
2022年4月16日
中国ロックを作った男インターネットライブ
日本のロックはいつ始まった?・・・と聞かれても諸説あってなかなかこうだと断言できるものはないと思われるが、ここ中国では明解である。
中国ロックは1986年5月9日、北京工人体育館で開かれた「第1届百名歌星演唱会」にて、崔健が「一無所有」という彼のオリジナルソングを歌ったことによって始まった!!ということに対して反論する中国人は誰もいない。
流行歌手に混じって、左右の長さの違うボロボロのジーパンを履いた若者が、その独特のしゃがれ声で歌う今まで聞いたこともなかったような音楽に、大人たちはおしなべ反感を露わにし、反して若者たちはその新しい音楽に熱狂した。
「俺は何も所有してない」という意味深なメッセージは、天安門事件の時に広場を占拠した若者達に歌われたりして、西側諸国が彼の写真を天安門事件の戦車などと共に多く掲載したこともあり、彼は「反体制のロッカー」というレッテルを貼られ、中国共産党から目の敵にされることとなる。
彼の進む茨の道を横目で見ながら、90年に私が出会った中国ロックの第二世代のロッカー達は、「俺たちのロックは政治とは関係ない」というポリシーと共に、中国共産党が進める経済政策と共に商業的に大成功した。
そんな第二世代のロッカー達だって当時は私にこう叫んでいたのだ。
「俺たちはロックを聞くことも演ることも出来ない!!Fuckin' govermentはロックを恐れてるんだ!!」
確かに中国共産党が「右向け」と言っても、崔健が「左向け」と言ったらみんなそっちを向いたかも知れない・・・
この巨大な国の支配者達が、どうしてそんな若者の好きな音楽ジャンルに対していちいちめくじらを立てなければならない?
それはひとえに「ロックにそのパワーがあった」からである。
その昔、この国のひとりの支配者は、鹿を見せて「これは馬だろ?」と言った。
「いや、これはどう見ても鹿でしょ?」と発言した者はみんな殺された。
だから人々は口を揃えて「これは馬だ」と言った。
これが「馬鹿」という言葉の由来であると言われているが、私にはこの昔話こそが中国共産党がロックを恐れていた理由だと思えて仕方がない・・・
私はとある機会を得て「中国ロックと中国社会」という論文を書いたことがあったが、そこでも書いた通り時代は変わり、今はそんな彼のファンだった若者が中国共産党員となり、そして今回のこの彼のインターネットライブをスポンサーする大企業のお偉いさんになっているのだろう・・・
かくして彼がこの大規模なインターネットライブをやることは、インターネットで拡散され、ここ数日私のタイムライン上は全てその話題で埋め尽くされていた。
ここ銀川の小さなライブハウスでは、そのネットライブを見ようぜというイベントが行われていたので、どうせ見るなら大音量で大画面で見たいなということで行ってきた・・・
いや〜とにかく音がいい!(◎_◎;)
主催者側から何度も「是非イヤホンで聞いて下さい」というアナウンスが字幕で流れて来たが、こうしてライブハウスの音響で大音量で聞くと、ちょっと音は痩せてると感じるものの、ほぼライブと遜色はない。
そしてステージ!!
ライブ前にカウントダウンの分数と共に設営の様子とかメンバーのインタビューとかが流れて期待感を煽るのだが、ステージの三方が映像を流せるスクリーンで囲まれていて、曲とリンクしてステージが変幻自在に変わるのが感動的である・・・
懐かしい老朋友のサックスの劉元やギターのエディー、彼らは崔健の初期からのバンドメンバーだったが、さすがに老けたなぁ・・・まあ人のことは言えんが(笑)
崔健はと言えば、まあ彼も老けたのだろうが昔と変わらん・・・
彼は彼であればそれでいいのだ。
昔私が所属していたアミューズという大手事務所のトップからこう言われたことがある。
「お前らが音楽だけよければ他はどうでもいいと言うアーティストだったとしたらうちは要らんぞ。そんな音楽だけの音楽家なんかうちは全く興味はない」
太ってたら痩せろ、ファッションに常に敏感にしろ・・・
何よりも若者をターゲットにした商売に私はついていけなかった。
当時若者のファッションにズボンをずらして穿いてパンツを見せるのが流行っていたが、「お前らはこの歳でそんなファッションで街を歩けるか?」とメンバーと喧嘩した。
しかし十数年ぶりに見た崔健は相変わらずのシンプルな服装で、相変わらず「ファッション」とか「流行」とかに全く関係なく、トレードマークの赤い星(彼は生粋の愛国者で、これは中国を意味しているのだろう)のキャップを被って無精髭を生やしている。
相変わらずのしゃがれ声で、相変わらずの全くサービス精神のないMC(笑)
変わったのは「テクノロジー」だけで、そんな全く変わらない彼を世界最高のテクノロジーがただただそれをサポートする・・・ただそれだけである。
彼がそれに乗っかって何か自分を変えるということは全くない・・・
彼の音楽は、バンドサウンドから変わってCuBase(当時)による打ち込みに傾倒していってからあまり聞かなくなったが、昔のヒット曲(と言っても彼の楽曲は大っぴらにメディアに乗ることが出来なかったのだが)を昔風のまま歌うこともあり、大きく変えるアレンジもあった。
「不是不明白的」という、中国では最初に中国語でラップをやったと言われている楽曲では、昔のアレンジとは全く異なり、テンポを落とし、電子系を取り入れて、まあそれでも「今風」ではないのだが、彼独特の世界観なのだろう、昔のファンとしては最初はちょっとがっかりしたが、最後には拳を振り上げて画面に向かって「イエー!!」と叫んだりしている・・・
途中彼はKORGのシンセかなんかでノイズを発生さえてソロパートをそれでパフォーマンスしてたが、それがまた素晴らしい!!
テクノロジーは「使う」ものであって「使われる」ものではないんだということを彼はその「人生」で胸を張ってそう伝えているような気がした。
ネットで流れて来た、このライブを見ている人からのとあるメッセージ、
「他に誰がいる?天下の宝刀まだ衰えず、初心と全く変わらない」
「ここにもいるぞ!!」と叫びたかったが、残念ながら私の人生は彼に比べたら紆余曲折、死ぬまでには私もそうなりたいとがむしゃらにドラムを叩き続けるのみである・・・
3時間を超えるネットライブはあっという間に終わり、アンコールは「視聴者が1億人を超えたらアンコールするよ」とアナウンスが流れる!(◎_◎;)
この時点で視聴者4000万人、「いいね」は既に1億を越している。
日本で、いや世界でこれだけの視聴者を集められる人間がどこにいる?!!(◎_◎;)
画面は主催者が彼に対する長いインタビューに切り替わり、その間にライブハウスでは彼の曲を大音量で流す。
「一块红布」という彼の昔のヒット曲だ。
(このブログ記事でこの曲のことに触れてます)
共産党の色である赤い布で目隠しをしてこの曲を歌う彼の意味深なパフォーマンスに中国共産党は激怒し、それから今に至るまでこの曲をこんなインターネットライブでさえ正規に演奏することは出来ない。
だがロックを愛する若者はみんなこの曲を愛している。
ライブで聞けないならライブハウスで大音量で聞いて合唱する。
Rock'n Roll never die!と西欧人は言った。
中国ロックがどれだけ商業化されていっても、私が愛した中国ロックは決して死んではいない!!彼の歌声が、いや「生き様」が私にそう強く感じさせた。
私も彼のように胸を張って我が道を生きてゆこう、
「それがロックなんだ」
そう強く感じた夜だった・・・
Posted by ファンキー末吉 at:10:46 | 固定リンク
2022年1月25日
日本の著作権に対する考え方はおかしい!!
ITが日本より進んでいることはもう既に周知であろう中国であるが、私にとっては音楽著作権に関しても日本より進んでいるとしか思えない・・・
先日の話
からついに今日、インドネシアの国民的ロックバンドのプロデューサーとして2曲お仕事をやらせて頂く契約書にサインをした。
これがまあ中国語なので大変!!(>_<)
布衣の弁護士に手伝ってもらって、まずこの2曲、X.Y.Z.→Aのニューアルバムのリーディングソング「Wonderful Life」
と、中国で私が映画音楽を担当させて頂いて、それがその年のタイタニックを抜く興行成績を更新したという映画の挿入歌!!
この「使用権」をインドネシアのバンド(っつうかそのバンドの事務所)に売り渡すことになる。
ちなみに日本ではJASRACに売り渡すことになるが、JASRACはそれを「国民の皆様は自由に使っていいよ、これはもうJASRACの曲だから」ということで、「もうお前の曲ではない!!JASRACの曲なんだから作家であろうが勝手に使うな!!」と言われる(JASRACとの裁判記録より)
ところがJASRACは私に「使われた分だけあなたに分け前を差し上げます」と言うが、「それってどのように分配されてるんですか?」という問いには一切答えない!!
深く掘り下げれば私のように裁判沙汰になって身包み剥がされるというものだ・・・
ところが国際的には(っつうか中国しか知らんが笑)「権利を全て譲渡する」というからにはその対価が必要である。
そうでなければ中国のように「権利は全て作った人にあります、私たちはそれをプロモーションさせて頂いてその対価のみを頂きます」みたいな契約になるのが常である。
(ブログ記事:今や中国の著作権ビジネスは日本より進んでいる?!)
今回はJASRACとの契約のように、「この曲はお前の曲ではない、俺の曲なんだからお前が勝手に使うな!!」という契約なのだから、必然的ながらその「範囲」を特定する必要がある。
JASRACの場合「日本国内の全て」であるのだが、この契約書の場合「インドネシア国内のみ」なら何も問題がなかったところ、当然ながら向こうから提示された契約書には「全世界」という項目がある(>_<)
まあ今の時代、ネットに上げるというのが「国内のみ」というのは難しいということでこのような項目にしてると言うが、布衣のマネージャーが
「キー!!そんなことないわよ!!私たちの曲も中国国内に限定してるから日本では買えないでしょ、キー!!!」
まあこの辺になるとワシはようわからん(>_<)
そうそう、契約って難しいのよね〜・・・特にこれ、私にとっては外国語(涙)
日本のようにほぼJASRAC一択で選択肢がないのとは違い、今は昔、中国ではちょっと契約を間違えればとんでもない事態になってしまうというから大変である(>_<)
先方の法務部と布衣の弁護士との熾烈な戦いは始まる・・・
まあ布衣にとっても、私が書いた曲だとは言え、自分とこの代表曲が一枚の契約書によって自分が自由に使えないようにされたらたまったもんじゃない。
X.Y.Z.→Aにしたってそうである。
この素晴らしい楽曲を、この契約書一枚のために英語バージョンも作れないとか、X.Y.Z.→Aの最終目的であるアメリカとか他の諸国で発売出来ないとなったら本末転倒である(>_<)
最終的に落ち着いた項目は、
「この楽曲のインドネシア語バージョンについての権利は」
ということである。
これは私の拙い中国語で先方の法務部と布衣の弁護士には強く主張した。
余談になるが、実はこれは「日本語バージョン」ということにも大きく通じる根本的な問題である。
「リゾ・ラバ」という楽曲の契約更新の時に、出版社から提示されている「全世界」という項目に、私は出版社に対して疑問を投じた。
実際、中国で私のドキュメント映像(こちらでは伝説のドラマーなので、もう既に数本撮られてある)で「おおBeijing」という楽曲の私が歌っているバージョンが使われている。
「それを使いたい」という別の会社が現れて、その著作権管理を日本の出版社に問い合わせたところ、「全世界契約であるが、自分たちは何も出来ない」という回答・・・じゃあ出来ないなら私がやります!!
・・・こんな簡単なことが日本では通用しない。
この国で実際に使われているのだからお金徴収してよ!!
いやうちはその国では支社がないので徴収出来ない!!
じゃあ自分で徴収するわ!!
それは許さん!!
というのは道理に外れてない?
ちなみに「楽曲」というのは日本では「曲と詞を含めて楽曲である」とされている。
だから、日本ではRunnerの歌詞が本に載ったとしても、印税は作曲者である私にも振り込まれる。
逆もまた然り、インスト版のRunnerが発売されても作詞者である中野に印税が振り込まれる。
しかしこれは「法律」ではなく、分配をスムーズにするための規則をJASRACが定めて、それを文部科学省が認可したに過ぎない。
(JASRACとの裁判の中で学んでこと)
私が自分のメロディーを、別の言語で使用するとしたら、日本国内では全ての権利をJASRACに譲渡してるので例え別の言語であろうがNGであるが、もし、自分が海外で、この「メロディー」を別の言語で自分が使用して、それが作詞者である中野の権利を侵害しているのかという問題となると、これはまた全く違う!!。
日本人であるからイメージがピンと来ないかも知れないが、私が外国人であって、たまたま日本に来ていて楽曲を発売して、それがヒットしたと考えて頂ければクリアになると思う。
それをもし自分が帰国する時に母国に持ち帰って自分の言語で歌うことが出来ないというのは、どう考えてもおかしいであろう!!
当然である!!私が書いたメロディーなのだから、なんで(私が外国人の場合)外国で発売したからと言って自分の母国でもそのしがらみに縛られなきゃならないの!!ということである。
つまり、契約書に「全世界」とあるなら、「おおBeijing」が中国で使用されている現実において、もしあなた方がその権利を「全世界」で主張するのであるならば、全世界においてその対価をそこから徴収して下さいよ!!ということである。
出来ないなら「全世界」という項目を主張する資格はない!!
子供でもわかるようなこの道理が「契約の世界」では通用しない。
つまり「子供騙し」が通用するのがこの「契約の世界」なのである。
ちなみに「リゾ・ラバ」に関しては、今回契約更新の時に外国の条項を外してくれた。
つまり外国においては、私が自分の「メロディー」を自分で管理出来るようになったわけである。
(それが当然の形)
今回のようにインドネシアとか日本以外の国に自由に「売買」が出来るわけである。
(ちなみに日本の出版社がそれをやってくれるのであれば私はそれを任せてもよい。でもやれないのに権利を主張するのは道理が通らないと私は思う)
ちなみに日本語詞を作ったのは中野なのだから、世界中の何ぴとたりとも中野の許可なくしてその詞を勝手に使ってはならない!!
これは当然である。
同様に布衣のヒット曲「我爱你亲爱的姑娘」は作詞は布衣のボーカルLaoWuである。
布衣の弁護士にしてみたら、これを世界中で勝手に使われたんじゃたまったもんじゃない!!
だからインドネシア側に対してこちら側がとてもこだわったのが「翻唱(外国語曲を他の言語でカバーすること)」という項目である。
つまり布衣にとっては「翻訳するな!!メロディーはFunkyのだからこの契約でどうにでもしてくれ、でも歌詞の権利は死守する!!」
この戦いが凄かった!(◎_◎;)
どうやら「翻唱」という言葉を入れないと文章がなり立たないのか、先方は最後までこの言葉を使うが、布衣としては「原詞を訳すな!!全く違うものを作れ!!」という戦いが細かい中国語の「言い回し」として争われてゆく・・・(>_<)
ワシの中国語レベルではわからんがな(涙)
いや、布衣の弁護士は布衣の権利を守るために戦っているのであって、決してワシのために戦ってくれているわけではない。
(まあ結果ワシの権利を守ってくれてるわけではあるが)
だから「じゃああんたら直接戦って!!」というわけにはいかない(>_<)
先方から送られた契約書を布衣の弁護士に転送して、マネージャーを通して意見を聞いて、それを中国語で先方に返して・・・必ず自分は間に立たなければならない(涙)
もうね、「音楽を作る」というよりも大変(>_<)
でも数回の熾烈なやり取りが終わって今日めでたく契約が締結された!!\(^o^)/
この戦いでキモになったのは「範囲」。
これはこちら側が「インドネシアに限る」という条目を提示したのに関して、先方は最終的にアメリカを含む数カ国を指定して来た。
(その代わり、当初の契約条項よりも更に使用料を追加してくれた!(◎_◎;))
インドネシアで一番成功してるロックバンドなのだから、世界を目指すのは当然のことである。
しかし、アメリカに関しては大きな問題が起こり得る。
万が一X.Y.Z.→Aがいつかその悲願であるアメリカ進出を果たして、その時にこの契約書の条項のためにアメリカでこの曲が自由に使えないとなった時はどうすんの?!(◎_◎;)
これは布衣の曲についても言えるので、弁護士は重箱の隅をほじくるように契約内容をチェックする。
問題は、「インドネシア語のバージョン」という大前提があったとしても、それを更にアメリカとかで「翻唱(外国語曲を他の言語でカバーすること」された場合の権利についてである・・・
ワシの中国語力ではわからんし(涙)
まあ「布衣の権利を守る」ということは、「X.Y.Z.→Aの権利も守る」ということなので、今回最終的にこちら側の弁護士が最終的にOKを出して、やっと契約締結となったという現状である(涙)
さて余談であるが、この高度な契約の戦いの後に非常にお粗末な実務問題なのであるが、先方から送られて来た契約書に署名とハンコを押して送り返さねばならない・・・
しかしこのデジタル社会の中で「朱肉」なんぞどこに売ってるの?!(◎_◎;)
・・・ってか「朱肉」って中国語で何て言うの?(涙)
毎日詰めている銀川のドラムスクールに身振り手振りで説明してやっと朱肉ゲット!!
署名と母印を押して送り返して、それが先方に届いた時点で「契約締結」・・・
するとどうなるか・・・
契約条項にあるように、私は10日以内にアレンジを完成させて先方に送らなければならない・・・
その代わり、先方は私に・・・おそらく日本人の作家達にとっては信じられないような額の「使用料」を前払いしなければならないのだ・・・
(ちなみに税務署さん、まああなた方にとっては大した金額ではないかも知れませんが、国際業務なので契約書の人民元の額をその日のドルレートに換算して日本円にて日本の口座に振り込まれますので)
さあ、日本の作家さん達?あなた方は今、日本で作詞作曲の仕事をしたって、発売されるまで一切お金になりませんよね?
例え発売されたって数ヶ月後、もしくは1年以上経った忘れた頃にJASRACから明細と共に振り込まれる。
しかしそれがどういうシステムで分配されたかは絶対に教えてくれない。
しかし、中国では(おそらく国際的には)まずお金をくれる。
そしてその「権利」は永遠に「自分」にある。
その使用権の範囲、使用料等は自分で決めることが出来る。
もちろん日本のように使われたパーセンテージでの契約も望むのであれば可能。
特筆すべきは、パーセンテージ契約には必ず「アドバンス(前払い金)」がある。
(っつうか私にとってはこれしか興味がない笑)
作家の皆さん、JASRACの明細書にはこのアドバンスの項目があるでしょ?でも誰もそれって使ってませんよね!!
中国では逆にそれはあって然るべきもの!!
先にお金貰わなければどうして後にいくら入るかわからないという労働が出来るの?・・・この辺が逆に私には日本の作家さん達の感覚がもうわからない・・・
あなたが作った曲は「あなたのもの」なのです!!
無償でどっかの団体に「売り渡す」なんてもっての他です!!
著作権者は「無償で」JASRACに全ての権利を売り渡す、
アーティストは「給料」で全ての権利を事務所に売り渡す、
こんなことがまかり通っているうちは日本の音楽文化が華開く事はありえないと思うのは私だけですか?!!
まあ私は自分の曲は自分で管理したい。
「リゾ・ラバ」が日本国内以外を外れたのであれば、これをインドネシア語をはじめとして、あらゆる全世界に売ってゆきたい。
そう思うのは作家として当然でしょ?
それを日本の会社がやってくれるのなら、私はその言語のバージョンのみ日本の会社と契約します。
それが出来ないなら私は中国でもどこでも「外国の」会社と契約します。
私は「作家」!!
国境を越えることが一番簡単であるべき「メロディー」を生業にしている・・・
このメロディーはこの国に、このメロディーはあの国に・・・売れるところがあれば売りに行く!!
当然のことである!!
それが出来る会社に売り渡すならともかく、それが出来ない会社と契約して一生縛られて「これはお前の曲ではない!!」って一体何のメリットがあるの?
ただ契約なのだから絶対に守らねばならない・・・
X.Y.Z.→Aの「Wonderful Life」はもう納めたが、「我爱你亲爱的姑娘」を10日以内に納めなければ大変なことになる・・・(>_<)
相手はロックバンド!!ピコピコの打ち込みばっかで作り上げれられる音楽の種類でもない・・・
ギターソロとか、自分で機械で打ち込むよりギタリスト呼んで弾いてもらった方が早いし〜
ちょっと地元のギタリスト〜ソロ弾いてや〜
ギャラは先日買った冷凍オーストラリアンステーキとワイン!!
仕事やからな!!一生懸命仕事してるんやからな!!しゃーないなぁ〜・・・
インドネシアプロジェクト!!正式に始まりました!!!
Posted by ファンキー末吉 at:03:33 | 固定リンク
2021年10月11日
疯狂的石头(Crazy Stone)サントラ盤制作
もう20年近く前の話になるのではないか・・・この映画音楽!!
日本では全く知られていないが、中国ではその年のタイタニックの売り上げを超える大ヒットとなった映画音楽を実は私がやっていた・・・
これには色んな話があるのだが、実は友人の友人で寧浩(NingHao)という若い映画監督がいて、その友人から頼まれた・・・
「撮影で予算使い果たしちゃって、音楽を付ける予算があと4万元しか残ってなくて、誰もこんな安い値段じゃやってくれないって困ってるんです。末吉さんやってくれませんか?」
北京にスタジオを作ったばかりで、そこで録音すれば別に他所に出てゆく経費もないし、まあ若い才能を助けるのは「ライフワーク」だから喜んで引き受けた。
後で知ることになるのだが、4万元と言うと約60万円・・・当時は中国の映画バブルは始まっていて、映画音楽だとゼロがもうひとつは付くというのが相場だったので、いわゆる「タダ同然の仕事」である。
実はこの寧浩(NingHao)という監督が自分も昔バンドをやってたりして、音楽には非常に思い入れがある人間で、結局1ヶ月かかって作った音楽を全部作り直したりもした(涙)・・・
まあ誰もが「こんな低予算の映画なんか売れるわけはない」と思ってたわけで、私も
「彼の初監督作品を、思い残すことないように自分の出来ることは何でもやってあげよう」
と思ってたので、まあ非常に辛い制作活動ではあったが、彼のためにと頑張ってやってあげた・・・
ところが最後の最後で監督が数場面の音楽にどうしても納得しない(>_<)
もう私も数ヶ月こればっかりやってるので限界で、監督が
「じゃあ別の人間を立ててもいいか?」
と言うのでさすがに私もOKした。
その人間が原芸(YuanYi)という、当時は売れないバンドのキーボーティストであった。
「おお、お前か〜・・・じゃあよろしく頼むわ!!」
既に面識があったので話は早いと思ってたら、彼は数曲作った後に監督のあまりの神経質さに嫌気がさしたのが逃げ出しよった(怒)
監督が「じゃあこの場面についてミーティングしよう」と言うのに電話も出やがらない!(◎_◎;)
もうね、私なんかこれをずーっと数ヶ月やり続けているのに、たった数日で逃げ出すとは何事だ!!と私は怒りが収まらないが、音楽監督としてはちゃんと仕事は完結しなければならないので、煮湯を飲まされてるような気持ちで(飲んだことないから知らんが)最後まで仕事をやり遂げた・・・(涙)
そして誰も想像もしなかった事態となった・・・この映画が中国映画史上稀に見るほどの大ヒットとなったのだ!(◎_◎;)
ポスターにはでかでかと私の名前と彼の名前が書かれている・・・
それからである、彼の大進撃が始まったのは・・・
彼は「この映画の音楽は全部自分が作った」かのような触れ込みで映画音楽家として大成功し、若い音楽家を何人も雇って、自分の名前で仕事を取って来ては彼らにやらせて、まるで「音楽工場」のように仕事を量産して大金を稼いだ・・・
数年後彼と再会した。
誰かと飯を食ってる時に彼も呼ばれたんだったと記憶しているが、彼はブランド物の高そうな服に身を包み、見るからに高価な装飾品を身に纏っていた。
その身なりにカチンと来たが、彼はと言うと、やはり私に対して負い目があるのだろう、それはそれは平身低頭な態度で私に接する・・・
それがまた卑屈に感じてカチンと来るのだが、中国では人と喧嘩してはろくなことがないので煮湯を飲まされる思いで(飲んだことないから知らんけど)我慢した。
それから大音楽家になった彼の仕事も呼ばれてやったりするが、今だに彼の私に対する態度はそんな感じである・・・
そんなこんなで十数年、ここに来て「この映画のサウンドトラック盤を出さないか」という話が来た。
こんな大ヒットした映画のサントラが今まで出てなかったのには理由がある。
今でこそ中国の権利関係には日本なんかより厳しいが、昔は昔である。
香港の会社なのでそれでもちゃんとしようと思ったのか、「契約書にサインしてくれ」と言うが、あいにくその日は私は北京にいなかった。
会社は困って院子にいた嫁に「じゃあ貴女でいいからサインして下さい」ということで嫁がサインした!(◎_◎;)
というわけで私はどんな契約書だったのかも知らないというのが現実である(笑)。
こんなものが有効なのかどうかはわからないが、エンディングテーマを作って歌ったラッパーが「この曲を発売したいんだけどいいですか?」と連絡して来た。
「いいも悪いもお前が作ったんだから俺は別に意見はないけど、映画会社が権利を主張して訴訟になるかも知れないよ」
と警告はしておいたが、
「いいんです。訴訟になれば話題になってますますこの曲が売れますから」
と言うので「さすが中国(笑)」と感心した記憶がある。
そんなこんなで、この挿入歌を私がプロデュースしたデビューアルバムに入れようという布衣にも同じこと「もし訴訟になったら話題になってアルバムが売れるから入れちゃえ入れちゃえ(笑)」とこの曲のフルバージョンを作って入れて、今では彼らの一番のヒット曲になっている。
それによって私と作詞をしたボーカルのLaoWuは当時著作権がまだ確立してなかった中国では数十億円「儲け損ねた」ということになるのだが、まあそれも笑い話として笑い飛ばしている(笑)。
実は数年前から「サントラ出しませんか?」という声はあったのだが、そのマルチがもうどこにあるやらわからない(>_<)
権利関係もクリアではないのでぶち捨ててたのだが、ここに来てその音源が見つかった!(◎_◎;)
「布衣がこの歌を歌ってて誰も何も言って来ないんだから権利関係は大丈夫でしょう」
と布衣のマネージャー・・・
そもそもどんな契約書だったのかも見たことないのだから、私からは何も言えることはない。
発売元がその事情を知った上で発売したいんだったら「じゃあいいですよ」としか言いようがないので、その制作が始まった・・・
何故「制作」しなければならないかと言うと、実はこの映画音楽にはたくさんの中国民族楽器が使われている。
これは私から監督への助言で、
「重慶の土着のストーリーなんだから民族楽器を多用しよう!!その方が国際的に評価される映画になるから・・・中国人音楽家だと民族楽器に対して固定概念があるから逆に使いにくいけど、私は中国の民族楽器を一番理解している外国人音楽家。任せなさい!!誰にも出来ないような素晴らしい音楽をつけてあげるから」
ということで多用したわけだが、これがまんまと成功して、今だに
「あの映画の音楽は他とは全く違う」
と評価が高い・・・
ところが、効果音的に1秒だけ琵琶とか、そんなものがたくさん並べられてもサントラ盤にはならないので、そんな短い曲(?)は繋ぎ合わせて一曲にしてしまえ!!と思い立ったが最後・・・こうして今、自分で自分の首を絞めているというわけだ(笑)
まあ時間のある時にちまちまと作業して、琵琶は琵琶曲、ギターはギター曲ということで何とか「曲」にして納めた。
ところが発売元からこんなメッセージが来た・・・
「冒頭のピアノ曲は入ってないんですか?」
ピアノ曲は原芸(YuanYi)が作ったものなので私が勝手に使うわけにはいかない。
それに、個人的にはこれを聞いた途端に私は嫌な気分になるのだ(>_<)
そもそも私はキーボードを弾けないので、彼のように画面を見ながら「ちょちょいと」ピアノを弾いて「一瞬で完成」というわけにはいかない。
画面を見ながらテンポを打ち込んで、それに合わせてちまちまと音楽を打ち込み作業をしなければならないので彼の数倍時間がかかるのだ・・・
それを本当に「ちょちょい」と数時間だけやって、それでオイシイ所だけ全部持って行った彼が憎たらしい・・・
私はその後、この映画の大ヒットを受けて、私が受けた安い値段まで有名になってしまったので、同じような「タダ同然」の値段で何本か映画音楽を受けて、数ヶ月同じ格好で・・・と言うのも、日本から院子に遊びに来た友人が、朝私の仕事してる姿を見ながら街に出かけて、夜になって帰って来た時に「ファンキーさん、全く同じ格好でずーっと仕事してたんですか!(◎_◎;)」ということから「同じ格好」と言うのだが、それをひとつの作品で数ヶ月続けるわけだから、そのうち嫌になってもう映画音楽はやらなくなった・・・
そんな私に比べて、原芸(YuanYi)と来たら「上手いことやりやがって!!」・・・そう、私が彼に対する嫌悪感は、上手くやれなかった自分の「嫉妬心」なんだなと最近わかって来た。
今更ではあるが、エンディングクレジットの原芸(YuanYi)は、ポスターとは違って「音楽編集」になっている・・・
監督の私に対する「誠意」が今更ながら伝わって来た・・・(いや彼は一日で逃げたから編集もやってないが・・・笑)
もう60歳も過ぎて、今さら若い衆に嫉妬してどうする・・・
というわけで、映画に入っている全ての音楽を全部洗い出して表にする・・・
50数曲作った中で、彼が作ったのはほんの数曲・・・まあまた面白くない感情は湧き出て来るものの、映画を全部通して見ると、彼の数曲は「私には出来ない感性」が確かにある!!
