが、「運が悪かった」もしくは「しゃーないなぁ〜」ということで罰金払ってすぐに忘れる。
「こんなシステムはクソだ!!」とか反旗を翻すような人はいない。
もしいたとしても「国家安全法」でパクられておしまいである。
さて、そんな国で暮らしてもう30年になる。
数年前、空港でこんな面白い事件があった。
コロナ前の当時、私は日本や東南アジア諸国から頻繁に中国に出入りしていた。
当時北京には国際線ターミナルが二つあり、多くの国際便はT3から発着していたが、古いT2のターミナルから発着してる便もあり、その日に私が乗る便はT2の便だった。
T2は何故かチェックインカウンターの外に荷物検査場があり、荷物検査をしてから中に入るのであるが、荷物を流した瞬間に係員が私に声をかけた。
「あんた、この数日で3回ここに来てるね?何やってんの?」
これには驚いた。
言われてからパスポートを提出したので、パスポート情報を見て係員がそう言ったわけではない。
荷物は機械に通されたが、荷物を見て渡航情報がわかるわけではないだろうから、残る可能性としては「顔認証」である。
金髪の長髪という目立つ出立ちなので、係員がたまたま私のルックスを覚えていたという可能性もあるが、それにしてもおかしいことは、後に自身の渡航歴を調べてみると、この近辺では確かに3回出入国をしているが、前回入国したのは確かにこのT2であったのだが、その前の出国はT3であった。
ということは、T2の係員がこのT3の私の渡航歴を知っている?!(◎_◎;)
別に密輸とか悪いことをしているわけでもないので、胸を張ってパスポートを出してこう言った。
「VISAはちゃんとあるよ」
するとその係員はすかさずこう言った。
「それは知ってる」
知ってるのか?!(◎_◎;)
結局その係員は荷物は調べなかった。
ただパスポートをペラペラとめくってそれで終わり。
「ファンキーさん、絶対に監視対象になってますよ」
友人は皆笑ってそう言うが、政治に全く関係ない私なんかを監視対象にしてどうしようと言うのだ(笑)
いや、北朝鮮に渡航した時には、携帯が繋がりにくくなったりネットが遅くなったりとか、まあ被害妄想かも知れないがそんなことはあったが、中国から監視対象にされる覚えが私にはない・・・
まあ一番考えやすいのは「監視カメラによる顔認証」である。
こんな怪しいルックスをしているので、空港に入った瞬間にカメラでチェックされ、そのチェックした機関が渡航歴を調べてこの空港の係員に連絡を入れ、
「そちらに怪しいのが入るから一応職務質問して」
というのが一番考えやすいのではないか・・・
「顔認証」と言えば、面白い話がある。
張学友(ジャッキー・チュン)という香港の大歌手がいる。
中国全土どこでコンサートを開いても、チケット入手が困難な程の歌手である。
その入場でのセキュリティーチェックの時、とある指名手配中の犯罪者が顔認証で捕まった!(◎_◎;)
これだけ監視カメラがあっても、街角では顔を隠して通ったりも出来るが、コンサート会場に入るためにはどうしても顔認証を通らねばならない。
危険を冒してまでそんなにこのコンサートが見たかったのか!(笑)
全くもってここ中国は逃亡犯にとっては非常に住みにくい国である。
移動も宿泊もID提出が義務付けられてない日本とは大違いで(というか日本には必ず持たねばならないIDがなく、運転免許証とかでそれを代用している)、中国では列車や飛行機に乗るにも、ホテルに泊まるにもIDの提出が必須で、逃亡犯だとその時点で捕まってしまうのだ。
我々在住外国人は、その「ID」に当たるものが「パスポート」である。
これを紛失や盗難にあった時にはそれはそれは酷い目に会う・・・
パスポート紛失!!その初日
パスポート紛失!!その2日目
パスポート紛失!!その2日目の続き
パスポート紛失!!その3日目
この時点では、湖南省の警察と北京とのデータ連携はまだされてなかったようだが、これだけデジタル化が進んだ現在でも、地方都市と中央とのデータ連携はなされているのかなという事件が起こったのでその話をしたいと思う。
まず今回の中国入国まで話を戻そう・・・
一年以上中国に来てないうちにデジタル化はもっと進んでいるようで、まず外国人だけでなく全ての居住者はこの「行程卡」というアプリがないと通行が出来ない。
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
日本だと「じゃあスマホが使えない老人とかどうするの?」という意見が出て来そうだが、中国ではとりあえずそういうことは考えない。
鄧小平さんが
「豊かになれる者から豊かになれ!!黒い猫でも白い猫でも鼠を獲る猫がいい猫なのだ」
とおっしゃった通りにこの国が進んでいるのだから・・・
中国に着いて、上海での2週間の隔離期間が終わるとこのアプリが緑色になる。
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
これでどこでも通行出来るということで、隔離ホテルを出て次の自主隔離場所「寧夏回族自治区銀川」へ向かう・・・
ちなみにこのホテルを出てどこへ向かうかというのは、こういう書面が回って来て便名までちゃんと記入して提出してある。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
ついでに隔離が終わったという証明書や、陰性証明書も携帯しておく。
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
これらの情報は既に私のデータベースに入力されているだろうが、もしもの時のために持ち歩く。
まさかそのもしもの時が来るとは夢にも思わなかったのだが・・・(笑)
さて上海の空港に着いて、「行程卡」で表示される緑色のマークを提示すれば空港にはすぐに入れ、銀川までの飛行機には無事に乗れた。
到着したら、上海と同様にバスにでも乗せられるのだろうと思ったら誰にも呼び止められることもなく、また「行程卡」の緑色を見せて外に出る。
外では万が一のために迎えに来てた、今中国で一緒にバンドをやってる布衣楽隊のメンバー、彼らの車でそのまま自主隔離の場所へ向かう・・・
なぜ自宅隔離が、住居のある北京ではなく遠く離れたここ寧夏回族自治区になるのかと言うと、それには二つの理由がある。
ひとつはこの時期北京では中国共産党の一番大切な行事「全人代(全国人民代表大会)」が開かれていて、そのため北京に入るためのハードルがとても上がっていて、外国からの帰国者や外国人は入国後3週間経ってないと入れないことがひとつ。
あともうひとつは、北京の登録先住居(住民票を置いてある住所のようなもの)は、VISAを発給してくれている会社の社長の住居となっている。
ここにも住めるのだが、仕事場として順義区にも院子(中国伝統的長屋式住居)も借りていて、どちらも同居人がいるので隔離には向かない。
その同居人も一緒に隔離せねばならなくなるからだ。
ところがここ寧夏回族自治区銀川にはバンドが用意してくれた部屋があり、そこは独り住まいの完全に独立した部屋なので、ここで自主隔離をということになったのだ。
迎えに来たバンドのマネージャーが調べて来たところによると、自宅隔離の最初1週間は、この住居の社区の長とやらの監督の下、一歩もこの部屋から出ずに隔離。
その後の1週間は、社区の長の判断で人混みじゃなければ外出してもよいそうだ。
ところがその社区の長とやらからは何も連絡がない。
結局この2週間全く連絡がなかったので、隔離最終日には自発的に病院に行ってPCR検査を受けておく・・・
中国ってなんでこんなに情報が交錯するんかなぁ〜(笑) 4週間隔離は今日まで、結局社区の長とやらからは連絡なし、しゃーないので明日北京に帰るために「自主的に」PCR検査!! 証明書は6時間後にもらえると言うので朝に予定してたら「携帯に即時送ら...
末吉覚さんの投稿 2021年3月24日水曜日
自主的にこれを行ったのは、もし北京に帰ってから陰性証明の提示を求められたりして何か問題が起きたら困るからである。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
銀川の空港でも「行程卡」の緑色を見せれば問題なく飛行機に乗れた。
北京に着いてからはVISAの更新という大きなミッションが待ち構えていたのだが、そのためにこの日にやらなければならないことはふたつ。
ひとつは住宿証明の取得、もうひとつは病院を予約して健康診断を受けることである。
実はこの病院の予約では色々と手間取った。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
このアプリによって予約を行うのだが、選択肢が多岐に渡り、間違えて別の窓口に入ってしまったりすると、外国人が予約出来るフォームがなかったりして右往左往する。
VISAの仲介人に色々聞いてやっと予約が終わり、検査場に着いてみるとそこで断られる!(◎_◎;)
聞けば、私は2月25日の飛行機に乗ってカンボジアから入国し、飛行機が遅れたので着いたのは2月26日になったばかりの真夜中。
隔離施設では、厳密に着いた時刻から24時間×14日間で、2月12日の同時刻に隔離が解除されている。
同様に銀川でも24時間×14日間で計算して、VISAの仲介人の指示により、隔離が明けた日時に予約を入れているのであったが、この検査場ではそのようには数えないようだ。
このように時間計算するとすれば、2月26日の夜中の1時に入国した人も、23時に入国した人も、隔離明けは3月25日なのであるが、23時に入国した人にその入国時間より早く検査に来られても困る。
だから時間では計算せずに日数、つまり26日に入国した人は3月25日いっぱいは隔離中と計算するようだ。
そんなことはアプリで予約を取る時に弾いてくれれば良いものを、きっとそのアプリと私の入国日時や隔離状況とは紐付けされていないのだ。
中国のITと個人情報管理が、例えSF映画のように完璧に情報管理されていたとしても、それを閲覧する権利を持つ者と持たない者があれば、当然持たない者からは見えない情報が存在してしまう。
それによって私はまた大きく振り回されることになるのだ・・・
さてこの日のもうひとつの大きなミッション!!
