2012年2月28日
無事出国!!北京空港にて
北朝鮮への旅は基本的に女っ気がない。
嫁が一緒に行ってた頃はまだいいが、
子育てで行けなくなってからは基本的に相方とふたりっきりの「おっさん二人旅」である。
今回の宿泊はポトンガン(普通江)ホテルだったので、
自然発生的に「スミノフバー」と昔から呼んでいるホテルのバーでおっさん二人が毎晩飲むことになる。
そのバーで今回この美女と遭遇!!
ロシアのウォッカ「スミノフ」がグラスから無くなろうとすると、
バーカウンターからやって来てグラスに注いでくれるので夜な夜なつい飲み過ぎてしまったほどである!!
(アホです)
そう言えば数年前、
まだ北朝鮮の隠し撮り写真や映像がテレビ局や写真週刊誌に高く売れてた頃、
平壌で遭遇した目つきの悪い2人組の日本人がこのような美女の写真を
「北朝鮮のキャバクラに潜入」
とかいうタイトルで写真週刊誌に売りつけていたのを見た。
ヒドい話である。
中国だったら酒場でこんな美女が英語で話しかけて来たら
おっさん達は十中八九ボラレて泣きを見ることになるが、
この国ではホテルで外国人を接客するなんてエリート中のエリート、
「外国の方に喜んで頂いて我が国を好きになってもらい、
そして我が国に必要な外貨を落としてもらう」
という「国を背負っている」重要な職業であり、
彼女達はそのプライドを背負って一生懸命仕事をしている。
その低俗な写真週刊誌には、
「拉致問題について彼女達に質問したら通訳が訳さなかった」
とか何とかエキスキューズをつけて
「だからこんな記事を出しても許されるだろ」
と言わんばかりに面白おかしく書いていたが、
拉致などをやらかした卑劣な国家を糾弾するのはよい、
核開発をして国際的に孤立する国を非難するのはよい、
でも「人間の尊厳」をわざと地に落とすようなマネをするのはどうかと思う。
そのような輩すらこの国にやって来なくなってもう数年になる。
前回来た時に
「日本がこの国に対してやっている経済制裁は効果がない」
ということを書いたが、
今回の旅でもやはりそれを強く肌で感じた。
もっと言うと日本政府は「経済制裁」という名の
「臭いものに蓋をして放っといた」
だけだったではないのだろうかと思えて仕方がない。
日本国政府がもっと他の効果的な方法を考えて次々と打ち出してゆかねば拉致問題など解決するわけがないじゃろ・・・
こちらに来たこともない「専門家」と呼ばれる人達が、
数年前の聞きかじった情報や
「北朝鮮と独自のパイプ」とやらの情報だけでものを語り、
取材もしてないマスコミがちょびっとだけそれを報道して来たのがこの数年である。
日本国民が誰も知らないうちにこの国はもの凄いスピードで変わり続けているというのにである・・・
「この国は自国に植民地を持っていると考えると分かりやすい」
と言う人がいたが、それを聞いた時、
「ああそんなモノの見方もあるのか」
と思ったことを覚えている。
平壌の街には更に人民元が溢れていた。
「日本が経済制裁をしてくれたおかげで、
あの猜疑心の強い金正日がやっと私たち中国を平壌に受け入れてくれた。
日本国よどうもありがとう」
という中国の学者の話も聞いたことがあるが、
「中華というのは世界の中心」と勢力を南下させている隣の大国は、
決してその貧困部を支援するために国家予算を投じているわけではない。
人民元という武器で取って食おうとしているのは首都「平壌」、
即ち中国にとっては「平壌こそが北朝鮮」なのである!!
平壌に「庶民」が住み、
「昨日より今日、今日より明日が豊かに」という「庶民」が、
一党独裁体制のこの国のデノミ政策を失敗させたのは記憶に新しい。
その「庶民」の生活を知らなければどうやってこの国に対する対策など考えられる?
敵国だと思うんだったら尚更である。
知らなくて戦えるわけはないのだ!!
蓋をしてもっと見えないようにしてどうする!!
