
2021年8月13日
教え子・・・
泉くんというドラマーがいる・・・
もう30年近く前になるだろうか、アメリカのバークリー音楽学院を卒業して、「日本に帰るのもなんかなぁ〜」ということで北京に来て、その後北京現代音楽学院の先生をやりながらJazz活動などをやっている。
当時は音楽学院と言うとクラシックを教える学校がほとんどで、ロック、Jazz、ポップスなどを教えるところは本当に少なかったので、今になってみると、中国の音楽界で活躍しているドラマーはそのほとんどそこで泉くんに教わったということになる。
先日のドラムフェスティバルで会ったドラマーも
「俺は泉先生の生徒だよ、こいつも。まあ中国のほとんどのドラマーはそうだよ」
などと言っていた(笑)
こいつら
それはそれで凄い話なのであるが、私はと言うと、「誰に師事した」というのもなく、まあ心の師匠としては村上ポン太さんなどがいることはいるが、実際ドラムを教わったこともない・・・
まあどんな楽器もそうなのであろうが、ドラムもある程度の技術を持つと、あとは生き様というか、なんかもっと別のものが大切なような気がしている・・・
中国では「ドラムを教えて下さい」とやって来る若者がたくさんいた。
(こんなヤツもいた)
(こんなヤツも)
もう最近では「じゃあ1年俺と一緒に生活しろ!!」と言う(笑)
「包丁一本サラシに巻いて〜」という歌があるが、その昔日本の料理人の世界でも、弟子入りして数年は包丁も握らせてもらえないという話があった。
毎日毎日皿洗いをしながら師匠の仕事を見る。
「ああ包丁を握りたい」と思っても「まだ早い!!」と言って怒鳴られる。
数年経って、「もういいだろう」になった頃、スポンジに水が染み込むように教えが浸透してゆくという話だ。
ドラムだって同じだと思うぞ・・・
「俺のドラムを学びたかったら、まず俺の生き様を見ろ!!それがロックだ!!」
などと言って突き放す(笑)
実際それについて来た人間というのは、実はドラマーではなくキーボードの張張(Zhang Zhang)!!
「僕の全てはFunkyさんから教わったんです」
と言うが、さもありなん、出会った時はコード3つしか知らなかったんだから「全てを教えた」と言っても過言ではあるまい(笑)
まあ自分自身が人から教わったことがないわけだから、「人に教える」ということは、私にとってはそれはそれは大変なことである。
「クリニック」と言って呼ばれるものは、「1日だけ」教えるわけで、必然的に「生き様」など教えられるわけもなく、「上っ面のテクニック」だけを教えて帰ることとなる。
まあ呼ぶ方もそれで満足なのだから別に問題ない(笑)。
こちらもそこに誰がいたのか覚えていて、その生徒の将来を案じて・・・とかも全然ない(笑)。
そうでない場合はと言うと・・・北朝鮮でロックを教えるプロジェクト!!
彼女たちはこの私の「ロックの愛弟子」だと思ってるし、最後に教えた一平(イルピョン)などは、「Funkyさんは私の最初のドラムの先生です」と言っていたのでやっぱ「教え子」である(笑)
朝鮮総連のイベントに出演して、平壌に行く団体があると言うことで、ファンキー末吉モデルのスティックを彼に渡してもらうように、ステージ上からそれを託した時に、
「会いたい人に自由に会いにも行けない世の中にしたのは私たち大人です。あの子たちにそんな世の中を変えてもらいたい」
とスピーチしながら泣いた・・・
「日本人は悪い人ばかりだ」と教わって育った彼らに、「敵国の音楽」である「ロック」を教えた・・・
短い時間ではあったが、そのこと自体が「ロック」であり、「生き様」を教えたことであると思っている。
今はドラムを叩いてないかも知れない。
でもどこかに私と共有した時間を覚えていて、それを抱きながら「世界をもっとよくしよう」と頑張って生きているのだとしたら、それこそ紛れもない「私の教え子」である!!(涙)
まあ北朝鮮にはいたとしても、この中国にはなぁ・・・と思ったらいた!(◎_◎;)
これはある大学生から布衣に宛てたファンレターである。
そこには大体こんなことが書かれている。
「自分は大学生で、今バンドをやってます。
実は自分は山東省临沂の出身で、2010年ぐらいにFunkyさんが地元の大劇場で演奏するのを見ました。
(注釈:これか?)