VISAの更新に必要な住宿証明を取りに行く・・・
私の居住地の大家に当たる、私のVISA発給会社の重役、LaoLuanを訪ねてゆき、まずそのマンションの管理会社に行って「居住証明」を取る。
これはご覧のようにまるで手書きである。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
これは単なる「うちのマンションには確かにこの人が住んでますよ」という証明だけで、別にここから私本人のデータベースに書き込みをするわけではない。
この書類を最寄りの警察署に持って行って、そこで単に「住宿証明」を取るためのものである。
その警察署で私のデータベースに書き込めばそれでこと足りる・・・
ところが今度はその警察署に入れない!(◎_◎;)
末吉覚さんの投稿 2021年3月25日木曜日
この「北京健康宝」というアプリは、スキャンしても外国人には対応しておらず、入力が出来ないのだ(涙)
末吉覚さんの投稿 2021年3月25日木曜日
(名前の入力が中国人名しか入力出来ず、中国人のID「身份证」にしか対応しておらず、外国人のパスポート「护照」を選択できない)
後にわかることだが、このアプリには外国人用の「Health Kit」というアプリがあり、それで入力してそれを使うようにしなければならないのだ。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
ところが入場を拒む保安員にはそんなこと知らされてないので、アプリで緑色を表示出来なければ一律「通さない」。
例え個人情報を吸い上げても、その大元のデータベースに全ての人間がアクセス出来るようにするわけにはいかないので、このように末端の人間には情報を知らせず、ただ「緑色かどうか」だけで判断出来るようなシステムにしているのだ。
例え誰かが赤色が出て「どうしてなの?」と言われても「知らない」と言うしかない。
「私は緑色しか通すなと言われている。それが仕事だ!!」
というわけなのであろう。
どっちにしろ、このアプリの外国人用アプリがあることを自分で見つけられない外国人は、この国ではショッピングモールにも大きなレストランにも、人の集まるところにはどこにも入れないということになる。
前にも書いた「じゃあスマホが使えない老人はどうなるの?」と同じ考え方である。
「出来なければ生きてゆけない」
鼠を取る猫にならねば生きてゆけないのがこの国なのである・・・
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
色々手続きを終えて院子に帰った。
そしたらまずLaoLuanから連絡が来る。
「お前がいつどの便で入国していつ北京に入ったかの情報をすぐに送ってくれ」
聞けば朝陽区の役所から連絡が来たということだ。
ここでも「紐付け」が出来てないのだろう。
次のような表を作ってそれを保存しておく。
2/25 坐FM9405 从柬埔寨金边飞到上海
2/26 凌晨到了马上开始隔离2星期
3/12 坐G58277 飞到银川在家里隔离2星期
隔离地址:银川市西夏区文萃南街和佳居3号楼1207
3/26 坐FM9405到北京
到现在
万が一次にも何かあった時に使えるだろうと思ってたら、結果何度も使う羽目になる(>_<)
想像するに、例えデータを一括管理してたとしても、アクセス権の問題でまだまだ全ての機関で情報を共有されているわけではないのだろう。
数日して今度は一緒に暮らしているエンジニアのFangYanの電話が鳴る。
聞けばこれも彼の実家の通州区の役所で、おそらく前の住居の登録地だったので連絡が来たのだろう。
いいかげん早くデータを更新してもらいたいものだ・・・(笑)
ところが次には今度は私の電話に連絡が来た。
喋っているのは英語である。
下手な英語で対応してたら、今度は電話番号宛にSMSメッセージが来た。
excuse me,I am an offical worker for goverment.can you speak chinese?i want ask you some question
末吉覚さんの投稿 2021年3月27日土曜日
FangYanの言うところでは、これは私の携帯の位置情報により、外国人がこの院子のある村に入ったので担当者から連絡が来たのではということである。
do you have Nucleic Acid Test?
と来るので陰性証明の写メを送った。
末吉覚さんの投稿 2021年3月27日土曜日
こういう時にSMSは写メが送れるので便利である。
「中国語が喋れるか?」
と来たので次からは中国語で、
「パスポート番号を送れ」
というのでパスポート情報を送った。
思えば、パスポート情報も陰性証明もFangYan経由でこの村の社区には送り付けてあるのだが、きっとまた例によって部署が違ったりするのだろう・・・
情報を共有してさえ貰えばこのような手間はかからないのだが、やはりその辺もアクセス権の問題があるのでまだ難しいのかも知れない・・・
「近くに中国人がいるか?」
と言うのでFangYanに電話を代わって、私の中国語レベルではわからないような内容を詰めているのだろう、全てが終わって電話を切った。
末吉覚さんの投稿 2021年3月27日土曜日
「彼女にお前の電話番号を伝えとこうか?」
とFangYanに聞くも、
「その必要はないだろう」
ということでほっといたら、驚くべきことに今度はFangYanの電話に直接かかって来た。
電話番号を教えてないのに、である!(◎_◎;)
まあ調べればわかるのだろう、私がどこで誰と暮らしていて、その電話番号はどれだとか・・・
最初から調べて欲しいのだが・・・(>_<)
さて、隔離も終わったので買い物とかに出てみる。
ちょっと前までは、「交通カード」にお金を入金してそれをバスの入り口でかざして乗る、という日本の「Suica」と同じようなシステムだったが、今では携帯のアプリで乗り降りが出来る。
VISAのための健康診断アゲイン!! バスから地下鉄に乗り換えて全部で2時間の行程・・・八王子より遠い(>_<) でも料金は10分の1ほど、100円ちょいかな、携帯の同じアプリでスキャンするだけでバスも地下鉄もキャッシュレス!!まあいつどこに行ったかは政府に筒抜けやけど(笑)
末吉覚さんの投稿 2021年3月28日日曜日
そしてショッピングモールに入る時は「Health Kit」のアプリをかざし、実際に買い物をして支払う時にはWeChatというアプリでキャッシュレス決済をする。
当然ながらその情報は政府に筒抜けになる。
中国には会社に対して「国が要請すれば全ての情報を提供しなければならない」という法律があり、企業が勝手に「個人情報を保護」とかするわけにはいかないのである。
ここでちょっと不思議に思う自分の感情がある。
私は別に自分の情報が中国政府に筒抜けになったところで構わないと思っている。
別に政治に関することもやってなければ後めたいこともやっていないから、別に何を閲覧したところでどうでもいいと思っている。
ところが日本でそれをやられたらイヤだ!!
日本のホテルに宿泊する時に宿帳に住所を書かされる。
あれがイヤである!!
「なんで俺があんたに住所教えないかんの?ストーカーでもすんの?」
そう詰め寄ってスタッフを困らせたことがある。
日本には「個人情報取扱法」とやらがあるのだから、ちゃんと使い道を提示して誓約書にサインしろ!!ぐらいに思う。
大体の場合「規則ですから」の一点張りで、住所を書かせる理由を説明出来るホテルスタッフはいない。
「自由」で「民主」と言われているこの国でそんなことをされるから腹が立つのである。
中国でされても全く腹が立たない。
「中国はそんな国やからなぁ・・・しゃーないなぁ〜」
ぐらいにしか思わないのである。
特に今の時代では、コロナの蔓延を防ぐという点では中国のやり方の方が結果を出している。
ひとつの社区から感染者が出たら、社区ごとロックダウンする。
「ある日仕事に行こうと思ったら社区から出られない」
ということが平気で起こるのだ。
日本だったら大問題になるだろう、でもここ中国ではそれが「普通」で、見事コロナを封じ込め、世界でも有数の経済発展が上向きの国となっている・・・
さて数日北京に滞在して、今度は仕事のためにもう一度寧夏回族自治区に行かねばならないのだが、そこでまたおかしな問題が起きた。
ちなみにVISAを更新している間はパスポートを預けなければならない。
そうすればこの国では移動も宿泊も出来なくなるのでこのような書類をくれる。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
このペラペラの紙切れが、この国内ではパスポートと全く同じ効力を発揮する。
ミソなのは右上にあるバーコードであろう。
これをスキャンすれば私のパスポート情報にアクセス出来るということに違いない。
飛行場では「行程卡」と「Health Kit」のふたつのアプリを使って中に入り、チェックインカウンターではパスポートの代わりにこの書類を提示して無事に飛行機に乗る。
ところが銀川に着いても誰も飛行機から降りない!(◎_◎;)
客室乗務員が一番後ろに座っている私のところに来て、私だけを先に降ろそうとするのだ・・・
専用バスに乗せられたら、私の他にひと組の中国人カップル。
どうやらこの3人だけ別室に連れて行かれるようだ・・・
連れて行かれたところは、普段はVIPサービスルームとして使われているのだろう、今は隔離部屋のようである。
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
「境外回宁人员登记处」つまり「境外から寧夏に帰った人が登記する処」と書かれている・・・
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
防護服を着た担当者が私に色んな質問をする。
その答えは先日作ったこの表の中に全部あるのでそれを見せる。
2/25 坐FM9405 从柬埔寨金边飞到上海
2/26 凌晨到了马上开始隔离2星期
3/12 坐G58277 飞到银川在家里隔离2星期
隔离地址:银川市西夏区文萃南街和佳居3号楼1207
3/26 坐FM9405到北京
到现在
陰性証明とかも一緒に見せたのだが、思えばこの表に隔離終了証明や陰性証明を入れとけば完璧なのでは?・・・ってか情報共有しとけよ!!
思うに、私はパスポートを持ってないので入国日がわからない。
代わりの書類のバーコードには情報があるだろうが、空港のチェックインカウンターではそれをスキャン出来ない。
とりあえず「入国日がわからない外国人を乗せたから」と連絡を回す。
受け取った機関は、
「そう言えば自主隔離で銀川に来ると言ってた外国人がいたが・・・」
というわけでこんなことになったのではあるまいか・・・
二人の担当者が私を住居まで送ると言う・・・
受託手荷物がこの建物の入り口にぽんと置かれていた。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
私はそのまま空港施設は通らずにこの建物から隔離(終了)場所へ送られるのだ。
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
隔離(終了)場所に着いたら社区の長とやらが呼び出されてやって来る。
社区の長とやらは、私の到着を待っていたバンドメンバーやマネージャーから「既に隔離は終わっている」ことを伝えられ、どうしたらいいのか戸惑っている様子である。
というか、この寧夏回族自治区というのはただでさえ外国人が少ないのだ。
こんなエピソードがある。
布衣楽隊というバンドに加入して全中国をツアーで廻ってる時、この寧夏回族自治区でのライブの時、会場でひとり日本人らしき人がいたので声をかけた。
その人は日本人の駐在員らしく、逆にこんな田舎街のステージの上に日本人がいることにびっくりしていた。
私は彼に聞いた。
「この街に日本人がいたんですねぇ・・・」
そしたら彼はこう答えたのだ。
「はい、16人います」
コロナの前にこんな状況なのでコロナ禍の今となっては果たして何人の外国人が住んでいることやら・・・
そして私のように今の時期に中国に来て、更にこんな片田舎にやって来ようという外国人は皆無なのではあるまいか・・・
社区の長は私から電話番号を聞いて、
「じゃあ何かあったら電話するわ」
と言って去って行った。
心なしかちょっと「ほっとした」という表情も読み取れる。
寧夏では滅多にない外国人の隔離の責任者、そんな重荷を背負わされてしまったがどうやら隔離は終わっているようだ・・・
「このままそっとしとけば何の問題もないのではなかろうか・・・」
お互いそんな風に感じている(笑)
私を送り届けた防護服の二人のスタッフも、もう次の担当者に引き継いだので安心して帰って行った。
私はと言うと、隔離も終わったし、何もなければ社区の長に迷惑をかけることもないのでそのままリハーサルに向かった。
何とか社区まで着いて、監視担当者(笑)が引き継がれて無事無罪放免〜テレビ番組収録のリハーサルへ〜 テレビ局の要望で、どんな小さな犯罪でも犯した人は出られないということで!(◎_◎;)先日飲酒運転をしたダーウェイの代わりのベーシスト(笑)私た...