例えば喧嘩をする場面、そこに私はロックなど暴力的な音楽を当てていたが、彼はそこに例えばピアノとバイオリンを使って(ホント簡単で腹が立つ笑)悲しい音楽を当てて来る・・・
確かに「喧嘩をしなければならない状況は悲しい」のである・・・
私は私でこだわりがあり、物語のキーとなる「宝石」が出て来る所には琵琶の音色、悪徳不動産屋はエレキギター、重慶の田舎泥棒にはバンドのサウンド、香港の泥棒には電子系と、コンセプトに基づいて音楽を当てているが、彼はピアノとバイオリンでそのコンセプトをぶち壊したことになる・・・
ところが効果は大きい・・・私はあまりにもそのコンセプトに縛られ過ぎて、もういくつかの場面にはそのコンセプトで音楽は当てられなくなってしまったのだ・・・
「Funky、映画音楽で一番何が大切か教えてやろう・・・それは"气氛(QiFen)"それが映画音楽の全てだよ!!」
監督が私にそう言った・・・結果原芸(YuanYi)が付けた音楽は「正しかった」というわけである・・・(>_<)
いや〜それにしてもこの映画音楽はよく出来ている・・・(感涙)
原芸(YuanYi)が付けた部分を除いて、知る人しか知ることが出来ないが(笑)、各楽器によって登場人物を表現しているコンセプトも素晴らしい!!
作品が売れるということはやはりそんなことなのだ・・・
人知れず「思い入れ」がその作品を上に押し上げている・・・
そんな感想を改めて感じた・・・
主役の郭涛(GuoTao)が私に言った。
「主役の私も音楽の貴方も何の賞も貰えなかったけど、貴方の音楽がなければこの映画は絶対に成功してなかった!!」
かく言う彼は、無名だった役者が中国では知らない人はいないほどの大俳優になった。
私だけが「上手くやれずに」今だにこんな感じである・・・
でもそれでいいのだと思う。
私はこの若き監督、寧浩(NingHao)のために数ヶ月の時間を費やして、自分の「思い入れ」をいっぱい詰め込んでこれらの音楽を作った。
それによって寧浩(NingHao)は有名監督になり、主役の郭涛(GuoTao)も大俳優になり、ちょちょいと数曲だけやって逃げた(笑)原芸(YuanYi)も大音楽家になった。
そしてみんなが私に感謝している・・・
私は「ドラマー」なのだ!!
コンテストに出ても賞など取ったことはないが、誰もが一目置く「優秀な」ドラマーである!!
いつも若い衆にこんなことを言っているではないか!!
「下手なドラマーは"ドラムが下手くそ"だと評価される。いいドラマーは"いいバンドだね"と評価される。ドラム人生とはそんなもんだよ・・・」
十数年ぶりにじっくりと全て見させて頂いたこの映画・・・本当に「いい映画」である!!
クレイジー・ストーン ~翡翠狂騒曲~ [DVD]
yass22 (コンディションと商品説明を、お読み下さい)(日本郵便で発送致します。)による
詳細はこちら:
https://www.amazon.co.jp/dp/B001B8GDA6/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_8TKPKDCQJQ0GTV8E2PQC
Posted by ファンキー末吉 at:06:49 | 固定リンク
2021年8月13日
教え子・・・
泉くんというドラマーがいる・・・
もう30年近く前になるだろうか、アメリカのバークリー音楽学院を卒業して、「日本に帰るのもなんかなぁ〜」ということで北京に来て、その後北京現代音楽学院の先生をやりながらJazz活動などをやっている。
当時は音楽学院と言うとクラシックを教える学校がほとんどで、ロック、Jazz、ポップスなどを教えるところは本当に少なかったので、今になってみると、中国の音楽界で活躍しているドラマーはそのほとんどそこで泉くんに教わったということになる。
先日のドラムフェスティバルで会ったドラマーも
「俺は泉先生の生徒だよ、こいつも。まあ中国のほとんどのドラマーはそうだよ」
などと言っていた(笑)
こいつら
それはそれで凄い話なのであるが、私はと言うと、「誰に師事した」というのもなく、まあ心の師匠としては村上ポン太さんなどがいることはいるが、実際ドラムを教わったこともない・・・
まあどんな楽器もそうなのであろうが、ドラムもある程度の技術を持つと、あとは生き様というか、なんかもっと別のものが大切なような気がしている・・・
中国では「ドラムを教えて下さい」とやって来る若者がたくさんいた。
(こんなヤツもいた)
(こんなヤツも)
もう最近では「じゃあ1年俺と一緒に生活しろ!!」と言う(笑)
「包丁一本サラシに巻いて〜」という歌があるが、その昔日本の料理人の世界でも、弟子入りして数年は包丁も握らせてもらえないという話があった。
毎日毎日皿洗いをしながら師匠の仕事を見る。
「ああ包丁を握りたい」と思っても「まだ早い!!」と言って怒鳴られる。
数年経って、「もういいだろう」になった頃、スポンジに水が染み込むように教えが浸透してゆくという話だ。
ドラムだって同じだと思うぞ・・・
「俺のドラムを学びたかったら、まず俺の生き様を見ろ!!それがロックだ!!」
などと言って突き放す(笑)
実際それについて来た人間というのは、実はドラマーではなくキーボードの張張(Zhang Zhang)!!
「僕の全てはFunkyさんから教わったんです」
と言うが、さもありなん、出会った時はコード3つしか知らなかったんだから「全てを教えた」と言っても過言ではあるまい(笑)
まあ自分自身が人から教わったことがないわけだから、「人に教える」ということは、私にとってはそれはそれは大変なことである。
「クリニック」と言って呼ばれるものは、「1日だけ」教えるわけで、必然的に「生き様」など教えられるわけもなく、「上っ面のテクニック」だけを教えて帰ることとなる。
まあ呼ぶ方もそれで満足なのだから別に問題ない(笑)。
こちらもそこに誰がいたのか覚えていて、その生徒の将来を案じて・・・とかも全然ない(笑)。
そうでない場合はと言うと・・・北朝鮮でロックを教えるプロジェクト!!
彼女たちはこの私の「ロックの愛弟子」だと思ってるし、最後に教えた一平(イルピョン)などは、「Funkyさんは私の最初のドラムの先生です」と言っていたのでやっぱ「教え子」である(笑)
朝鮮総連のイベントに出演して、平壌に行く団体があると言うことで、ファンキー末吉モデルのスティックを彼に渡してもらうように、ステージ上からそれを託した時に、
「会いたい人に自由に会いにも行けない世の中にしたのは私たち大人です。あの子たちにそんな世の中を変えてもらいたい」
とスピーチしながら泣いた・・・
「日本人は悪い人ばかりだ」と教わって育った彼らに、「敵国の音楽」である「ロック」を教えた・・・
短い時間ではあったが、そのこと自体が「ロック」であり、「生き様」を教えたことであると思っている。
今はドラムを叩いてないかも知れない。
でもどこかに私と共有した時間を覚えていて、それを抱きながら「世界をもっとよくしよう」と頑張って生きているのだとしたら、それこそ紛れもない「私の教え子」である!!(涙)
まあ北朝鮮にはいたとしても、この中国にはなぁ・・・と思ったらいた!(◎_◎;)
これはある大学生から布衣に宛てたファンレターである。
そこには大体こんなことが書かれている。
「自分は大学生で、今バンドをやってます。
実は自分は山東省临沂の出身で、2010年ぐらいにFunkyさんが地元の大劇場で演奏するのを見ました。
(注釈:これか?)
その頃自分はまだ8歳だったので、わけもわからずそれを見てましたが、Funkyさんの爆発力に震撼させられ、わぁ〜ドラムってこういう風に叩くんだ〜と思いました。
その後頑張ってドラムを練習してましたが、16歳の頃、学業とのプレッシャーで続けることが難しくなって来ました。
ところがある日、ひょんなことからFunkyさんのドキュメント映像を見て、電気に打たれたようなショックを受けました。
それからFunkyさんの映像を探しては見たりしてたのですが、自分が一番感激したのはFunkyさんの生き様です。
あの時、何もわからない小学生の子供だった私が、あの日もう一度スティックを手にしてドラムの前に座りました。
思えばあの10数年前のFunkyさんの演奏、あれが私のロックの扉を開いたんだと思います」
おったんやなぁ・・・シミジミ
似たような話で彼女!!
彼女も小さい頃、青島の私のクリニックに参加してたらしい!(◎_◎;)
その時の様子・・・
その後打楽器奏者への道を歩み、今では世界の色んな賞を受賞してミュンヘン音楽学院への留学が決まっているという・・・
もうね、彼女の演奏が凄いのよ〜・・・
もうね、スネアという楽器だけ取るとワシより断然上手い!!(>_<)
彼女のプレイから「ロック」を感じるのは私の贔屓目?・・・
お父さん曰く、「小さい頃に貴方の演奏を見たのは大きく影響してるだろう」とのこと・・・
彼女からこんなメッセージが送られて来た・・・
「先生、私はあなたのことが大好きです!!!!ずーっとあなたを尊敬してます。
当時私を認めてくれて励ましてくれてありがとう御座います。
これからもあなたから学び続けます!!!」
ってあーたドラムセットは別にして、打楽器奏者としてはもうワシからなんぞ学ぶことなんかないやろ!!(笑)
そう言えば彼女もやっぱ私の色んなドラム映像を見まくっているようじゃのう・・・
ネット社会の新しい影響力やな・・・
まあどこで誰に撮られてアップされてるかわからん世の中やから、毎回毎回悔いが残らんように叩いとかないかんのう・・・(>_<)
また先日の河南省開封での美女!!
一番前のど真ん中に陣取ってワシばっか見て、ワシにばっか質問!(◎_◎;)
ワシが男前やからと思ったらそうでもないらしい(笑)
「ドラムのチューニングについて教えて欲しい」
と言うのでLaoWuが「じゃあリハ時間に会場おいでよ」ということでちょっとしたクリニック・・・
そして彼女はこの夏休み、わざわざ銀川までやって来て2日間私のクリニックを受講した!(◎_◎;)
その時に聞いたのだ、彼女も実は小さい頃唐山のクリニックに来てたと・・・
このブログの中でも書いているが、ここのドラム教室の先生もこの時の北京でのクリニックを見に来ていたらしい・・・
そんな連鎖の中で今も私はこの活動を続けている・・・
大事なことは「今もやり続けている」ということである。
もしやり続けていなかったら、冒頭の若者は「ロックの扉」をこじ開けられて(笑)再びスティックを持つことはなかったかも知れない・・・
(その方が貧乏ロッカーより幸せか?笑)
全中国を廻る活動は2008年からだが、大きい会場では1000人以上入ってたわけだから、100本廻ったとしたら、少なく見積もっても数万人の子供ドラマーが私のドラムを見ている・・・
その多くはきっと受験戦争とかでドラムをやめてしまってるだろうが、何人かはまたスティックを手にして、私から受け取った「爆発的な感情」を胸に抱いて新しい人生を生きているのかも知れない・・・
1回その土地に行ってドラムを叩いたからと言って「教えられること」なんかほとんどない。
上っ面のテクニックとかじゃなくて、何らかのこの男の「生き様」を感じ取ってくれさえすれば、それが私の一番「教えたい」ことである。
「教え子」と呼べる人間はほとんどいないが、
でもその「生き様」がその子の人生を大きく変えたのだとしたら、それはそれで立派な「教え子」なのではないか・・・
多くの教え子達に恥ずかしくない人生を送らないかんのう・・・
そんなことを思う今日この頃であった・・・
Posted by ファンキー末吉 at:06:27 | 固定リンク
2021年8月 1日
ドラムレッスンの内容
年がら年中ツアーをしている人間としては、定点で決まった人にドラムを教えるというチャンスがない。
だから必然的に全中国を廻って大勢の生徒の前でやることと言えば「One Time Clinic」のみであった。
ところがここ寧夏回族自治区銀川に居を構えて、隔離明けからツアー開始までの間に生徒を募ってみたら、想像以上の生徒が私から学びたいらしく、遠くは北京や河南省や内モンゴルから泊まり込みでレッスンを受ける生徒も現れた。
ひとりの人間にマンツーマンで何度もレッスンをしてると、必然的にカリキュラムが固定して来て、今では結構体系だった教え方が出来るようになった。
今回はそれをちょっとご紹介しようと思う・・・
まず8Beat、16Beatの定義から!!
諸説あるでしょうがここでは、8Beatとは「8分音符のどこにでも自由にアクセントを入れられるBeat」、16Beatとは「16分音符のどこにでも自由にアクセントを入れられるBeat」と定義しましょう。
余談になりますが、4Beatという言葉はどうやら日本でしか使われてないようで、外国では「Swing」と言うようである。
これはまた定義が違っていて、「4分音符を共有した、その他は自由なBeat」と私は解釈している。
その話はまた別の機会ということで、まず8Beat!!
スネアの位置を固定したとしたら、ハイハットは8分で刻むので、バスドラを色んな位置に踏むとすると、バスドラは全て右手で叩くハイハットと同時に踏むことになります。
考えられる全ての可能性(実戦であまり使わないものは除く)を列挙して、ひとつひとつ出来るように教えてゆき、最終的に上記のリズムが叩けるようになったら、この項目は卒業!!
ちなみに上記のリズムは、メタル等速いテンポの曲の場合、ハイハットは4分で叩いたりします。
ここから希望者はツーバス!!
このリズムの右手でフロアタムを叩くと、いわゆる「樋口ドラム」!!
中国では知ってる人はいません(笑)
そして左足で4分を踏むのが、左足がオモテとなるツーバスの入り口!!
いわゆる「自転車漕ぎ」と言われてたリズムですな・・・
ツーバス希望者は更に右から入るパターン、そしてツーバスの6連、シャッフル、教材はX.Y.Z.→AのIncubationです。
相当難しい(笑)
さて、ツーバス希望者でない人はここまでをすっ飛ばして16Beat!!
前述の定義通り、16分音符のどこにでもバスドラを入れられるようにということは、オモテは既に8Beatでやってるので、まずウラにどんどん入れてゆきます。
ここではまずバスドラの連打は除き、考えられる全ての可能性(実戦であまり使わないものは除く)を列挙して、ひとつひとつ出来るように教えてゆき、最終的に上記のリズムが叩けるようになったら、この項目は卒業!!
ツーバス希望者は、上記と同じく今度は8分でハイハットを踏み、左足オモテの16分連打のツーバスへと進む~
ツーバス希望者以外は上記は飛ばして、足が2つ連続で叩くパターン。
これは「ウラ→オモテ」と「オモテ→ウラ」の2種類しかなく、よく使う位置に入れたパターンをいくつか練習〜(譜面はひとつの例)
手をこのリズムに固定したとしたら、実践的にバスドラが入れられる全ての可能性は叩けるようになったということで、次は手の変化!!
とりあえず手を16分の別の場所にアクセントで入れるリズムも、フュージョンとかにはよくある手法だけれども、まずは絶対的によく使う、手のゴーストノート!!
このリズムは私がレコーディングして中国ロックの金字塔となった許魏のアルバムの中の「蓝莲花」という曲のリズムで、恐らく中国でドラムを習おうという人で知らない人はいないであろう有名曲である。
この映像のコンサートでのリハーサルの時、許魏本人が「Funky、リズムが違うよ!!」と言われ、「いや、俺はレコーディングではこう叩いた!!」と論争するエピソードを紹介、まあ中国ロック好きにはヨダレもののエピソードだが、「ゴーストノートの音が大き過ぎると全く別のリズムになっちゃうよ」といういい例です。
色んな位置にゴーストノートを入れる可能性、そして時にはそれを32分にするなどから二つ打ちの基礎練習に戻ったりもします。
リズム編最後は手と足の組み合わせ!!
これも考えられる全ての可能性(実戦であまり使わないものは除く)を列挙してゆき、これらが出来たらリズム編は卒業!!
(余談として、ツーバス希望者は私が時々やる、これに左足を8分で踏むことによって、ツーバスとスネアとが絡まったかっちょいいリズムになることも〜)
さて、リズム編はここまでなのですが、巻き戻して、実は要所要所で叩けた人に「じゃあこれに4分で頭を振って」と言うと多くの人が出来ない(笑)
特に頭を振る部分にバスドラがない場合・・・
時々8Beatのリズムを叩く時に身体が8分で揺れてる人がいるけどそれは間違い!!
「8分音符を叩いてるのだけれどもグルーブ(中国語で律動感)は4分なんだよ、だからFunky教室ではまず頭を4分で振る練習をしましょう〜」
まあ絶対に振らなければならないわけではないが、「4分を感じる」と言ってもどこでどう感じたらいいかわからないだろうから、右手、左手、右足、左足に続いて「頭」というのをひとつの楽器として四肢分離を進めて五肢分離!(笑)
余談だが、まあ「ドラムの人は手足がバラバラに動いて凄いですねぇ」と言われたりするが、実際はバラバラに動いているわけではなく、何かしらの「関連性」を持って動いてるだけである。
さてリズム編を卒業したら「オカズ(fill in)」!!
これまでに「リズム感(节奏感)」と「グルーブ(律动感)」の話はして来たとして、次は「構成把握能力(结构感)」を養ってゆこう・・・
曲によって構成は様々だけれども基本はこれ!!
人間は「4」という数字に段落を感じるようで、4小節が一塊、そして8小節は更に大きな塊、12小節は更に大きいかと言うとそうではなく、8小節をまた一塊として、それを繰り返すと感じるようである。
だから小さな段落変化には小さなオカズ、中ぐらいには中ぐらいのオカズ、大きな段落変化には大きなオカズを入れる。
オカズは決してテクニックを見せびらかすために叩くのではなく、「構成を歌手や他の演者に伝える」という役目。
「ドラムはバンドの指揮者」とよく言うが、私は日本でのセッション仲間にこう褒められたことがある。
「ファンキーさんのドラムだと、何となく次がどの構成に行くのかわかっちゃうんだよね〜」
つまりは「演者が間違わない」。
そう、だからドラムはミスをしちゃダメなのよね〜
自分は絶対にミスをせずに、バンドを正しい構成に導く「指揮者」なのである。
じゃあどうしてそのようなことが出来るかと言うと、「歌い方」と「オカズの選び方」である。
歌い方は実際の曲がないと難しいのでまた次のレベルに回すとして、まずは色んなオカズを身体にストックすること。
かく言う私もかなりの数のオカズを(練習でなら)叩ける。
でも実際にライブでスッと出て来るのはその数分の一である。
だから自分なりのオカズをいっぱいストックして、すぐに出て来るオカズを増やそうというのがここからの課題である。
さて話が逸れたが、「絶対に間違わない」練習が上記!!
最初のリズム編でどのようにでも叩けるようになった数多くのリズムの中からひとつ自分で選んで、上記16小節の決められた部分に決められたようなオカズを入れて叩いて、リピートして32小節間ひとつも間違わずに叩けたら合格!!
「なんだ簡単じゃない」と思うのが大半の人で、そのほとんどの人が出来ない。
人間は「オカズを叩くぞ」などと思った瞬間にリズムが崩れたり、必ずミスをするのだ。
だから「考えずに身体からオカズが出て来る」ようにしないと本番では使えない。
数多くストックされたオカズの中から実際に使えるオカズが少ないのはこのような理由からである。
ちなみにオカズは自分で考えてもらう。
オカズ小は1拍のオカズ、オカズ中は2拍のオカズ、オカズ大は4拍のオカズ、それぞれを生徒が叩きたいフレーズを出してもらって整理する。
冒険をする人もいるし、確実を目指して簡単なオカズで守りに入る人もいるが、ここでは後者の方が正しいとする。
間違えたら最初からやり直して、ノーミスで32小節叩かないと次に行けないのだから、冒険して崩壊する人も次第に守りに入ってゆくようになる(笑)
ちなみに「やりたいオカズ」の中に色んなテクニックが入っていて、
「それ叩くならこんな基礎練習が必要だよ」
ということを教えて、ここで初めて基礎練習!!
自分もそうだったが、どこで使うのかわからない基礎練習をいっぱいやる根性がなかったので、そんなのをすっ飛ばして頭打って、「ああこれやるためにはこれが必要なのか」となった方が習得が絶対的に早かった。
またFunky教室では「オリジナリティー」を重視してて、上記のリズム練習も、例えばバンドでオリジナルを作っている時に「ベースがこう弾いてるからドラムはどう叩く?」という時にとても役に立つ。
なにせ全ての可能性を全部練習したことになるのだから・・・
同様にオカズも、まあ「私のフレーズ」というのも教えてゆくけど、自分なりのオカズをどんどん編み出してゆく方がよい。
かく言う私もスティーブガッドやトニーウイリアムスからコージーパウエルやジョンボーナムなど、ジャンルの違う色んな偉大なドラマーから色んなフレーズをコピーして、叩けないものだからそれを自分なりにアレンジして自分のフレーズにしている(笑)
この教室ではそれをお手伝いしたいということである。
上記、興味のある人はオンラインでのレッスンも始めようと思うのでこちらにメール、もしくはFacebookメッセージなどで連絡下さい〜
料金は1時間5000円ぐらいで考えてます。
早い人は全く初心者の女の子が3時間でツーバスを除く最後まで行った人がいます!(◎_◎;)
習得の早さは問題でなく、習得の深さの方が大切なので、「宿題」をいっぱい出しますので、一度習ったらしばらく自己練習をしてから次に進むのがベストだと思います。
ドラムセットがある環境(貸しスタジオ等ではひとりでの練習を1時間500円程度で貸し出しているところがありますので調べて下さい)が必要です。
あと携帯でのいいのでネット環境と、Zoomというアプリを入れてもらって、それで対面会話でレッスンを行います。
必要なもの
* ZOOM用のタブレット端末 or PC or スマホ
* マイク付きヘッドフォン
(ZOOM用)
(有線でも無線でも可)
* PAを通して鳴らすメトロノーム
(一般的にはスマホアプリのメトロノーム)
(ZOOM用端末とは別に必要)
メトロノームはスタジオとかで貸し出してるところもありますので問い合わせてみて下さい〜
では希望者はこちらまで〜
Posted by ファンキー末吉 at:08:10 | 固定リンク
2021年7月 7日
最先端の中国ミュージックビジネス
まあ私とてたかだか、ロックバンドのドラマープロデューサーとして全中国をツアーで周り、馴染みのクライアントから来た中国歌手のアレンジやプロデュースをやり、映画音楽のヒット作もあるのでたまに映画やテレビドラマの音楽をやってる程度の人間なのだから、「中国音楽界の中心」でいるわけでもなく、「末端で仕事をさせて頂いてる」程度の人間である。
しかしわかる!!これは間違いなく中国では、いや世界でも類を見ない最先端の音楽ビジネスであろう・・・
日本は遅れている。
これは私は何度でも言いたい!!
アジアブームの時代、アジアの大スター達を演歌班に配属する・・・
テレサテンが日本発でアジアの大スターになったからそうするのだろうが、もう彼らは日本なんか憧れの国でもなんでもない。
ただただ1億人のマーケットであるだけである。
彼らは日本なんかすっ飛ばしてマジソンスクエアガーデンを中国人だけで満杯にするし、私もドラム叩いたりしたけど、ワールドツアーが組める日本人アーティストなんてそうそういないでしょ?!!
日本人が全くいない現場で中国語で仕事をしながら、「日本の音楽業界の人たちは一体何を考えているんだろう」と本当に心配になる。
日本のアサヤンみたいなオーディション番組が中国版にリメイクされて大人気になったりしたのも今は昔・・・
湖南電視台が製作した「超級女声」という番組は国民的ムーブメントを起こしたお化け番組になった・・・
その頃の話・・・MengMeng(モンモン)の物語
日本の業界人は、下に見ているアジアの国で自分たちのアイデアがコピーされて「嬉しい」とでも思っていたのか、はたまた、彼らがオリジナルである日本に頭を下げて教えを乞いに来るとでも思ってたのか、本当にバカである。
この辺は上記のブログを見て貰えばわかると思うが、これらのムーブメントは既に中国の特殊な社会システムに乗っかって独自の発展を遂げている。
断言しよう!!遅れているシステムを守って守って生きてる日本なんて小国は、彼らに取っては全く必要がない!!
昨日見学したこの学校の考え方は、おそらく中国だけでなく世界でも最新鋭のシステムではないかと私は思う・・・
その話をする前にひとりの人物を紹介したい。
沈永革、通称「小沈(シャオシェン)」と呼ばれていた、当時は日本の留学生、後に日本のレコード会社「ビクター」に就職して国際部で働くようになる・・・
そして今、彼を「小沈(シャオシェン)」と呼ぶ人間は中国にはいない。
強引なやり方で敵も多いので、恐れ慄いてる人も多いのではなかろうか・・・
でも今や中国の音楽界の重鎮となった彼は、私のような古い友人や、お世話になって色んなことを勉強させてもらったビクターの先輩などから「小沈(シャオシェン)」と呼ばれることを嬉しがってるように見える。
時を超えて、自分があの頃の「小沈(シャオシェン)」に戻って、しばしこの大国の厳しいミュージックビジネスの世界の膨大なストレスをバカ話で笑って忘れようとしているように感じる・・・
まあだからなのかどうなのか、私が彼と会うといつも「昔話」で花が咲く。
ほんまにアホな話ばかりである。
あの女とヤったとか、ヤらせてもらおうと家まで送りに行ってヤれなくて帰れなくて駅で寝たとか(笑)
久しぶりに一緒に温泉入ってバカ話!!
でも俺たちが毎日一緒に飲んで熱く語っていたのは、「中国を取る」!!・・・
私は日本から中国に渡って、彼は日本で勉強したことを持って中国に帰って、それぞれのやり方で「天下を取る」みたいな話である。
「三国志」や「項羽と劉邦」などの古典を引用してそんなことを本気で毎晩話してた。
そして昨日、この学校を見て、「こいつ、本当に天下を取るわ」と私は思った・・・
そのビジネスモデルを話す前に、その後の彼の経歴を話しておこう・・・
当時日本はアジアブームに沸いていて、例に漏れずビクターも中国の大物ロックアーティストと契約を交わした。
彼はその日中の間に立って、黒豹やアゲインなどのレコードを製作して、それこそ中国のロック界に大きな一石を投じた中心人物のひとりとなった。
その後「竹書」というプロダクションを設立して、陈琳や杨坤などのスターを世に送り出した。
酒場で一晩100元で歌ってたしゃがれ声のシンガーソングライターの杨坤は、その声が特殊だったが為に当時はどのプロダクションにも相手にしてもらえなかったが、この小沈(シャオシェン)と出会ったが故に瞬く間に一晩何万元の大スターとなった。
「実は10年経つけどあれからあんなに当たった歌手はずっといなかったんだよ」
と彼は言う。
「当たった」という日本の業界用語を使うが、まあ杨坤ぐらいの歌手こそが10年に一度出るか出ないかの大歌手となったわけだから、そんな歌手をぽんぽん量産出来る方がおかしいことである。
その後に彼が大スターを世に送り出すのは、私とそんなに会わなくなってた頃、彼が湖南電視台のプロダクション部門の社長をやってる時かな・・・
「名前言ってもFunkyさんは知らないと思うけど」・・・
そう、昔はロックバンドだって数える程しかいなかったけど、今は時代が違う。
それでもロック界だとイベントで一緒になったり「縁」があるけど、文字通り「住むところが違う」、アイドル系はそのバックでもやらない限り出会うチャンスは全くないのだ。
それに今の時代はテレビなど誰も見ない。みんなネットである。
携帯を開き(というのも古い表現か?笑)ネットで流行っている音楽を聞く。
私はその若者が覗いてるサイトすら知らないのだ・・・(>_<)
当然ながら一緒に学校見学に行った中国の若者ヤオヤオ君は目を丸くする程の大スターだが、私にはもう皆目わからない・・・
そんな私が大きく取り残されているような、この世界のど真ん中で彼は考えた。
「学校を作ろう!!」
日本人ならすぐに「沖縄アクターズスクール」のことを思い出すだろう。
あれも日本では一世を風靡した。
日本の音楽会の台風の目となったビジネスモデルであろう。
しかし中国では「教育」に対する実情がちょっと違う・・・
「ゆとり」が叫ばれてた日本の教育状況と違って、中国は驚く程の競争社会である。
私なんかは「さすが科挙の国」と思うのだが、今では小学生の頃から受験生のような塾三昧が当たり前である。
そんな中で若い頃の夢を実現させてあげたいと「専門学校」などに入れるという選択肢は親にはない。
やるとしても「学校行きながらやりなさい」と言うしかない社会がここにある。
だったら「学校」を作ろう!!
