
2013年10月 6日
マキシムレストラン
天安門広場を中心に広がる北京市内の中でも、
だいたいの音楽の仕事はその東北の方向にある朝陽区がほとんどなので、
市内の南の方に行く機会はほとんどない。
ところが昨日、北京ダックを食いに久しぶりに北京駅南部を通ったら・・・
おおっ!!マキシムレストラン!!!!こんなところにあったのか・・・
1990年、最初に北京に行った時、
最終日に知り合った不良どもの連れて行かれて初めて中国ロックと遭遇したのがここである。
タクシーに乗せられた時は身の危険を感じてとてつもなく長く感じたのだが、
実際はこんな近くにあったのだ・・・
仲良くなったホテルのボーイは
「奴らは不良だ。危険だから行ってはならない」
と泣いて止めるし、ワシはワシで仲間に
「ライブは朝の4時までだと言うから、5時に帰らなかったら大使館に連絡してくれ」
と、全くあの頃の中国ではロックを見るのも命がけだった。
実際その不良どもに連れられてこのマキシムの階段を上がる時には足が震えたし、
運良く黎明期の黒豹のライブを見た時には逆に興奮で身体中が震えた。
その翌月、奇しくも天安門事件の1年後である6月4日、
彼らの天津体育館のライブでドラムを叩いた時は、
「ファンキー、会場に着いたら絶対に口をきくな。外国人だとバレたらどんな目に遭うやらわからない」
と強く念を押されていたので、この時も「死」を覚悟した。
ドラムソロをぶっ叩いて、
割れんばかりの大歓声と裏腹に誰も立ち上がらず座ったままだったのは、
当時は立ち上がったら逮捕されるのだと聞いて後から足が震えた。
数年後、北京工人体育館にてラジオ局の開局イベントに爆風スランプが出演。
中止命令を無視して演奏を続行!!
2万人の観客の目の前のPA席で、
出音を消そうとする公安が、それを阻止しようとするワシの友人の中国人スタッフをボコボコに殴り、当時はロックの象徴であった彼の長髪を鷲掴みにして引きずり回すのをドラムを叩きながら見ていた。
音の出ないマイクと生音のアンプとドラムの音だけで演奏を終えたワシたちは別室に連れて行かれ、
心配してやって来たその友人の仲間が、ボコボコにされて恐怖に震える友人の長髪にひざまずいてキスをした。
「お前達は外国人だからいい。俺は中国人なんだ。絶対ヤツらに殺される!!」
そう言ってブルブル震えている彼の肩を抱きながら、
「こいつを殺したら俺はトラックでも盗んで中南海に突っ込んでやる!!」
と心に決めた。
この国でロックをやるのは文字通り「命がけ」だったのだ・・・
時は流れ、ロックブームが到来し、
当時ヤツらが「ファッキンガバメント」と呼んでいた中国政府は、
「ロックは金になる」とばかり相反するふたつの勢力は裏で手を結んだとばかり、
今では反政府的な歌を歌わない限り自由にロックをやることが出来るようになった。
若者は流行りのファッションを着替えるように、
テクノが流行ればハードロックの洋服を脱ぎ捨ててそれを着るように、
中国のロックも時代と共にめまぐるしく様変わりをした。
あの時かけた「命」は一体何だったんだろう・・・
中国でドラムを叩く時にいつもそんなことを考える・・・
「どう生きるか」は「どう死ぬか」と考えた方が結論が簡単だからという単純な理由でそこに向かって突っ走っていただけかも知れない。
ドラムを叩く時は「これが最後の演奏になる」と覚悟する。
実際に何度も「死」を覚悟したのだ、簡単な話である・・・
北朝鮮に行ってロックをやるなんてワシにとったら危険でも何でもない。
あの頃にヤツらと一緒に中国ロックの黎明期を作り上げるのは文字通り本当に「命がけ」だったのだ。
全中国ドラムクリニックツアーで、
子供達が課題曲としてメタリカを叩くのを見て不思議な気分になる。
あの頃ロックを聞いて拳を振り上げてた若者が大人になって、
田舎に帰ってドラム教室の先生になり、
あの頃に聞いてたロックを子供達の課題曲に指定し、
なに不自由無く育った子供達はそれをそのまま受け入れて演奏する。
平和になった・・・と言えないこともない・・・
それは決してロックの先人たちが命をかけて今の社会を作ったのではなく、
単に「時代が移り変わった」だけなのかも知れないが、
兎にも角にもあの頃には絶対に想像だに出来なかった世の中に今はなった。
北朝鮮だっていつかはそうなるんだと信じても何ら不自然ではない。
平和だ・・・
小畑秀光が路上で歌っているのを見てまたそんなことを考えた・・・