末吉覚さんの投稿 2021年4月1日木曜日
ちなみにここ寧夏回族自治区では、もう1年以上感染者が出ていない。
大きなショッピングモールなどではマスクが必ず必要だが、街でマスクをしてない人もよく見る。
小さな商店やレストランでは、バーコードは置いてあるものの、もう誰もスキャンなどしない。
スキャンしようとしても店の人は「いいよ、いいよ」と言って中に入れるのだ。
緩い・・・(笑)
しかし考えてみて欲しい。
コロナ真っ只中で全く感染が抑えられてない日本で、外国から入国した人にはこれだけのことをするだろうか・・・
民主国家、自由の国、日本では、政府が国民に「強制」することは出来ない。
ただ「入国した人は公共交通機関に乗らないで下さいね」と「お願いする」のみである。
私にしたように、国が人件費を払ってまでちゃんと目的地まで送り届けることもない。
アプリや携帯の位置情報で、その人がどんなルートでどこへ行ったかまで把握することもない。
自主隔離にしても、社区の長のような人間に責任を課して、ちゃんと隔離しているかを見届けさせるようなこともしない。
自由を謳歌してコロナがまだ蔓延している日本、監視社会ではあるがコロナを封じ込め、次に行こうとしている中国、どちらが「幸せ」かはその人によって違うかも知れないが、私にはこの国の人がその「監視」に対して不満を持っているようには見えない。
「社会」として「仕方ないこと」なのでやらねばならないと思っているように感じる。
もちろん私たち外国人は、ウィグルや香港などの中国が抱える人権問題から目を逸らしてはいけないと思う。
(そんなことを書くと、ひょっとして中国の労働ビザを剥奪されないかと背筋が寒くなるが)
しかしここで暮らす中国人は、その情報がVPNを使って国外の情報を探さない限り知ることが出来ないということもあり、あまり「関心がない」ように私には見える。
それは前述の「スマホが使えない老人はどうするんだ?」という問題に対して、日本なら「ちゃんと老人にも優しいシステムを作るべきだ」と考えるが、中国人は「自分の周りにそれで困っている老人がいたら自分が教える」・・・
「それでいい」と考えてるように思えて仕方がない。
もちろんそれで困ってる人がいたら助けるだろう。
「上に政策あれば下に対策あり」
中国人は長い歴史の中ずーっとこうやって生きて来たのだ。
中国は広い。こんなに大きな国の全部を変えることなんか出来やしない。
(というより中国は長い歴史の中で民主化されたことがないのだ)
とりあえず自分の周りが幸せになればそれでいい。
全員が、なんて夢物語じゃないか?・・・
ここで冒頭に出たこの言葉をもう一度引用したい。
中国人は長い戦乱の歴史の中で、「地縁、血縁、金」しか信じない。
地縁:ご近所さんや、職場など自分が出向く場所での縁
血縁:血の繋がりのある家族や、親しい友人も「ファミリー」として
金:白猫でも黒猫でも鼠さえ獲ればいい猫である
鄧小平さんは言った。
「豊かになれる者から豊かになりなさい」
そしてこの国はそのまま突き進んで社会が成熟した。
監視カメラ?買い物情報が政府に筒抜け?
それがどうしたの?
俺たちはこれでコロナ禍をくぐり抜け、世界でたった3カ国しか成し得てない、今の時代に経済が上向きに転じた国になってるんだぞ!!
幸せですか?・・・
俺たちは幸せだよ。君たちは幸せかい?
自由と民主を掲げる国でコロナに苦しみながら・・・
「中国社会」が私にそう問いかけてるような気がしてならない・・・
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2020年4月15日
亜州鼓魂を巡る日中のいろんなドラマ
このブログでは結構頻繁に出て来るこのアルバムにまつわる話を、今回はちょっと掘り下げてゆっくり話そうと思います・・・
長くなるけどひとつの「読み物」としてまとめてみました。
本として出版するつもりはないけれども、
最近ではブログにも「投げ銭」と同じシステムで、読み終わって気に入ったらその分の報酬を支払うシステムがあるというので、一応「物書き」の端くれとして、「作品」として初めてそれをやってみようと思います。
もちろん一瞥して無視してくれても構いません。
それでは始めてみましょう、「亜州鼓魂を巡る日中のいろんなドラマ」
調べてみると、このアルバムが日本で発売されたのは1996年の7月19日、
爆風スランプが何をやってたかと調べてみると、その2ヶ月後の9月21日には「旅人よ 〜The Longest Journey」が発売されている・・・
ということは、ちょうどこのアルバムを制作している時に電波少年の猿岩石の応援歌のタイアップが舞い込んで来たということだ。
タイアップを取って来たレコード会社とのミーティングの様子を覚えている・・・
あれはきっと当時の所属事務所であるアミューズの会議室だったであろう、
ひとつの部屋にメンバー全員と、爆風担当のスタッフ、そしてレコード会社のディレクターと宣伝担当なのか、とにかくそのタイアップを取って来た人とが面を合わせる・・・
「電波少年って番組知ってますか?」
そこから話が始まったと記憶している・・・
もちろん私は日本のテレビ番組なんか見ないし、ましてやバラエティー番組など知る由もない。
そんなこともあろうかと、担当者は番組を録画して会議室で私たちに見せた。
若いお笑いの二人組がヒッチハイクをしながらアジアを旅をしている姿があった・・・
「どうですか?」
担当者がみんなに聞いてゆく・・・
「面白いねぇ」とかいう意見が出てたような気がする。
しかし私には全く興味がない・・・
番組が面白いかどうかは今から曲を作ってタイアップ付きで売ってゆくのに全く関係ない。
「番組が売れてるかどうか」以外に意味はないのではないか・・・
それが「ショービジネスの世界」ではないのか・・・
「どうですか?末吉さん」
ひとりだけ何も反応もない私に担当者が聞いて来る・・・
「こんなことは私は自分の人生でやっていますから・・・全く興味がないですね!!」
私は中国にカメラクルーを連れて行ったわけではない。
ロックを探して「殺されるかも知れない」と震えながら地下クラブに行った。
出会ったパンクスに彼の歌を天安門広場で歌って欲しいと言われて、ギター持って広場に行ったものの怖くて怖くて歌えなくて泣いて帰った。
爆風スランプを何とか北京でイベントにねじ込んで、1曲目に煽ったら中止命令が来たけど構わずやり続けたら、銃を持ってる武装警察に別室に監禁された。
全部テレビカメラなんかない。
その時そこにいた人、そして私自身以外は誰も知らないことである。
私はテレビのためにこれをやってるのではない。
私のためにこれをやっているのだ。
私の人生のために・・・
結局タイアップの曲は河合の曲に決まった。
それが「旅人よ 〜The Longest Journey」である。
「選曲会議」というのがある。
次のシングルとかを決める時に、それぞれメンバーが書いた曲を持ち寄って、レコード会社とかとどれにするかを決める会議である。
私はこれが嫌いで・・・っていうかみんな嫌いなんじゃないかな?
持って来た自分の曲は一番いいと思って持って来るのに、
それをあーだこーだと否定されに行くようなもんである。
インターネットなどない時代であるが、
カセットテープを郵送するからそっちで決めて結果だけを教えて欲しいぐらいなもんである(>_<)
この選曲会議の時だったと思うけど、中野がこんなことを言ったのを覚えている。
「河合の曲は売れ線だけど中身がない。
末吉の曲は深いけど大衆的ではない。
お前らその真ん中の曲が書けないのか?(笑)」
どうして覚えているかと言うと、「そうかも知れない」と思ったからである。
その頃・・・いやもうちょっと前の時代かも知れない、
きっと黄家駒が死んでからしばらくしてのライブだったと思うが、
爆風のコンサートを見に来てくれたひとりの友人が、終演後に私にこう言った。
「末ちゃんだけがひとり別のところを見てる」
「出てる音」が違うのだ、とそう言う。
一体私だけがひとりどこを見てたと言うのか・・・
見てるところが違ってて、音にもそれが出てるのだから、
こうしてタイアップで曲を作ろうったって、出来て来る曲の方向性は全く違って来る・・・
実のところ私はこの亜州鼓魂の曲は爆風の選曲会議には出さなかった。
どうせ中国ロックだJazzだ変拍子だなんぞ出したって笑われてボツにされるのがオチである・・・
そう言えば1曲、「R&Rオヤジ」という曲はその前の選曲会議で出したような記憶がある。
当時「チキダッチョ」という言葉がラジオで流行ってて、それを連呼する面白い曲にしようということになったので「冗談じゃない」とばかり曲ごと引き上げたのだ。
「チキダッチョ」にしてたら売れたかも知れない。
でも私は自分が笑えない曲をその後もずーっと演奏し続けてゆく自信がない。
結局「摇滚老头(R&Rオヤジ)」というテーマで自分で詞を書いた。
途中にこんなコーラスが入る。
「摇滚老头站起来吧!!不怕牺牲!!排除万难!!勇敢向前!!昂头冲向未来!」
毛沢東の革命のスローガンである。
それを実際に軍隊のコーラス隊に歌ってもらってるんだから笑える。
25年経った今聞いても、私にはとても「笑える」のである。
「チキダッチョ」がもし大ヒットしてたとしても、25年経った今聞いても果たして笑えるかどうか・・・歴史に「もしも」はないのでそれはわからない・・・
そういえばこのアルバムのミックスダウンの時に、当時の担当マネージャーが陣中見舞いに来てくれた。
その時にちょうどミックスが仕上がり、最初から全曲聞いてみようということで、
部屋を暗くして音量を大きくして、さてA面の1曲目から・・・
そう、このアルバムはまだカセットテープが主流だった中国の流通を考えて、
アナログ盤と同じくA面、B面、そしてA面の5曲はメドレーとして繋がっていて、B面の4曲も繋がっている。
アナログ盤をひっくり返すように、ひと息ついてカセットをひっくり返すように作られているのだ。
A面の最後の曲がこのアルバムのリーディングソングで、李慧珍が歌う「Let Me Be Free」。
この曲が終わってひと息入れて、さてB面を聞こうとした時にマネージャーが「帰る」と言い出した。
「あの女の子の歌の、最後に転調を繰り返すところで涙が出て来て・・・
僕、帰ります!!帰って爆風の新しい活動計画を作らなきゃ・・・
このままだと・・・このままだと末吉さんがどっか行っちゃう(涙)」
そして私はその予想通りどっか行ってしまった。
その「どっか」は中国である。
後に中野が何かのインタビューで爆風活動停止について聞かれた時にこう答えていた。
「中国に入れ込んだ末吉が・・・結果爆風を壊してしまったんです」
その通りだと思う・・・
その後マネージャーは爆風のどんな活動計画を作ったのかは記憶にない。
だが、「旅人よ 〜The Longest Journey」は売れた!!
多くの人はRunnerこそが爆風最大のヒット曲だと思っているが、
実はCDの売上枚数だけで言うとこの曲の方が「売れて」いる・・・
会社のトップである大里会長は、波に乗っている私たちにハッパをかけようと、食事をしながらこんなことを言った。
「お前らこれぐらいで満足してるのか?
桑田はお前らよりもっと金持ちだぞ?俺はもっと金持ちだぞ?