その頃自分はまだ8歳だったので、わけもわからずそれを見てましたが、Funkyさんの爆発力に震撼させられ、わぁ〜ドラムってこういう風に叩くんだ〜と思いました。
その後頑張ってドラムを練習してましたが、16歳の頃、学業とのプレッシャーで続けることが難しくなって来ました。
ところがある日、ひょんなことからFunkyさんのドキュメント映像を見て、電気に打たれたようなショックを受けました。
それからFunkyさんの映像を探しては見たりしてたのですが、自分が一番感激したのはFunkyさんの生き様です。
あの時、何もわからない小学生の子供だった私が、あの日もう一度スティックを手にしてドラムの前に座りました。
思えばあの10数年前のFunkyさんの演奏、あれが私のロックの扉を開いたんだと思います」
おったんやなぁ・・・シミジミ
似たような話で彼女!!
彼女も小さい頃、青島の私のクリニックに参加してたらしい!(◎_◎;)
その時の様子・・・
その後打楽器奏者への道を歩み、今では世界の色んな賞を受賞してミュンヘン音楽学院への留学が決まっているという・・・
もうね、彼女の演奏が凄いのよ〜・・・
もうね、スネアという楽器だけ取るとワシより断然上手い!!(>_<)
彼女のプレイから「ロック」を感じるのは私の贔屓目?・・・
お父さん曰く、「小さい頃に貴方の演奏を見たのは大きく影響してるだろう」とのこと・・・
彼女からこんなメッセージが送られて来た・・・
「先生、私はあなたのことが大好きです!!!!ずーっとあなたを尊敬してます。
当時私を認めてくれて励ましてくれてありがとう御座います。
これからもあなたから学び続けます!!!」
ってあーたドラムセットは別にして、打楽器奏者としてはもうワシからなんぞ学ぶことなんかないやろ!!(笑)
そう言えば彼女もやっぱ私の色んなドラム映像を見まくっているようじゃのう・・・
ネット社会の新しい影響力やな・・・
まあどこで誰に撮られてアップされてるかわからん世の中やから、毎回毎回悔いが残らんように叩いとかないかんのう・・・(>_<)
また先日の河南省開封での美女!!
一番前のど真ん中に陣取ってワシばっか見て、ワシにばっか質問!(◎_◎;)
ワシが男前やからと思ったらそうでもないらしい(笑)
「ドラムのチューニングについて教えて欲しい」
と言うのでLaoWuが「じゃあリハ時間に会場おいでよ」ということでちょっとしたクリニック・・・
そして彼女はこの夏休み、わざわざ銀川までやって来て2日間私のクリニックを受講した!(◎_◎;)
その時に聞いたのだ、彼女も実は小さい頃唐山のクリニックに来てたと・・・
このブログの中でも書いているが、ここのドラム教室の先生もこの時の北京でのクリニックを見に来ていたらしい・・・
そんな連鎖の中で今も私はこの活動を続けている・・・
大事なことは「今もやり続けている」ということである。
もしやり続けていなかったら、冒頭の若者は「ロックの扉」をこじ開けられて(笑)再びスティックを持つことはなかったかも知れない・・・
(その方が貧乏ロッカーより幸せか?笑)
全中国を廻る活動は2008年からだが、大きい会場では1000人以上入ってたわけだから、100本廻ったとしたら、少なく見積もっても数万人の子供ドラマーが私のドラムを見ている・・・
その多くはきっと受験戦争とかでドラムをやめてしまってるだろうが、何人かはまたスティックを手にして、私から受け取った「爆発的な感情」を胸に抱いて新しい人生を生きているのかも知れない・・・
1回その土地に行ってドラムを叩いたからと言って「教えられること」なんかほとんどない。
上っ面のテクニックとかじゃなくて、何らかのこの男の「生き様」を感じ取ってくれさえすれば、それが私の一番「教えたい」ことである。
「教え子」と呼べる人間はほとんどいないが、
でもその「生き様」がその子の人生を大きく変えたのだとしたら、それはそれで立派な「教え子」なのではないか・・・
多くの教え子達に恥ずかしくない人生を送らないかんのう・・・
そんなことを思う今日この頃であった・・・