これが小沈(シャオシェン)の考え方である。
この学校はちゃんとした「高校」なのである。
卒業すればちゃんと「高校卒業」の資格がもらえる。
音楽の道を諦めてもちゃんと進学出来るのだから親御さんだって安心して子供をここに預けられる。
当然ながら午前中には普通の学校のような普通の授業がある。
堀越学園などの芸能高校を想像するだろうが、日本と違ってそこにも中国独特の競争社会があるとしたらその学生生活はとんでもないものであろう・・・
そこでも当然ながら競争があるのは当たり前として、午後はスターになるための過酷なレッスンと、この学校には劇場があり、そこでの発表会、そこに出れるのは成績優秀な4組のみ。
毎月行われるこの発表会にずっと出れない生徒は当然ながら落ちこぼれ、進級することは出来なくなる。
この過酷な競争を勝ち抜いた生徒だけが卒業でき、そのままこの学校(イコールプロダクション)と8年の契約を結び、デビューすることとなる。
つまりこの学校は、純粋培養で長い時間かけてスターを作り出して、それで商売する「プロダクション」なのだ。
ちなみに学費は無料!!
中国の学校は全寮制だったりするがそれも当然ながら無料!!
だけれども入るのは非常に難しい。
全国からオーディションを勝ち抜いて来たスター予備軍が、
最終試験で小沈(シャオシェン)自ら面接を行ない、「こいつはイケる」と彼が感じた人間だけが入学することが出来る。
しかし莫大な投資である。
彼と数人の投資家はそこに賭けた!!
彼らは知っている。その中からひとり「当たれば」そんな金ぐらい一発で回収出来るんだ、と・・・
彼もビジネスマンなのだから「リスク」は計算する。
「リスクがあるとしたら、それはここから一人もスターが出なかったということだよね」
そうなれば彼はもう自分の「眼」が衰えたということで業界を引退するだろう。
私が「ドラムが叩けなくなった」のと同じだ・・・と彼は言う。
しかし「絶対に大丈夫だ」と私が感じる事実がある。
ここからは中国ならではなのだが、その学生たちの「発表会」は既にネットで生放送されている、つまりそれ自体が「番組」になっている・・・
湖南電視台でお化け番組を作ってスターを世に何人も生み出して来た人間が、それと同じことをこの学校でやっているというわけだ。
人気のある生徒は既に80万人のフォロワーがいるらしい。
ちなみにフォロワーが50万人いればその人は1年働かなくてもその広告収入で食っていけるという世の中である・・・
中国のネット配信システムは日進月歩で、TwitterとFacebookを一緒にしたようなWeiBoなんかにはもう若者は見向きもしなくなったと言う・・・!(◎_◎;)
TikTukからビリビリ、そして今では快手というのが人気らしい。
ちなみに日本でもTikTukは人気らしいが、国際版と中国版は全く違う。
と言うより中国では国際版は全く使えず、私もカンボジアで作ったアカウントは中国ではVPNを使ったって一才開けない。
これは情報統制の中国のお国柄が投影されていて、反中国の書き込みなどをFacebookやTwitterで中国人が書き込んだとしても中国政府は外国なので手が出せないが、国内のSNSなら情報を開示して逮捕することが出来る。
そのような事情もあり、中国独自のSNSが発達してるという現状がこの国ではあるわけだが、日本にはそれがない。
沖縄アクターズスクールが堀越学園のような学校を作って、毎月発表会をやってネットで既にプチスターを作ったとしたって、それはたかだかYouTubeとか外国のシステムに乗っかるしかない。
(国内にもシステムがあるだろうが、外国のシステムにまだまだ負けている)
小沈(シャオシェン)が「次のイチオシはあなたの配信会社とタイアップしたいんですが」と、その配信会社のトップ(ここが朋友となる)と飲みながら話すこととかは簡単に出来るが、日本でYouTubeの社長とこれをやるのは無理な話である。
全てが遅れている・・・
来年やっと50人ぐらい卒業生が出るのか?
ジャニーズJr.と同じで、その中には既に何十万人もファンを持つプチスターがもう何人もいることだろう・・・
卒業生全員がデビューすると言うが、売れてる順にデビューさせればいいわけで、これってほんまリスクはないようにワシは感じるぞ・・・
こいつ・・・ほんまに天下取るかも知れんな・・・
歌のレッスン室
ダンスレッスン室
図書館
日本の音楽業界の皆さん、これ見てどう思う?・・・
Posted by ファンキー末吉 at:09:07 | 固定リンク
2021年4月 5日
幸せな監視社会?
「倭僑のススメ」というタイトルで講演会をして廻っていたことがある。
中国人は長い戦乱の歴史の中で、「地縁、血縁、金」しか信じないと言われている。
だから「自分の国が住みにくい」と思ったら、国境を越えて新天地を目指す。
そしてよその国で、その国の言葉を学び、文化を学び、そこを新天地として「華僑」となる。
陸路で国境を越えられる中国と違って、四方を海で囲まれた島国である日本ではなかなかそれをしない。
「ひょっとしてこの国は自分にとっては住みにくいのかも・・・」
と思っても、皆さんは我慢してそこに「合わす」しかないと思っていたのではありませんか?
「この国は自分にとっては住みにくい」
この言葉を発する時、講演台でいつも私は背中に冷たいものが流れるのを感じていた。
「こんな素晴らしい国は他にないじゃないか!!何を言ってるんだ!!」
そんな「同調圧力」を、受けてもないのに想像して勝手に背筋が寒くなるのである。
実際私は、日本の「芸能界」、大手プロダクションのシステムの中で、いつも「住みにくい」と強く感じていた。
日本ではいつも「変わり者」と言われ、いつも輪の中から弾き出されては疎外感を感じていた。
かと言って「合わす」ことは苦手だ、どうしよう・・・
ところが飛び出してみたら、中国というところはこんな自分をそのまま受け入れてくれる、私にとっては素晴らしいところだった。
世界は広い!!今のままの自分そのままで生きてゆける世界がどこかにきっとある!!
日本の若者よ!!どんどん外に出て行って「倭僑」となろう!!
というのが講演の主な内容である。
ちなみにこの講演はこんな言葉でオチをつける。
中国人なら「華僑」、日本人なら「倭僑」、
じゃあフランス人なら「仏教」?
おあとがよろしいようで・・・
と、笑い話はこのぐらいにしといて、その頃から比べて世の中は大きく変わっている。
日本人は国が長く平定されたことがある歴史のためなのか、
「法律はお上が自分を守ってくれる」
という感覚が今でも根強くあると思う。
ところが中国人は逆に、
「法律なんか上が下を搾取するためのものだ」
と思っているところがあるように思える。
だから
「見つからなければ法律など破っても構わない」
と思ってたりする。
中国人が日本に来て、夜中の赤信号で車も来てないのに渡らずにずーっと待っている日本人を見て笑ってこう言った。
「意味ないでしょ?(笑)」
確かにここで信号を渡ったところで危険でもなければ誰にも迷惑もかけない。
しかし、私もついそうしてしまうのだが、日本人は何故だかつい赤信号で止まってしまうのだ。
中国人なら渡る・・・それのどこが悪いのだ?・・・
そんなことを言ってたのも今は昔・・・
今では、車を運転している全ての中国人は、真夜中の赤信号でも必ず止まる!!
誰も見てなくても、他に車が来てなくても今は必ず止まる!!
何故か?・・・それは国じゅうの至る所に設置されている監視カメラにある。
民主国家の日本では、もし防犯カメラの映像で罰金を請求されても、不服なら裁判で争うことになるだろうが、中国では「いやがおうなし」に罰金なのである。
今私は中国の北の外れにある地方都市「寧夏回族自治区銀川市」にいるが、そんな田舎街でも至る所にこんな監視カメラがある。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
日本で言うと電柱(もうないか?)ごとに全て監視カメラが設置されているような状態である。
噂によると、こんなに数多くの監視カメラの設置、それを全てチェックして違反者を特定、そんな人件費も含めて莫大な費用がかかっているだろうけど、そんなもの、これだけ多くの人民から片っ端に罰金を取れば、あっと言う間にペイしてしまうよ、と・・・
この罰金に関しては、もう10年近く前になるが、私は駐車違反で取られたことがある。
その時には、違反が発覚するのは「車検」の時、その車の持ち主が車検を受けようとすると、何月何日このナンバーがどこで違反したかがずらりと出て来た。
「自分がやったんでなければやった奴連れて来て払わせろ」
ということである。
拒否すればその車はもう二度と乗れない。
それだけである・・・
IT大国となった今の中国では、それが全部デジタル化されている。
違反をすると車のナンバーに紐付けされている電話番号にSMSメッセージで通知が来る。
アプリを入れておくと、そのアプリに撮られた写真も送られて来て、支払いもそのアプリ内でデジタルマネーで支払うことが出来る。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
その昔は誰も安全ベルトなどしてなかった(ように見えた)中国であるが、今では私が助手席に乗っても必ず「しろ」と言われる。
交差点ごとの監視カメラで撮られた瞬間に、それはその運転手の罰金となるのだから運転手も気を遣う。
ちなみに飲酒運転は捕まれば「いやがおうなし」に「刑務所」である。
おかげで飲酒運転や交通違反は劇的に減った!!
そしてそれに対する人民の不満は(私の周りでは)「皆無」である。
要は「違反しなければ良い」のである。
交通事故は減るし、別に悪いことは何もない。
「うっかり違反」はよく起こるが、「運が悪かった」もしくは「しゃーないなぁ〜」ということで罰金払ってすぐに忘れる。
「こんなシステムはクソだ!!」とか反旗を翻すような人はいない。
もしいたとしても「国家安全法」でパクられておしまいである。
さて、そんな国で暮らしてもう30年になる。
数年前、空港でこんな面白い事件があった。
コロナ前の当時、私は日本や東南アジア諸国から頻繁に中国に出入りしていた。
当時北京には国際線ターミナルが二つあり、多くの国際便はT3から発着していたが、古いT2のターミナルから発着してる便もあり、その日に私が乗る便はT2の便だった。
T2は何故かチェックインカウンターの外に荷物検査場があり、荷物検査をしてから中に入るのであるが、荷物を流した瞬間に係員が私に声をかけた。
「あんた、この数日で3回ここに来てるね?何やってんの?」
これには驚いた。
言われてからパスポートを提出したので、パスポート情報を見て係員がそう言ったわけではない。
荷物は機械に通されたが、荷物を見て渡航情報がわかるわけではないだろうから、残る可能性としては「顔認証」である。
金髪の長髪という目立つ出立ちなので、係員がたまたま私のルックスを覚えていたという可能性もあるが、それにしてもおかしいことは、後に自身の渡航歴を調べてみると、この近辺では確かに3回出入国をしているが、前回入国したのは確かにこのT2であったのだが、その前の出国はT3であった。
ということは、T2の係員がこのT3の私の渡航歴を知っている?!(◎_◎;)
別に密輸とか悪いことをしているわけでもないので、胸を張ってパスポートを出してこう言った。
「VISAはちゃんとあるよ」
するとその係員はすかさずこう言った。
「それは知ってる」
知ってるのか?!(◎_◎;)
結局その係員は荷物は調べなかった。
ただパスポートをペラペラとめくってそれで終わり。
「ファンキーさん、絶対に監視対象になってますよ」
友人は皆笑ってそう言うが、政治に全く関係ない私なんかを監視対象にしてどうしようと言うのだ(笑)
いや、北朝鮮に渡航した時には、携帯が繋がりにくくなったりネットが遅くなったりとか、まあ被害妄想かも知れないがそんなことはあったが、中国から監視対象にされる覚えが私にはない・・・
まあ一番考えやすいのは「監視カメラによる顔認証」である。
こんな怪しいルックスをしているので、空港に入った瞬間にカメラでチェックされ、そのチェックした機関が渡航歴を調べてこの空港の係員に連絡を入れ、
「そちらに怪しいのが入るから一応職務質問して」
というのが一番考えやすいのではないか・・・
「顔認証」と言えば、面白い話がある。
張学友(ジャッキー・チュン)という香港の大歌手がいる。
中国全土どこでコンサートを開いても、チケット入手が困難な程の歌手である。
その入場でのセキュリティーチェックの時、とある指名手配中の犯罪者が顔認証で捕まった!(◎_◎;)
これだけ監視カメラがあっても、街角では顔を隠して通ったりも出来るが、コンサート会場に入るためにはどうしても顔認証を通らねばならない。
危険を冒してまでそんなにこのコンサートが見たかったのか!(笑)
全くもってここ中国は逃亡犯にとっては非常に住みにくい国である。
移動も宿泊もID提出が義務付けられてない日本とは大違いで(というか日本には必ず持たねばならないIDがなく、運転免許証とかでそれを代用している)、中国では列車や飛行機に乗るにも、ホテルに泊まるにもIDの提出が必須で、逃亡犯だとその時点で捕まってしまうのだ。
我々在住外国人は、その「ID」に当たるものが「パスポート」である。
これを紛失や盗難にあった時にはそれはそれは酷い目に会う・・・
パスポート紛失!!その初日
パスポート紛失!!その2日目
パスポート紛失!!その2日目の続き
パスポート紛失!!その3日目
この時点では、湖南省の警察と北京とのデータ連携はまだされてなかったようだが、これだけデジタル化が進んだ現在でも、地方都市と中央とのデータ連携はなされているのかなという事件が起こったのでその話をしたいと思う。
まず今回の中国入国まで話を戻そう・・・
一年以上中国に来てないうちにデジタル化はもっと進んでいるようで、まず外国人だけでなく全ての居住者はこの「行程卡」というアプリがないと通行が出来ない。
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
日本だと「じゃあスマホが使えない老人とかどうするの?」という意見が出て来そうだが、中国ではとりあえずそういうことは考えない。
鄧小平さんが
「豊かになれる者から豊かになれ!!黒い猫でも白い猫でも鼠を獲る猫がいい猫なのだ」
とおっしゃった通りにこの国が進んでいるのだから・・・
中国に着いて、上海での2週間の隔離期間が終わるとこのアプリが緑色になる。
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
これでどこでも通行出来るということで、隔離ホテルを出て次の自主隔離場所「寧夏回族自治区銀川」へ向かう・・・
ちなみにこのホテルを出てどこへ向かうかというのは、こういう書面が回って来て便名までちゃんと記入して提出してある。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
ついでに隔離が終わったという証明書や、陰性証明書も携帯しておく。
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
末吉覚さんの投稿 2021年3月11日木曜日
これらの情報は既に私のデータベースに入力されているだろうが、もしもの時のために持ち歩く。
まさかそのもしもの時が来るとは夢にも思わなかったのだが・・・(笑)
さて上海の空港に着いて、「行程卡」で表示される緑色のマークを提示すれば空港にはすぐに入れ、銀川までの飛行機には無事に乗れた。
到着したら、上海と同様にバスにでも乗せられるのだろうと思ったら誰にも呼び止められることもなく、また「行程卡」の緑色を見せて外に出る。
外では万が一のために迎えに来てた、今中国で一緒にバンドをやってる布衣楽隊のメンバー、彼らの車でそのまま自主隔離の場所へ向かう・・・
なぜ自宅隔離が、住居のある北京ではなく遠く離れたここ寧夏回族自治区になるのかと言うと、それには二つの理由がある。
ひとつはこの時期北京では中国共産党の一番大切な行事「全人代(全国人民代表大会)」が開かれていて、そのため北京に入るためのハードルがとても上がっていて、外国からの帰国者や外国人は入国後3週間経ってないと入れないことがひとつ。
あともうひとつは、北京の登録先住居(住民票を置いてある住所のようなもの)は、VISAを発給してくれている会社の社長の住居となっている。
ここにも住めるのだが、仕事場として順義区にも院子(中国伝統的長屋式住居)も借りていて、どちらも同居人がいるので隔離には向かない。
その同居人も一緒に隔離せねばならなくなるからだ。
ところがここ寧夏回族自治区銀川にはバンドが用意してくれた部屋があり、そこは独り住まいの完全に独立した部屋なので、ここで自主隔離をということになったのだ。
迎えに来たバンドのマネージャーが調べて来たところによると、自宅隔離の最初1週間は、この住居の社区の長とやらの監督の下、一歩もこの部屋から出ずに隔離。
その後の1週間は、社区の長の判断で人混みじゃなければ外出してもよいそうだ。
ところがその社区の長とやらからは何も連絡がない。
結局この2週間全く連絡がなかったので、隔離最終日には自発的に病院に行ってPCR検査を受けておく・・・
中国ってなんでこんなに情報が交錯するんかなぁ〜(笑) 4週間隔離は今日まで、結局社区の長とやらからは連絡なし、しゃーないので明日北京に帰るために「自主的に」PCR検査!! 証明書は6時間後にもらえると言うので朝に予定してたら「携帯に即時送ら...
末吉覚さんの投稿 2021年3月24日水曜日
自主的にこれを行ったのは、もし北京に帰ってから陰性証明の提示を求められたりして何か問題が起きたら困るからである。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
銀川の空港でも「行程卡」の緑色を見せれば問題なく飛行機に乗れた。
北京に着いてからはVISAの更新という大きなミッションが待ち構えていたのだが、そのためにこの日にやらなければならないことはふたつ。
ひとつは住宿証明の取得、もうひとつは病院を予約して健康診断を受けることである。
実はこの病院の予約では色々と手間取った。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
このアプリによって予約を行うのだが、選択肢が多岐に渡り、間違えて別の窓口に入ってしまったりすると、外国人が予約出来るフォームがなかったりして右往左往する。
VISAの仲介人に色々聞いてやっと予約が終わり、検査場に着いてみるとそこで断られる!(◎_◎;)
聞けば、私は2月25日の飛行機に乗ってカンボジアから入国し、飛行機が遅れたので着いたのは2月26日になったばかりの真夜中。
隔離施設では、厳密に着いた時刻から24時間×14日間で、2月12日の同時刻に隔離が解除されている。
同様に銀川でも24時間×14日間で計算して、VISAの仲介人の指示により、隔離が明けた日時に予約を入れているのであったが、この検査場ではそのようには数えないようだ。
このように時間計算するとすれば、2月26日の夜中の1時に入国した人も、23時に入国した人も、隔離明けは3月25日なのであるが、23時に入国した人にその入国時間より早く検査に来られても困る。
だから時間では計算せずに日数、つまり26日に入国した人は3月25日いっぱいは隔離中と計算するようだ。
そんなことはアプリで予約を取る時に弾いてくれれば良いものを、きっとそのアプリと私の入国日時や隔離状況とは紐付けされていないのだ。
中国のITと個人情報管理が、例えSF映画のように完璧に情報管理されていたとしても、それを閲覧する権利を持つ者と持たない者があれば、当然持たない者からは見えない情報が存在してしまう。
それによって私はまた大きく振り回されることになるのだ・・・
さてこの日のもうひとつの大きなミッション!!
VISAの更新に必要な住宿証明を取りに行く・・・
私の居住地の大家に当たる、私のVISA発給会社の重役、LaoLuanを訪ねてゆき、まずそのマンションの管理会社に行って「居住証明」を取る。
これはご覧のようにまるで手書きである。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
これは単なる「うちのマンションには確かにこの人が住んでますよ」という証明だけで、別にここから私本人のデータベースに書き込みをするわけではない。
この書類を最寄りの警察署に持って行って、そこで単に「住宿証明」を取るためのものである。
その警察署で私のデータベースに書き込めばそれでこと足りる・・・
ところが今度はその警察署に入れない!(◎_◎;)
末吉覚さんの投稿 2021年3月25日木曜日
この「北京健康宝」というアプリは、スキャンしても外国人には対応しておらず、入力が出来ないのだ(涙)
末吉覚さんの投稿 2021年3月25日木曜日
(名前の入力が中国人名しか入力出来ず、中国人のID「身份证」にしか対応しておらず、外国人のパスポート「护照」を選択できない)
後にわかることだが、このアプリには外国人用の「Health Kit」というアプリがあり、それで入力してそれを使うようにしなければならないのだ。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
ところが入場を拒む保安員にはそんなこと知らされてないので、アプリで緑色を表示出来なければ一律「通さない」。
例え個人情報を吸い上げても、その大元のデータベースに全ての人間がアクセス出来るようにするわけにはいかないので、このように末端の人間には情報を知らせず、ただ「緑色かどうか」だけで判断出来るようなシステムにしているのだ。
例え誰かが赤色が出て「どうしてなの?」と言われても「知らない」と言うしかない。
「私は緑色しか通すなと言われている。それが仕事だ!!」
というわけなのであろう。
どっちにしろ、このアプリの外国人用アプリがあることを自分で見つけられない外国人は、この国ではショッピングモールにも大きなレストランにも、人の集まるところにはどこにも入れないということになる。
前にも書いた「じゃあスマホが使えない老人はどうなるの?」と同じ考え方である。
「出来なければ生きてゆけない」
鼠を取る猫にならねば生きてゆけないのがこの国なのである・・・
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
色々手続きを終えて院子に帰った。
そしたらまずLaoLuanから連絡が来る。
「お前がいつどの便で入国していつ北京に入ったかの情報をすぐに送ってくれ」
聞けば朝陽区の役所から連絡が来たということだ。
ここでも「紐付け」が出来てないのだろう。
次のような表を作ってそれを保存しておく。
2/25 坐FM9405 从柬埔寨金边飞到上海
2/26 凌晨到了马上开始隔离2星期
3/12 坐G58277 飞到银川在家里隔离2星期
隔离地址:银川市西夏区文萃南街和佳居3号楼1207
3/26 坐FM9405到北京
到现在
万が一次にも何かあった時に使えるだろうと思ってたら、結果何度も使う羽目になる(>_<)
想像するに、例えデータを一括管理してたとしても、アクセス権の問題でまだまだ全ての機関で情報を共有されているわけではないのだろう。
数日して今度は一緒に暮らしているエンジニアのFangYanの電話が鳴る。
聞けばこれも彼の実家の通州区の役所で、おそらく前の住居の登録地だったので連絡が来たのだろう。
いいかげん早くデータを更新してもらいたいものだ・・・(笑)
ところが次には今度は私の電話に連絡が来た。
喋っているのは英語である。
下手な英語で対応してたら、今度は電話番号宛にSMSメッセージが来た。
excuse me,I am an offical worker for goverment.can you speak chinese?i want ask you some question
末吉覚さんの投稿 2021年3月27日土曜日
FangYanの言うところでは、これは私の携帯の位置情報により、外国人がこの院子のある村に入ったので担当者から連絡が来たのではということである。
do you have Nucleic Acid Test?
と来るので陰性証明の写メを送った。
末吉覚さんの投稿 2021年3月27日土曜日
こういう時にSMSは写メが送れるので便利である。
「中国語が喋れるか?」
と来たので次からは中国語で、
「パスポート番号を送れ」
というのでパスポート情報を送った。
思えば、パスポート情報も陰性証明もFangYan経由でこの村の社区には送り付けてあるのだが、きっとまた例によって部署が違ったりするのだろう・・・
情報を共有してさえ貰えばこのような手間はかからないのだが、やはりその辺もアクセス権の問題があるのでまだ難しいのかも知れない・・・
「近くに中国人がいるか?」
と言うのでFangYanに電話を代わって、私の中国語レベルではわからないような内容を詰めているのだろう、全てが終わって電話を切った。
末吉覚さんの投稿 2021年3月27日土曜日
「彼女にお前の電話番号を伝えとこうか?」
とFangYanに聞くも、
「その必要はないだろう」
ということでほっといたら、驚くべきことに今度はFangYanの電話に直接かかって来た。
電話番号を教えてないのに、である!(◎_◎;)
まあ調べればわかるのだろう、私がどこで誰と暮らしていて、その電話番号はどれだとか・・・
最初から調べて欲しいのだが・・・(>_<)
さて、隔離も終わったので買い物とかに出てみる。
ちょっと前までは、「交通カード」にお金を入金してそれをバスの入り口でかざして乗る、という日本の「Suica」と同じようなシステムだったが、今では携帯のアプリで乗り降りが出来る。
VISAのための健康診断アゲイン!! バスから地下鉄に乗り換えて全部で2時間の行程・・・八王子より遠い(>_<) でも料金は10分の1ほど、100円ちょいかな、携帯の同じアプリでスキャンするだけでバスも地下鉄もキャッシュレス!!まあいつどこに行ったかは政府に筒抜けやけど(笑)
末吉覚さんの投稿 2021年3月28日日曜日
そしてショッピングモールに入る時は「Health Kit」のアプリをかざし、実際に買い物をして支払う時にはWeChatというアプリでキャッシュレス決済をする。
当然ながらその情報は政府に筒抜けになる。
中国には会社に対して「国が要請すれば全ての情報を提供しなければならない」という法律があり、企業が勝手に「個人情報を保護」とかするわけにはいかないのである。
ここでちょっと不思議に思う自分の感情がある。
私は別に自分の情報が中国政府に筒抜けになったところで構わないと思っている。
別に政治に関することもやってなければ後めたいこともやっていないから、別に何を閲覧したところでどうでもいいと思っている。
ところが日本でそれをやられたらイヤだ!!
日本のホテルに宿泊する時に宿帳に住所を書かされる。
あれがイヤである!!
「なんで俺があんたに住所教えないかんの?ストーカーでもすんの?」
そう詰め寄ってスタッフを困らせたことがある。
日本には「個人情報取扱法」とやらがあるのだから、ちゃんと使い道を提示して誓約書にサインしろ!!ぐらいに思う。
大体の場合「規則ですから」の一点張りで、住所を書かせる理由を説明出来るホテルスタッフはいない。
「自由」で「民主」と言われているこの国でそんなことをされるから腹が立つのである。
中国でされても全く腹が立たない。
「中国はそんな国やからなぁ・・・しゃーないなぁ〜」
ぐらいにしか思わないのである。
特に今の時代では、コロナの蔓延を防ぐという点では中国のやり方の方が結果を出している。
ひとつの社区から感染者が出たら、社区ごとロックダウンする。
「ある日仕事に行こうと思ったら社区から出られない」
ということが平気で起こるのだ。
日本だったら大問題になるだろう、でもここ中国ではそれが「普通」で、見事コロナを封じ込め、世界でも有数の経済発展が上向きの国となっている・・・
さて数日北京に滞在して、今度は仕事のためにもう一度寧夏回族自治区に行かねばならないのだが、そこでまたおかしな問題が起きた。
ちなみにVISAを更新している間はパスポートを預けなければならない。
そうすればこの国では移動も宿泊も出来なくなるのでこのような書類をくれる。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
このペラペラの紙切れが、この国内ではパスポートと全く同じ効力を発揮する。
ミソなのは右上にあるバーコードであろう。
これをスキャンすれば私のパスポート情報にアクセス出来るということに違いない。
飛行場では「行程卡」と「Health Kit」のふたつのアプリを使って中に入り、チェックインカウンターではパスポートの代わりにこの書類を提示して無事に飛行機に乗る。
ところが銀川に着いても誰も飛行機から降りない!(◎_◎;)
客室乗務員が一番後ろに座っている私のところに来て、私だけを先に降ろそうとするのだ・・・
専用バスに乗せられたら、私の他にひと組の中国人カップル。
どうやらこの3人だけ別室に連れて行かれるようだ・・・
連れて行かれたところは、普段はVIPサービスルームとして使われているのだろう、今は隔離部屋のようである。
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
「境外回宁人员登记处」つまり「境外から寧夏に帰った人が登記する処」と書かれている・・・
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
防護服を着た担当者が私に色んな質問をする。
その答えは先日作ったこの表の中に全部あるのでそれを見せる。
2/25 坐FM9405 从柬埔寨金边飞到上海
2/26 凌晨到了马上开始隔离2星期
3/12 坐G58277 飞到银川在家里隔离2星期
隔离地址:银川市西夏区文萃南街和佳居3号楼1207
3/26 坐FM9405到北京
到现在
陰性証明とかも一緒に見せたのだが、思えばこの表に隔離終了証明や陰性証明を入れとけば完璧なのでは?・・・ってか情報共有しとけよ!!