このぐらいの金で満足か?」
確か河合は目をキラキラさせながら「頑張ります!!」と言ってた気がする(笑)
私はぼーっとしながら考えた・・・結論から言うと「満足している」のだ・・・
メンバー全員が都内にマンションを買い、
更には別荘や、もう一軒マンションをという時に、
私は本当に金がなかった・・・
持ち慣れてない金を持って浪費し過ぎたのもあるが、
やはり大部分の金は中国に消えている・・・
結局買ったマンションも安値で売り、
そりゃ金はあるならあった方がいい・・・
でも中国のあの若者たちは命がけで(と当時は思っていた)ロックをやっている。
俺は一体何をやっているんだ・・・
そんな思いがいつもあったから、
このまま「もっと売れて」とか思う考え方が私の中にはなかったのだ。
電波少年はますますヒットし、猿岩石は全国民が知る有名人となり、
「旅人よ 〜The Longest Journey」も大ヒットした。
時間がなかったのはわかる。
中野と河合と二人でインドに行ってこの曲を歌うのもわかる。
それがカップリングとしてCDに入るのもまだわかる・・・
だが、寝耳に水で他所から1枚の8cmシングルCDのことを聞かされた私と和佐田の気持ちはどんなもんだろうか・・・
「爆風スランプ」という自分の「バンド」名義である。
その名義で私と和佐田が全く参加していないこの曲のオーケストラバージョンを、私と和佐田が全く知らないうちにレコーディングして、それを発売しようとしている・・・
レコード会社のディレクターやマネージャーにとっては「あ、しまった!!お二人に伝え忘れてた(>_<)」だけのことであろう・・・
だが私にとってはもうひとつもっと許せないことがあった。
私は亜州鼓魂の中で11分にも及ぶフルオーケストラとの組曲を書いている。
ラス前の「天界への7番目の扉」という曲である。
中国最高のオーケストラとガチで組んで、血が逆流するぐらいの思いでこの曲を録り終えた。
この「旅人よ~ロイヤル フィルハーモニック オーケストラ ヴァージョン」のオーケストラアレンジを引き受けた福田さんから、実は福田さんがこのアレンジをやって、ロンドンで私と同様に血が逆流する思いで演奏した話を聞かされた時の私の気持ちは想像出来るだろうか・・・
今では私はおそらく日本のその辺のアレンジャーよりは多くの曲をオーケストラとレコーディングしている。
X.Y.Z.→Aでもオーケストラを入れたアルバムも2枚作っているが、
その時に橘高が(うちはレコーディングディレクターは橘高がやる)、私の知らないうちに別のアレンジャーにそれを発注してたらX.Y.Z.→Aは今この世に存在しているだろうか・・・
確かにこの時点では私は、オーケストラアレンジャーとしては初めての大波を超えた程度のキャリアかも知れない。
でももしこれがX.Y.Z.→Aだったら橘高は私にどう言うか・・・
「末吉さん、これ、やりますか?それとも他に頼みますか?
もし末吉さんがやると言うなら、僕らはバンドの運命を全て預けますんで死んで来て下さい」
そして私はまた血の涙を流しながら戦うのだ。
愛するバンドのために、愛するメンバーのために、そして愛する「自分の音楽」のために・・・
思い起こせば私が90年に最初に北京に行った時、
地下クラブで黒豹のライブを見て、その後天津体育館で一緒にドラムを叩き、
泣きながら飲んで、「Someday your dreams come true!!」と言う言葉を残して日本に帰った。
当時試験期間の新米ドラマーだった赵明义に変わって、私は日本を捨てて黒豹のドラマーとして中国に残る選択肢もあった。
ところが「こんな国で夢追いかけたってお前ら・・・絶対に叶うわけがない」という思いもあった。
だからこの言葉を贈る時、私は・・・泣いた。
私は結局「ウソ」の言葉を残して日本に帰ったのだ。
当時誰も彼らが後に何十万人のスタジアムを満杯にするバンドになるなど想像だにしていない。
私も夢にも思ってなかったが、そちらの方が「茨の道だから」私は楽な日本の道を選んだわけでもない。
私には日本に「バンド」があるのだ。「仲間」がいるのだ。
その仲間を見捨てることは出来ない。だから日本に帰ったのだ・・・
その時には、その後そのバンドからこのような仕打ちを受けようとは夢にも思っていない・・・
亜州鼓魂は中国で売れた・・・
続いてそのリーディングソングを歌った李慧珍のデビューアルバムをプロデュースし、
それは本当の意味で売れた。
こんな感じ・・・
後に中国のグラミー賞みたいなので作曲賞を頂くこととなる・・・こんなん
「本当の意味」というのはどういうことかと言うと、
当時は中国では海賊版がひどくて、ヘタしたら正規盤を作っている工場で多量の海賊版が作られているような状況だったのだ。
実際に何枚売れたかなどカウント出来ないが、
レコード会社にも、このアルバムを作ってくれた日本のホリプロにもおそらく亜州鼓魂の収入はほとんど入ってないと聞く。
しかし李慧珍の場合は、ド新人の歌手が一世を風靡するようになったのだから事務所としては御の字である。
亜州鼓魂のようなオムニバスだとなかなかそうはいかない。
しかし亜州鼓魂の影響力はデカかった。
それは今でも感じている。
中国では80年代生まれのミュージシャンと仕事をすることが多いが、
新しい人と出会うと必ず「学生の頃このアルバムを聞いてました」と言う。
「知らない人はいない」というぐらいのレベルである。
布衣のボーカルLaoWuは、同じく学生の頃貧乏だったので、このたかだか数元のカセットを買う金がない。
友達と「あれ買いたいんだけど」という話になって、みんなで血を売ってその金で買ったらしい(笑)
どうしてそんなにこのアルバムを買いたかったかと言うと、
当時中国には「ロック」のアルバムは本当に数枚しかなかったのだ。
このアルバムのセールスコピー「中国三大ギタリスト夢の共演」というのは当時のロックファンの購買欲をそそるのに十分であった。
ちなみに中国三大ギタリストというのはみんな私の友人で、
黒豹のギタリスト李彤と唐朝のギタリスト老五、そしてBeyondのギタリストPaulである。
ところが買ってみたら、三大ギタリストの共演は「R&Rオヤジ」だけだし、あとはJazzやら変拍子やらRapやら、当時の中国では聞いたこともないような音楽ばかりである。
今布衣のエンジニアとして一緒にツアーを廻っている海龍は私にこんなことを言った。
「ない金叩いて買っては見たものの、ほとんどの曲は听不懂、全く理解出来ないんだ。
だから毎日毎日何回も何回も聞いた。だから今でも覚えてて歌えるし、ああこれは7拍子だったんだと今ではやっとわかる」
そう、このアルバムはロックのバイブルみたいに中国ではロック好きなら誰もが聞くアルバムになったが、収録されている曲はロックばかりではない。
むしろコンセプトアルバムの最後を飾る2曲はJazzである。
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「ソロアルバムを出したいんですけど・・・」
日本のシステムは世界では珍しく「全ての権利を売り渡して給料をもらう」というシステムなので、私はそのやり方に則って所属事務所にお伺いを立てる。
所属事務所はレコード会社にレコードに関する部分を譲渡するので、当然ながらレコード会社に相談する。
日本最大のレコード会社であるソニーレコードの会議室に、所属事務所のマネージャーとレコード会社の大幹部たちが集まって私を呼んで会議を開く。
「どんなアルバムを作りたいのかね?」
私は胸を張って答えた・・・「Jazzです!!」
一瞬の沈黙・・・そしてレコード会社の幹部はこう聞き返した。
「それが一体何枚売れるのかね?」
「Jazzもコアなファンがいるのでちゃんと作ったら1万枚は売れるでしょう。
5000枚売れたら大ヒットという世界ですから、とりあえず私は1万枚以上を目指したいと思います!!」
幹部たちは顔を見合わせて、そして一斉に大笑いした。
「どうして爆風スランプのメンバーのソロアルバムを50万枚も売れないのにうちが出さなきゃならないのだね?」
大笑いの中、会議は終了・・・
とどのつまり、レコード会社はその数年後に発売されることになる「旅人よ 〜The Longest Journey」のような曲満載のアルバムを作って欲しいのだ。
でもそんな曲なら爆風に書く!!
ソロアルバムなど出す必要は全くないではないか・・・
爆風に持っていっても鼻もかけられないJazzや中国ロック、
でもこれはクオリティーの高い素晴らしい音楽だ、
だから世に出したい!!
これがそもそもの「ソロアルバム」という考え方ではないのか?・・・
聞くところによると、大手プロダクションに所属する有名バンドのマネージメントでは、
メインのメンバー以外のソロアルバムはガス抜きのために出してやったりするが、
決してメインの売り上げを上回らないようにうまく「手を抜く」という話がある・・・
本当か嘘かはわからないが、そりゃメインどころを追い抜いちゃったらメインどころも面白くないし、バンドはうまくいかなくなる可能性はあるわのう・・・
そして自分ひとりの音楽ではどれだけ力不足かを実感し、そしてそのメインどころがいなければ食っていけないと自覚し、そしてバンド円満、事務所もバンドのメインどころだけに気を使ってればいいから万々歳・・・
しかし私はこの枠にはまらなかった。
所属事務所からは商売敵に当たるホリプロとこの亜州鼓魂の発売を決めて来たのだ。
本来ならばご法度なのかも知れない。
日本のレコード会社は事務所と3社契約をして、アーティストには何の権利も残らないようにガチガチに縛る。
でも爆風スランプは中野の大学の友人が社長のプライベート事務所から始めて、いくつか事務所を転々としてるうちにそんな近代的な3社契約など結んだ覚えはないのだ・・・
きっと担当マネージャーには負い目があったのだろう。
「末吉さんにはソロアルバムをちゃんとリリースしてあげることが出来なかったから・・・」
そういう思いからソニーを海面下で説得して、商売敵であるホリプロからのリリースを事実上の黙認として許諾したのだと私は想像している。
通常ならこれで、このアルバムが売れなくて、何の影響もなく終わって、
末吉はやはり中野がいなくちゃダメなんだと思い返し、
心を入れ替えて爆風に専念して・・・
四方八方万々歳である。
ところがこのアルバムは日本では全く売れなかったが、
・・・というか日本語が一切なく、中国語メインで朝鮮語とモンゴル語、
(多民族国家の中国人は後のインタビューで「全部私たちの言語で」と言っていた)
流行りのJ-POPなどかけらもないアルバムがこの国で売れるわけはないが、
中国では売れた!!
・・・というか大きな影響力を持ったという方が正しいか・・・
私はその流れで97年の「日本レコード大賞アジア音楽賞」を受賞した。
これは所属事務所のアミューズにとっては屈辱的なことだったと思う。
何せご本家の爆風スランプでさえレコード大賞とは大きな縁はない。
それがずーっと切り捨てて来たそのいちメンバーが、
よりによって商売敵から出したレコードでこれを受賞する・・・
当然ながら受賞は所属事務所のアミューズではなく、レコードを出したホリプロに与えられる。
一応は所属アーティストなので受賞パーティーにマネージャーも同席するが、
それはきっと「針の上のむしろ」だったのではと想像する・・・
今にして思えば、所属事務所ももっと早くにわかっておくべきだったのだ。
誰の動きでこの爆風スランプがあなたの事務所に移籍して来たんですか?