・・・いかんいかん、また重苦しい話をしてしまった・・・
ワシは美女の話をしたかったのだ・・・
「彼氏はアナウンサーなのよ、とてもハンサムなのよ」
と言うこの美女が幸せになればいいなと思うだけなのだ・・・
いつもクールな「部長」が別れの時、
「卒業したらもう会えなくなるけど新しい学校でも頑張ってね」
と言ったら突然涙ぐんでくれて心を鷲掴みにされたその「涙」を、
この国の指導者がそれを米韓合同演習の報復によって「悲しみの涙」に変えてしまうことがないよう願うだけなのだ。
人からいろいろ言われながらももう足掛け6年続けている
この平壌の子供達とのほんの小さな音楽交流が、
いつかはいつでも誰にでも簡単に出来るような世の中になることを願うだけなのだ。
そしてこの国が中国に呑み込まれてしまって38度線に中国の最新軍備が並ぶその前に、
日本政府が「臭いものの蓋」を取り去って、
拉致被害者が家族の元に戻って来るためのもっと効果的な対策を打ち出してくれることを心から願ってやみません。
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2012年2月21日
豊年の春
この映像は2007年の年末に訪朝した時に、
アコーディオンとドラムのために私が書き下ろした楽曲の小さな発表会の時の映像である。
アコーディオンは北朝鮮では楽器の花形で、
それは何故かということは北朝鮮という国の中で音楽というものがどのようなものであるかを説明せねばならない。
共産主義国ではよくあることだが、
音楽というのは「革命を推進させる大きな武器」と位置づけされていることが多い。
まあ日本で言うと戦時中の「軍歌」のようなものである。
当時の日本では恋愛の歌だの国民の意欲を上げるものではない音楽は禁止されていたというが、
まあ同じようなもんなのではあるのだが、
ところが日本の軍歌のように重苦しいものばかりではなく、
この国の音楽は楽しく高揚する音楽が多い。
共産主義国なのだから労働者は一番偉いわけであるが、
その労働者が例えばビルを建てている時には音楽家はそこに行って「頑張れ」と演奏する。
この子達も農繁期には農村に行って「頑張れ」と演奏することもあるらしい。
「演奏なんかせんでええから手伝えよ」と突っ込みそうなところであるが、
まあそうなのであるからそうなのである。
そこで活躍するのは持ち運びに便利なアコーディオン!!
左手のボタン鍵盤は慣れなければ大変だが、
慣れれば歌う人に合わせてすぐにキーも変えられるし、
伴奏も出来てメロディーも弾けるし、
何よりも電源が要らないのが便利である。
私は何度か平壌で停電を経験しているので、
このアコーディオンという楽器には本当に重宝した。
そこで、持ち歩けはしないが電源はいらない「ドラム」という楽器と、
アコーディオンのための楽曲を作ってはどうかと思い立ったわけである。
メンバーはムルンピョの頃にはギターを弾いていたオデコちゃんと、
キーボードのボンボンちゃん。
二人ともアコーディオンの名手である。
ポップスのレコーディングと違って、
このように「気を合わす」ところが最も大切である音楽は、
彼女達と本当の意味での「心の交流」が必要となって来る。
でも実際は
「こんな国の子供が本当に全部心を開いてくれてんのかな」
などと考えてしまうワシと違って、
彼女達は実は最初っからワシに対して心を全部開いていたんだということが分かって逆の意味でショックだった。
子供は素晴らしい!!
大人になればなるほど見えなくなってくることが多いのである。
当初このプロジェクトは彼女達に新しいロックというのを「やらせる」ものであったが、
すぐにそこに疑問を感じてそれから軌道修正をしている。
それは最初に行った時のアネゴの「涙」を見た時からである。
この国では「日本人は悪い人です」と学校で教わっている。
そして彼女達が生まれて初めて実際に会った日本人は他ならぬ私であった。
それに対して心を開いてくれた私が実は日本人的な「壁」を少しでも持っていたことを、
私はあれから大きく反省したのだ。
だからこの時には「一緒にプレイ出来る曲」をやりたかった。
「豊年の春」というのは、
ムルンピョとかと同じくこの学校の先生が書いた一編の詩である。
豊作を願う農民や、
それを応援する子供達の楽隊、
いろんな情景をこの詞は私に思い起こさせてくれてこのメロディーが出来た。
当初は「音楽を作りに行く」というプロジェクトだったのが、
この辺から「交流をする」ということがメインとなった。
その結果にその時ごと「音楽」があるのだ。
この辺はちょうど北朝鮮が核実験を行った後かな・・・
両国が敵対関係にある時代に、
民間交流の小さな結果としてこの小さな曲が生まれた。
もちろんこの曲もちゃんとレコーディングしてある。
これは「音の写真」なのである。
これが集まれば文字通り「アルバム」となる。
そんなアルバムを可能な限り綴ってゆきたいと思う。