思うに、私はパスポートを持ってないので入国日がわからない。
代わりの書類のバーコードには情報があるだろうが、空港のチェックインカウンターではそれをスキャン出来ない。
とりあえず「入国日がわからない外国人を乗せたから」と連絡を回す。
受け取った機関は、
「そう言えば自主隔離で銀川に来ると言ってた外国人がいたが・・・」
というわけでこんなことになったのではあるまいか・・・
二人の担当者が私を住居まで送ると言う・・・
受託手荷物がこの建物の入り口にぽんと置かれていた。
末吉覚さんの投稿 2021年4月4日日曜日
私はそのまま空港施設は通らずにこの建物から隔離(終了)場所へ送られるのだ。
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
末吉覚さんの投稿 2021年3月31日水曜日
隔離(終了)場所に着いたら社区の長とやらが呼び出されてやって来る。
社区の長とやらは、私の到着を待っていたバンドメンバーやマネージャーから「既に隔離は終わっている」ことを伝えられ、どうしたらいいのか戸惑っている様子である。
というか、この寧夏回族自治区というのはただでさえ外国人が少ないのだ。
こんなエピソードがある。
布衣楽隊というバンドに加入して全中国をツアーで廻ってる時、この寧夏回族自治区でのライブの時、会場でひとり日本人らしき人がいたので声をかけた。
その人は日本人の駐在員らしく、逆にこんな田舎街のステージの上に日本人がいることにびっくりしていた。
私は彼に聞いた。
「この街に日本人がいたんですねぇ・・・」
そしたら彼はこう答えたのだ。
「はい、16人います」
コロナの前にこんな状況なのでコロナ禍の今となっては果たして何人の外国人が住んでいることやら・・・
そして私のように今の時期に中国に来て、更にこんな片田舎にやって来ようという外国人は皆無なのではあるまいか・・・
社区の長は私から電話番号を聞いて、
「じゃあ何かあったら電話するわ」
と言って去って行った。
心なしかちょっと「ほっとした」という表情も読み取れる。
寧夏では滅多にない外国人の隔離の責任者、そんな重荷を背負わされてしまったがどうやら隔離は終わっているようだ・・・
「このままそっとしとけば何の問題もないのではなかろうか・・・」
お互いそんな風に感じている(笑)
私を送り届けた防護服の二人のスタッフも、もう次の担当者に引き継いだので安心して帰って行った。
私はと言うと、隔離も終わったし、何もなければ社区の長に迷惑をかけることもないのでそのままリハーサルに向かった。
何とか社区まで着いて、監視担当者(笑)が引き継がれて無事無罪放免〜テレビ番組収録のリハーサルへ〜 テレビ局の要望で、どんな小さな犯罪でも犯した人は出られないということで!(◎_◎;)先日飲酒運転をしたダーウェイの代わりのベーシスト(笑)私た...
末吉覚さんの投稿 2021年4月1日木曜日
ちなみにここ寧夏回族自治区では、もう1年以上感染者が出ていない。
大きなショッピングモールなどではマスクが必ず必要だが、街でマスクをしてない人もよく見る。
小さな商店やレストランでは、バーコードは置いてあるものの、もう誰もスキャンなどしない。
スキャンしようとしても店の人は「いいよ、いいよ」と言って中に入れるのだ。
緩い・・・(笑)
しかし考えてみて欲しい。
コロナ真っ只中で全く感染が抑えられてない日本で、外国から入国した人にはこれだけのことをするだろうか・・・
民主国家、自由の国、日本では、政府が国民に「強制」することは出来ない。
ただ「入国した人は公共交通機関に乗らないで下さいね」と「お願いする」のみである。
私にしたように、国が人件費を払ってまでちゃんと目的地まで送り届けることもない。
アプリや携帯の位置情報で、その人がどんなルートでどこへ行ったかまで把握することもない。
自主隔離にしても、社区の長のような人間に責任を課して、ちゃんと隔離しているかを見届けさせるようなこともしない。
自由を謳歌してコロナがまだ蔓延している日本、監視社会ではあるがコロナを封じ込め、次に行こうとしている中国、どちらが「幸せ」かはその人によって違うかも知れないが、私にはこの国の人がその「監視」に対して不満を持っているようには見えない。
「社会」として「仕方ないこと」なのでやらねばならないと思っているように感じる。
もちろん私たち外国人は、ウィグルや香港などの中国が抱える人権問題から目を逸らしてはいけないと思う。
(そんなことを書くと、ひょっとして中国の労働ビザを剥奪されないかと背筋が寒くなるが)
しかしここで暮らす中国人は、その情報がVPNを使って国外の情報を探さない限り知ることが出来ないということもあり、あまり「関心がない」ように私には見える。
それは前述の「スマホが使えない老人はどうするんだ?」という問題に対して、日本なら「ちゃんと老人にも優しいシステムを作るべきだ」と考えるが、中国人は「自分の周りにそれで困っている老人がいたら自分が教える」・・・
「それでいい」と考えてるように思えて仕方がない。
もちろんそれで困ってる人がいたら助けるだろう。
「上に政策あれば下に対策あり」
中国人は長い歴史の中ずーっとこうやって生きて来たのだ。
中国は広い。こんなに大きな国の全部を変えることなんか出来やしない。
(というより中国は長い歴史の中で民主化されたことがないのだ)
とりあえず自分の周りが幸せになればそれでいい。
全員が、なんて夢物語じゃないか?・・・
ここで冒頭に出たこの言葉をもう一度引用したい。
中国人は長い戦乱の歴史の中で、「地縁、血縁、金」しか信じない。
地縁:ご近所さんや、職場など自分が出向く場所での縁
血縁:血の繋がりのある家族や、親しい友人も「ファミリー」として
金:白猫でも黒猫でも鼠さえ獲ればいい猫である
鄧小平さんは言った。
「豊かになれる者から豊かになりなさい」
そしてこの国はそのまま突き進んで社会が成熟した。
監視カメラ?買い物情報が政府に筒抜け?
それがどうしたの?
俺たちはこれでコロナ禍をくぐり抜け、世界でたった3カ国しか成し得てない、今の時代に経済が上向きに転じた国になってるんだぞ!!
幸せですか?・・・
俺たちは幸せだよ。君たちは幸せかい?
自由と民主を掲げる国でコロナに苦しみながら・・・
「中国社会」が私にそう問いかけてるような気がしてならない・・・
Posted by ファンキー末吉 at:09:50 | 固定リンク
2021年3月 6日
最悪国外退去?!(◎_◎;)
カンボジアから上海に入って、現在2週間のホテル隔離中である。
まあ隔離に対しても問題がないわけではない。
ホテルの2週間の隔離を終えたら更に2週間の隔離なのだが、
私の住所は北京にある。
北京は今国家の重要な会議である「全人代」が行われているので、入国して21日に見たない人間は入れない(>_<)
そうすると、ここ上海でもう2週間の隔離か、布衣が寧夏回族自治区に部屋を用意してくれているのでそこに行くか・・・
でもそもそもが隔離されてるんだからのこのこ飛行機乗って寧夏まで飛べるんか?・・・
まあその辺は隔離が終わったらなるようになるであろう。
最悪このホテルでもう2週間隔離すればいいだけの話である(笑)
ところがここに来てVISAの問題が噴出して来た。
もともと、急いで中国に入国したのは、私のVISAが4月8日に切れるからである。
コロナ禍により、今は中国政府は新しいVISAを発行してないので、それまでに入国しとかないと今度いつ入国出来るかわからない。
私の仕事の基盤はもうほとんどが中国なので、中国に入国出来ないと即ちそれは「仕事が出来ない」ということである!!
VISAのこと一式を頼んでた業者からメッセージが来る・・・
「Funkyさん、4週間後に隔離から出たんじゃVISAの更新間に合わないでしょう」
ってあんたがこの便やと間に合う言うからこの便取ったんでしょ!!
しかもこのような理由でそれより1週間早い便になってるし〜
「あ、本人いなくても会社が資料提出して更新の手続きをすぐに始めれば間に合います!!」
そやろ〜・・・とばかり胸を撫で下ろしたら、
「それじゃあ滞納している税金は全額支払ってくれますね?」
中国は60歳以上の人間に労働VISAを発給しておらず、私はあと数日で60歳になる直前に2年間のこのVISAを滑り込みで申請したのだ。
もう経済大国となってしまった中国は、ある意味アメリカよりも正規で労働をするのが難しい。
労働をしたい外国人は学歴や専門職技術、中国語レベルなど色んな方面で点数をつけ、そのランクによってはVISAが発給されない。
私の場合は年齢と、特に大学を卒業してないというところが大きなネックになっている(>_<)
学歴に関係ない職業として大学やめて音楽やり始めたのに、ここに来て学歴がないと中国に居られない→つまり音楽が出来ない・・・とかそんな状況に将来なるとは夢にも思わんかったし(涙)
専門技術とか中国語のレベルで払拭出来ないかと試してみたが、
「音楽のプロだよ」
では通じない。
「全人代ぐらいの会場でコンサートをやるぐらい」
というのはあるらしいが、
「ほな自分名義のバンド爆風スランプで何回も武道館やっとるやん!!代々木体育館もやっとるでぇ〜」
と言ってみたものの、
「国家指定の音楽会じゃないとダメ!!ロックとかはお遊びとみなされる」
(>_<)
中国語も「30年やってて生活言語ぐらいは全く支障なく喋れるよ」ではダメ!!
どうしても国家指定のHSKの試験で1級とか取ってないとダメらしい・・・
・・・ってかHSK1級持ってたら音楽なんかやらんで通訳やってるし〜(笑)
まあそんなこんなで、「税金をいっぱい納める人」という「社長さんVISA」みたいなのを取ってくれて今に至る。
だから税金いっぱい納めてましたよ〜
日本円で毎月5万円!!(高っ)
聞くところによると、これを4年間続ければグリーンカードをゲット出来て、そうすれば中国人と全く同じように働いたり暮らしたり出来るそうである。
ところがここに来て、その5万円という計算の仕方が間違っていることが発覚!(◎_◎;)
私を雇ってくれてる会社の話では、
「本当は税金は年間10万元(約160万円)なのだけれども、飛行機代とか経費を毎月2万元毎月集めれば毎月5万円でいい」
という話だったが、それはあくまでも会社が払う税務署関係の税金の話であって、VISAに関する税金は、経費を差っ引いてその後に実際に年間10万元支払わなければならないらしい!(◎_◎;)
・・・ってか無理(>_<)
今すぐ200万円以上未払いの税金を納めれば、今の会社ですぐにVISA更新出来る。
それが無理なら新しい会社で新しく申請することになるが、もしそれが遠らなかった場合、4月8日であなたのVISAは切れることになります、と・・・
まあ切れてもカンボジアみたいに自動延長出来るんちゃうん!!友達でそれやってる人おるし〜・・・
「労働VISAはそれが出来ません!!(キッパリ)」
!(◎_◎;)!!!!
いやね、このコロナ禍の真っ最中に「お前出て行け、とっとと自分の国に帰れ」はないでしょ〜(涙)
「今は日本便はいっぱい飛んでるから帰れないことはないでしょ!!(キッパリ)」
!(◎_◎;)・・・・・(涙)
いや、実際にそうなってみなければわからない。
外国人で労働VISA切れたまま滞在している人もいると聞く・・・
まあVISAのプロが言うのは医者と一緒で、甘い見通しではなく最悪のことを伝えるのが仕事である。
こちらも最悪のことを考えとかなければならない・・・
まずこの4週間の隔離終わって、1週間VISAの更新やって、そいでダメやったら日本なり、まあ今入れる外国はカンボジアしかないのでカンボジア?・・・
どちらも入国したら2週間隔離?
・・・ってワシ何しにここ来たん?・・・隔離そんなに好きなん?(涙)
いや、それどころか、一度出国したらコロナが完全に収まるまで中国には入れん!!
・・・っつうことは仕事が出来ん!!
・・・つまりこのまままた「無職」!!(◎_◎;)
あかんやろ(>_<)・・・死んでまうやろ・・・(涙)
ニュースを見るに、日本という国では今は決してライブなどやって稼げるご時世ではないようだ・・・
そもそも日本は自宅があると言っても滞在費がやっぱ高い(>_<)
和佐田ぐらい頑張ってライブを入れたところで、日本でライブやって今までそんなに黒字になった経験はないのう・・・
カンボジアではもちろん仕事はないが、その代わり生活費が安い!!
プノンペンはまあアジア諸国の中では高い方だが、シェムリアップまで行くと相当安い!!
プノンペンの翁さんラーメンかHIBACHI、シェムリアップのYOKOHAMAバーででも働かせてくれんかのう〜
ポイペトやラタナキリまで行けば・・・ってそこまで行ったら仕事ないやろ(>_<)
日本で物価の安いところ言うたらやっぱ四国かな!!
キャンピングカーがあるので、無料の駐車場のあるところで何か仕事あれば十分暮らしていけるのう(笑)
岡山に友達が農業やってるからそこに転がり込んで手伝おうかのう・・・
とか考えてたら逆にむっちゃ楽しくなって来た(笑)
そんなアホ話を上海の勝山としてたら、
「上海ならなんぼでも面倒見ますよ。住むとことメシと酒には不自由させません!!」
と言ってはくれるが、
その上海におられんっつうのが話の最初やろ!!!(笑)
まあ中国なら暮らせるところはいっぱいあるのだ。
だから誰かが今200万円貸してくれたら一番安泰よ〜
ついでに2年後に300万円貸してくれたらグリーンカードも取れる\(^o^)/
・・・返せんけど(笑)
っつうことで、どうなるかがわかるのは4月に入ってからやろうけど、
日本かカンボジアで「もしもの時はファンキーさんうちで働きなよ」というのがあるんやったら是非教えて下さい。
それを励みに生きてゆきます(笑)
まあ本筋では何事もなくVISAが更新されることを祈るのみですが・・・
Posted by ファンキー末吉 at:00:46 | 固定リンク
2021年2月26日
カンボジア出国と中国入国の戦い
私の中国のVISAは4月8日に切れる。
ちなみに中国では「60歳でまだ働くの?」という感覚なのかどうか、
60歳以上が労働VISAを取得するのは非常に難しい。
というわけで飛び込みで59歳の時に取ったVISAが切れるということは、
ただでさえコロナで新規VISAの発給を停止している現状としては、私としてはどうしてもVISAが切れるまでに入国しておかねばならない。
カンボジアでもそうだったが、一回出国してまた入り直してという「VISAラン」が出来る状況ではない現状では、中国でも既に入国している外国人のVISAは自動更新しているらしいので、今ここで入国しとかないともう中国のVISAは取れない、つまりもう中国に入国出来ない可能性があるのだ。
中国では現在入国してから4週間、28日の隔離だと聞く・・・
隔離が明けてからVISA申請して・・・ということで、まあ3月上旬に出国すればいいかな、まあコロナの状況もよくなるかも知れないから、チケットはまた近づいてから取ればいいや〜と思ってた矢先、
「早くチケット取らないとツアーがブッキング出来ないでしょ!!キー!!」
と、今参加している中国のバンド「布衣」の女性マネージャー(>_<)
というわけで急いで3月4日のチケットを押さえていた。
末吉覚さんの投稿 2021年2月9日火曜日
ところが2月ももう終わろうとする2月21日、カンボジアに住む中国人の友人からこんなメッセージが送られて来た。
中国入国に関する中国大使館からの最新情報がこちらの中国人の友人から送られて来たのだが、着いてから28日の隔離はまあ牢獄に入ると思って諦めているが、この「搭乗前に14日間の隔離」って実質無理やん!(>_<) どなんなってんの〜?!教えて〜偉い人!!(涙)
末吉覚さんの投稿 2021年2月20日土曜日
「搭乗前にカンボジアで14日間隔離」と言われても、搭乗まで14日もありまへんがな(>_<)
考えられる可能性としては、
その1、チケットを既に取ってあり、出国まで14日に満たないため隔離は免除される(予定が変わらず一番よい)
その2、2月25日にもフライトがあるので、それに変更すれば実施前なので隔離なしで出国出来る(バタバタするけどすぐPCR検査受けて急いで出国)
その3、フライトを後ろにずらして、14日間隔離してから出国(>_<)
これは中国大使館に行ってマジで相談してみるしかない・・・
というわけで朝いちで出向いて行ったら門前払い(>_<)
中国大使館なう!! 3月1日からということで交付された出国前の14日間隔離について運命の分かれ道〜
その1、チケットを既に取ってあり、出国まで14日に満たないため隔離は免除される(予定が変わらず一番よい)
その2、2月25日にもフライト...
末吉覚さんの投稿 2021年2月21日日曜日
まるでこの歌のような心境である。
まず電話しろ、そしてメールを送れ!!と言うので、
中国大使館の中国人用窓口には布衣のマネージャーから電話をかけてもらい、
並行してタカシに外国人用窓口にクメール語で電話してもらう。
まず大使館に貼られているこの電話番号はVISAに関する問い合わせのようで、
搭乗前14日間の隔離のことが聞きたいのに、
「まずVISAの写真を送れ!!それからだ!!」
と・・・
しかし送っても全く返事が返って来ない(>_<)
一番知りたいことは、このまま3月4日の便のままで隔離日数が足りないので免除してくれるかどうか、そして2月25日の便なら隔離は要らないのかどうか。
中国側の返事は来ない。
カンボジア側は、タカシが、
「別に隔離は要らないそうですよ」
ってそれいつのフライトの場合や!!(>_<)
隔離に関してはこんな情報もある。
「私の中国人の友人が去年の11月に中国に帰国した時も14日の隔離は必須だった」
それなら私の周りの中国人コミュニティーでももっと話題になってるはずやけどのう・・・
また私のVISAに関しては、
「全てのVISAは無効になっているので取り直した人だけが入国出来る」
とか
「2020年3月27日以前に発行のビザでは入国出来ない。3月28日以降発行のビザのみ有効」
とかいう書き込みも・・・
そう言えば中国の全てのVISAは一回無効にされて、労働VISAだけは今は入れるようになったという噂は聞いたことがある・・・
刻一刻状況が変わるので、「あの人がこうだったので私もこう」ということは必ずしも言えない状況なのである。
情報が交錯している時は一番確実な道をゆくしかない!!
まず隔離に関しては、とりあえずチケットは2月25日に変更しておく!!
3月1日から施行と書かれているので3月4日のフライトが14日間隔離に当たる(例えそれまでの時間が14日間に満たなくても)確率よりは、2月25日のフライトにも隔離が必要である確率が断然低いはずである。
幸いカンボジアで3度目の市内感染が起こって、来週のイベントは全部飛んでスケジュールは真っ白である。
バタバタではあるが25日に帰ることは出来る。
ところが中国のアプリ「去哪网」で取ったチケットは、ネットでチケット変更は出来ず、どうしても中国の電話で変更せねばならない(>_<)
しゃーないのでとりあえずこれは中国のマネージャーに任せて、
「25日のフライトになった場合、PCR検査はいつや?」
タカシにカンボジアの番号に電話させて問い合わせる・・・
「23日に検査に来て下さいとのことです」
ああいう検査って2日間しか有効じゃないんじゃないの?
25日にフライトで23日に検査したんじゃ、検査結果は24日までしか有効でないのではないの?
中国のマネージャーに確認する・・・
「Webで調べたら72時間とのことだから23日でいいでしょう。結果を受け取ったら大使館行ってその結果が反映された緑色健康QRコードを発行してもらわなきゃなんないんで、24日ではそれが間に合わない」
何かイヤな予感がする・・・
フライトは夜なのだ。ちょっと遅延すれば着くのは3日目である25日を超えて4日目の27日になってしまう・・・
これって到着時間から逆算して72時間じゃないの?・・・
ゆっくり調べてみたら、23日に検査して結果が出るのが翌日24日の夕方5時だそうで、なるほど24日に検査したのでは25日のフライトには間に合わない・・・
23日に検査に行く以外選択肢はないのである。
中国から連絡!!無事にチケットは変更出来た、と。
ではというわけで翌日23日にタカシを連れて検査会場へ・・・
PCR検査なう・・・長蛇の列(>_<)ほぼ全部中国人(笑)
末吉覚さんの投稿 2021年2月22日月曜日
タカシ要らん(>_<)
「ここは中国か!!」と思うぐらい全員中国人!!
そして案内のアナウンスから現地スタッフまで全員中国語を話す!(◎_◎;)
わからないことがあったら隣の中国人に聞けばいいし、スタッフもみんな中国語で話してくれる・・・
タカシを帰らせて並ぶこと長時間・・・
まず整理番号をもらうのに数時間、
それを持って実際に検査に並ぶのに数時間(>_<)
気が付けばもうまる半日ここで並んでいることになる・・・
噂で聞くと、昔はこの整理券を配る時に中国人が並ばずに殺到して、
番号をもらいたかった日本人がゲットすることが出来ずに検査を受けられない、
すなわち予定されていた便に乗れなかったという話もある・・・
さすが中国人(笑)
さて時間的に待たされるだけで、検査自体は喉と鼻の中、そして血液検査とあっという間に終わる。
ただ途中で何度か「日本人だよね?行き先は中国でいいの?」と確認された。
このご時世、有効な労働VISAを持っている日本人がカンボジアから中国に飛ぶというのは珍しいことなのだろう・・・
・・・ってかここでは中国人以外の外人が既にとても珍しいのだが(笑)
というわけで翌日夕方5時に陰性証明をゲット!!
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
ところが見れば中国人が何やらこの書類の写真を撮って携帯で色々やっている・・・
「明日大使館行って緑色健康QRコードもらうんだよね?」
「え?大使館なんか行かないよ」
!(◎_◎;)
「それどうやるん?教えて〜!!」
と言ったら中国のSNSアプリWeChatのミニアプリで登録しているようだ・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
しかしこれは中国人だけしか使えないようだ・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月26日金曜日
中国のマネージャーに問い合わせてもらったらやはりこれは外国人には使えないらしい・・・
これは翌朝大使館に行くしかないな・・・と思っていたら・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
しかしまた中に入れてもらえなかったらどうしよう・・・
とりあえず返事の来ないメールアドレスに一応予約のメールを入れてもらっておく・・・
しかし、持つべきものは中国通の友人である!!
なんと外国人がネットで登録出来るサイトがあるそうだ!(◎_◎;)
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
\(^o^)/・・・早速そこから入って色々情報を打ち込んでみた・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
これであとは酒でも飲んで待ってれば良い!!\(^o^)/
・・・ということで本当に飲んでいたら赤色になって弾かれた(>_<)
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
原因は、どうやらIgM検査の結果とやらがないからということである。
ちゃんと血液検査やったぞ〜!!!
思うに、私だけが日本人のパスポートなので、まさか中国に行くなんて思わない、日本に帰るんだろうからIgMは要らないだろうと勝手に判断されたのだろう・・・
仕方がない、フライト当日であるが、もう一度検査場に行って結果をもらって、そこから大使館行って緑色健康QRコードもらって、そこから空港行ってチェックイン・・・
いくら夕方の便だとは言えかなりタイトなスケジュールやなぁ・・・
というわけで翌日の朝一番で検査会場!!
スタッフに事情を説明して廻って、最後にやっとその処理が出来るスタッフに巡り合う・・・
タカシを連れて行ったのだが、役に立たん(>_<)
「なんで書類もらった時にチェックしなかったんですか?」
と聞かれて
「そうですねぇ・・・」
とか言ってる場合じゃないじゃろ!!
結局自分で英語で、
「何言うてまんねん!!こんな英語ばっかりの書類もらってどうやって内容をチェックしまんねん!!こちらは全面的にそちらを信用するしかおまへんやろ!!」
とにかく捲し立てる!!
こちらが悪いとなったらその後に何も動いてくれなくなる・・・
それが中国式!!
中で待てと言われたのでひとり中で待つ・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
ところが今度は中のスタッフに「外で待て」と言われる(>_<)
もうね、こんな時にも中国式に強い態度に出るしかない!!
ところが出勤して来た美人女医さん、ワシの書類をふんふんと見ながら笑顔でこう言った。
「じゃあ書類用意しますので11時にまたここに戻って来て下さいね、ニコッ」
あり得ない!!中国で、特に女性からこの「ニコッ」はあり得ない!(◎_◎;)
もうね、いっぺんに恋に落ちてしまう(笑)
カンボジア人女性は優しいのう・・・(涙)
というわけで11時にまたやって来てまたひたすら待つ・・・
3度目の検査場〜 11時に来いと言われて来てもまだまだ待たされる(>_<) このまま待たされ続けて書類もらっても時間切れで緑色健康QRコード貰えずに出国出来んとか?(>_<) は、は、は、あるある〜って笑い事じゃないけど(涙) - Spherical Image - RICOH THETA
先ほどの美人女医さんがまたやって来て、
「もうちょっとしたら書類取りに行って来ますからね、ここでそのまま待ってて下さいね、ニコッ」
この「ニコッ」に本当にやられてしまう。
中国人のおっさんだったら10分おきに
「ちょっと〜今日の飛行機に間に合わんじゃろ!!早うしてよ!!」
と急かすところ・・・(笑)
しかし「ニコッ」とやられたらもうそれで何も言うことが出来ない(>_<)
せっかちの私がこうして1時間近く何も言わずにずーっと待っているのだ(笑)
かくして新しい検査結果ゲット!!!!!
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
今度はちゃんと「IgM」という言葉がある!!
この書類をアップロードして、ひたすらそれが緑になるまで待つというわけだ・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
もうね、精神的にかなりダメージが激しい・・・
文字通り本当に「酒でも飲みながら待つ」しかない(>_<)
おそらくこれがカンボジアでの最後の食事になるだろうから、愛してやまない翁さんラーメンへ!!
それまでは飲んで待つ!! 緑色になればそのまま祝杯、 2時間待ってならなかったら中国大使館に怒鳴り込む!! 怒鳴り込むんやで!!はいはい言うだけちゃうねんで!!働けよタカシ!!(>_<) - Spherical Image - RICOH THETA
ここで本当に飲みながら待った・・・(笑)
だいたい1時間〜2時間で反映されると言うので、14時になったら大使館に怒鳴り込みに行く!!
タカシにくれぐれも言っておく。
「ええか、怒鳴り込むんやで!!予約がないと入れない言われたら予約入れたのに返事ないやん!!とにかくこれをすぐに緑色にしろ!!優しく言うたら中国人言うこと聞いてくれんからな!!」
分かったのか分かってないのか、彼も先日の肝臓の疾患もよくなったということで昼からほろ酔い気分である(>_<)
そして2時になった!!まだ緑にならない!!
「行くぞ!!」喧嘩腰まんまんで大使館に向かう・・・
すると・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月24日水曜日
午前中しか営業してないんかい!!!(>_<)
終わったな・・・最後の手段としては、このまま緑色にならずに空港に行き、
そのQR検査の時にまた中国語で捲し立てて黄色のまま押し通すことである・・・
タカシと別れて空港へ〜
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
トゥクトゥクの中ではもう本当に意気消沈(>_<)
正直言ってかなり落ち込んでいる・・・
結局緑にならないまま空港へ〜 どうなるワシの人生?(>_<) - Spherical Image - RICOH THETA
空港に着いた。
空港のパネルを見ると韓国行きとかが遅い時間に飛んでいる・・・
中国のAPPで確認すると、それに乗ってソウル乗り換えだと日本までは帰れるようだ・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月26日金曜日
お値段は中国便よりはちょいとお高い(数字を約15倍すると日本円)が、
まあ国籍のある日本に帰るにはVISAは要らないわけだから、
最悪上海行きに乗れない場合は、その場でこのチケットを買って夜の便でそのまま日本には帰れるということである・・・
日本から中国に渡るには最低14日日本に滞在せねばならないが、
まあ今日の上海便に乗れなければ、あとは(おそらく)カンボジアで搭乗前14日間の隔離をしなければならない3月便に乗らねばならないわけで、
要はカンボジアで14日隔離するか、日本で14日間自主隔離するかの違いである。
最悪は乗れない場合このまま日本に帰る覚悟を決めて列に並ぶ・・・
チェックイン開始時刻には空港に着いていたのだが、既に中国人が列をなしていて私は最後尾、
「実のところこのQRコードってあまりチェックされてないんとちゃう?」
そんな期待を裏切るように、専門のスタッフが専門のテーブルでちゃんとチェックをしている(>_<)
私の順番を待つ・・・
順番が来た!!並んでる間にしミューレーションしてた通り中国語で捲し立てるが、担当職員は英語しかわからない(>_<)
仕方がないので知っている単語を総動員して英語で捲し立てる・・・
担当職員は私の携帯のリロードボタンを押したりしている。
「ほらリロードしてもダメでしょ!!半日ずーっとこうなんですよ!!」
中国的にはとにかく怒る!!
例えその担当職員が悪いわけではなくても怒る!!
そのことによって「ああ、とても困ってるんだな」と思ってやっと親身になって動いてくれるというものなのだ。
まあいくら中国人への対応に慣れているカンボジア人スタッフだって、こんな下手な英語でここまで捲し立てられたって困るわのう・・・(笑)
困って私の携帯をひたすらリロードしてたら突然QRコードが緑色になった!(◎_◎;)
チェックするところで係員に「中国語?それとも英語?」と聞いたら「英語」と言われたので、知ってる限りの英単語並べて大喧嘩してたら、喧嘩してる途中に緑色になった!(◎_◎;) これで乗れる!!・・・はず?