ある時はほーじんが暴れ、ある時は中野が暴れ、
その度に夜の街を駆け巡り、業界の人間を探しては飲みながら相談し、
睡眠不足でヘロヘロになりながら、ある時は涙で懇願しながら移籍を決めて来た。
アミューズへの移籍の時なんか少々売れてたりしたもんだから泥沼である。
「サザンオールスターズとプライベーツの間に位置するバンド、
出来れば桑田佳祐のケツを叩いて危機感を煽れるようなバンドが欲しかった・・・」
移籍後にこんなエピソードを幹部から聞いたが、
爆風のことを喉から手が出るほど欲しかったアミューズが、その強大な力を使ってうまく移籍をまとめてくれたのだ。
でも幹部は私にこう言った。
「お前は前の事務所の社長にこんなこと言ったんだって?そりゃあいつもショックだよ。それだけは言っちゃいけない」
何のことはない、中野が私に言ってた言葉を私がバンドを代表して言っただけのことだ。
「爆風スランプを愛してるばっかりおっしゃいますけど、十分のお金を払わないのだったらそれに意味はありません。愛情とは即ちお金です」
アミューズは今でも私のことを冷血漢かなんかだと思ってるだろう、
でも誰かがそれをやらなければバンドは終わるのだ。
私は爆風スランプを結成し、コンセプトを作り、ツアーをブッキングし、お金の管理までしていた名実共に爆風スランプの「リーダー」である。
でもデビューしてから一切それを言わなくなった。
みんな中野がリーダーだと思ってる・・・別にそれでいい。
「バンドはひとつの丼飯を4人で食ってるようなもんだ。みんな決して腹一杯にはならない」
これは江川ほーじんが私に言った言葉である。
だからいい。
だってその丼飯もなくなってしまったらそれこそみんな飢え死にしちゃうじゃないか・・・
他のメンバーがいつも私に文句だけ言う。
私だけがひとりで底辺を這いずり回って泥水を啜って悪者になる。
これでいいのだ!!・・・これは赤塚不二夫さんの言葉だが名言だと思う。
私はそれを受けて今、いろんなことに直面した時にこう言う・・・
しゃーないなぁ〜・・・
私の人生もそうである。
これしかなかった・・・だから「しゃーない」のである!!「これでいい」のである!!
WONDERFULなLIFEである!!
しかしそれは、メンバーがみんなそんな私の動きを理解してくれてて初めて成り立つことなのである。
現在、X.Y.Z.→Aでは橘高がプロデューサーとして色んなことを決める。
あいつもほーじんと同じように火の玉のような性格だから、時には敵を作ったりすることもあるかも知れない。
でも世界中の人間があいつの敵になっても、私は一生あいつの味方である。
何があってもあいつはバンドのためにそれをやっている。
だから私は何があってもあいつを・・・命をかけて守る!!
リーダーと言えば面白いことがある。
爆風スランプ時代、あらゆる業界人が中野をリーダーとして扱った。
バカなライター達はいいとしても、ロック界でカリスマ的な評論家である渋谷陽一さんもそのように扱った記事を書いていたのを覚えている。
別にいい、それがバンドにとってよければそれでいいのである。
ところがX.Y.Z.→Aを結成する時に、
「二井原ぁ〜リーダーはお前な!!」
私はこう言い放った。
どうせ、「あのラウドネスのボーカルの新しいバンド」なのである。
取材も二井原が受けるだろうし、どうせみんな二井原がリーダーだと思うんなら最初からリーダーになっとけばよい(笑)
「そんな、俺リーダーなんてやったことないし無理無理!!」
そう言う二井原であったが、
「大丈夫!!細々したことは俺と橘高がやるから、お前は胸張って自分の言葉でバンドを語ってたらそれでええ!!」
ところがヘビーメタル界は違った。
色んな雑誌は私のことを「リーダー」だと書いたのだ。
これは「間違い」なのではあるが、
歌謡界ではメンバーにすら認められなかった私のバンド内での動きを、このヘビーメタル界ではみんなちゃんと見てくれてるんだな・・・
そう思ったらとてつもなく嬉しかった。
話が亜州鼓魂からX.Y.Z.→Aにずれた・・・
実は今日この文章を書こうと思ったのは、私の音楽配信サイトにてX.Y.Z.→Aのニューアルバムの情報をアップした時、ちょうどその上に亜州鼓魂のサイトがあったのだ。
配信サイトのスタッフはそれこそ一生懸命このサイトを作ってくれた。
X.Y.Z.→Aの他のアルバムもここで全部DL出来るようにしたいのだが、
このご時世、色んな事情でなかなかサイトが出揃わない。
私もいろんなことにかまけてて、この亜州鼓魂のサイトが出来てたことすら忘れてしまってたのだ。
いくらなんでもこの私がこのアルバムのことを忘れてはいけないのではないか・・・
そう思って今日この文章を書こうと思い立った。
このアルバムは今聞いても名盤である。
もしこのアルバムが下らないアルバムだったら、いくら「中国三大ギタリスト」などと謳ってみても「あれはろくなもんじゃない」などと噂が立っておしまいであっただろう。
海龍が25年経った今でも大事にカセットを持っているということもあり得なかったに違いない。
「売れる音楽はいい音楽で、売れない音楽はろくでもない」という世界で生きて来た私が、日本では絶対に売れない音楽で中国に地盤を築いた。
かと言って「中国で売れよう」と思って作ったアルバムでもない。
その時にやりたかったこんな音楽が、たまたまその激動の時代に合ってただけだっただけのことなのかも知れない。
私が日本のショービジネスの世界で学んだこと、それはまず
「自分の本当にやりたいこと、それは誰も御膳立てしてはくれない。自分の力でやり通さなければならない」
ということ、そして
「自分の音楽を曲げてその国に合わせる必要はない。世界のどこかにそのままの音楽を受け入れてくれるところがきっとある」
ということである。
あの時、友人が爆風スランプのコンサートを見て私に言った言葉、
「末ちゃんだけがひとり別のところを見てる」
あの時に私はどこを見てたのか・・・それがこのドキュメンタリー映像の中にある。
日本がアジアブームに沸いたあの頃、こんなことを私に言った人がいる。
「末吉くん、うまくやったね」
何をうまくやったもんだか・・・(>_<)
そんなにうまく世の中を渡ってゆきたいなら、あんたも中国人と結婚して家庭内言語を中国語で暮らせばいい。
日中の間の子供を作り、中国が自分の子供の祖国のひとつとなる。
そうやって一生この国と離れることなく生きてゆく気があるならあんたもやればいい。
そして日本の全てを失ったとしても作りたいアルバムを作ればよい。
それが認められるかどうかは神のみぞ知る。
認められなくても、一生自分の宝物としてそれを抱いて生きてゆけばそれでいい。
(このアルバムは是非曲順通りに片面片面続けて聞いて下さい)
先日の60歳還暦の誕生日に、リーディングソング「Let Me Be Free」を歌ってくれた李慧珍や、2曲目の「力量」を歌ってくれた栾树などが集まって、このアルバムの曲を中心にコンサートを行った。
6曲目の「24th Birthday」は別のラップ歌詞をつけて「60岁生日的歌」としてみんなで歌った。
マルチで録音したのでコロナが落ち着いたら「亜州鼓魂2019Funky末吉作品集」として中国で発売する予定である。
「作品集」と言ったってもちろん「Runner」も「リゾ・ラバ」も入らない。
全て中国で、中国人アーティストに書いてヒットした曲ばかりである。
日本では絶対に売れない、だけど私の大切な宝物がまた一枚増えることになるだろう・・・
亜州鼓魂を巡る日中のいろんなドラマ・・・了
長らく読んで下さってどうもありがとう御座います。
一応投げ銭のシステムを貼り付けておきます。
初めての試みですが、もしよろしければいくらか投げ銭してみて下されば幸いです。
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2019年6月16日
ある愛の唄プロジェクトまとめ
「ある愛の唄」
1988年春、その1年後に爆風スランプから江川ほーじんが脱退することが決まり、「それまでにヒット曲を生み出せなければバンドを終わる」という状況の中、私は苦しみ抜いて「Runner」を生み出す。
同年のNHK紅白歌合戦にこの曲で出場し、願い通りこの曲はヒットするものの、「ヒット曲が続かねばバンドは一発屋として終わる」と言われ、また苦しみ抜いて「リゾ・ラバ」を生み出す。
その苦しみの果て頭の中でぽんと何かが弾けた私は、1990年5月に初めて中国北京を訪れ、偶然地下クラブで演奏するロックバンドのライブを見ることとなる。
「中国で本物のロックを見つけた!!」
インターネットもeメールも普及していなかった時代、興奮した私は所属事務所にそのレポートをFAXで毎日送りつけるが、所属事務所はそれを無視していた。その後、アジアブームが訪れ、アジアに進出したい所属事務所は私ではなく、別の歌手を北京に行かせて「彼が北京でロックを見つけた」という取材企画を組むこととなる。
爆風スランプがその事務所に移籍した時のトップとのミーティング。議題は末吉の個人活動について。社長は私にはっきりとこう宣言した。
「当社は爆風スランプの末吉くんとビジネスをしたいのであって、末吉くんの個人活動には興味がない」
つまり「お前は爆風スランプにだけ曲を書いとけ。ほかの曲には興味がない」ということ。爆風スランプっぽくない楽曲を生み出しても誰からも必要とされてない状況が続いていた。
「楽曲は生み出した自分の子供と同じである」と考える私は、爆風スランプの楽曲としては必要なしとされてしまった、膨大な数の生み出した楽曲をなんとか形に残そうとして、この「ある愛の唄」というコンセプトアルバムのデモ音源を作成した。
<デモ制作>
そのデモ音源は、当時近所に住んでいた歌手の卵である「キョンマ」こと岸恭子(現眞辺恭子)がアルバムの全編を歌って制作した。しかし私自身その後、日本に失望して中国に渡ってしまうことになり、いつしかこのアルバムのこと自体もすべて忘れ去ってしまっていた。
デモ音源
<コンセプト>
当時サンプラザ中野以外の詞が採用される状況ではなかったなか、このアルバムの詞は全曲私の手によって書かれた。ある女性が生まれる前から伴侶が死ぬ前までを組曲にしたコンセプトアルバムである。
のちに、池川明さんが「おぼえているよ。ママのおなかにいたときのこと」という本を出版されて、私もその本を読むことになるが、そのもっと前から私は「赤ちゃんが自分で母親を選んで生まれてくる」という考えを持っていて、それがこのアルバムのコンセプトの中心となっている。
<天安門にロックが響く>
さらに同時期、私は中国で出会ったロックの話を元に「天安門にロックが響く」という小説を書いた。
この小説が「小説現代」に掲載され文壇デビューとなった。
そしてこの小説が原作となって、漫画「北京の春」が発刊された。
この本は中国語に翻訳され、香港、台湾で発売された。
中国共産党のお膝元である中国大陸ではもちろんご法度であるが、中国人である私の妻(当時)の両親が北京から来日した時に見つかってしまいこっぴどく説教をされた。
「中国では絶対にやってはいけないことがふたつある。ひとつは色ごと、もうひとつは政治批判!!家族の中でそんなことやってる人間が現れたら一族郎党どんな目に遭わされるやらわからない」
と・・・
実は、この小説のモデルとなった中国の女性シンガーと、天安門事件で人民解放軍に殺される恋人との話が、アルバムに収録されている「ママの初恋」という曲になっている。
また、このコンセプトアルバムの主人公は、いくつかの大恋愛を経て最終的に中国に嫁いでゆき安住の地を手に入れるところなど、この小説とリンクされている部分も多い。
<キョンマとの再会>
私は長くこのアルバムのことを忘れていたが、デモですべての楽曲を歌っていたキョンマがこれを大切に保管してくれていた。
これを末吉に渡した時に彼女はこう言った。
「よかった。やっとこのアルバムを末ちゃんにお返しできた。この楽曲たちはあなたの生み出した大切な子供たちです。どの子もとってもいい子です。私もライブで時々歌うけど、聞いた人はみんな涙するんだもの」
私はまるで忘れていたこのアルバムを「初めて」に近い気持ちで聞くことになり、これを聞いて自分でも涙した。
その後、前回のクラウドファンディングでキョンマ自身が「出張ライブ」の出資者となり、このアルバムの楽曲をライブで再現しようということにもなった。
<制作開始>
そしてついにアルバムが仕上がった!!