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Posted by ファンキー末吉 at:10:07 | 固定リンク
5回目の訪朝
昨日の夜北京に着いて、北朝鮮の幹部の人とメシを食った。
相方の親友で、この人がいるからこそワシが平壌を自由に歩けたり、
本当はやってはいけないはずのこのような活動が出来ると言える。
北朝鮮の幹部と言うとみんなどんなヒドい人かと想像するだろうが、
人民は人民、幹部は幹部でみんなそれぞれ「生きてゆくのが大変なんだな」と思う。
これ、どこの国でも同じである。
中国の幹部の人とメシ食ったこともあるが、
なんか中国の幹部の方が嫌な人が多かったな。
まあ、どこの国でもいい人もいるし悪い人もいる。
日本だってどこだって同じなのである。
前回の訪朝の後にすぐ金正日が死去したので、
奇しくもワシは体制が変わる最後の北朝鮮を見た日本人であり、
そして今回の訪朝で恐らく新体制を見た最初の日本人となるであろう。
そんなことはどうでもいい。
ワシは部長をはじめ、向こうにいる「ファンキー末吉ロック学校の生し徒達」に会いに行くだけなのだ。
「新体制はどうですか?」などとアホなことは聞かない。
「元気かい?頑張ってるかい?」と聞くぐらいである。
恐らくは壁にかけられている将軍様の写真が一枚増えたぐらいで、
何も変わらない平壌の街で現代っ子らしく飄々と暮らしていることだろう。
まあこういう「交流」をよろしく思わない人々もたくさんいることは知っている。
アメリカと日本が戦争をしてた頃、
日本のJazzミュージシャン達は「敵国の音楽」を隠れてラジオで聞いて、
チャーリーパーカーのソロを聞き取れるだけ聞き取って譜面にして同じミュージシャン仲間同士で交換して譜面を完成させていったと言う。
特高に見つかったら「非国民」として投獄されてたであろう時代にである。
まあその頃の事情は本人達でないと詳しくは分からないであろうが、
どちらかというとワシは、それを咎めたり密告したりする側の人間になるくらいなら、
そうまでしてJazzを追求する側の人間になりたいと思う。
最初に北朝鮮に行ってそれがテレビのニュースになろうという時に、
うちの嫁は「子供達がそれによっていじめられたらどうしよう」と心配した。
再婚によって当時いきなり小学生の子供がふたりも出来た嫁は、
その新しい子供達のことを一生懸命心配してくれた。
それに対して、
「何言うてんねん、ファンキー末吉の子供として生まれたんやから、
それによって虐められたりすることがあっても胸張ってたらええねん。
自分の父親がどうやって生きてどうやって死んでいったかはワシが死ぬ頃には本人達にもわかっとるやろ」
と言い放って大顰蹙を買った。
まあでもファンキー末吉という人間はそれほど無謀でもなく、
それなりにブレーキも働く。
もう20年ぐらい前の話になるかな、
中国でこんなことがあった。
当時はアジアブームなるものが始まっていて、
音楽業界は猫も杓子も中国に進出しようとしていた。
ワシはワシで何とか爆風スランプが中国でコンサートが出来ないか画策していたが、
所属事務所はそれには一切手を貸さず、
降って湧いたようにいきなりサザンオールスターズの北京公演が決定したと思ったら、
偶然にもそれがワシが当時アンダーグランドだったロック仲間と一緒に爆風スランプをブッキングした日と同じ日だった。
誰も手を貸してくれない中、
ワシはそれでもがむしゃらにそれを実現させた。
まあ当時この国の鼻つまみ者であった「ロック」の連中と一緒に実現させたんだから、
何億も金積んで実現したサザンと比べたらみすぼらしいもんである。
共産主義独特の許可関係とかにも当然ながら穴がありまくりである。
2日間開催されるラジオ局の45周年オムニバスイベントの初日、
爆風スランプは「客を煽り過ぎた」という理由で突然PAを落とされ、
PAスタッフが警察に羽交い締めにされながら連れて行かれるのを、
また、それを止めようとしたスタッフが殴られているのを、
ブッキングしたロック仲間がその象徴である長髪を掴まれてPA席から引きずり出されてゆくのを、
生音でドラムを叩きながら見ていた。
ワシらは結局ステージを降りなかった。
申請を出した曲を最後まで生音で演奏した。
事務所としては「2日目は中止!!」という決定だったが、
ワシの周りの連中は「強行」を薦めた。
「見たか?今日の観客の興奮を?
許可関係は問題がないんだから明日は出るのよ!!
そしたら爆風スランプの名前は永遠に中国のロック史に刻み込まれる!!」
事務所は当時アウトオブコントロールだったワシにすぐに釘を刺した。
「絶対にダメだからね!!中止だからね!!」
それだけならよかったのだ。
その人は言わなくていい一言をワシに言った。
「そんなことして明日のサザンのコンサートまで中止になったらどうすんの!!」
ワシは激怒した。
「俺はサザンのために音楽をやってるんじゃない!!