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
担当職員に深々と頭を下げて、あとは順調!!
残るはVISAの問題だが、VISAの種類の問題以前に、私のVISAは更新して新しくなる前の古いパスポートに貼られている。
つまり新しいパスポートでチェックインをし、中国入国のVISAの確認の時にはパスポート番号の違う古いパスポートを出すことになる・・・
予想通り担当職員に訝しそうな顔をされたが、
「これでいつも入国してるから大丈夫!!」
と捲し立てて事なきを得る・・・
ほんまはこれで入国すんのは初めてやけど・・・(笑)
あと、荷物を預けた後に健康証明のアプリに中国での住居とか色んな情報をアップしてQRコードをゲットせねばならない・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
ゲット!!・・・これで取り敢えずは飛行機には乗れる・・・はず(>_<)
あと上海に着いて今度はVISAの問題で入国出来なかったりしたら、今度は送り返されるのはここカンボジアではない。国籍を持つ日本なのである・・・
さようならカンボジア!!ちょっと泣けて来た・・・
カンボジアの皆さん、一年間本当にお世話になりましたm(_ _)m もう涙腺ボロボロです(涙) またコロナ終わったら帰って来ます!! 本当に本当にお世話になりました!
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
飛行機は私より前の席は満席!(◎_◎;)私は最後尾だったので一番後ろの席だった。
空いてる席に替わろうと思ったら出来ないと断られた!(◎_◎;)
きっと何かの理由で後ろの席は空けてあるのだろう・・・
なかなか飛び立たない(>_<)
きっと手続きが遅れている乗客を待っているのだろう。
機内食の販売が先に始まったので、ビールと卤肉饭を頼んだら先にビールが来た!!
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
飲みたいのはマウンテンマウンテンなのだが、まあ卤肉饭が来てから・・・と思ったら来る前にどうやら離陸するようだ・・・
非常用設備の説明を防護服でやられると改めてコロナ禍だなと思ってしまう・・・
離陸して平行飛行に入ると卤肉饭が運ばれて来て、久々の機内食を堪能!!
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
これは瀬戸内海を渡る連絡船のうどんと同じように、
別にこれ自身の味が絶品なのではなく、機内で食うから美味いのであって、
しかしこうしてこの環境で中国らしく冷えてないビールと一緒に食うと、
あれだけ飛行機に乗ってた自分は改めて1年ぶりに飛行機乗ってるんだなと実感して感慨深くなって来る・・・
上海に着いた!!気温は10度・・・寒い(>_<)
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
入国のために並ぶ・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
また厳重なチェックをやるのかと思ったら、出発前に登録したこのQRコードでパス!(◎_◎;)
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
思うにこのコロナ禍によって、毎回入出国に書くいろんなカードが全てこのように全部QRコードになればどれだけ便利か・・・
と思ってたら外人の入境カードはやっぱり手書きで書き入れなければならないのね(>_<)
花の穴に綿棒を突っ込まれてPCR検査を行なって晴れて入国!!
昔は必須だった外国人用の指紋チェックは行われなかった。
入国するまでにかなり長い時間がかかったので、荷物のレーンは動いてなかった・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
荷物を取ったら上海居住者、近郊省居住者、そして私のように隔離後は北京とか遠い省へ向かう人間に分けられてバスを待つ・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
この待合室に入る前にこのQRコードをスキャンして、必要事項を書き入れて自分用のQRコードをもらう・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月26日金曜日
それをパスポートに貼り付けて、その後は色んなところでこのQRコードをスキャンして手続きをする。
将来はパスポートもその情報をQRコード化していちいち写真ページを開かなくてもいいようになるのかなと近未来を想像・・・
バスが着いた!!
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
乗り込んで揺られること1時間!!
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
ホテルに着いた!!
ホテル自身が隔離されていて、一般客は立ち入り禁止。
防護服を着たスタッフが物々しく入り口に立っていて、
中国語で色々説明をした後に6人ずつ中に入れる。
中に入った人間から渡された書類に情報を書き込んで支払いをする・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
ってか4620元(約7万円)なんか持ち合わせておりまへんがな!(>_<)
支払いはWeChatアプリ、AliPayアプリなどを使って支払うか、中国の銀行カードを使って支払うしかないのだが、残念ながら1年に渡るカンボジアでのその日暮らしのせいでどれも残高はほぼゼロである(涙)
カウンターで交渉ちう〜
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
「クレジットカードは使えませんか?」
使えません!!(>_<)
「ドルは使えませんか?」
使えません!!(>_<)
隣の乗客が「じゃあ私が両替してあげようか?」と名乗り出てくれたが、
実際にドルを渡すと、それが偽札ではないことを証明出来ないのでということで辞退(>_<)
真夜中なので誰かから送金してもらうわけにもいかず、
「明日会社から振り込んでもらうっつうことでダメなの?」
と泣きこむのだが、
「今日どうしても入金して貰わなければ困る」
と・・・
この担当者の物腰が非常に柔らかくて好感を持ったので私としても怒鳴り込んだりせず、ひたすら二人で「どうしよう」と困っていた・・・
「よし、じゃあ俺が立て替えようじゃないか!!人民元はいくらある?」
なんていい人なんだ!!
人民元残高をかき集めて3000元、残り1200元を立て替える代わりに、その担保として200ドルを置いて行け」
まあ両替としてはちょっと率は悪いけど、明日布衣から振り込んで貰えばそれで1200元払えば戻って来る。
まあこの人にしてもドル持ってたって困るだろう(笑)
「でも明日あなたはここにいるの?」
その質問に大袈裟にジェスチャーを交えながら彼はこう言った。
「いるに決まってるだろ?俺だってここに隔離だよ(笑)」
そうか・・・コロナで大変なのは乗客だけじゃないんだなと実感・・・
かくして部屋に入って今からここで14日隔離!!
その後は自宅にて14日・・・しかし私の自宅がある北京の院子は、その村に外国人の入村を禁止しているので入れない。
友人宅はその友人も隔離対象になるだろうから使えない・・・
はてさてどうなりますやら・・・
末吉覚さんの投稿 2021年2月25日木曜日
Posted by ファンキー末吉 at:12:36 | 固定リンク
2020年12月17日
カンボジア王国ラタナキリ州最終夜
たまたま客引きに来たトゥクトゥクの運転手サント君と出会ったおかげで楽しい旅になった。
ドラムも叩けたしカラオケにも行った。
目的地であった中国村にも行けた。
あとはメシ食って次の街へ行くだけなのだが、最後やっぱり彼と、彼の友達、出来ればご家族なんかともメシを食ってお別れしたい。
最初にメシ食った時も
「奥さん子供いるの?食事に連れておいでよ」
と誘ってたのだが、
「うちは遠いからなぁ〜彼女は来たがらないよ」
と言ってた。
ところが昼間には子供と一緒に来た。
さてと今日はいよいよ最終目的地の中国村ラオス村!!サント君はバイクに乗り換えて子供と共に現れた!(◎_◎;)一緒に観光行くのか? なんで人んちの子供に朝メシ食わさないかんのかようわからんがまあええわ楽しいし(笑) ってか途中ノーヘルでポリスに捕まるところぶっちしてんですけど!(◎_◎;) やっぱここにも警察おるんや(笑) 3人乗りでノーヘルで40km行くんか?・・・ええけど(笑)
末吉覚さんの投稿 2020年12月14日月曜日
「夜は奥さんも一緒に食事に」
と言うと二つ返事である。
きっと彼自身も楽しかったのだろう。
ただの「客」だったら奥さんも出不精になるところ、きっと旦那がとっても楽しそうだったから一緒にと思ったのだと思う。
お迎えはクム君のトゥクトゥク!!・・・相変わらず派手やなぁ〜(笑)
カンボジア王国ラタナキリ州のトゥクトゥク - Spherical Image - RICOH THETA
着いたところは何やら大きなスーパーマーケット!!
そこの周りがレストランみたいになっとる!(◎_◎;)
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
サント君ご家族!!
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
ここはバーベキュー(和佐田)屋さんらしく、お任せで注文してもらったのだが、海鮮ばっか頼みよる!!(◎_◎;)
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
カンボジアの中では海から一番遠い街やぞ〜!!
それに牡蠣なんか当たったらどないすんの〜!!!
ま、ええか・・・寝てりゃええだけやし(笑)
ご家族大喜びで箸が進む・・・
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
ここはベトナムとラオスとの国境の街、海沿いに細長い国土を持つベトナムは、入国したらもうすぐに海である。
ひょっとしたらこれら海鮮はベトナムから入って来てる?・・・
などと考えてたらダナンでよく食べた、この料理の汁をフランスパンに浸して食うのがむっちゃ美味かったことを思い出した!!
「ここパンないの?」
そう聞いてみると、クム君が自分のトゥクトゥク乗って買いに行ってくれた・・・
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
「お前なぁ!!こんなに買って来てどうする気ぃ?!(大笑)
もうね、ここでタガが外れた。
もう何をやっても可笑しい、箸が転んでも可笑しい女子高校生のようである。
(今日びの女子高生は箸が転んだぐらいじゃ笑わん(>_<))
とりあえず食ってみる!!
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
もうね、むっちゃ美味くて笑いが出て来る(涙)
予想通りイカの炒め物の汁も最高!!
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
もうね、何でもないのだが何故だかむっちゃハイで大笑いな食事会でむっちゃ楽しい!!
ラタナキリ最後の晩餐 - Spherical Image - RICOH THETA
仮谷家でバーベキューした時に酔っ払った仮谷君がよく言うのだが、
「何を食べるかじゃないんですよ!誰と食べるかなんですよ!!」
なるほどなと思う。
思えばプノンペンにいる時にはいつの間にやらカンボジア料理なんか食わなくなってきてた・・・
中国から旅でプノンペンに来た時には、リバーサイドのペッパーステーキや、ソバンナIIのイカとグリーンペッパー炒めとか必須やったのに、こうしてプノンペンで暮らしてると滅多に食いに行かん・・・
まあ「いつでも食える」というのはあるけど、基本的に日本レストラン行って、おもろいオッサン(土井さんとか翁さんみたいな(笑))と飲むのが楽しいからな・・・
旅に出たら逆にカンボジア料理しか食わん!!
旅先で日本料理屋探して・・・というまで日本料理が好きではない。
やっぱこういう食事が一番楽しいわ・・・
食い終わって「スカイバーへ行こう」というのでまたひとり大笑いした。
だってこの街にはビルらしいビルもネオンも何もなく、夜景どころか高いとこから見て楽しいものはひとつもないのだ!(笑)
斜め前のスカイバーが入っているビル・・・
今まで見た中では一番大きなビルやな・・・
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
ご夫婦ハッピー!!こちらまで幸せになって来る・・・
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
そしてこの街の夜景!!(笑)
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
全く夜景でも何でもないんですけど〜〜〜!!!!(笑)(笑)(笑)
店のオリジナルカクテルみたいなん頼んでみたら、何この量!(◎_◎;)
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
いやね、カンボジアやけどもう関西弁で突っ込むわ!!
「何やこれ?!!こんだけ量入れる必要あるんかい!っつうねん!!!」
ここでまた大笑いしてるうちに思った。
「何でもないことで大笑いしてると楽しいなぁ・・・」
誰かが言った。
「人を笑わせることの難しさよ、人を怒らせることの簡単さよ」
それを言うならこう思う。
「人を笑わせることの難しさよ、自分が笑うことの簡単さよ」
「赤ちゃんが笑うのは可笑しいからじゃなく幸せだから」
という言葉も思い出した。
大人になって「幸せ」や「笑うこと」や全部忘れてしまって、
何やら「不幸」ばっか背負って生きてるようになるけど、
笑えばええのよ笑えば!!
なんか着いた時から笑いっぱなしの楽しい旅やったなぁ〜
こんな言葉でシメてみましょう。
「旅はどこに行くかじゃないんですよ!誰と会うかなんですよ!!」
末吉覚さんの投稿 2020年12月16日水曜日
はてさて次の街ではどんなことが起こるかな・・・
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:09:54 | 固定リンク
2020年11月 5日
聾唖のBar Girl
カンボジア歴数十年というツワモノのKさんに呼ばれてオスカーに行った。
末吉覚さんの投稿 2020年11月4日水曜日
演奏してたのはこのバンド・・・ベースのカンボジア人は親しいのだが、どうもこのボーカリストの白人は好きではない。
実は昔こんなことがあったのだ・・・
「Funkyさん、ドラム叩いて下さいよ」
とタカシ・・・
お前な、ワシがドラムを叩くかどうかはワシが決めることではない。
今ステージではバンドが演奏している。
これはこのバンドがステージを任されているということだ。
そこにのこのこ出て行ってその進行を邪魔されたらワシだったら怒る。
だからな、もしこのバンドの人が「叩いて下さい」と言うならワシは喜んで叩くけど、呼ばれてもないのに人のステージに上がるのはこれは「邪魔」でしかない。
わかるか?
うんうんと納得したタカシ、何やら紙に何かを書いてステージに持って行って譜面台の上に置いた。
カンボジア人のバンドの場合、リクエストがあれば紙に書いて置いとくと、曲が終わった後でそれを読んで、演奏出来る場合は「じゃあ後でこの曲やるから楽しみに待っといて」とか、出来ない場合にも「すみません、この曲は演奏出来ないんです。同じアーティストのこの曲なんかどうですか」とか、まあいろいろそこからリクエストした客とのコミュニケーションが始まったりする・・・
タカシの場合、私の言うことをよく理解したので、
「こういう凄いドラマーがいますんで是非ドラム叩かせてやってくれませんか」
など書いて置いて行ったのだろう・・・
しかしコイツ・・・この白人は、曲が終わってその紙を取り上げて一瞥するや、そのままそれをくちゃくちゃにして捨てたのだ!(◎_◎;)
それに書かれているドラマーがそれを見てるだろうにも関わらずである・・・
私はこれには心底びっくりした。
「お前、何様じゃ!!」
いやね、みんなが待ち望んでるバンドの演奏を中断させて自分がドラムを叩きたいわけでも何でもない。
ステージを預かっている人間なのだから、自分が考えているステージ構成に「飛び入り」というのが合わないのであれば、そりゃ断るべきである。
しかし、「もしよかったら是非」と言っている店のスタッフ、
そして、ひょっとしたら新しい音楽友達が出来るかもと心の隅で期待しているだろう客席のそのドラマー、
そんな人の気持ちをコイツはその人達の前でくしゃくしゃにして捨てたのだ!!
言っちゃ悪いが、全くもっていい演奏でもなんでもない。
英語で歌っているようだが、聞いたこともないろくでもない曲、
きっとオリジナルなのだろう・・・
カンボジア人バンドはいつも先人達が残した偉大な楽曲をカバーして演奏しているのでそりゃ非常に楽しめる。
でも誰も知らない英語の曲、
そしてきっとそれはコイツが母国に帰ったところで誰も相手にされるレベルではないのだ。
この国では誰もが自分の国の言葉を喋ってくれる。
この国の人は自分に比べたらとても貧しい。
自国だったらこうやってステージを任されることもないだろうこのレベルのミュージシャンが、ここに来たらこうしてある意味ではチヤホヤしてくれる。
「こんな外国人にだけはなりたくない!!」
だからせめて、もっとこの国の言葉を喋れるようになろう・・・
すぐにこんな気分の悪い店からはおさらばして家に帰って勉強した。
(でも今だにろくに喋れんが・・・笑)
まあそんなこんなで私はこの店で演奏している白人が嫌いである。
昨日の話・・・ 「今日はオスカーでJamセッションなんで是非来てドラム叩いて下さい」とタカシ・・・ 民謡レストランでまったりカンボジア民謡に浸ってたのよねぇ〜 「8時半には来て下さいね」というが、まったり遅れて9時過ぎに行ってもまだ誰も来と...
末吉覚さんの投稿 2020年11月2日月曜日
Kさんは既に他の店に流れたと言うので、追いかけようとしてたらある日本人に声をかけられた。
先日このJAMセッションを見てた人で
「爆風スランプの人なんですか?」
と、とても感激していた人である。
「今日は叩かないんですか?」
いや、叩かんし・・・(笑)
仮にも一応ドラムを叩いてお金をもらってそれで生活している私が、
このロクでもない白人にお願いしてタダで叩かせて頂く理由が全くない(怒)
「あれから帰ってYouTubeとかいっぱい見たんです!!大きな玉ねぎの下でとか、あれ叩いてる人なんですよね」
いや、そうやけど・・・(苦笑)
YouTubeには私が世界中でドラム叩いてる映像や、中国全土でドラムソロをぶっ叩いている映像や、北朝鮮でドラムを叩いている映像まであるのに、よりによって「玉ねぎ」なん?(笑)
「あのサンプラザ中野さんでしたっけ?あの人の映像も見ました。ベトナムとか行ってらっしゃるんでしょ?凄いなぁ・・・」
知らんし!(>_<)
まあ日本人にしたらやっぱりいつまで経っても私は「爆風スランプの人」で、「大きな玉ねぎの下で」という曲のドラムを叩いてるのも、確かに紛れもなく私なのであるが・・・
こういうのがイヤで、私は中国に逃げた。
誰も「爆風スランプ」など知らない国で、その国の言葉を勉強し、その国の若者と共にその国の「ロックの黎明期」を作りあげた。
中国人にとっては私は単なる「伝説のドラマー」で、爆風スランプなど誰も知りやしない。
数々のロックの名盤(これとか)のドラムを録音し、中でも中国ロック界に金字塔を打ち立てたこのアルバムを叩いたことにより、よく「許魏のドラマー」という言い方もされる。
「あの伝説の北京ライブ・・・映像で見て何度も泣きました。あれ叩いてるドラムの人ですよね」
と言われるのと、
「大きな玉ねぎの下でを叩いてる人ですよね」
と言われるのとは、言われる方としては大きな違いがある。
まあ「玉ねぎ」も確かに自分の活動してたバンドの大切なヒット曲のひとつだし、
「許魏」のアルバムも私が山ほどやったスタジオミュージシャンとしての仕事のひとつであることに間違いはないのだが・・・
日本人に対してこのニュアンスを説明するのは非常に難しい。
中国人にとってはただ「Funkyの昔のバンドは日本でむっちゃ売れてたらしいぜ」という認識で、もし「玉ねぎ」の映像見つけて来て「これもファンキーさん叩いてるんでしょ?いい曲ですねぇ・・・」言われたら、
「おう、いい曲だろ、俺も好きなんだ」
で終わる。
何も違和感も疎外感(?)もイヤな気持ちも何もない。
でも日本人に言われると「あんたまだそんなとこでしかワシを見てないの?」と思えて寂しくなる。
もう「日本なんて帰らんでええな」と思っちゃうのである。
確かに私は爆風スランプのドラマーであり、数々の名曲のドラムを叩き、ついでに作曲もして、バンドの存続のために数々の泥水を啜って生きて来た。
でも、それよりも長い時間、私は中国ロックのために生きて、数々の名盤でドラムを叩き、数々のこの国のロックレジェンド達と共に数々の伝説を作って来たのだ!!
中国で活動して来た期間はもう人生の半分を超え、爆風スランプをやってた年月よりも遥かに長く、その成功は爆風スランプのものよりももっと(人口比で言うと10倍強)大きなものであるにも関わらず、それを全く無視されることに大きな違和感と虚無感があるのだろう・・・
しゃーないけど(>_<)
まあ虫の居所が悪いと時々そんなこんなで機嫌が悪くなったりする時もあるが、
基本的にその人には全く罪はないので「また飲みましょう!!」と盛り上げて店を出る。
Kさんと合流してとあるガールズバーに連れて行かれた。
カンボジア人の奥さんとクメール語で会話し、5人も子供のいるツワモノ・・・
(私は中国人の奥さんは一人目だけでその間に子供は二人・・・ってそれを競っても仕方がないが・・・笑)
馴染みのバーも多いらしく、この前連れて行かれたバーは、そこのママさんがその店のオーナーになったということでお祝いに飲みに行ったみたいな感じだった。
ところが今回のガールズバーは、また繁華街の外れと言うか、
まず「飲みに行く」という場所ではない上に、看板が出てないのでそこがガールズバーであるかどうかも一見さんには分かりようがない。
「おばちゃんばっかりですよ」
と笑って言うが、どうせ私もこの歳になるといわゆる「おばちゃん」はみんな「歳下」なのだ(笑)
バーに入って奥のテーブル席に座ると馴染みのおばちゃん(失礼)達と共にひとりの若い美女が・・・!(◎_◎;)
私の隣に座ったので、ここぞとばかり話しかけようとしたら、
「あ、彼女、喋れませんよ」
とKさん。
英語が喋れないなら好都合!!勉強中のクメール語のいい練習になるぞ!!・・・
と思ったら、英語だけでなく、耳が聞こえないから言葉が喋れないのだ!(◎_◎;)
「ここに来るとねぇ、クメール語の手話のいい練習になるんですよ」
とKさん。
手話は全世界共通だと言われているが、やはりそれぞれの言語での手話もあるらしく、
喋りでもまだそんなに喋れないのに手話まで無理!!(>_<)
でも、私はこの国の文字から勉強しているので、筆談だったら出来るぞ!!
お名前は?・・・スレイリアップちゃん?
アルファベット表記では「Sreyleap」?
ならば「Srey」は絶対に「ស្រី」!!女の子の名前によくある、日本で言うと「○○子ちゃん」って感じであろうか・・・
leapのleaは「លា」か「លៀ」か・・・まあ「លៀ」ならきっと「lia」と表記するだろうから(知らんけど笑)まあまず「លា」で間違いなかろう・・・問題は末尾子音の「p」である。
「p」を表す文字は「ផ」と「ព」と「ភ」の3種類あるが、「ផ」が末尾に来る単語は今まで見たことがないので・・・今日勉強した単語に出て来た「ព」を書いてみたらハズレ!(>_<)
これよ!と書いて(打って)くれた名前がこれ!!
末吉覚さんの投稿 2020年11月4日水曜日
おう!!「ស្រីលាភ」ちゃんか〜カワイイのう・・・❤️
勉強したてのクメール語でちょっと取っ掛かりが出来たので喜び勇んでいたが、
よく考えたら「ビールお代わり」やら「君も飲みなよ」など、全く言葉を交わさなくても身振り手振りで会話出来るではないか!!(>_<)
見れば店のおばちゃん達(失礼)やKさんは手話も交えて会話をしている!(◎_◎;)
「この子はねぇ、この前行ったバーのママさんの姪っ子で、僕は小学校の頃から知ってるんですよ」
とKさん・・・おう、なるほどね・・・
みんなとの会話の中で彼女のこんな手話会話が訳されて来る。
「私はね、このおじさんのことが小さい頃から好きだったの。でもおじさんは今になっても全然振り向いてくれない」
もうね・・・カワイイのだ〜(涙)
「また来よう!!また彼女にお金を落としてあげよう!!」
なんか物凄く幸せな気分で店を出た。
でも帰る道すがらこんな考えが頭をよぎった・・・
「お前なぁ、彼女が聾唖者だから好きになっただけなんじゃないのか?」
そう、「聾唖のBar Girl」なんて生まれて初めて出会ったわけだからその「特殊性」にぽーっとなってるのはある。
それってお前が「爆風スランプの人だから」って思われてるのと一緒じゃないのか?・・・
盲目のギタリスト田川ヒロアキ君がよく言ってた。
「もういい加減『盲目』ってのやめませんかねぇ・・・」
「お前、盲目なのは間違いないんやからしゃーないやろ(笑)」
でも彼は盲目であることを取っ払っても十分上手い!!
それをいつまでも「盲目であること」をキャッチフレーズにされることに嫌気がさしていたのだろう。
そう、私がどこに行っても、このカンボジアまで来ても、日本人に会えば「爆風スランプ」がついて回る・・・その嫌さと同じなのかも知れない・・・
そしてこの彼女、もし彼女が聾啞者じゃなかったら私はこんなに胸がときめいてたか?・・・
私は最初の結婚をする時に、漠然と「国際結婚をしよう」と思ってた。
いつか世界に飛び出して生きてゆきたいという夢があったこともあるが、
何よりも日本の中で自分を「爆風スランプの人」と見ない人を探すことは難しかったからである。
「芸能人と結婚したい人」や「ミーハーな人」などご勘弁である。
ちょうど芸能界のアホさ加減に嫌気がさしてたし、
「自分はいつかこの仕事を辞める、そしてアメリカかどっかに出て行って、また裸一貫から人生をやり直すだろう」
と思ってた。
だから「国際結婚」以外は無理だろうなぁ・・・と漠然と思ってた。
でもこの彼女、彼女を好きになる人のその理由が「聾唖者だから」ってそんなぁ・・・
まあ彼女は聾唖者を辞めることは出来ないわけだが、
やっぱそのフィルターを通り越して、本当に自分のことをわかってくれる人のことを好きになりたい、そう思ってるんじゃないかな。
だから小さい時から自分を可愛がってくれたKさんのことが今でも好きなのでは?・・・
オスカーに楽器持って集まって来る「ミュージシャン面」した白人達、
でも私は単に「白人だから」というので嫌ってたんではないのか?
それって彼らがアジア人を蔑視してるのと全く同じなのでは?・・・
私のFacebookに、
「ギター弾いてた太っちょの髭面君、まだ19歳なんで許したって下さい!多分まだセッションのことよくわかってないかと」
という書き込みがあった。
そうそう、演奏中こいつ、一度もアイコンタクトどころかこっちを見んかったんで
「お前、このワシをバックバンドで使ってんのか!!」
とちょっとカチンと来てたのだが、よく考えたら単にそんな余裕がなかっただけのかも知れない・・・
そう言えば今日、客席にこいつがいたなぁ・・・
なんか私を客席で見つけた瞬間に、会釈するでもなくかったので無視してたのだが、明らかに私に対して怯えてるような、なんかビビった表情をしてた・・・
まあこの人相でぶっきら棒にしてたら怖いやろ(笑)
でも同じ「白人だから」という理由で彼を威圧し続けてるワシって何なん?・・・
この彼女、ただ聾唖者だというだけで私は勝手に心が綺麗な人だと思っている。
だからその綺麗さに負けないように自分の悪い部分が見えて来たのではないかと思い始めている。
彼女が本当にいい子かどうかはわからない。
でも他のBar Girlだってみんな悪い子かどうかはわからない。
同様に私の嫌いなあの白人だって実はいいヤツかも知れない。
そのとばっちりで嫌ってた白人達の中にもいいヤツがいたかも知れない。
そうなのだ、どうせわからないんだったらみんな「いい人」だと思っていればいいのだ。
ただあまり夢が壊されないようにちょっと距離を置いて付き合ってればそれでいい(笑)
どちらにしろ、そんなに嫌ってやる必要はないのである!!
そんなことを彼女に教わったプノンペンの夜である。
「ស្រីលាភ」ちゃん〜金が出来たらまた飲みに行くからね〜お仕事頑張ってね〜
そしてその人生、一生懸命頑張ってね〜
彼女にきっと幸はある!!!
末吉覚さんの投稿 2020年11月4日水曜日
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:07:34 | 固定リンク
2020年10月11日
おじさん若い娘に服を買う
いや、日本から送ったコンテナの中から荷物がごっそり盗まれた状況で、そんなことやってる場合じゃないんやけど・・・
សូមផ្សព្វផ្សាយរឿងនេះផង !! មិត្តជាទីស្រឡាញ់នៅកម្ពុជា ...
末吉覚さんの投稿 2020年10月8日木曜日
まあこれはちょっと前の話・・・
タカシとか
「飲みに行きましょう」
と言うてもどうせワシが払うんやから
「安いところやないと行かんぞ!!」
とクギを刺しておく。
「それだったら安いバーを見つけたんでそこ行きましょう」
連れて行かれたのがリバーサイドからはちょっと外れた、場末の(失礼)ガールズバー・・・
そこには例によってとある貧乏な美人姉妹が働いていたのだが、
「あの店、なんか摘発が入って閉められちゃったそうですよ」
とタカシに言われて今回の話となる・・・
美人姉妹のお姉ちゃんの方はそのタイミングでは店にいなかったそうで助かったが、どうやら妹も、店にいた人全員警察に連れて行かれたらしい!(◎_◎;)
「そりゃ心配やなぁ〜」
お姉ちゃんにメッセ送る・・・
やり取りしてゆくうちにわかるのだが、それより大変なのは、その姉妹はその店の上に住んでたので、着の身着のままで帰るところもなければ金もなければ当然ながら仕事もない・・・!(◎_◎;)
タカシが
「じゃあオスカーで働きなよ」
と仕事を斡旋する・・・
ところが今度は店に出るにも着てゆく服がない・・・
しゃーないなぁ〜おじさんが服でも買ってあげよう!!(笑)
いや〜銀座のホステスとかを連れ出して服でも買ってあげるおじさん(知らんけど)に憧れてたのよねぇ〜
それが10ドル20ドルで実現するなら楽しいではないか!!