(こちらで購入できます)
そして2019年5月19日にアルバム全曲再現ライブが行われた。
そして、このアルバムの楽曲は「世界中のより多くの人に歌ってもらいたい」というコンセプトにより、現在のところ「著作権フリー」にしている。
その流れを受けて、歌手の山下直子さんもこのアルバムを歌って下さった。
そして今、世界中の人たちに歌ってもらうべく、キョンマ自ら歌うベトナム語版、
そして中国の著名歌手「李慧珍」が歌う中国語版と、
カンボジアくっくま孤児院の子供たちが歌うクメール語版の制作が始まっている。
ブログ記事「ある愛の唄中国語版」
ブログ記事「ある愛の唄中国語版その後」
ブログ記事「中国の契約書との戦い」
ブログ記事「クメール語バージョン制作開始!!
ブログ記事「支援は人のためにあらず」
ブログ記事「クメール語版「中国のマドンナ」
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2019年6月12日
中国の契約書との戦い
もちろん私が最初に中国に行った時にはこんな感じではなかった。
ロックミュージシャンに機材を買って来てくれと頼まれて、
税関で没収されたらコネを伝ってそれを裏口から出す。
まあ「法律」なんか「上に政策あれば下に対策あり」なのだから何のためにあるのかという話である・・・
まああれから30年近く経ってるのだから中国も近代化して来て当たり前!!
でも「昔は良かった」という部分もあるわけで、このままガチガチで日本みたいに全く融通の効かない国になったら魅力半減という部分もある・・・
大きな山が動いた・・・私が30年近く前に作って、そのまま日本に絶望して中国に渡ってしまったために忘れ去られていたコンセプトアルバム「ある愛の唄」の中国語版がついに実現となったのだ。
日本人の音楽業界人には信じられないことかも知れないが、
今では著作権ビジネスが日本より進んでいるかもという中国のこと、
当然ながら彼女のような大歌手に歌ってもらおうとするならば会社が出て来て「契約書」などの締結が必須である。
彼女は彼女で事務所にこう伝えたと言う・・・
「Funkyは私のことをとても愛しているからお金は要らないと言うけど、そこはそこできちっとしてあげてよね」
ここで言う「愛」は、世間で言う「愛」とはちょっと違う。
非科学的なことを言うなら、彼女は前世でもきっともっと前でもいつも一緒にいたような気がするが、男女としてはいつも一緒にいない・・・
そう、「自分の分身」か「家族」のような感じである。
今世では一緒に「亜州鼓魂」と彼女のデビューアルバムを生み出しただけである。
そのおかげで彼女はスターになり、私はこうして中国での地盤を確固たるものにした。
そして今は・・・時々思い出したように数年に一度食事をしたり、
まあSNSとかで相手が元気なことを確認しては「ほっとする」・・・
そう、「分身」なのだから不幸になってくれたらちと困る。
お互いにチラ見して「ああ元気そうだな」と言うと「安心する」・・・そんな関係である。
まあこのアルバムをどうしても彼女に歌ってもらいたかったというのも、こう考えれば「必然」のような気もするし、布衣のツアーで彼女の住む海南島三亜に訪ねて行った時も、漠然と「こうなるだろう」とは感じていた。
そしてそこからが大変であることも重々承知していた。
「会社」が出て来るからである。
「プロジェクトを始めるためには、まず会社とあなたが楽曲の権利に関して契約書を交わさなきゃならないの」
と彼女は言う。
聞けば会社は、このアルバムは通常の商業的なアルバムではないので、他の投資会社も巻き込んで日本円で数千万円の投資をすると言う。
日本とは全く違う権利ビジネスを歩んでいる中国音楽界であるが、
もう昔のように「歌ってよ、いいわ」で済むような世界は遠い遠い昔の話である。
契約書の雛形が送られて来て、それを布衣のマネージャーに見せたのが悪かった・・・
彼女が内容を見て激怒したのである。
「何よこの契約書!!あんたに全く不利じゃない!!」
広い中国には私を本当に愛している人がたくさんいる。
音楽ビジネスの深い仲間であるLuanShuやLaoLuanが見たらもっと激怒するだろう。
今の中国では、このアルバムが万が一売れたとすると、
日本でJASRACなどからの分配よりももっと多額の金が入って来るのだ。
「末吉が損をする」・・・これは私を愛する全ての人が忌み嫌う、一番あってはならないことなのだから・・・
でもね、「金は要らん」と言うとるんやからそれでええんとちゃうん?
権利商売はその後にあるのよ・・・
私も人から「損」だと見られることでも、結局は「恩返し」を受けて今があるし、
そもそも「契約」っつうこと自体が会社に損になることは書くわけはないのだから「そういうもの」である。
昔はよかった・・・とか言っても、
昔にもし「これしたげるから必ずこれしてね」みたいな契約書を交わさねばならなかったとしたら今の私はないだろう・・・
というわけで私はここから「板挟み」で胃が痛くなるような毎日が始まる。
ついには当の本人の李慧珍に泣きついた・・・(涙)
「心配しないで、私はあんたのこと愛してんだからあんたに悪いようにするわけないでしょ」
いや、そりゃそうなんだけど、これは俺とお前の話じゃなく会社の問題なんですけど・・・(>_<)
愛されるものの辛さである・・・
何じゃかんじゃで基本この内容で布衣んとこの弁護士に契約書をまとめてもらい、
あとは会社と私が双方で署名捺印、それでこのプロジェクトは晴れて動き出すことが出来る・・・
でもアジア諸国を放浪してるのにどうやって契約締結?・・・(笑)
最初はベトナムから一度北京に帰ろうと思ってたのだが、ビザの関係で出国出来ず(>_<)
カンボジアに郵送してもらおうと思ったが契約書送るには郵便事情が不安・・・
その後結局、大元の日本語版のタイトルを書き入れねばならなくなったので、
契約書をメールで送って来るのでそれに書き入れて、
それを印字して先に私が署名捺印して北京に送り返すことになった。
そういう作業なら1泊5ドルのバックパッカー宿でやるよりは、Wingさんが取ってくれる香港の高級ホテルがよかろう・・・
というわけでホテルで印字!!
そして署名して捺印!!・・・って朱肉がないやん(>_<)
朱肉を買いに行くところから始めて署名捺印!!
別に印鑑は持ち歩いてるけど拇印がいいんですと・・・
そりゃそうやろなぁ・・・日本ぐらいやろなぁ印鑑がこれほどまでに万能な国・・・
そして割印!!
これであとは北京に送り返すだけである!!
香港でよかった(涙)・・・カンボジアやったらどないなってたことやら・・・(笑)
はてさて賽は投げられた・・・このプロジェクト、どうなりますことやら・・・
Posted by ファンキー末吉 at:16:39 | 固定リンク
2019年5月 8日
「ある愛の唄」中国語版
ブログ記事「ある愛の歌」中国語版でも書いた「李慧珍(Li HuiZhen)」からやっと返事が来た・・・
彼女にアルバムを聞かせてから、このせっかちな私が全く彼女に連絡せずにひたすらずーっと返事を待っていた。
元々がそんなに頻繁に連絡を取るような間柄ではない。
いつもWeChatのモーメンツとかで相手のアップした情報を見て、
「うんうん、元気そうだな」
と「生存確認(笑)」をするだけでいい。
そんな「間柄」である。
布衣のツアーのアモイの日にメッセージが来た。
「Funky〜あの歌詞カードのデータある?私にくれたのPDFじゃない?文字データのが欲しいの」
事務所の人に聞かせてミーティングするらしい・・・
それからまたぷつっと音沙汰がなくなったが、
このせっかちな私がひたすら待った。
アルバムの感想なども一言も聞いてない。
「聞いたわよ。とても良かった」とかの一言もない。
「催促」とかしちゃったら、大切にしている「何か」が壊れてしまいそうな気がして、逸る心を抑えてひたすら待ったのよね・・・
でも「ミーティングにかける」ということ自体が「良かった」ということではないか・・・
まあ万が一「これはちょっと・・・」と言われる可能性も頭に入れていたのだが、
この「ミーティングにかける」ということ自体で「最初の本人の段階で蹴られる」という懸念は全て吹っ飛んだことになる。
しかしここからが問題。
彼女も、まあ今は第一線は退いているとしても「有名歌手」のひとりである。
ちゃんとした事務所に所属もしているし、彼女自身が「商品」として色んな会社や人々の生活を支えている存在であることも十分想像出来る。
「これいいわねぇ、遊びでいいから出したいわ」
が通じる立場ではない。
「出すならちゃんと商売にする」
という人達の中で生きているのが「スター」なのである。
そのまま布衣のツアーをしながらひたすら待った・・・
そしてようやく先日、長春の山奥にて返事を受け取った。
「Funky、事務所のOKが出たわよ!!
このアルバムは通常の商業的なアルバムじゃなくコンセプトを売るアルバムなので、普通の売り方じゃなくそれ用の宣伝チームを組まなきゃなんない。
だから別の会社も探して来たから、その会社も投資してうちの会社と一緒にやることになりそう」
!(◎_◎;)・・・山が動いた・・・しかも巨大な山となって・・・
「だからね、まず権利関係をクリアにして契約書を結ばなくちゃなんないの」
権利関係ったってワシが作ったもんで別にどこにも権利はおまへんがな・・・
というわけで、現在事務所のマネージャも出て来て難しい契約書のやり取り・・・
・・・ですが皆さん、ここでひとつ声を大きくして言いたいのは、
「今では中国ではヘタしたら日本より著作権がしっかりしている」のだよ!!
発展の速度がハンパじゃないこの国は、気がつかないうちに昔書いた「権利商売」はその先にある!!よりももっと先に進んでいる・・・!(◎_◎;)
まあその辺は次のブログ「今や中国の著作権ビジネスは日本より進んでいる?!」で詳しく説明するとして、とにかくこの中国語版によって私にはお金が入るのですぞ!!
つまり中国で権利商売が出来る時代になった!!(◎_◎;)
全てはこのクラウドファンディングでパトロンになってくれた方々のおかげ!!
感謝感謝!!・・・もう立派にJASRACなど必要のないシステムがこの国では出来上がっているということです・・・
思い通り以上に上手く動いているこのプロジェクトですが、
そもそも私は別に「儲けよう」と思ってこのアルバムを出したのではない!!(キッパリ)
日本の音楽ビジネスの狭間で捨てられていたこの子たち(このアルバムの曲たち)を、世界中の色んな人たちにもらってもらいたい、歌い継いでもらいたい・・・
DEMOを歌って大事に保管してくれてたキョンマ自身が歌ってくれた世界で最初のこのバージョンに続き、キョンマ自身によるベトナム語バージョン、カンボジアのくっくま孤児院の子供達に夜クメール語バージョンも制作を開始している。
そしてここに来て、日本の歌手「山下直子」さん(通称ナッキー)による新しいバージョンが出来上がりました!!
そうそう、これをやりたかったのよね〜・・・
色んな人に歌い継いでもらいたい!!
ナッキーが「この曲を歌いたい!!アルバム全部歌いたい!!」と言ってくれてとっても嬉しかった。
レコ発ライブもあるというので是非足を運んでやって下さい!!