お前らは知らんが俺はサザンに養ってもらってるわけでも何でもないだろ!!」
しかし結局は我慢した。
そして数ヶ月後、ワシはひょんなことからビクターの人と食事をしていて、
その人が実はサザンの担当であることを初めて聞いた。
ワシが北京で一悶着あったその話を知らないその人は、
「いや〜あの北京公演が失敗だったら私はクビでしたよ」
と笑いながら言う。
ワシがあの時自分にブレーキをかけなかったら、
子供のこと、家庭のことを嬉しそうに喋っているこの人の家庭はなくなっていたのかなあ・・・
そんなことを考えながら「これでいいのだ」と酒を飲みこんだ。
話が大きくそれてしまった。
そんな時代は今は昔、今では中国でも自由にロックが出来る。
たかだか数年でこの国でロックはアンダーグランドではなくなったのだ。
別に「ロックがこの国を変えた」わけでも何でもない。
「時代がそうなった」だけの話である。
今ワシが北朝鮮の子供達とやっている「民間交流」が、
いつでも誰でも出来るようになる日がきっと来るとワシは信じてやまない。
「時代」がそう動けばワシと中国の時みたいに全てが笑い話になる。
そう動かなければワシはただ戦時中のJazzメンのように地下でそれをやるだけの話である。
出発までまだ時間があるのでもうひとつ書いておこう。
中国に入れ込んでた頃、ある人からこんなことを言われた。
「でも末吉が付き合ってる人達って、
楽器買ったり出来るぐらいだからやっぱり金持ちでしょ。
中国にはその日のご飯も食べられない人がたくさんいるのよ。
末吉は中国のことを全然わかってない!!」
ちなみにその人は一度も中国に行ったことはない(笑)
友達が農村に行ってそんな話をしたからそれを持ってワシにそう言っただけである。
当時日本のマスコミは中国の貧しい部分にしかスポットを当てなかった。
ワシがどれだけ
「中国には日本人より金持ちな人間が1億人以上いるんだ!!」
と言っても誰も耳を貸さなかった。
ところが今となってみると手のひらを返したように今度はバブルに湧く中国にしかスポットを当てない(笑)
今度はワシが言ってやろう!!
「中国の農村にはその日のご飯が食べられない人が何億人もいるんですよ」
と・・・(笑)
北朝鮮はご存知の通り貧しい国である。
しかし前回の渡航でワシは
「平壌は中国マネーのバブルが始まっている」
と書いた。
このことに「?」と思う人も多いと思う。
中国が今や世界第二の経済大国であるというのも「事実」だし、
今だに学校に行けない子供達がそれはそれはたくさんいることも「事実」なのである。
ひとつの部分だけを切り取ってそれが全てだということは出来ないのである。
テレビで見たほんのちょっとの映像や、
人が話していたほんのちょっとの会話だけで全てをわかったような気になってはいけない。
北朝鮮が今どうなのか、
そんなことはワシだって全てを言い表すことは出来ない。
でもワシは平壌のあの子達はどうだったのか、
それだけは言える。
彼女達を通して今の平壌を見ることは出来るし、
北朝鮮全体を想像することも出来る。
自分の目で何も見ずに情報だけを集めて専門家面している評論家の言うことを信じてはいけない!!
自分で取材もせずに放送しているマスコミを信じてはいけない!!
ワシは自分の目で見たことだけしか信じないからこんな人間になってしまったのだ(笑)
中国で初めて黒豹のヤツらに接した時、
「俺たちはロックをやることも聞くことも出来ないんだ」
と言ってた連中に感動して、
その後楽器やCDやいろいろ持って行ってやった。
特に当時ワシがハマっていたピンクフロイドのCDは全作持って来た。
そのせいかどうかわからないが、
北京の有名ロックミュージシャンがインタビューで
「影響を受けたミュージシャンは?」
という質問にピンクフロイドと答える人が多い(笑)
北朝鮮の体制がどのように変わってゆくのかはワシにもわからない。
だけどこの子供達が大きくなって、
また特にこの国は音楽がとにかく生活に大きく関わってる国なので、
いろんな時にまたワシと一緒にやった音楽を思い出してくれればそれでいい。
現在ほんとはやってはいけないことかも知れないけど、
ワシを信用して子供達を預けてくれてるこの幹部の人や、学校の先生や校長先生、
もしそれが悪い結果に出てしまったら自分の身さえ危ないにも関わらず、
それをこうして一緒にやり続けてくれているこの人達が望んでるこたは、
ひとえに「この子達の幸せ」なのである。
ワシはもちろん自分の家族や友達、
日本の友達はもちろんのこと中国や、
そして北朝鮮の友達の幸せも願う。
サザンオールスターズがもう二度と北京でコンサートをやることはないだろう。
でもファンキー末吉はあれからずーっと北京にいる。
6年前に初めて平壌に行った。
そして今もチャンスがあったら行き続けている。
ただそれだけのことなのである。
ほないってきます〜
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