というわけでタカシが彼女を連れてやって来た。
まずは今日のまかないのヌードルを食べてもらう!!
末吉覚さんの投稿 2020年10月10日土曜日
そして近所にある庶民の市場、オールドマーケットに連れてゆく・・・
「何でも好きなの選びなさい!!」
おじさん内心「10ドル20ドルぐらいのんにしてね」と懐を慮ってハラハラ・・・
でも店に出るならドレスとまではいかんでもちょっとはええ服が必要やろ・・・
35ドル(>_<)
まあええわ、銀座で服買うたと思えばこれより数倍はするとこやったんやから・・・(知らんけど)
末吉覚さんの投稿 2020年10月10日土曜日
そしてタカシは次の店へと・・・
おいおい!!一着だけやで!金ないし・・・
と思ったら靴も買わないかんと・・・
そやわなぁ〜ドレスみたいな服にスニーカーいうわけにもいかんわのう・・・(>_<)
靴が13ドルでちょっと胸を撫で下ろす・・・
まあ庶民の市場オールドマーケットやからこのぐらいで済んだわけで、もしイオンとか名だたるショッピングモールやと倍はするやろ(知らんけど)
かくして「若い娘に服を買ってあげるおじさん」という夢は5000円ぐらいで叶ったわけで、まあ日本食を食いに行くのを一回二回我慢すればそれで済む・・・
と思ったら次なる問題が・・・
彼女は「住むところ」がないのである!(◎_◎;)
そやわなぁ〜と思ったらタカシが先頭に立って部屋探し!!
末吉覚さんの投稿 2020年10月10日土曜日
「探せばひと月70ドルぐらいの部屋がありますから」・・・ってワシその金は出せんぞ!!
って手持ちの金もないわけやからそうもいかん・・・
「貸すんやからな、出したるんやないからな!!」
タカシはこういう時には必ずちゃんと回収してくれるので安心である・・・
ってかうちの若い衆全員ワシに借金しとるやん!(>_<)
まあ子守とか家のこととか手伝ってもらってギャラの代わりにそこから金額をカットしてゆく・・・
って結局現金は返って来んわけね(笑)
まあ結局この日は部屋は見つからんかった・・・
翌日また探そうということで、まあ後でオスカーの初出勤の様子でも拝みに行って、
1.75ドルのビール飲んで、レディースドリンク3.75ドル奢ってあげたら彼女に1.5ドルとかのチップが入る・・・
まあ「ご祝儀」である・・・
と思ったら、タカシが「彼女、体調が悪いとかで帰りました」!(◎_◎;)
まあ「身体が弱い」みたいなことは言ってたので「さもありなん」とばかりその日は飲みに行かずに休肝日・・・
ところがそこからである。
翌日不可解なことが起こるのである・・・
「彼女、別のバーで働き始めましたよ」
聞けば、同じリバーサイドではあるものの結構場末のガールズバー!(◎_◎;)
「彼女、オスカーみたいな華やかな感じは何か合わないそうで・・・」
タカシも事情はあまりわかってないようだ・・・
「彼女のバー、今から行こうと思うんですけど一緒に行きますか?」
タカシもちょっと心配なのだろう・・・
まあ一緒に行ってみてすぐに退散した。
店が場末・・・っつうか何か居心地の悪い雰囲気であまり居たくなかったのもあるが、
彼女は私が買ってあげた服ではない別の服を来ていたのだ!(◎_◎;)
え?来てゆく服がない言うからなけなしの金で服買ってあげたんちゃうん?!!
前日のオスカーには着て行ったのであろうが、
翌日にはもう着替える服がある・・・
っつうことは別に今転がり込んでるであろう住処には服はあるのである(>_<)
「Bar Girlはウソつきますから」
翌日タカシも何やら機嫌が悪い・・・
聞けばその時に「20ドル貸してくれ」と頼まれたらしい・・・
何故ワシに言わん?!!
どうせタカシが貸したとしても、その金はどうせワシがタカシに貸すのだ(笑)
断ったら彼女、タカシに対して烈火の如く怒ったらしい・・・
「誰も私のこと助けてくれない(涙)」
いや、ワシは助ける言うてるし・・・
うちは賄いがあるのでいつでも腹が減ったら食いに来ていいし、
服も靴も(安いもんやけど)買ってあげたし、
初出勤に向けて美容院で髪の毛セットする金も出してあげた・・・
(5ドルやけど)
末吉覚さんの投稿 2020年10月10日土曜日
でも結局本当に金に困ったらうちには来ずにタカシんところに行く・・・
まあそうかも知れない。
ワシは所詮は外国人やし、
中国でもそうだったが、だから中国語を覚えて中国人には中国語で接するようにしている。
いつまでも英語で喋ってて、極端な話、通訳入れて会話しているようでは本当の意味でのコミュニケーションが出来るとは思わないからである。
あと、馴染みのきっぷのいいお姉ちゃんたちにこんなことを言われたこともある。
「あんた気をつけなさいよ。あんたは人が良すぎるからいつか騙されるわよ」
「いやいや、この人を騙すってちょっと勇気がいるわ、だっていい人過ぎるんだもん、かなり自分を落とさないと罪悪感にさいなまれちゃうでしょ」
Bar Girlだって「人間」だ。
同じ「金を巻き上げる」なら、身体目当てで寄って来るヒヒジジイの方が気が楽だけど、この人相手だとちょっと気が引ける・・・
てなこと言いながら結局はそこからも結構小銭を絞り取られているのだが・・・(笑)
それから数日経って、今日は週末で賄いがないので、若い衆連れてクメール料理を食いに行った。
末吉覚さんの投稿 2020年10月10日土曜日
末吉覚さんの投稿 2020年10月10日土曜日
そこには、華やかにレストランの一角を借り切って、バンドも入れて誕生日パーティーを開いているカンボジア人がいた。
末吉覚さんの投稿 2020年10月10日土曜日
「彼女、どうしてるかなぁ・・・」
突然そんな思いが湧き出して来た・・・
同じこの国に生まれて、
(ウソかも知れんが)その日に着てゆく服もない娘もいれば、
たかだか自分が生まれた日にを祝うためにその娘の年収ぐらいを一晩で使ってしまう娘もいる・・・
資本主義なんてそんなもの・・・
いや、社会主義の中国だってそうだったんだから
「世の中なんてそんなもの」なのかも知れない・・・
「彼女、またバーが変わったらしいですよ・・・」
タカシと一緒に行ってみた・・・
彼女はまだ出勤してなかったけど、そこは更に「場末」で、とてもじゃないがあまり長く居たくないような、そんなバーだった・・・
「場末」のバーは好きでよく行ったりする。
お姉ちゃん達が健気に頑張っているそんな「場末」のバーは結構好きなのであるが、
このバーはあかん(>_<)
何やら「汚い」と感じる何かがあるのだ・・・
いや別にゴミが落ちてるとかそんなではない。
お姉ちゃん達がスレてると言うか、何やら居心地の悪い何かがある。
お勘定して「安いですねぇ、ここ・・・」とタカシがびっくりするぐらい安い。
ビールが1ドルっつうたらオスカーの半額ぐらいである。
しかし客はいない・・・
値段の高い安いなんて所詮は持って帰る「満足度」の問題である。
1ドルだって高く感じる時もあるし、
日本レストランの5ドルのハイボールだって「安い」と思う時もある・・・
彼女は結局来なかった・・・
「お化粧してるからちょっと待っててね」
タカシに言ったその一言も「ウソ」だったのかも知れない・・・
「いつでも腹が減ったらうちにおいで!!金はないけどメシならいつでも食わせてやるぞ」
そう彼女に言ったは言ったのであるが、
彼女がうちの門を叩く日はきっと来ないと思う・・・
まあ仮に門を叩いたとしても、彼女を毎年誕生日を豪勢に祝えるような身分にしてあげることは出来ない。
手を差し伸べたって結局は何も大したことをやってあげられないのはわかっている。
でもその差し伸べた手を握り返してくれないと、本当に何もやってあげることは出来ない。
落ちてゆくのをただ眺めているしか出来ないのだ・・・
あの日買ってあげたあの服はどうしてるだろう・・・
売っ払ったってロクな金にはならないだろうから、
やっぱいつかはローテーションで袖を通すこともあるだろう。
その時にちょっとでいいから思い出してくれれば嬉しい。
たとえ、握り返すことはないとしても、あの日確かに手を差し伸べてくれた人はいたんだよ、ということを・・・
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:07:52 | 固定リンク
2020年4月15日
亜州鼓魂を巡る日中のいろんなドラマ
このブログでは結構頻繁に出て来るこのアルバムにまつわる話を、今回はちょっと掘り下げてゆっくり話そうと思います・・・
長くなるけどひとつの「読み物」としてまとめてみました。
本として出版するつもりはないけれども、
最近ではブログにも「投げ銭」と同じシステムで、読み終わって気に入ったらその分の報酬を支払うシステムがあるというので、一応「物書き」の端くれとして、「作品」として初めてそれをやってみようと思います。
もちろん一瞥して無視してくれても構いません。
それでは始めてみましょう、「亜州鼓魂を巡る日中のいろんなドラマ」
調べてみると、このアルバムが日本で発売されたのは1996年の7月19日、
爆風スランプが何をやってたかと調べてみると、その2ヶ月後の9月21日には「旅人よ 〜The Longest Journey」が発売されている・・・
ということは、ちょうどこのアルバムを制作している時に電波少年の猿岩石の応援歌のタイアップが舞い込んで来たということだ。
タイアップを取って来たレコード会社とのミーティングの様子を覚えている・・・
あれはきっと当時の所属事務所であるアミューズの会議室だったであろう、
ひとつの部屋にメンバー全員と、爆風担当のスタッフ、そしてレコード会社のディレクターと宣伝担当なのか、とにかくそのタイアップを取って来た人とが面を合わせる・・・
「電波少年って番組知ってますか?」
そこから話が始まったと記憶している・・・
もちろん私は日本のテレビ番組なんか見ないし、ましてやバラエティー番組など知る由もない。
そんなこともあろうかと、担当者は番組を録画して会議室で私たちに見せた。
若いお笑いの二人組がヒッチハイクをしながらアジアを旅をしている姿があった・・・
「どうですか?」
担当者がみんなに聞いてゆく・・・
「面白いねぇ」とかいう意見が出てたような気がする。
しかし私には全く興味がない・・・
番組が面白いかどうかは今から曲を作ってタイアップ付きで売ってゆくのに全く関係ない。
「番組が売れてるかどうか」以外に意味はないのではないか・・・
それが「ショービジネスの世界」ではないのか・・・
「どうですか?末吉さん」
ひとりだけ何も反応もない私に担当者が聞いて来る・・・
「こんなことは私は自分の人生でやっていますから・・・全く興味がないですね!!」
私は中国にカメラクルーを連れて行ったわけではない。
ロックを探して「殺されるかも知れない」と震えながら地下クラブに行った。
出会ったパンクスに彼の歌を天安門広場で歌って欲しいと言われて、ギター持って広場に行ったものの怖くて怖くて歌えなくて泣いて帰った。
爆風スランプを何とか北京でイベントにねじ込んで、1曲目に煽ったら中止命令が来たけど構わずやり続けたら、銃を持ってる武装警察に別室に監禁された。
全部テレビカメラなんかない。
その時そこにいた人、そして私自身以外は誰も知らないことである。
私はテレビのためにこれをやってるのではない。
私のためにこれをやっているのだ。
私の人生のために・・・
結局タイアップの曲は河合の曲に決まった。
それが「旅人よ 〜The Longest Journey」である。
「選曲会議」というのがある。
次のシングルとかを決める時に、それぞれメンバーが書いた曲を持ち寄って、レコード会社とかとどれにするかを決める会議である。
私はこれが嫌いで・・・っていうかみんな嫌いなんじゃないかな?
持って来た自分の曲は一番いいと思って持って来るのに、
それをあーだこーだと否定されに行くようなもんである。
インターネットなどない時代であるが、
カセットテープを郵送するからそっちで決めて結果だけを教えて欲しいぐらいなもんである(>_<)
この選曲会議の時だったと思うけど、中野がこんなことを言ったのを覚えている。
「河合の曲は売れ線だけど中身がない。
末吉の曲は深いけど大衆的ではない。
お前らその真ん中の曲が書けないのか?(笑)」
どうして覚えているかと言うと、「そうかも知れない」と思ったからである。
その頃・・・いやもうちょっと前の時代かも知れない、
きっと黄家駒が死んでからしばらくしてのライブだったと思うが、
爆風のコンサートを見に来てくれたひとりの友人が、終演後に私にこう言った。
「末ちゃんだけがひとり別のところを見てる」
「出てる音」が違うのだ、とそう言う。
一体私だけがひとりどこを見てたと言うのか・・・
見てるところが違ってて、音にもそれが出てるのだから、
こうしてタイアップで曲を作ろうったって、出来て来る曲の方向性は全く違って来る・・・
実のところ私はこの亜州鼓魂の曲は爆風の選曲会議には出さなかった。
どうせ中国ロックだJazzだ変拍子だなんぞ出したって笑われてボツにされるのがオチである・・・
そう言えば1曲、「R&Rオヤジ」という曲はその前の選曲会議で出したような記憶がある。
当時「チキダッチョ」という言葉がラジオで流行ってて、それを連呼する面白い曲にしようということになったので「冗談じゃない」とばかり曲ごと引き上げたのだ。
「チキダッチョ」にしてたら売れたかも知れない。
でも私は自分が笑えない曲をその後もずーっと演奏し続けてゆく自信がない。
結局「摇滚老头(R&Rオヤジ)」というテーマで自分で詞を書いた。
途中にこんなコーラスが入る。
「摇滚老头站起来吧!!不怕牺牲!!排除万难!!勇敢向前!!昂头冲向未来!」
毛沢東の革命のスローガンである。
それを実際に軍隊のコーラス隊に歌ってもらってるんだから笑える。
25年経った今聞いても、私にはとても「笑える」のである。
「チキダッチョ」がもし大ヒットしてたとしても、25年経った今聞いても果たして笑えるかどうか・・・歴史に「もしも」はないのでそれはわからない・・・
そういえばこのアルバムのミックスダウンの時に、当時の担当マネージャーが陣中見舞いに来てくれた。
その時にちょうどミックスが仕上がり、最初から全曲聞いてみようということで、
部屋を暗くして音量を大きくして、さてA面の1曲目から・・・
そう、このアルバムはまだカセットテープが主流だった中国の流通を考えて、
アナログ盤と同じくA面、B面、そしてA面の5曲はメドレーとして繋がっていて、B面の4曲も繋がっている。
アナログ盤をひっくり返すように、ひと息ついてカセットをひっくり返すように作られているのだ。
A面の最後の曲がこのアルバムのリーディングソングで、李慧珍が歌う「Let Me Be Free」。
この曲が終わってひと息入れて、さてB面を聞こうとした時にマネージャーが「帰る」と言い出した。
「あの女の子の歌の、最後に転調を繰り返すところで涙が出て来て・・・
僕、帰ります!!帰って爆風の新しい活動計画を作らなきゃ・・・
このままだと・・・このままだと末吉さんがどっか行っちゃう(涙)」
そして私はその予想通りどっか行ってしまった。
その「どっか」は中国である。
後に中野が何かのインタビューで爆風活動停止について聞かれた時にこう答えていた。
「中国に入れ込んだ末吉が・・・結果爆風を壊してしまったんです」
その通りだと思う・・・
その後マネージャーは爆風のどんな活動計画を作ったのかは記憶にない。
だが、「旅人よ 〜The Longest Journey」は売れた!!
多くの人はRunnerこそが爆風最大のヒット曲だと思っているが、
実はCDの売上枚数だけで言うとこの曲の方が「売れて」いる・・・
会社のトップである大里会長は、波に乗っている私たちにハッパをかけようと、食事をしながらこんなことを言った。
「お前らこれぐらいで満足してるのか?
桑田はお前らよりもっと金持ちだぞ?俺はもっと金持ちだぞ?
このぐらいの金で満足か?」
確か河合は目をキラキラさせながら「頑張ります!!」と言ってた気がする(笑)
私はぼーっとしながら考えた・・・結論から言うと「満足している」のだ・・・
メンバー全員が都内にマンションを買い、
更には別荘や、もう一軒マンションをという時に、
私は本当に金がなかった・・・
持ち慣れてない金を持って浪費し過ぎたのもあるが、
やはり大部分の金は中国に消えている・・・
結局買ったマンションも安値で売り、
そりゃ金はあるならあった方がいい・・・
でも中国のあの若者たちは命がけで(と当時は思っていた)ロックをやっている。
俺は一体何をやっているんだ・・・
そんな思いがいつもあったから、
このまま「もっと売れて」とか思う考え方が私の中にはなかったのだ。
電波少年はますますヒットし、猿岩石は全国民が知る有名人となり、
「旅人よ 〜The Longest Journey」も大ヒットした。
時間がなかったのはわかる。
中野と河合と二人でインドに行ってこの曲を歌うのもわかる。
それがカップリングとしてCDに入るのもまだわかる・・・
だが、寝耳に水で他所から1枚の8cmシングルCDのことを聞かされた私と和佐田の気持ちはどんなもんだろうか・・・
「爆風スランプ」という自分の「バンド」名義である。
その名義で私と和佐田が全く参加していないこの曲のオーケストラバージョンを、私と和佐田が全く知らないうちにレコーディングして、それを発売しようとしている・・・
レコード会社のディレクターやマネージャーにとっては「あ、しまった!!お二人に伝え忘れてた(>_<)」だけのことであろう・・・
だが私にとってはもうひとつもっと許せないことがあった。
私は亜州鼓魂の中で11分にも及ぶフルオーケストラとの組曲を書いている。
ラス前の「天界への7番目の扉」という曲である。
中国最高のオーケストラとガチで組んで、血が逆流するぐらいの思いでこの曲を録り終えた。
この「旅人よ~ロイヤル フィルハーモニック オーケストラ ヴァージョン」のオーケストラアレンジを引き受けた福田さんから、実は福田さんがこのアレンジをやって、ロンドンで私と同様に血が逆流する思いで演奏した話を聞かされた時の私の気持ちは想像出来るだろうか・・・
今では私はおそらく日本のその辺のアレンジャーよりは多くの曲をオーケストラとレコーディングしている。
X.Y.Z.→Aでもオーケストラを入れたアルバムも2枚作っているが、
その時に橘高が(うちはレコーディングディレクターは橘高がやる)、私の知らないうちに別のアレンジャーにそれを発注してたらX.Y.Z.→Aは今この世に存在しているだろうか・・・
確かにこの時点では私は、オーケストラアレンジャーとしては初めての大波を超えた程度のキャリアかも知れない。
でももしこれがX.Y.Z.→Aだったら橘高は私にどう言うか・・・
「末吉さん、これ、やりますか?それとも他に頼みますか?
もし末吉さんがやると言うなら、僕らはバンドの運命を全て預けますんで死んで来て下さい」
そして私はまた血の涙を流しながら戦うのだ。
愛するバンドのために、愛するメンバーのために、そして愛する「自分の音楽」のために・・・
思い起こせば私が90年に最初に北京に行った時、
地下クラブで黒豹のライブを見て、その後天津体育館で一緒にドラムを叩き、
泣きながら飲んで、「Someday your dreams come true!!」と言う言葉を残して日本に帰った。
当時試験期間の新米ドラマーだった赵明义に変わって、私は日本を捨てて黒豹のドラマーとして中国に残る選択肢もあった。
ところが「こんな国で夢追いかけたってお前ら・・・絶対に叶うわけがない」という思いもあった。
だからこの言葉を贈る時、私は・・・泣いた。
私は結局「ウソ」の言葉を残して日本に帰ったのだ。
当時誰も彼らが後に何十万人のスタジアムを満杯にするバンドになるなど想像だにしていない。
私も夢にも思ってなかったが、そちらの方が「茨の道だから」私は楽な日本の道を選んだわけでもない。
私には日本に「バンド」があるのだ。「仲間」がいるのだ。
その仲間を見捨てることは出来ない。だから日本に帰ったのだ・・・
その時には、その後そのバンドからこのような仕打ちを受けようとは夢にも思っていない・・・
亜州鼓魂は中国で売れた・・・
続いてそのリーディングソングを歌った李慧珍のデビューアルバムをプロデュースし、
それは本当の意味で売れた。
こんな感じ・・・
後に中国のグラミー賞みたいなので作曲賞を頂くこととなる・・・こんなん
「本当の意味」というのはどういうことかと言うと、
当時は中国では海賊版がひどくて、ヘタしたら正規盤を作っている工場で多量の海賊版が作られているような状況だったのだ。
実際に何枚売れたかなどカウント出来ないが、
レコード会社にも、このアルバムを作ってくれた日本のホリプロにもおそらく亜州鼓魂の収入はほとんど入ってないと聞く。
しかし李慧珍の場合は、ド新人の歌手が一世を風靡するようになったのだから事務所としては御の字である。
亜州鼓魂のようなオムニバスだとなかなかそうはいかない。
しかし亜州鼓魂の影響力はデカかった。
それは今でも感じている。
中国では80年代生まれのミュージシャンと仕事をすることが多いが、
新しい人と出会うと必ず「学生の頃このアルバムを聞いてました」と言う。
「知らない人はいない」というぐらいのレベルである。
布衣のボーカルLaoWuは、同じく学生の頃貧乏だったので、このたかだか数元のカセットを買う金がない。
友達と「あれ買いたいんだけど」という話になって、みんなで血を売ってその金で買ったらしい(笑)
どうしてそんなにこのアルバムを買いたかったかと言うと、
当時中国には「ロック」のアルバムは本当に数枚しかなかったのだ。
このアルバムのセールスコピー「中国三大ギタリスト夢の共演」というのは当時のロックファンの購買欲をそそるのに十分であった。
ちなみに中国三大ギタリストというのはみんな私の友人で、
黒豹のギタリスト李彤と唐朝のギタリスト老五、そしてBeyondのギタリストPaulである。
ところが買ってみたら、三大ギタリストの共演は「R&Rオヤジ」だけだし、あとはJazzやら変拍子やらRapやら、当時の中国では聞いたこともないような音楽ばかりである。
今布衣のエンジニアとして一緒にツアーを廻っている海龍は私にこんなことを言った。
「ない金叩いて買っては見たものの、ほとんどの曲は听不懂、全く理解出来ないんだ。
だから毎日毎日何回も何回も聞いた。だから今でも覚えてて歌えるし、ああこれは7拍子だったんだと今ではやっとわかる」
そう、このアルバムはロックのバイブルみたいに中国ではロック好きなら誰もが聞くアルバムになったが、収録されている曲はロックばかりではない。
むしろコンセプトアルバムの最後を飾る2曲はJazzである。
(見れない場合はブラウザのCookieを有効にして下さい)
「ソロアルバムを出したいんですけど・・・」
日本のシステムは世界では珍しく「全ての権利を売り渡して給料をもらう」というシステムなので、私はそのやり方に則って所属事務所にお伺いを立てる。
所属事務所はレコード会社にレコードに関する部分を譲渡するので、当然ながらレコード会社に相談する。
日本最大のレコード会社であるソニーレコードの会議室に、所属事務所のマネージャーとレコード会社の大幹部たちが集まって私を呼んで会議を開く。
「どんなアルバムを作りたいのかね?」
私は胸を張って答えた・・・「Jazzです!!」
一瞬の沈黙・・・そしてレコード会社の幹部はこう聞き返した。
「それが一体何枚売れるのかね?」
「Jazzもコアなファンがいるのでちゃんと作ったら1万枚は売れるでしょう。
5000枚売れたら大ヒットという世界ですから、とりあえず私は1万枚以上を目指したいと思います!!」
幹部たちは顔を見合わせて、そして一斉に大笑いした。
「どうして爆風スランプのメンバーのソロアルバムを50万枚も売れないのにうちが出さなきゃならないのだね?」
大笑いの中、会議は終了・・・
とどのつまり、レコード会社はその数年後に発売されることになる「旅人よ 〜The Longest Journey」のような曲満載のアルバムを作って欲しいのだ。
でもそんな曲なら爆風に書く!!
ソロアルバムなど出す必要は全くないではないか・・・
爆風に持っていっても鼻もかけられないJazzや中国ロック、
でもこれはクオリティーの高い素晴らしい音楽だ、
だから世に出したい!!
これがそもそもの「ソロアルバム」という考え方ではないのか?・・・
聞くところによると、大手プロダクションに所属する有名バンドのマネージメントでは、
メインのメンバー以外のソロアルバムはガス抜きのために出してやったりするが、
決してメインの売り上げを上回らないようにうまく「手を抜く」という話がある・・・
本当か嘘かはわからないが、そりゃメインどころを追い抜いちゃったらメインどころも面白くないし、バンドはうまくいかなくなる可能性はあるわのう・・・
そして自分ひとりの音楽ではどれだけ力不足かを実感し、そしてそのメインどころがいなければ食っていけないと自覚し、そしてバンド円満、事務所もバンドのメインどころだけに気を使ってればいいから万々歳・・・
しかし私はこの枠にはまらなかった。
所属事務所からは商売敵に当たるホリプロとこの亜州鼓魂の発売を決めて来たのだ。
本来ならばご法度なのかも知れない。
日本のレコード会社は事務所と3社契約をして、アーティストには何の権利も残らないようにガチガチに縛る。
でも爆風スランプは中野の大学の友人が社長のプライベート事務所から始めて、いくつか事務所を転々としてるうちにそんな近代的な3社契約など結んだ覚えはないのだ・・・
きっと担当マネージャーには負い目があったのだろう。
「末吉さんにはソロアルバムをちゃんとリリースしてあげることが出来なかったから・・・」
そういう思いからソニーを海面下で説得して、商売敵であるホリプロからのリリースを事実上の黙認として許諾したのだと私は想像している。
通常ならこれで、このアルバムが売れなくて、何の影響もなく終わって、
末吉はやはり中野がいなくちゃダメなんだと思い返し、
心を入れ替えて爆風に専念して・・・
四方八方万々歳である。
ところがこのアルバムは日本では全く売れなかったが、
・・・というか日本語が一切なく、中国語メインで朝鮮語とモンゴル語、
(多民族国家の中国人は後のインタビューで「全部私たちの言語で」と言っていた)
流行りのJ-POPなどかけらもないアルバムがこの国で売れるわけはないが、
中国では売れた!!
・・・というか大きな影響力を持ったという方が正しいか・・・
私はその流れで97年の「日本レコード大賞アジア音楽賞」を受賞した。
これは所属事務所のアミューズにとっては屈辱的なことだったと思う。
何せご本家の爆風スランプでさえレコード大賞とは大きな縁はない。
それがずーっと切り捨てて来たそのいちメンバーが、
よりによって商売敵から出したレコードでこれを受賞する・・・
当然ながら受賞は所属事務所のアミューズではなく、レコードを出したホリプロに与えられる。
一応は所属アーティストなので受賞パーティーにマネージャーも同席するが、
それはきっと「針の上のむしろ」だったのではと想像する・・・
今にして思えば、所属事務所ももっと早くにわかっておくべきだったのだ。
誰の動きでこの爆風スランプがあなたの事務所に移籍して来たんですか?
ある時はほーじんが暴れ、ある時は中野が暴れ、
その度に夜の街を駆け巡り、業界の人間を探しては飲みながら相談し、
睡眠不足でヘロヘロになりながら、ある時は涙で懇願しながら移籍を決めて来た。
アミューズへの移籍の時なんか少々売れてたりしたもんだから泥沼である。
「サザンオールスターズとプライベーツの間に位置するバンド、
出来れば桑田佳祐のケツを叩いて危機感を煽れるようなバンドが欲しかった・・・」
移籍後にこんなエピソードを幹部から聞いたが、
爆風のことを喉から手が出るほど欲しかったアミューズが、その強大な力を使ってうまく移籍をまとめてくれたのだ。
でも幹部は私にこう言った。
「お前は前の事務所の社長にこんなこと言ったんだって?そりゃあいつもショックだよ。それだけは言っちゃいけない」
何のことはない、中野が私に言ってた言葉を私がバンドを代表して言っただけのことだ。
「爆風スランプを愛してるばっかりおっしゃいますけど、十分のお金を払わないのだったらそれに意味はありません。愛情とは即ちお金です」
アミューズは今でも私のことを冷血漢かなんかだと思ってるだろう、
でも誰かがそれをやらなければバンドは終わるのだ。
私は爆風スランプを結成し、コンセプトを作り、ツアーをブッキングし、お金の管理までしていた名実共に爆風スランプの「リーダー」である。
でもデビューしてから一切それを言わなくなった。
みんな中野がリーダーだと思ってる・・・別にそれでいい。
「バンドはひとつの丼飯を4人で食ってるようなもんだ。みんな決して腹一杯にはならない」
これは江川ほーじんが私に言った言葉である。
だからいい。
だってその丼飯もなくなってしまったらそれこそみんな飢え死にしちゃうじゃないか・・・
他のメンバーがいつも私に文句だけ言う。
私だけがひとりで底辺を這いずり回って泥水を啜って悪者になる。
これでいいのだ!!・・・これは赤塚不二夫さんの言葉だが名言だと思う。
私はそれを受けて今、いろんなことに直面した時にこう言う・・・
しゃーないなぁ〜・・・
私の人生もそうである。
これしかなかった・・・だから「しゃーない」のである!!「これでいい」のである!!