また、クラウドファンディングでカラオケをゲットして自分バージョンのアルバムを作りたいと思ってる人、まだ躊躇してたり、色んな困難にぶち当たってたりしてたら是非私にご一報下さい。
金はないけど出来ることはお手伝い致します!!
クラウドファンディングには参加してないけど、「私も歌いたい」という方も遠慮なく相談して下さいね〜こちら
ご本家キョンマのレコ発ライブはこちら〜!!
第一部は売り切れです。
19:30からの第二部をご予約下さい〜こちら
世界初のバージョンとなるキョンマバージョンはこちら〜
「ある愛の唄プロジェクト」・・・想像以上に動いてます〜
Posted by ファンキー末吉 at:17:54 | 固定リンク
2018年12月31日
SING THE BLUES FOR YOUライナーノーツ
01:最後までよろしく
(作詞:ザビエル大村・三井雅弘 / 作曲:ザビエル大村)
私が大村はんと出会ったのは2000年春のこと。
X.Y.Z.→A (エックス・ワイ・ズィー・トゥ・エー:Vo 二井原実、 G 橘高文彦、B 和佐田達彦、Ds ファンキー末吉)というバンドで「100本ツアー」と銘打って日本全国をくまなくツアーで廻っていた。
二井原実が喉の不調により関西方面のライブが何本かキャンセルになってしまい、共通の友人"三井はん"の紹介で大村はんのマンションに初めて泊まりに来た。
マンションには「ギター部屋」があり、見たこともないようなギターがいっぱい並んでいた。
その中から一本を取り出して弾いてくれたのがこの曲。
ギター1本でベースラインから伴奏、メロディーまで奏でる「ラグタイムギター」という奏法に度肝を抜かれた。
02:淀川リバーサイドBlues
(作詞作曲:ファンキー末吉)
谷町線「守口」駅からほど近い、淀川を見下ろせる
大村はんのマンションにあるCDはそのほとんどがブルース。
大村はんがギターを爪弾いてもその全てはブルース。
朝起きてからそんなブルースばかり聞いていたら、ついつい酒を飲みたくなる。
昼間っからウィスキーの水割りを飲みながら「ええなぁ」とブルースに酔いしれる。
当時このマンションの近所に「へんこつや」というホルモン屋があり、夕方にはそこに行ってホルモンを食う。
そんな数日間の生活でだんだんわかって来たのだが、このマンションにはちょっと前まで「嫁」がいたらしいが出て行ってしまったらしい。
「歌になるなぁ...」ということで出来上がったのがこの曲。
03:ハゲでよう見たら背もちっちゃいからずんぐりむっくりやけどそれでも今日からあたいの大事なだんな様(仮)
(作詞作曲:ファンキー末吉)
「髪」、いや「神」というのはいるもんなんですなぁ・・・
そんな大村はんにも「二人目の嫁」がやって来た。
爆風スランプの追っかけの双子姉妹のひとり。
双子というのは面白いことに二人でいつも一緒にいる。
学校も同じ、卒業して職場も同じ、趣味も同じ爆風スランプ、妹はサンプラザ中野、姉はファンキー末吉のファン。
また面白いことに双子というのは二人を一緒くたにされるのが嫌らしい。
「だったら一緒におるな!!」という話なのであるが、姉は姉、妹は妹、ちゃんと一人して区別してくれる相手じゃないと、結婚どころか恋愛とかも絶対にダメらしい。
そこで「髪」ならぬ「神」が登場!!
ある日、同じ大阪でサンプラザ中野のライブとファンキー末吉のライブが同じ日に行われたのである。
双子の姉妹はここで初めて別々に別れてライブを見に行くことになり、私のライブにひとりで来た姉を大村はんに紹介し、トントン拍子に結婚と相成った。
私は新郎新婦の紹介者として結婚式の仲人となり、披露宴で歌うこの曲を作ってプレゼントした。
思えばこの結婚式以来誰も歌うことがなかったこの曲を、私自身が歌い継ごうと思い今回アルバムに収録した。
タイトルは今だに仮タイトルのままである。
04:おお BEIJING
(作詞:サンプラザ中野、作曲:ファンキー末吉)
爆風スランプが「Runner」「リゾ・ラバ」などヒット曲を連発していた頃、実は私の精神状態は一番よくない状態であった。
毎日テレビの娯楽番組などで忙殺され、「芸能界」というところが大嫌いになり、「自分は何をやっているんだろう」という思いがピークになって来たある日、友人の鍼治療に同行して初めて中国に旅行に行った。
その時偶然地下活動をしている中国のロックバンドのライブを見た。
血が逆流するほどの感動の中で「俺は中国人になる!!」と言って今に至る。
若かりし頃、黒人音楽を初めて聞いて「俺は黒人になる!」と言ってアフロヘアーにし「ファンキー末吉」と名乗って以来の人生の大転換である。
頃は1990年、前の年に起こった天安門事件以来、一番締め付けが厳しい時代の中国で、地下活動としてロックをやっている若者たちのことを思ってこの曲を作った。
サンプラザ中野はこの曲に天安門事件の民主化のリーダーの一人とその恋人をモチーフにしてこの詞を書いた。
05:ママの初恋
(作詞作曲:ファンキー末吉)
北京から帰った私は「心ここに在らず」でいつも中国ロックのことばかり考えていた。
爆風スランプが活動停止となったのもこれがひとつの大きな原因である。
そんな中、私は中国ロックを題材に小説を書き、それが「小説現代」に掲載され文壇デビューすることとなる。
この「天安門にロックが響く」という小説は、その後「北京の夏」という漫画の原作となり、それが翻訳されて香港、台湾で発売された。
中国共産党が支配する中国大陸ではもちろんご法度である。
私の嫁(当時)は中国人で、その両親が初めて日本に来てこの漫画を見つけた時、私にそれはそれはこんこんと説教をした。
「中国では絶対にやってはいけないことが二つある。
ひとつはエッチ系、そしてもうひとつは政府批判」
そしてこう強く念を押した。
「家族のうち誰かがそんなことをしていただけで、ひょっとしたら一族郎党殺されていまうかもわからないのよ」
そんな時代である。
だが私は当時、天安門事件で恋人を殺されるこの小説の主人公である女性ロッカーをモデルにしたこんな曲まで作っていた。
これは当時作ったコンセプトアルバム「ある愛の唄」の主人公(この女性ロッカーの子供)が、子守唄として母親から恋人との恋物語を聞くというお話である。
(小説はこちら、コンセプトアルバムの詳細はこちら、別バージョンのこの曲のMTVはこちらにあります)
06:あんた好みの女
(作詞作曲:ファンキー末吉)
その時代、私はよくオカマバーに飲みに行ってた。
年老いた化け物のようなオカマが経営する小さなスナックに行くと、「ようこそお化け屋敷に〜」とそのママさんがドスの効いた声で言うのが好きだった。
そこのメグちゃんという筋肉隆々のオカマ。
彼氏に振られたらしく私が一生懸命慰めていた。
「それでね、彼ったらね、腹いせに女なんか連れて来たのよ〜」
さめざめと泣きながら涙を流すメグちゃん。
「それで?どうなったの?」
「もちろん半殺しにしてやったわよ」
心は女、でも身体は筋肉隆々のメグちゃんが好きだった。
後に化け物のようなママさんが私にこう言った。
「あんたあの娘のこと好きでしょ、ダメよ〜あんたは女ともすぐに友達になっちゃうでしょ、そんな男はオカマにはモテないの。オカマはね、ち○ち○好きで人間捨てたのよ〜オカマ好きになるならすぐにやっちゃわないと」
オカマの世界も深い・・・
私もいつかこんなオカマと手を繋いで街を歩いてみたいものである、という曲。
07:あたいの100$の恋
(作詞作曲:ファンキー末吉)
売春婦に本気で恋をした男がいた。
貧乏なミュージシャンなのであるが、金が入ると彼女に全部使っていた。
無口な男なのだが、ツアー中に電話がかかって珍しく長話をしているのでついつい聞いてしまった。
「だからツアーなんだよ。仕事なんだ。帰ったらすぐに会いに行くから」。
女性と縁遠かった彼がやっと恋人が出来たのかと思ったらその売春婦だった。
「え?でも普通に一緒に食事したりしてるんだったらもう恋人じゃん」
私なんかは単純にそう思ったのだが、
「だって、やったらお金払わなくちゃなんないし・・・」。
私は彼にこう聞いた。
「でも・・・君は彼女のこと好きなんでしょ?」
これはちょっと困った顔でこう言った。
「いや、そんなにお金ないですから」
返答に困っているのか質問と答えが微妙に食い違っている。
「じゃあお金あったら結婚したいとか思う?」
「いや、お金ないっすから・・・」
また質問と答えが微妙に食い違う。
「もしあったらの話だよ。結婚したいと思う?って聞いてるの」
彼はちょっと間を置いて小さく頷いた。
涙なしでは歌えないBluesである・・・
08:Merry Christmas Blues
(作詞作曲:ファンキー末吉)
2000年ぐらいに北京に居を移した私に飛び込んで来た色んな世界情勢のニュースの数々。
アメリカの同時多発テロ、その対テロ戦争としてのアフガン侵攻・・・
そんな北京である日、ギターを爪弾いてたらふと浮かんだこのメロディーと歌詞。
遅筆な私には珍しく、最後まですらすらと歌詞が出来上がった。
そこでは生きていてもどうしようもないというほど悲しみに満ちた女性が世界平和を祈る。
その後とある中国の有名歌手がこの曲を歌ってくれて、その歌手が愛してやまないこの曲を作ったのが私だと聞いて涙を流して抱きついて来た。
(その時の話はこちら)
この歌手にこんなにも愛されて、この曲はなんて幸せなんだろう、そして作った私もなんて幸せなんだろうと思った。
この曲はそうやって世界平和を願う多くのシンガーに歌い継いでもらいたいと、心からそう思う。
09:Star
(詞:渡辺英樹、作曲:丸山正剛)
一世を風靡したバンド「C.C.B.」のベーシストでありリーダーでボーカリストの渡辺英樹さん、
彼の最後のバンドとなった「VoThM」のレコーディングが北京で行われ、それが最後のアルバムとなって彼は帰らぬ人となった。
この曲は、その時にレコーディングされた曲である。
基本的に自分の作った曲しか歌えない私が、それからこの曲を歌い継ごうと決意した。
毎回毎回ライブの時に、
「あんたほど上手くは歌えないけどね」
と天国の英樹さんに言い訳しながら歌う。
「かっかっかっ」・・・生きてる頃の高笑いが聞こえてきそうである。
ところが北京の自宅でひとりで真夜中にこのテイクを録音している時に、いつもは絶対出ないようなこんな声や歌い方が突然出来た。
どうしてなのかわからない。
こんなテイクはもう二度と録れないだろう。
「かっかっかっ・・・その後のライブでは頑張ってこんな風に歌いなはれや!!」
天国で英樹さんがそう言って笑っているような気がした。
10:What a Wonderfull Night
(作詞作曲:ファンキー末吉)
私は、はすっぱな女が好きである。
まだ会ったことはないが自分のことを「あたい」と言い、相手のことを「あんた」と呼ぶ・・・
そんな女が本当に絶望したらどんな気持ちなのか・・・
そんなことを考えながら多くのBluesの曲を作ってきた。
しかしこの曲の主人公は珍しく男性である。
同様に人生に絶望し、この相手こそはと思った相手が、朝になったらいなくなってしまうことを知っている。
それでも「なんて素敵な夜なんだ」と歌う・・・
男性版Bluesの決定版である。
11:キーキー言われてもーたBlues
(作詞作曲:ファンキー末吉)
「世の女性という生き物は、どうしてあんなにキーキー言うのだろう」
世の男性は、口には出さないもののみんなこのように思っているに違いない。
ある時にアマチュアミュージシャンのジャムセッションでとあるベーシストに会った。
彼は本当に楽しそうにベースを弾き、そして本当に美味しそうに酒を飲む。
そしてこんなことを言うのだ。
「幸せだなぁ...ほんっと、金がないのと嫁がキツいのを除けば人生はほんっと楽しい!!」
この話を題材に、詞だけ書いてツアーに持って行った。
曲なんかは
「キーはDの3コードのブルース。手ぇ挙げたらブレイク!」
これだけでBluesの曲なんかすぐに出来てしまうのだ。
ライブの度に歌い回しやメロディーなどを変えてゆき、キーがDからEに、そして最後には金切り声のGまで上がり、ギターもオープンチューニングのスライドギターになって完成されたライブバージョン。
こうして全世界の男性の心の叫びを代弁するBluesが 出来上がった。
12:人は何で酒を飲むのでしょう
(作詞作曲:ファンキー末吉)
2000年に私がプロデュースしてデビューした「三井はんと大村はん」の代表曲。
当時のレコード会社にはJazzのレーベルがあり、そこで私のJazz系のユニットがレコードを出させて頂いていたためにそのレコード会社から発売させて頂くことになった。
ところがそのJazzのプロデューサーのトップの方が私の事務所に打ち合わせに来た時に、出来上がったばかりのこの曲が事務所で流れていた。
そのプロデューサーは打ち合わせを中断してこの曲に聞き入り、そしてこう言った。
「末吉くん、この曲は・・・哲学だよ!!」
ライブバージョンなので途中の間奏に喋りが入っている。
「結婚は判断力の欠如!離婚は忍耐力の欠如!!そして再婚は記憶力の欠如!!!」
哲学である・・・
13:65歳の地図
(作詞作曲:ファンキー末吉)
1989年にリリースされた爆風スランプの楽曲に「45歳の地図」という曲がある。
奇しくもちょうど20年後にこの「65歳の地図」という楽曲がリリースされることになるのだが、残念ながらアンサーソングではない。
「45歳の地図」は主人公が息子に、中学校の文集で「親父のようにはなりたくない」と発表されるお話だが、こちらの設定は息子ではなく娘。
定年退職を目前に控えて熟年離婚されるサラリーマンの悲哀と娘への愛情を歌った曲である。
私の友人にモリタカシという人間は存在するのだが、そこの家庭の物語ではない。
別の友人「E」の家庭が、実際に自分の部屋に食事を運んでもらってひとりで食べてたところからこのストーリーを思いついた。
もっとも「E」は同じ家にいながらご飯のお代わりが欲しい時は嫁にメールしていたのだが・・・
この曲のMTVはこちら〜
これら楽曲はこちらからダウンロード購入出来ます。
(視聴も出来ます)
Posted by ファンキー末吉 at:11:54 | 固定リンク
2018年12月27日
裏おすし
Jazzなのだから毎回演奏は違う。
「失敗」も含めて、「人生」と同じでそれも含めてひとつの「作品」である。
今回「おすし」の「いただきます」をライブ録音するに当たって、ワンツアー全てのライブを録音して、結果一番勢いのある最終日2日間の録音を採用した。
しかし他のライブにもいいテイクがいっぱいあった・・・
というわけで、「いただきます」と全く同じ曲順で、テイク違いのアルバムを作ろうと思い立った。
タイトルは「ごちそうさま」(笑)
「いただきます」はこちらでも販売しているが、「ごちそうさま」はライブ会場のみでCD-Rにて販売する。
配信はこちらにて両方ゲット出来るので、コアな人は両方揃えて聞き比べてみるとよいと思う。
配信では詳しいディティールを書ける場所がないので、下記にそれぞれのディティールを解説と共に書いてみたいと思う。
まず、ミックスは予算がないので私自身がやらせて頂いた。
そのせいかドラムがちょっと大きいなというテイクもあるかも知れない(笑)
あと世俗的過ぎると言うか、小市民と言うか、
「いただきます」は拍手はなるだけ切っているのに対して、
こちらの方は思いっ切り大きく、そして長く入れてあるのであわや74分のCDに入らなくなるところだった(笑)
マスタリングはファンキーStudio北京の方言(FangYan)。
銭金抜きでやってくれたのはいいのだが、その分こだわり過ぎて・・・(>_<)
まず最初のバージョンが送られて来た時にはびっくりするぐらいよくて小躍りしたもんである。
ところがしばらくして「あのバージョンはダメだ」と言い出して、またしばらくして2つ目のバージョンが送られて来た。
これが私としては個人的には気に入らない。
いじり過ぎてて何か人工的過ぎてJazzっぽくないのである。
やり直しをお願いしたらそれから1ヶ月音沙汰なし!(◎_◎;)、
この前北京に帰った時に聞いてたら、更に5つか6つバージョンを作ってたらしい。
「もうええから提出しなはれ」
と言って提出させたバージョンがこれ。
工場に納めた後も
「Funky老師〜またちょっと直したいんだけど・・・」
と言うので
「もうええわい!!工場に入れたわい!!」
と言ってやり直しを拒否した(笑)
まあ録音した場所が違うので一概には言えないが、「いただきます」に比べて音が太い印象がある。
「いただきます」が「白」のイメージだとしたら、このアルバムは「木目」のイメージ。
シンバルレガートの音がシンバルというよりスティックの木の音が強く聞こえているような気がする。
それではそれぞれの曲の解説を・・・
(「いただきます」「ごちそうさま」共通の解説も含む)
01:The Door To 7th Heaven(2018年10月22日高田馬場音楽室DXのリハーサル)
これだけが「いただきます」と同じ高田馬場音楽室DXでの、こちらは本番ではなくリハーサルのバージョン。
この曲はライブ毎に色んな変更点を加えていって、結局この最終日にやっと完成形となったのでこのテイクしかなかったのだ。
ちょっと聞くと「いただきます」と「ごちそうさま」どちらがどちらのバージョンかわからない演奏である。
最初の小さなドラムソロの部分は、「いただきます」と同じフレーズを叩いている。
これは8分の7拍子のソロの部分にいきなり4分の7拍子になるフレーズを叩くので、リハとして
「本番ではこんな風に叩きますからね」
と叩いたものが採用されてしまったからである。
まあJazzとしては少し残念だが、これも含めて「テーマ」と考えれば納得がゆく。
(この曲のエピソードはこちらにもあります)
02:ろう君の初恋(2018年10月15日名古屋Breath)
これはもう長くやっているのでどのテイクも甲乙付け難い。
このバージョンはツアー初日のバージョン。
Breathのドラムは他の店と違ってロック系のドラムセットで、タムもフロア含めて4つ並んでいるのでタム回し系のフレーズが多い。
この店だけ定位が他と違ってドラムが真ん中、ベースが左で、ピアノが右となっている。
03:Dream Express(2018年10月18日京都RAG)
京都RAGはピアノが生ピアノなのが特筆すべき点である。
ピアノの定位も客席から見て後ろを向いているので右が高音部、左が低音部と「いただきます」の逆になっている。
ツアーのこのぐらいからこの曲のドラムソロの最後のフレーズがスティーブガッド系3拍フレーズに固定された。
ドラムソロのソロフォームは、テーマ部分を最初から演奏してサビの部分をXtimeで繰り返している。
サビに入ったところで1小節目と4小節目にテーマメロをもじったセクションが入るが、
次の小説頭で仕切り直さずそのまま叩くことによって小節感を不思議にしているところがミソである。
04:Dolphin Dance(2018年10月15日名古屋Breath)
ハービーハンコックの名曲で私の大好きな曲である。
最後のドラムソロでは、このライブで3連符の8つ取り、8ビートに聞こえるフレーズをやってみたら面白かったのでその後この曲ではずーっとそれをやっている。
05:Everything Is From the Sea(2018年10月18日京都RAG)
進藤陽悟のオリジナルで3拍子の曲。
3拍子は非常に自由なリズムで、2拍で取ってゆっくりの4ビートになったり、
3拍4連で取って早い4ビートになったりする。
生ドラムと電子ドラムと同じように、生ピアノと電気ピアノとは全く違う楽器である。
楽器が違うので当然「弾き方」が違う。
生ピアノバージョンならではのセッションをお楽しみあれ。
06:炎の靴(2018年10月18日京都RAG)
「いただきます」と比べて一番違うのが「テンポ」。
こちらのバージョンが落ち着いて聞こえるのは演奏が落ち着いているだけでなくテンポそのものが落ち着いているのである。
それにしてもあの重い生ピアノの鍵盤で電気ピアノと同じように軽やかに弾く進藤陽悟は大したもんである。
07:Diamond Dust(2018年10月18日京都RAG)
ジェフベックの「ブロウバイブロウ」に収録されている5拍子の美しい曲。
ピアノトリオでこの曲をやろうとなって3人で色々試行錯誤した。
まずテーマをベースが取った時に、分数コードの分母を弾く人がいなくなる。
そして今度はピアノがテーマを取った時に、分散和音のアルペジオを弾く人がいなくなる。
結局分数コードは何とかアッパーコードで解決し、
5拍子のアルペジオを左手で弾きながら右手でテーマを取るという風に落ち着いた。
ウッドベースは「作音楽器」と言って、ピアノのように「この鍵を押さえたらこの音が出る」というのではなく「音を探りながら演奏する」楽器である。
「歌えないメロディーは弾けない」らしく、この転調の激しいメロディーを一生懸命空で歌えるようにしていた大西さんが印象的である。
08:Memories(2018年10月15日名古屋Breath)
全中華圏で知らない人はいないというバンドBEYONDのボーカル黄家駒が日本のバラエティー番組の事故で亡くなったことを受けて、その香港での葬式の時に浮かんだメロディーで作った追悼曲である。
彼は今真っ白な気持ちのいい世界にいて、音楽家は「偶然」が重なって「名演」と呼ばれる演奏が出来た時だけトリップしたような感覚になってその世界に行くことが出来る・・・
09:Canal Street Samba(2018年10月18日京都RAG)
いつもアンコールで演っているサンバの曲。
途中のドラムソロは、いつの間にか出来るようになった「上下巻全分離」。
足ではずーっとそのままサンバのリズムを刻んでいるが、
手は3連の5つ取りや16符の5つ取り等を経て、最後には足はそのままで全く自由に叩くという、「ソロ」というよりは今やもう「芸」である。
10:ママの初恋(2018年10月18日京都RAG)
天安門事件で恋人を殺された女性ロッカーが、その娘に自分のその恋の話を子守唄として語るという曲のインスト版。
2018年年末が2019年初頭までに私は4枚のアルバムを出すが、その全てに収録されている曲である。
それぞれの配信はこちら
「おすし/いただきます」、「おすし/ごちそうさま」、「ファンキーはんと大村はん/SING THE BLUES FOR YOU」が現在(2018年12月29日現在)配信されてます。
コンセプトアルバム「ある愛の歌」ただ今制作中!!詳しくはこちら〜