WONDERFULなLIFEである!!
しかしそれは、メンバーがみんなそんな私の動きを理解してくれてて初めて成り立つことなのである。
現在、X.Y.Z.→Aでは橘高がプロデューサーとして色んなことを決める。
あいつもほーじんと同じように火の玉のような性格だから、時には敵を作ったりすることもあるかも知れない。
でも世界中の人間があいつの敵になっても、私は一生あいつの味方である。
何があってもあいつはバンドのためにそれをやっている。
だから私は何があってもあいつを・・・命をかけて守る!!
リーダーと言えば面白いことがある。
爆風スランプ時代、あらゆる業界人が中野をリーダーとして扱った。
バカなライター達はいいとしても、ロック界でカリスマ的な評論家である渋谷陽一さんもそのように扱った記事を書いていたのを覚えている。
別にいい、それがバンドにとってよければそれでいいのである。
ところがX.Y.Z.→Aを結成する時に、
「二井原ぁ〜リーダーはお前な!!」
私はこう言い放った。
どうせ、「あのラウドネスのボーカルの新しいバンド」なのである。
取材も二井原が受けるだろうし、どうせみんな二井原がリーダーだと思うんなら最初からリーダーになっとけばよい(笑)
「そんな、俺リーダーなんてやったことないし無理無理!!」
そう言う二井原であったが、
「大丈夫!!細々したことは俺と橘高がやるから、お前は胸張って自分の言葉でバンドを語ってたらそれでええ!!」
ところがヘビーメタル界は違った。
色んな雑誌は私のことを「リーダー」だと書いたのだ。
これは「間違い」なのではあるが、
歌謡界ではメンバーにすら認められなかった私のバンド内での動きを、このヘビーメタル界ではみんなちゃんと見てくれてるんだな・・・
そう思ったらとてつもなく嬉しかった。
話が亜州鼓魂からX.Y.Z.→Aにずれた・・・
実は今日この文章を書こうと思ったのは、私の音楽配信サイトにてX.Y.Z.→Aのニューアルバムの情報をアップした時、ちょうどその上に亜州鼓魂のサイトがあったのだ。
配信サイトのスタッフはそれこそ一生懸命このサイトを作ってくれた。
X.Y.Z.→Aの他のアルバムもここで全部DL出来るようにしたいのだが、
このご時世、色んな事情でなかなかサイトが出揃わない。
私もいろんなことにかまけてて、この亜州鼓魂のサイトが出来てたことすら忘れてしまってたのだ。
いくらなんでもこの私がこのアルバムのことを忘れてはいけないのではないか・・・
そう思って今日この文章を書こうと思い立った。
このアルバムは今聞いても名盤である。
もしこのアルバムが下らないアルバムだったら、いくら「中国三大ギタリスト」などと謳ってみても「あれはろくなもんじゃない」などと噂が立っておしまいであっただろう。
海龍が25年経った今でも大事にカセットを持っているということもあり得なかったに違いない。
「売れる音楽はいい音楽で、売れない音楽はろくでもない」という世界で生きて来た私が、日本では絶対に売れない音楽で中国に地盤を築いた。
かと言って「中国で売れよう」と思って作ったアルバムでもない。
その時にやりたかったこんな音楽が、たまたまその激動の時代に合ってただけだっただけのことなのかも知れない。
私が日本のショービジネスの世界で学んだこと、それはまず
「自分の本当にやりたいこと、それは誰も御膳立てしてはくれない。自分の力でやり通さなければならない」
ということ、そして
「自分の音楽を曲げてその国に合わせる必要はない。世界のどこかにそのままの音楽を受け入れてくれるところがきっとある」
ということである。
あの時、友人が爆風スランプのコンサートを見て私に言った言葉、
「末ちゃんだけがひとり別のところを見てる」
あの時に私はどこを見てたのか・・・それがこのドキュメンタリー映像の中にある。
日本がアジアブームに沸いたあの頃、こんなことを私に言った人がいる。
「末吉くん、うまくやったね」
何をうまくやったもんだか・・・(>_<)
そんなにうまく世の中を渡ってゆきたいなら、あんたも中国人と結婚して家庭内言語を中国語で暮らせばいい。
日中の間の子供を作り、中国が自分の子供の祖国のひとつとなる。
そうやって一生この国と離れることなく生きてゆく気があるならあんたもやればいい。
そして日本の全てを失ったとしても作りたいアルバムを作ればよい。
それが認められるかどうかは神のみぞ知る。
認められなくても、一生自分の宝物としてそれを抱いて生きてゆけばそれでいい。
(このアルバムは是非曲順通りに片面片面続けて聞いて下さい)
先日の60歳還暦の誕生日に、リーディングソング「Let Me Be Free」を歌ってくれた李慧珍や、2曲目の「力量」を歌ってくれた栾树などが集まって、このアルバムの曲を中心にコンサートを行った。
6曲目の「24th Birthday」は別のラップ歌詞をつけて「60岁生日的歌」としてみんなで歌った。
マルチで録音したのでコロナが落ち着いたら「亜州鼓魂2019Funky末吉作品集」として中国で発売する予定である。
「作品集」と言ったってもちろん「Runner」も「リゾ・ラバ」も入らない。
全て中国で、中国人アーティストに書いてヒットした曲ばかりである。
日本では絶対に売れない、だけど私の大切な宝物がまた一枚増えることになるだろう・・・
亜州鼓魂を巡る日中のいろんなドラマ・・・了
長らく読んで下さってどうもありがとう御座います。
一応投げ銭のシステムを貼り付けておきます。
初めての試みですが、もしよろしければいくらか投げ銭してみて下されば幸いです。
Ofuse:https://ofuse.me/#users/19097
PayPal:https://paypal.me/FunkySueyoshi
Posted by ファンキー末吉 at:16:48 | 固定リンク
2020年4月 5日
カンボジアにてドラムレコーディング!!!
思い起こせば去年の年末ぐらいからカンボジアでドラムが録音出来ないか探している・・・
この時はプノンペンに遊びに来たさわだんが、英語が達者だということで片っ端から電話をかけてくれて探し当てたのだ。
よく飲みに行ってるHIBACHIの近所の、ここは普通の自宅内のホームスタジオ・・・
ここをFacebook投稿してみたら地元のミュージシャンからいくつか反応があった。
「ここ俺の友達んとこだよ」
外国人である私が地元のミュージシャンと知り合うというのは、よく行っているライブバー「Oscar」に飛び入りセッションして知り合うのである。
最近になってわかったのだが、ここはプノンペンで一番いいライブハウス。
外国人も含め日替わりでいろんなミュージシャンが客である年配の白人客相手に古めのロックを演奏している。
その中に実は重鎮ベーシストがいた!(◎_◎;)
いや、重鎮であるかはその後にわかるのだが、
とりあえずHIBACHIで一緒にメシでも食う・・・
この時に彼が連れて来たのはカンボジアで一番上手いというドラマー!!
こうやってミュージシャンの知り合いがどんどん増えてゆく・・・
その時に私は彼らに相談した。
「スタジオを作りたいんだ」
私は自宅のある八王子には自宅スタジオがある。
X.Y.Z.→Aをはじめ、アースシェイカーや筋少や、ここでも色んな名盤が生まれている。
そして北京、初代のこのスタジオは中国の高度成長の煽りを受け、立ち退きで引越し、次の場所ではちゃんと防音までしてかなり本格的に作ったのにまた立ち退き(>_<)
今ではもう北京にスタジオはない・・・ということはそこの機材を全部持って来ればここカンボジアでもスタジオが作れるということだ。
ところが機材は持って来たとしても、そのメンテ、新たな機材を揃えなければならなくなった時に困るのが、
「レコーディング機材の専門業者」があるかないかが大きな問題である。
この会食の時に聞いたが誰も知らない。
それではということで、「じゃあレコード会社とかのスタジオとかないの?」と聞いてみたがそれも知らないと言う・・・
くっくま孤児院の美和さんの話では、一般貸ししてるかどうかはわからいが、どうやらひとつだけレコード会社の大きなスタジオがあるという話であったのだが、この辺のミュージシャンが知らないとなると探しようがない・・・
プロユースのスタジオや音響機材など、そもそも一般向けに広告など出しはしないのだ。
知ってる人だけが知っている、そんな業種なのだから仕方がない・・・
その後、北京のエンジニア方言(FangYan)をこちらに呼んで調べさせた時に、中国人コネクションでいろいろ調べてくれた。
それでもこの段階ではこちらでドラムがレコーディング出来るスタジオはまだ見つかっていない・・・
そんな中で中国で新型コロナウィルスによる新型肺炎が始まった・・・
その時に私は毎年のように日本でツアーを廻ってた。
中国は旧正月辺りになると絶対に仕事はないので、毎年この時期には日本でツアーを廻るのだ・・・
ツアーの途中で頚椎症性神経根症になってしまった為、暖かいところということで、療養も兼ねてここカンボジアにやって来た。
その時にはドラムなど叩くつもりもないのでスティックすら持って来てない。
コロナの蔓延してないどこか暖かいところを療養を兼ねてのんびり廻るつもりだったのだ・・・
ところが布衣のボーカルLaoWuが、コロナで自宅待機をしている全ての人に捧げる歌を作りたいと言うので、この状況でどこかでドラムが録音できるかどうか考えてみたが、中国で録音しようと思っても、もう既に中国では爆発的に感染者が増えている。
日本もあれよあれよという間に第二の感染国となってしまった・・・
そんな時期に感染国を行ったり来たりすることも出来ないので、そこで考えついたのは布衣とRebellioNとのコラボである。
その時に出来上がった曲・・・この時にはRebellioNのみんなは「LaoWuがどうしてこんなに急いでこの曲を仕上げようと思っているのかわからない」と言っていたが、今となってみればこれは「今の日本」である。
さてそれからしばらくしたら、もう中国へも日本へも戻れない・・・(>_<)
中国は現行の全てのVISAを無効にし、当然ながら私の労働ビザも無効なので入れないし、
日本は母国なので入れないことはないが、2週間の隔離(自宅待機?)を余儀なくされる。
ってか、成田に着いたら公共交通機関、タクシーも含め全部乗ったらあかんっつうたらどうやって家に帰るん?
家の人に車で迎えに来てもらうしかないらしく、そしたらその迎えに来た人も2週間は隔離状態となる・・・
無理やん(>_<)
カンボジアも日本よりは数十分の一ではあるが感染者がどんどん増えてゆき、
ついに外国からの入国を禁止!!
私はこの国を出たらもうこの国には帰ることが出来ず、かと言って出ても入れる国はなく・・・
VISAが切れるまでここでいるしか選択肢はなくなったのである・・・
(幸いカンボジア政府はVISAの延長処置をしてくれることとなった)
ここで暮らすのはよい!!仕事はないが部屋はある。
ところが布衣の新しいアルバムのレコーディングが始まった・・・
こればかりは人にドラムを叩いてくれと言うわけにはいかないので、どうしても自分でここ、カンボジアでドラムレコーディングをしなければならないのだ・・・
本格的にスタジオを探す・・・
まずはくっくま孤児院の美和さんに連絡を取って、そのレコード会社のスタジオとやらを探してもらう・・・
ところだ探し当てたのはひとつの電話番号、Mr.Laという人だということだが、クメール語も話せない私がプアーイングリッシュで話しても全く話にならないだろうということで、日本人の方に会社のクメール人に電話をしてもらった。
常備している機材や、ドラムセットの状況とかを聞いてもらったりしているうちに話が途切れた。
めんどくさくなったのだろうか・・・「どうやら外国人には貸さないみたい」
(>_<)
中国でもそうである。ひとつのコネが暗礁に乗り上げたら別のコネを探す!!
先日HIBACHIだ会食したグループにMr.Laの連絡先をアップして、
「誰かこの人知り合いじゃないか〜」
重鎮ベーシストが「俺知ってるよ〜」・・・って、こいつむっちゃ顔広い!(◎_◎;)
そこから直でFacebookで繋がり、本人と英語で話せ出せたのだが、
「じゃあ土曜日にスタジオ見に行くよ、機材等チェックして、問題なければ日曜日にレコーディングしよう」
とまでなったのだが、そこから何故か連絡が返って来ない(>_<)
ちょうどその時、Oscarで働いてたタカシという日本名を持つヤツが食い詰めて「何か食べ物を恵んで下さい。インスタントラーメンでいいです」と連絡して来た(笑)
ちょうどいい!!メシ食わせてやるから働け!!
というわけでDr.Laに電話をかけさせる・・・
「ダメです。うちの機材じゃFunkyさんに満足してもらうレコーディングは出来ないと断られました」
(>_<)
ところがタカシはそこでOscarの常連ドラマーに連絡を取り、そこからある人・・・おそらくこの国の重鎮プロデューサーなんだと思うがそこに繋がった。
ドラマーにお礼を言う・・・返事に
「あなたのプレイはOscarで見たことがあります。素晴らしいドラミングです」
みたいなことが返って来た。
顔の広い重鎮ベーシストも、このドラマーも、そしてこのタカシも、みんな私のドラムを聞いて、そいで私を好きになってこれだけ動いてくれる・・・
ドラムが上手くてよかったぁ・・・(笑)
冗談はさておき、この重鎮プロデューサーと繋がって、念のためにその重鎮ベーシストに
「この人知ってる?」
と聞いた時の反応が面白かった・・・
「よくここまで辿り着きましたねぇ・・・」
きっとそういう立場の人なのだろう、面白いのがこの人はタカシとは話さない。
「本人じゃないと話さないって言ってますよ」
とタカシが困って私にそう言ったが、
中国でもそう、偉い人は相手がトップの人しか話さない。
決定権を持ってない下っ端と話したって埒が明かないことを知っているのだ。
一応Facebookのグループを作ってタカシも傍観させてたのだが、
これがまた例によって遅々として進まない(>_<)
「きっと忙しいのでしょう」
とタカシは言う・・・
そしたら待つ!!
劉備元徳は諸葛孔明を手に入れるためにあばら家に2度行って待ちぼうけをくらってやっと3度目に会ってくれた。
(三国志演義より)
相手のことが絶対に必要だと思ったら待つ!!
それが相手に対する「礼儀」となるのだ・・・
そして連絡が返って来た時にすかさず
「お会い出来ませんか?」
こうして初めて会うことになった場所がなんと外国人用の音楽学校・・・
ここの3階のリハーサルスタジオに機材を持ち込んでレコーディングしようということになったら話が早い!!
「じゃあ次の金曜日に!!」
ついにこの国でレコーディング出来るのか・・・感激もひとしおである。
とにかくスケジュールさえ決まってしまえば録ることは出来るだろう・・・
問題はドラムセット・・・このスタジオのドラムセットをちゃんとチェックしてなかったが、出来ればこのセットを借りたいのう・・・
重鎮ベーシストに連絡してみる・・・
「このドラマーとこのプロデューサーは一緒に仕事してますから大丈夫でしょう」
繋がるのう・・・
しかしみんながこのドラマーと連絡が取れない。
きっとコロナを恐れて田舎に疎開しているのだろう・・・
ということでプロデューサーが別のドラムセットを探して来てくれた!!
念入りにチューニング!!
ドラムの向こうに座っているのはくっくま孤児院の美和さんとソバン先生、そしてくっくまバンドのダビッとティアルッ。
向学のために見学というのもあるのだけれども、実はスティックを持って来てもらったのだ。
こんなに長くここに滞在するとは夢にも思ってなかったのでスティックすらない(>_<)
それぞれのドラム演奏の絵も撮っといてくれということでバンダナもない(>_<)
イオンに買いに行ったけどなかったのよ〜この国でバンダナしてる人なんか見たことないし〜(笑)
というわけで美和さんが持ってるというのでそれも持って来てもらったのだ・・・
プロデューサーが黙々と仕事をする・・・
きっと真面目な性格の人なんだと思う。
このレコーディング、是非とも成功させなければならない。
この日に最高の音でちゃんとレコーディングさえしとけば、
今後中国の仕事はこの国でやってしまうことが出来る。
「カンボジアなんかでちゃんと録れるの?」
と聞かれたら
「布衣のニューアルバム聞いてよ、あれカンボジアで録ったから」
と言えばよい。
その音が最高のものであれば今後もこの国で仕事を受けることが出来るし、
音が悪ければもう2度とここでレコーディングするチャンスはない・・・
ところが問題発覚!!
彼が用意したこの日のシステムでは、ドラムのパンチイン、パンチアウトが出来ないのだ!(◎_◎;)
思わず頭を抱えてしまったが、
よく考えたらこれは「音質」の問題ではない、「プレイ」の問題なのだ。
初めてのレコーディングの時、そう、爆風スランプの初期のアルバムなどはアナログの時代だったのでパンチインなど出来なかった。
今ではデジタル編集が当たり前になり、ドラムを叩きながらどこでパンチインをするかを考える時代・・・
要は最初っから最後まで間違わずに1回でベストテイクを録ればそれでいいのね!!
やってやろうじゃねーか!!・・・とレコーディングが始まったが、
次の問題は暑さ・・・(>_<)
クーラーや扇風機のノイズが入らないように、叩く時はオフにしてもらったのだが、
例えその数分間だとしてもカンボジアでクーラー止めて運動(ドラムを叩く)したら暑い・・・(涙)
こりゃ長くはやってられんぞ・・・ということで、
「テイクを2テイク録ります。その後映像をシューティング。そして次の曲!!」
譜面にはしているが、曲は覚えてないので実際はテイク1は「試し」である。
一応録音はしているが、いろんな試行錯誤はこの時に全部してしまい、
実際にテイク2の時が本チャン、つまり「一発OK」で全曲録り上げてしまおうというものである。
俺なら出来る!!いや、他に選択肢がないんだからやらねばならぬ!!
修羅場に突入!!
バラードはいいのだが、2曲ほど難しい曲があり、
「なんでこんな難しいアレンジしたんやろ」
と悔やんでも仕方ない・・・何とか全曲録り終えた!!\(^o^)/
このプロデューサーの第一印象・・・笑わない人だなぁ・・・
でもこの段階で既に笑顔が溢れてる。
「お前は大したヤツだよ」
そんな笑顔・・・そして一緒に修羅場をくぐり抜けた「連帯感」が生まれている・・・
「後日一緒にメシでも食いませんか?」
中国でもお世話になった人には食事をご馳走する。
これは中国の仕事なのである、ちゃんとその予算は計算してある・・・
この国に最初に来た時に、何か30年前の北京と同じ「匂い」がした。
中国ではコネがないと何も出来ない。
かと言ってひとつだけしか持ってなかったらやっぱり何も出来ない。
ひと昔前、アジアブームの頃、
「私は誰々さんと知り合いなんですよ」
などと言ってた人はみんな撤退して日本に帰ってしまった。
「どこをどう伝って行ってもこの人に繋がる」
ぐらいのコネがなくてはどうしようもないのだ・・・
この国カンボジアで、私は生きてゆける自信がついた。
(レコーディング終了後にシューティングのためOKテイクに合わせてドラムを叩いている絵です)
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:11:43 | 固定リンク
2020年3月29日
タカシの話
前述のタカシ、今日は彼が探し当ててくれたドラムレコーディングのスタジオのオーナー?プロデューサー?ようわからん人に会いに行く日であった。
実際、彼が探し当ててくれたことは満金に値することではあるのだが、
それ以降は相手方が「お前とは話さん!」
中国でも、話の決定権を持つトップ以外とは話さないのと同じように、私自身がFacebookのメッセンジャーでやり取りをしているのだから彼はいわゆる「もう用無し」ではある。
でも本当に「食いっぷち」がないのだろう、昨日からひっきりなしに連絡が来る。
「今どこにいるんですか?何してんですか?」
いや〜扇さんラーメンで4杯分のレモンサワーを計量カップで飲んでるんですけど〜
でも家に帰ってちょっと後悔・・・
ワシはつい飲み過ぎて散財する金は(失業者と言えど今のところは)ある。
でもこいつは本当にメシを食う金もないのだ・・・
「じゃあ明日1時にアポ取ったから12時に一緒にメシでも食おう!!」
近所で最近一番旨いと思うローカルの綿屋に呼びつけた。
「お前、腹減ってるだろ!!麺だけじゃなくご飯もんも食っていいぞ!!」
でもまあ麺とアイスティーだけを注文している・・・
各国を駐在しているカンボジア在住日本人の話によると、
カンボジアは東南アジア諸外国に比べて物価は安いほどではないと言う。
ビールは安いところでは0.5ドルで飲めるが、
ローカルのこの麺屋で二人で5ドルは取られる。
タイと比べると、ビールは数分の一だが、メシは数倍という感じである。
「お前、ライブハウスで働いてた頃にはいくらもらってたの?
恐る恐る聞いてみる・・・
「140ドルもらってました」
それで今住んでるところ実家じゃないなら家賃いくら?
「50ドルです」
じゃあ一月90ドルで暮らしてたのか・・・
一日で割ると3ドル・・・この麺とアイスティーで終わりである(>_<)
まあ彼が今回私にコンタクトを取って来た時に送って来た写真・・・
「こんなのでいいから恵んでもらえませんか?」
私はこの時に「こいつは悪い奴じゃない」と思った。
私のことを金持ちの外国人だと思ってるなら、むしり取るとしたらもっと金目のものをむしり取る。
少なくてもこの辺のバーのお姉ちゃんだったらそうである(笑)
だから「スタジオを探せ!!」というミッションを与えて、10ドルとカップラーメンを一個あげた。
結果としてはそれ相応以上の仕事をしてくれたわけだが、
(中国なんかでもコネクションは即ち「金」なので、このコネクションを私に渡してくれただけで十分過ぎるほどの働きをしてくれている)
気になるのが、こいつ、この10ドルで何日食いつないでいけるんだ?ということである。
「3日ですね・・・」
そうか、ちょうどあれから3日経っているのだ。
きっと私にとっては一番安い2ドルの麺すら食えず、
本当にカップ麺だけで3日間飢えを凌いでいたのだろう・・・
一緒にスタジオの下見に行って、
例によって私だけが下手な英語でレコーディングのスケジュールを決めて、
一息ついてカフェに入った時に聞いてみた。
「お前、ホームタウンはここプノンペンだと言ってたな?
じゃあお前の両親は一緒に住んでるの?」
まあお互いプアーイングリッシュなので定かではないが、
お父さんはもともといない、と。
お母さんは小さい頃から遠いところに住んでて・・・
「お前孤児なの?」
その辺のニュアンスは通じない・・・
だが、学校は一応(どこまでかわからんが)出ているということなので、
その辺のストリートチルドレンに比べたらまだマシな環境ではあるかも知れないが、
一応「小さい頃からひとりで暮らして来た」
ということである。
音楽が好き、日本が好き、
カタコトの日本語も喋れる。
どこで覚えたのか、
「ジョーダンハカオダケニシロ!」
(笑)・・・そして
「ワタシハアキハバラガスキデス!」
は、彼がどうして「タカシ」という日本名を自分で付けて、カタコトでも日本語を話せるのかを物語っている・・・
「わかった!!とりあえず金曜日のレコーディングにはお前も来い!!色々手伝ってくれたらギャラ10ドルやろう!!」
と言ってみたものの、次の金曜日まではまだ5日もあるのだ。
今日のギャラとしてとりあえず10ドルは渡したが、10ドルなんて3日で消えてしまうのだ・・・
それから彼と別れて家でレコーディングのこととかをネットで詰めていたのだが、
(その話はまた後のブログで)
ちょっと気になって彼にメッセージを送ってみた。
「メシ食ったか?まだなら一緒に食いに行くか?」
彼は喜んで飛んで来た。
「何でもお前の好きなもんを食え!!」
しかし彼が選んだ店は、決して高くないが非常に旨いローカルのクメール料理屋・・・
ビールも散々飲ませて、二人で20ドルだったら、まあその辺の日本料理屋よりはやはり安い・・・
まあ私自身も今まで食ったことがなかったローカルの鍋(なのか焼肉なのかようわからん笑)をしこたま食って飲んで20ドルならまあ奢ってやるには安いディナーである。
その辺がまた彼の好感度である。
行ったことはないが、お姉ちゃん持ち帰りして何か食事と言ったら「寿司」とか言い出すかも知れない(笑)
「わかった!!明日から昼飯時と晩飯時に俺んとこに来い!!ローカルの美味しいメシを買って来てくれ!!お前の分と俺の分な!!だったら金曜日までお前は飢えることはない」
私にとっても「今日は何食おうか・・・」となった時、
「じゃあ日本食!!」となるより、いくらカンボジアが他の東南アジア諸国より高いと言っても確実に安いのである!!
しかも地元民が選んで来るものは私ら外国人が選ぶより確実に安くて旨い!!
まあ次の金曜日まではそのシステムでメシだけ食わせてやるとして、
金曜日はちと働いてもらうのでまた10ドルあげて、
後のことは次の金曜日に相談しよう・・・
と思ってたら、そのレストランにひとりの物もらいがやって来た。
(写真自粛)
いや、物もらい自体は東南アジアではよくあることなのだが、
私がびっくりしたのはその青年・・・20歳ぐらいか・・・の身なりが非常にちゃんとしてたことである。
タカシもいくら食うに困っているとは言え、まあオシャレではないにしろ身なりはちゃんとしている。
それと同じような感じの物もらいがテーブルに来る。
見ればビニール袋に野菜が少々入っている。
東南アジアではフルーツとか私の好きなウズラの卵とかを売りに来る少年とかがよくいるのでそれかと思ったら、
彼は客席を廻ってその残飯をもらっているのだ!(◎_◎;)
もう綺麗に食い終わった後だったので野菜もなかったが、
そう伝えると彼は今度は私らのテーブルのゴミ箱をあさる!(◎_◎;)
そのビニール袋の野菜もきっとそうやってゴミ箱から集めたものかも知れない・・・
「おいおいおい!!やめろよ!!このご時世にゴミ箱はコロナが危険だぞ!!」
ここカンボジアは中国と同じく、ビールとかは何本かまとめてテーブルに来て、
飲んだ分だけお勘定というシステムらしく、ビールを一本彼に渡すと、
今度は店の人は「彼はビールは飲まないから」とそれを止める。
ジュースも同様にあるのでそれを渡すと、
それはありがたく頂いて次のテーブルに移る・・・
店の人も一緒に移動するのだが、
日本と違って「店にとって迷惑だ!!」とばかり追い出すそぶりはない。
見た感じ「残飯はやめなさい!!今はコロナで危険だからね」
とでも言う感じで彼の背中を押して優しく外へと誘導する。
そう言えば聞いたことがある。
この国はポルポトによって破壊し尽くされて、
だから困った人を見ると「明日は我が身」、みんな助け合うんですと・・・
でも犯罪は多い。
リトルギャング達は今日もあの手この手を考えて、
引ったくりや銃を使ったホールドアップ、あらゆる手法で「持つ者」から少しばかりの富を奪い取ってゆく・・・
またちょうど今日、タカシと待ち合わせをしている時に、
本職のゴミ箱をあさって暮らしている老人を見た。
(写真自粛)
うちの前のゴミ箱をあさって、空き缶とか金目のゴミを自転車の後ろに拾い上げた後に、
その老人は自転車のハンドルにぶら下げているビニール袋の中の水で・・・
一生懸命手を洗った!!
コロナがこれだけ蔓延している社会で、ゴミをあさるほど危険なことはない・・・
老人もそれを知っているのだろう、でも石鹸はない。
「おじいさん、石鹸で洗わなきゃ意味ないですよ・・・」
そう言いたかったが、私がメールの着信を受けてる間にもう洗い終えてどっかに行ってしまった・・・
この国でも、他の東南アジア諸国でも、
コロナによってよかったことは、「下痢」の患者が減ったことであると聞く・・・
なるほど、この老人も昔は手など洗ったことはなかったのかも知れない・・・
今日は別れ際、タカシにマスクとアルコール消毒液を渡した。
「とにかく清潔にしろ!!それが俺と付き合う条件だ・・・」
でも私は彼と別れた後に考えた・・・
タカシのように「カップラーメンを恵んで下さい」と言ってかろうじて犯罪は犯してないヤツ・・・
飲食店のゴミはあさっているが辛うじて犯罪は犯してないヤツ・・・
あの老人のように一生犯罪は犯さずに世界でも底辺であろうこの生活をして生きて来た人・・・
それらの人と、リトルギャング等犯罪で食ってる奴ら・・・
この「一線を超える」というのはどこに「線」があるのだろう、と・・・
こんなことも想像した。
タカシが数年後いい服を来て私のところに来てこんなことを言った。
「Funkyさん、あの時は本当にお世話になりました!!私はもうお金持ちになりましたんで恩返しをしたい。どうか私に高級寿司を奢らせて下さい!!」
そして私は彼に聞く・・・「お前今何やってんの?」
「はい、僕は今、バカな外国人を騙して大金を稼いでます。奴らはバカだし、騙される方が悪いと思います」
・・・もしかしてそんなことを聞いた私は嬉しいだろうか・・・
「世界は平等に出来ていない!!」
これはKISSのジーンシモンズが言った言葉である。
ユダヤの母親が迫害されていることが幼児体験だった彼が持つ人生観である。
でも彼は「真っ当な」ビジネスをして(それがロックの商業化を進めた罪悪であるという理論は置いといて)、彼はこうして世界でも大成功した。
でもそんな人間は世界の中ではほんの一握りである。
今日レストランのゴミをあさっていた青年が、数十年後にあの老人のように手を水で洗いながら家庭ゴミをあさっているのか、もしくはギャングになって巨万の富を得ているのか、二度と会うことはないであろう彼の未来は私には計り知れない・・・
でもタカシという・・・ひょんなことから知り合ったこの全く食えない音楽好きの、日本大好きなこの男が・・・
もしも毎日メシを食わせてやるだけで少しは真っ当な生活が出来るんだとしたら・・・
かく言う私も失業者の身なのでそんなに金はない。
でも中国のレコーディングの仕事はボチボチ始まって来ている・・・
中国が外からの流入制限を解除したとしたら・・・
別に私はこうしてカンボジアにいる必要はない。
仕事がある国が私にとっていい国なのである・・・
真っ先に中国に帰って別の生活を始めるだろう・・・
でも今は違う・・・
私は現状中国にも、そして日本にも戻れない・・・
それこそカンボジアを今出国してしまったらもう入国制限が始まったカンボジアにも戻れない・・・
「あなたは日本人なんだからそれでも日本に戻って来たらいいんじゃないですか?」
そんな声も聞こえて来る・・・
しかし今、この食えない日本好きなライブハウスの店員が、
何とかここカンボジアでもちゃんとドラムがレコーディング出来るスタジオを探して来た・・・
もしここでドラムがちゃんとレコーディング出来るなら、
別に中国や日本じゃなくてもここでレコーディングすればいい。
こいつに毎食メシを食わせるだけでも私には「金」が必要なのだ!!
ここカンボジアで1ドルでもいい!!金を稼ぎたい・・・
幸いなことに私自身はそんなに犯罪に身を染めなくても金を稼げる道はある。
ここプノンペンでも助けてくれる人はたくさんいるし、
中国ではきっともっともっといることだろう・・・
私自身が彼を助けてあげれる人間にならなくてどうする!!
そんなことを思っている今日この頃である・・・
しかし、私の死んだ母は私にこう言ったことがある。
「あんたは人を信じ過ぎる!!人はそんなにいい人ばかりではない!!」
高校生で反抗期だった私は猛反発して、
「俺の友達は絶対に俺を裏切らない!!あんたの考えは汚れている!!そんな考えを俺は一番軽蔑する!!」
母は・・・泣いた・・・「あんたにもいつかわかる時が来る・・・」
そしてその生意気な子供はもう60歳になった・・・
母の言うように数え切れないほど人に騙された。
でも私は後悔していない。
「もっとうまくやれれば俺はもっと成功してた」
それは全ての人間が思うことである。
私は母の教えを守ることなく、
本当だったら失わなくてもいい金をいっぱい失った。
金だけではない。友情だって人間だって失った。
「その人があんたの金を盗むのは、あんたがそう仕向けてるんですよ」
この年になって、母の教えは本当に心に染みる・・・
私はタカシに日々のメシぐらいは食わせてやろうと思っている。
それは後にタカシが別の私が悲しむ人生を歩むぐらいだったらと思う自分の「わがまま」である。
それによってタカシは私から金をせびる手法を学んでゆく・・・
いつかある日、信じてた人が自分から身包みはいでゆく・・・
そんなことは私ごときの人生でも何度かあった・・・
でも私が彼にメシを食わせてやらなければ、彼はどうやって生きてゆく?・・・
ただでさえクメール正月間近の犯罪が一番多い時期・・・
その上にコロナによって身なりのいい若者までがレストランのゴミ箱をあさっている・・・
今日、タカシを初めて私の部屋に上げた。
金目のものはそんなにないにしても、このパソコンはある。
その他、売れば少々の金になるものがあると彼が思ったとしてもそれは仕方がない。
これ以上食い詰めて、いつか私をナイフで刺して、
その代償がこのパソコン20万円程度であったとしたら、
私の人生は高々20万円であったということである。
まあ次の金曜日までにゆっくり考えてみるが、
それまではタカシに3度とは言わんが2度のメシぐらいは食わせてやろうと思う。
親しい仲にも礼儀あり!!
母が私に言いたかったことは実はこれだったのでは?・・・
そんなことが母が死んだ後にやっとわかるようなバカ息子である(涙)
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:23:36 | 固定リンク
2020年2月25日
ネパールの孤児院
カンボジアのくっくま孤児院には縁がありこんなプロジェクトもやっているのだが、別に孤児院が好きなわけでも子供が好きなわけでも何でもない(笑)
山野友佳子嬢がどこかに慰問してコンサートをやるというのでついて来たら、指定された場所に来てみたらそこがたまたま孤児院だったというわけだ。
子供たちが元気に遊んでいる。
ピアノのセッティング開始!!
くっくま孤児院には25人のお母さんである楠美和さんがいるが、
どうやらこの孤児院ではこのラマ僧が「お父さん」であるようだ・・・
別に子供好きじゃなくても、ネパールの子供はとても可愛いと思う。
特にインド系の子供が可愛いね。
さすが多民族国家・・・
ピアノのセッティングが出来た頃、遅れて山野友佳子嬢がやって来てコンサートスタート!!
子供たちもだんだん打ち解けて来て手拍子などで参加!!
そして歌!!
何と英語の歌が歌えるのね・・・
ドラムセットないけど参加して下さいと言われて空き缶と机を叩く!!(笑)
その後、孤児院にある楽器を持って来てくれて一緒に演奏・・・
これは民族楽器のひとつである手を使ってふいごで風を送るオルガン。
そしてみんなで踊りを踊ってくれた。
可愛いのだ〜
この子むっちゃ可愛い!!
そしてみんなで食事!!
この食事も地元のレストラン等からの支援を集めて山野友佳子嬢がここに持って来たものである。
最後に施設を見せてもらった・・・
印象としてはカンボジアと違って、気温が低いので着るものがたくさん必要で大変、もちろんその洗濯も・・・
素子t3え寝床もちゃんとしてないと凍えちゃうから大変よなぁ・・・
至るところに英語の貼り紙がある・・・
しかし外国の支援で成り立ってるならその組織名などの表示がありそうなものであるが、それが見当たらない。
聞いてみると、以前はスウェーデンだかの支援があったが、現在はない。
ネパール政府からの支援もなく、今後どうしてゆこうか困っていると・・・
バイクでこの場所を後にしてもその言葉が重くのしかかって、
ついつい引き返していくらかお金を置いて来た・・・
でもそんなはした金じゃあこの子供たち1日分の食費にもならないだろう。
かと言ってコロナ騒ぎで中国の仕事がない失業状態のおっさんには何もしてあげることが出来ない(>_<)
支援とは本当に難しい。
また「縁」が出来たわけだから、次にネパールに来ることがあったら、
また必ずここに来て、自分で出来ることなら何かやって帰りたい・・・
ああ、タイガーマスクみたいに大きなリングマネーの入る仕事をやりたい・・・(笑)
そう思った1日であった・・・
Posted by ファンキー末吉 at:14:31 | 固定リンク
2019年12月25日
個性の塊!!才能の宝庫!!
前回のこの修羅場の仕事の前にこのバックの仕事は決まっていた。
「Funkyさん〜曲数が多くて大変な仕事なんだけどひとつ頼むよ!!」
そう言ってLaoLuanから頼まれていた。
どんなイベントなのかはその時には聞いてない。
まあどんなイベントであろうがやることは同じ、
曲をもらって、それをライブアレンジにアレンジして、バックバンドのメンバーに指示してそれを完璧に仕上げる・・・それだけである。
と言いつつ、例によって中国!!曲が出て来たのはイベントの1週間前!!(>_<)
中国あるある〜である。
私は自身はいつも前日にやるのでいいのだが、他のミュージシャン、特にピアノの弾き方やギターの弾き方まで完璧にコピーしなければならないギタリストやキーボーディストは大変である。
早く譜面を書いて渡して上げなければそれだけ演奏の質が下がってしまうということになる。
かと言って私はこの修羅場をまだやっているわけだから譜面を書く時間なんてない(>_<)
ということでネットで譜面書いてくれる人を募集した。
手を挙げてくれた高橋亜土さん、やり始めて気付く、
「これ1曲に1時間かかったとして、26曲だと26時間かかるじゃないですか!!」
つまり他の仕事をやりながら1日数時間ずつやってたのではリハーサルにも間に合わないということになる・・・
困った時のよーしーずということで渋谷有希子にも応援を頼み、二人が徹夜して1日で全部書いてくれた!(◎_◎;)
いや〜大助かり!!、譜面がなくって100回聞くより、譜面を見ながら数回聞く方が数段頭に入りやすい。
「みんな各自コピーしといてね」という現場もあるが、それは各人にこの20数時間の労働を強いているわけだし、それぞれがコードなどを間違って採ってたりすると、それこそリハでぐちゃぐちゃになって能率が悪い。
やはりバンマス(バンドリーダーの意)が「これで!!」と大きな指針を提示することが大事なのである。
つまり、この「譜面起こし」でバンマスの仕事のほとんどは終わっているというわけだ。
こちらの修羅場が終わったら、全曲聞いて、コードが間違ってないかチェック!!
間違えてる部分はメンバー全員にそれを通達する。
ストリングスやギターの大事なフレーズなどはここで注意書きとして送っておく。
その通達には、中国ではWeChatというアプリを使う。
というか、リハーサル場所の共有やファイルの共有、更にはギャラの振り込みまで、中国ではこのアプリを持ってないと仕事が出来ないというぐらいである。
「バンマス仕事」をやりながら、「ドラマー」としてドラムのコピーもせねばならん。
ドラムが入ってなかったり、エレドラだけであっても、一応そのフレーズはコピーして譜面に書き込んでおく。
レコーディングの場合はこのエレドラの音色にこだわってこのように完成したとしても、生演奏の場合は生ドラムで叩いた方がライブ効果としてよかったりするからである。
特殊な音色や世界観など、プログラムを走らせないと無理な楽曲も多く、それぞれの歌手に手配をお願いする。
「誰か私の代わりにプログラム走らせるの担当してくれない?」
メンバーグループの中でそう発言してみるが、誰も尻込みして手を挙げてくれない(>_<)
誰もいなければ自分でデータ取り込んでドラムのところから自分でプログラムを操作しなければならない。
(ちなみにX.Y.Z.→Aとかプログラムが少ない現場ではいつもはそうしている)
まあ実質私には時間がないから無理なのである。
誰もいなければ誰か雇わねばと思ってたらキーボーディスト扬乐(YangLe)が手を挙げてくれた。
ちなみにこの作業はキーボーディストがやることが多いが、ラップシンガー爽子(Shuangzi)の場合はベーシストがやってたり、プロデューサーがその操作専門でツアーに同行したりもする。
キーボード奏者を二人にしてもらってて正解!!
結局この扬乐(YangLe)はキーボードを弾かずにプログラム操作に忙殺されることとなる・・・
いざリハーサル!!
メンバーはコーラス以外、扬乐(YangLe)を含めて皆初対面!!
「若手」というにはおっさんばかりだが、私と一緒に一時は中国全ての仕事を一緒にやってた一流プレイヤー達はもう大御所となってしまい、きっとギャラも高くて呼べないのであろう・・・
私を若いミュージシャンと組ませる、その意味は「若手を育てる」ということである。
グループメッセージには
「あの偉大な大先輩と一緒に仕事をさせてもらうんだから一生懸命大先輩の仕事を勉強させて頂きます」
という書き込みがあるぐらいで、私としてはこうなるともうどんな仕事であろうが手は抜けない。
とにかく仕切り、そしてドラムのプレイにはどこをどう切り取っても「完璧」であるしかない。
緊張感漂う中、初日のリハーサルは終了!!
次の日には歌手を招いてリハーサルである。
ここで歌手の意見を取り入れて変更とかあり得るのでフレキシブルに考えておかねばならない。
最初の歌手はLaoLuanとこの歌手で顔見知りなのでさらっと終わったが、
次の歌手は実は採譜するのも大変な電子音楽で、これがまたとびきりの美人なのだが、クールビューティーで全く笑わない((((;゚Д゚)))))))
プログラムデータも送られて来ていたが、やっぱバランスとかも気になるのだろう、カラオケにドラムだけ生で足してということになった。
1曲叩いて聞いてみる。
「こんな感じでいいですか?」
「いいわよ」
クールビューティーは全く笑わない((((;゚Д゚)))))))
次の曲はもらってた音源と違う曲で、結局叩くことは出来ないので、
「これは今日は無理なので当日出来るようにしときますから」
「いいわよ」
また全く笑わない((((;゚Д゚)))))))
見れば他の歌手はマネージャーや付き人などがついて来てるのに彼女はひとり。
データが違ってたりしていると自分でパソコンを開いてデータを送る。
こいつ・・・全部自分でこれだけの音楽を作っとるのか!(◎_◎;)
美人なのに美人なのに・・・(涙)
↑(自分で言っててあまり意味がわかりません(笑))
このクールビューティー、私とは結局ひとこと、
「你的头发很酷!!(あなたの髪型かっこいいわねぇ)」
というのを交わしただけであるが、それでも笑顔を見せない。
いや、怒っててこんな会話にはならないわけだから、彼女にとってはその時は精一杯の笑顔だったのかもわからないが、きっと「破顔一笑」というのは出来ない人なのかも知れない・・・
そこから入れ替わり立ち替わり歌手がやって来てリハーサル終了!!
ラグタイムあり、ブルースあり、スウィングJazzあり、民族音楽から民謡、テクノにブルーグラスまで何と多彩な歌手たちの集まりであろう・・・
どんなイベントなんだろう・・・興味が湧いて来る・・・
ライブ当日、私は前日に東京でX.Y.Z.→Aのライブがあったので、
そのライブの終了後そのまま羽田に行って3時の飛行機に乗り、6時に北京着、そのまま会場に入った。
どうやらこのイベントは中国最大のIT関連会社テンセント主催。
この会社は中国最大のSNS「WeChat」と共に、中国最大の音楽配信サイト「QQ」も運営している。
(このブログ記事「今や中国の著作権ビジネスは日本より進んでいる?!」に出て来る音楽配信サイト)
つまり今日のこの出演者達はこのサイトで音楽配信をやっているアーティストなのだろう・・・
演目は3部に分かれていて、バンドを連れて来る人、カラオケで歌う人もいるが、半数以上は私がバンマスを務めるこのバンドが演奏することになる。
出演順に記憶を辿ってレポートしてみよう・・・
1、许均:バンドを連れて来たのでこちらの演奏なし、中国ロック
2、鹿京周:中国では珍しいラグタイムブルース(大村はんがやっているようなジャンル)と典型的なブルーグラスの楽曲を歌った。ギターを弾きながら歌う歌手だが、プログラムを走らせる曲なのに勝手に弾き始めて、結局プログラムなしで演奏(>_<)
<こんな曲>
鹿京周-芭提雅
3、林侧:アコギを使った不思議なポップスを歌う
<こんな曲>
清晨幻想曲-林侧
4、张羿凡:叙情的なポップスを歌う
<こんな曲>
环岛之旅-张羿凡
5、何小河:浮遊感漂う不思議なポップスを歌う
<こんな曲>
天尽头 - 何小河Doris
6、张浅潜:しわがれたロックな声で歌うシンガーソングライター、かなり古い歌手で、20年近く前から名前は聞いていたが残念ながらこの日歌った曲の音源は見つからず・・・
7、张楚:この日のイベントのハイライト!!私が90年に最初に北京に行った時に私を黒豹のライブに連れて行ったパンクスである。
次の日にこの曲を
「中国人は蟻だ!!大きな足で踏み潰される」
と言ってホテルの部屋で歌ってくれた。
「マイマイマイマイ」のサビが最後の方になると「マビマビマビマビニママディビ」、つまり「Fuck Your Mother!」になると聞いて、「よしお前の歌を俺が街中で歌ってやろう!!どこで歌って欲しい?」と聞くと彼はこう言った。
「Tian An Men Square」
かくして彼の見守る中、ギターを持って天安門広場に立った私は、密告おばさんとかに囲まれて怖くて歌えず、「お前らはこんな中でロックをやってるのか!!」と激高して今があるというまさにその曲である。
今の時代、パンクになって「Fuck Your Mother!」になることもなく普通にこの曲を歌って終わった(笑)
さてここでちょっと休憩が入り、私は楽屋でバンドメンバーに説教をすることとなる。
そもそもが、今日の本番に向けてLaoLuanがみんなに激を飛ばしている。
「みんな、Funkyさんをよく見て、決してミスをしないように!!」
LaoLuanにとって私は「絶対に間違わない人」・・・
いや、私だって人間だからやっぱ間違ったりもする。
ここまでの演奏だって、リム叩くところスネア叩いたり、小さな間違いだったらちょっとは合った。
でも人にはわからない。
それをうまく処理してミスに聞こえないように叩いている。
「絶対にミスをしない!!」
これを常に目標に掲げているので、少々理想からは下がったとしてもこの程度で済んでいるだけに過ぎないのだ。
それに比べてこいつらと来たら・・・
「ミストーンが多過ぎ!!それにどうしてカウント入れても入らないんだ?聞こえないのか?」
だいたい一番間違うヤツに限って言い訳が多い。
「ドラムまで遠いからカウントが聞こえないんです」
じゃあ見とけよ!!
「私の場所からは見えないんです」
言い訳すんな!!集中しろ!!
まあ次のステージからはコンダクターマイクという、曲席には聞こえないがメンバーにだけ聞こえるようなマイクをドラムの横に置いてそこに向かってカウントを言うことにする。
次のステージ、私のバンドが演奏したものだけ抜粋すると、
10、马梓皓:R&Bシンガー。リハでは自らライブアレンジを仕切って、前半は自分ひとりでギター弾いて歌い、2番からバンドが入るというアレンジになった。
<こんな曲>
马梓皓《已读不回》
11、莫非定律:男女二人組のキーボードとボーカルのユニット。質の高いポップスを歌う。
<こんな曲>
一次性劫难 - 莫非定律More Feel
12、宋黛霆:Jazz歌手かなぁ・・・Jazzフィーリングのボサノバの曲でJazzドラマーとして楽しくドラムを叩かせて頂きました。
<こんな曲>
宋黛霆的一首《RawAffections(feat》
13、Tngahook:京劇風のサウンドで、中国ならではの日本人にとっては全く新しいサウンド。電子ドラムの部分を生ドラムで叩かせて頂きました。
戏子
14、董晓禾:これもJazz歌手なのであろう、4コードで延々即興のように歌ったり、古い民謡であろう楽曲をオールブルース調のJazzにアレンジして歌ったり、残念ながらアップされている音源は見つからなかった・・・
15、晓月老板:こりゃもう、古い民謡をJazzとかにアレンジして最高!!久しぶりにSwing Jazzを楽しく叩かせて頂きました!!
<こんな曲>
晓月老板-虞美人·听雨
ここでまた休憩が入って、3ステージ目。
18、李文琦:これはレコーディングも私がやったし(その時の逸話はこちら)、まあLaoLuanとこ所属の歌手なので全く気を使わずこんな感じ〜
19、朱婧汐:リハでカラオケに合わせてドラムを叩いたものの、本番はやっぱ「要らんわ」となったのかコーラス隊だけ参加でバンドは参加しなかったので、私はいそいそとこのクールビューティーのライブを袖から見た。
いや〜・・・圧巻やった!!!(◎_◎;)・・・客席に向かっても全く笑わん(笑)
他の歌手は少なくとも観客とコミュニケーションを取る。
笑顔を振りまくまではいかなくても、何らかの方法で客席と一体化を図ろうとするのだが・・・
この歌手はまるで「私の歌を聞きなさい!!それだけでいいから」と言わんばかり・・・
つまり一切の「媚び」がないのだ((((;゚Д゚)))))))
特に圧巻だったのはこの曲!!
Intelligent高级智能
曲のテーマとなるリズムリフは、ともすれば2拍ずれてるように取れるリフで、
ご丁寧に頭に2拍フレーズを入れてもっとわからなくしているだけでなく、
歌もちょうど2拍待ってから歌うのでどこが頭か一瞬わからなくなる・・・
よーしーず、2/4を入れずによく譜面にした!!
それにしてもこの娘・・・ほんまにこのオケを自分で打ち込んで作ったのか?!(◎_◎;)
電子音楽系の仕事が来たら彼女に発注したいわ!!(笑)
私も仕事で時々このようなスタイルのアレンジをするが、
これはとにかく時間がかかるのだ・・・
「音色」こそが命なので、例えばドラムの音色ひとつ決めるのに数時間かかる・・・
イメージに合ったシンセの音色を、コンピュータの中の何万という音色から探し当てるのに、ヘタしたら一晩徹夜することだってあるぐらいだ。
それをこの美女がやっているのだとするとそれこそが物凄い!!
いや、決してブスを卑下しているわけでも何でもない。
「美人でいる」ということは、一日の中でそれなりにそのために時間を費やさねばならないと思うからである。
ひとつの曲を徹夜で仕上げて、髪はボサボサ皮膚はボロボロでリハにやって来るのだったらまだわかる。
元々顔立ちがいいのだからスッピンでやって来るのだったらまだわかる。
彼女は「美人である」ということをキープするために時間をかけながら、このオケを作っているということが物凄いと思うのだ・・・
この曲、サビでリズムがなくなって「Lie、Lie、Lies・・・」と呟く。
よーしーずが採譜する時に「コードがぐっしゃぐっしゃで何弾いてるかわからない」と泣いていたが、そのぐしゃぐしゃの混沌としたところから「Don't trust anyone」と歌ってそこを抜けるところがこの曲最大の魅力なんだと思うが、1番ではサビと同じく裏声(もしくは高音の綺麗な声)でそこを歌い、2番では地声で歌って曲が終わる。
ライブでは2番のこの部分を絶叫し、そのままステージに座り込んだ!(◎_◎;)
客を置いていくにも程がある。
おそらく前客席はぼーぅ・・・私はステージ袖で鳥肌が立った・・・
ちなみに、噂によるとこの歌手の他の曲はアメリカのビルボードでチャートに入ったという噂である。
<朱婧汐新歌登录Billboard TOP 40流行指数榜>
日本で言うと坂本九から始まり、ラウドネス、オルケスタデラルスに続く快挙である。
私は昔、日本でアジアの音楽を紹介するラジオ番組をやっていたが、
その時にフィリピン人の歌手がチャートに入ったのを紹介した時に、
「いつの日にか次は中国人歌手がチャートインする時代が来るよ」
と発言した。
そして、当時「アジアブーム」に沸く日本の音楽界がみんな、
「テレサテンに続け」とばかり、中国人歌手を演歌班に所属させていることを痛烈に批判した。
「この人たちは日本なんか経由しなくても自力で中国人観客だけでマジソンスクエアガーデンを満杯にするんですよ!!何班でもいいからその会社の一番メインの班に置いてこそしかるべきでしょ!!」
今となってようやく日本の音楽業界は聞く耳を持たざるを得なくなったことだろう。
彼女たちは日本なんか飛び越えて「世界」を見てる。
日本だけですよ、取り残されているのは・・・
さて、話がそれた。
バンドは最後の歌手「馬条」で仕事納め。
この「馬条」の音楽が素晴らしかった!!
男前でも何でもないこの「おっさん」の男臭い歌声に涙が止まらない。
「若くなきゃ売れない」とか「流行りの音楽をやらなければ売れない」とか誰が決めた!!
不器用な(かどうか知らんが)おっさんが一生懸命人を愛する。
そして男臭い声でその「気持ち」を歌う。
そこには「売れる」だの「売れない」だのはない。
「いい」か「悪い」かだけなのである。
売れてる音楽が必ずしも「いい音楽」とは限らない。
同様にいい音楽が必ずしも売れるとは限らないけど、
彼の音楽を聴いてたら、私はもう「いい音楽」しかやりたくない、と強くそう思ってしまう。
項羽と劉邦の最後の戦いの時、四面楚歌に陥って最後に項羽は自分の兵隊にこう言った。
「ほら見ろ、俺たちは強い!!決して俺たちが弱いから滅ぼされるのではない!!天が俺たちに天下を取らせなかった、それだけのことだ」
天下を取れなくても項羽は歴史に残る英雄だし、私も後世に「下らない音楽をやった人間」だという不名誉を残すぐらいだったら別に一生売れなくてもいい。
「天が私を売れさせなかった」
それだけのことなのである。
彼の歌声を聞きながらそんなことをずっと考えていた・・・
この日の最後の曲。
コンサートが終わったら、バックステージで通り過ぎる人みんながこのメロディーを口ずさんでいた。
間違っても「ヒットする」というど真ん中の曲ではない。
しかしこれはきっと世界中の誰が聞いても「いい曲」である。
昔「ヒット曲を作れ」と躍起になってやらされていた時代、
例えこんな曲が出来たとしてもきっとボツになってただろう。
「こんな曲が売れるもんか!!もっと今のヒット曲を勉強しろ!!」
これが日本の音楽業界である。
だから日本のチャート番組を見ても聞いても、どれも似たようなテイストの曲ばかりになる。
イベントをやったとしても、売れてるアーティストを集めたとすると、基本的にはJーPOPの似たような出演者ばかりになるだろう。
とてもこのような個性豊かなアーティスト達が集まる、というかこんなアーティストが存在することすら無理であろう、それが日本の音楽業界である。
このイベントの出演者がどうしてこうも個性的なアーティストばかりだったのか・・・
それはきっと主催者のテンセントが音楽配信会社だからではないかと思う。
日本のレコード会社は何千万円もかけてレコードを作り、
何億円も宣伝費をかけてそれを売っていった。
今もその幻想を捨て切れずにそんなビジネスモデルを展開している。
CDなんか作っても、若者に渡したら
「これどうやって聞くんですか?」
と聞かれる時代に、である。
「スマホで聞くんだったら、まずこれをパソコンに取り込んで、そこからスマホに転送するんだよ」・・・
今やパソコンにCDドライブすらついてない時代なのだ・・・
「Jazz?そんなもん今の時代に売れるか?民謡?民族音楽?論外だね」
そんな幻想に取り憑かれている限り、今日の出演者の音楽などはどれも「論外」と感じるだろう。
でも配信会社は何千万もかけて音源を作るわけでもないので基本的に敷居が低い。
それぞれのアーティストが自分で作った作品を「売れないだろう」という理由で配信しない理由などありはしないのだ。
だからこんなに個性豊かなアーティストが集まったのだと思う。
さあ日本の音楽業界の皆さん、この個性豊かな才能の塊を見てどう思う?
いや、見やしない、聞きやしないだろう。
欧米の話じゃない、自分たちより遅れてると思ってるアジアの話なのだ・・・
そう思ってるうちにこの国の若者達は日本なんか飛び越えてどんどん世界に出てゆくだろう・・・
きっとそうやって日本だけが取り残されてしまうのだ・・・
Posted by ファンキー末吉 at:10:42 | 固定リンク
2019年8月25日
Wing & Paul「衝動効応」マレーシア
BEYONDのメンバーWigとPaulが一緒にBEYONDのナンバーを歌うという「衝動効応」の世界ツアー、実は私が参加する前にも何本か行われていたらしい。
途中で「ドラマーやっぱFunkyにしよーぜ〜」になったのかどうなのか、
私のところにはいつものようにWingから直接連絡が来た。
そこからスケジューリングしてまずマカオ!!
まあ日本人にはどうして私がこんなに興奮しているかピンと来ないだろうからもう一度説明しておこう。
あなたがもしQueenのフレディーマーキュリーと友達だったとしよう。
あなたが定期的にやっているライブをフレディーマーキュリーが見に来て、
「素晴らしいよ、今度いつやるんだい?毎月やってる?じゃあ来月も必ず見に来るから」
と言ったのが彼との最後の言葉になったとしよう。
あなたは「いつも彼が見に来ている」と思って毎回のライブを命がけで叩き、
そしてあなたの「今」がある。
そんな中である日、Queenの残されたメンバー2人がライブをやるからドラムを叩いてくれと言われる。
そしてフレディーマーキュリーが残した数々の名曲を一緒に演奏する・・・
これが興奮せずには入られますか!!という感じである(笑)
マカオが終わったあとにも、広東省の地方都市「佛山」と四川省の「成都」でも行われたのだが、
残念ながらスケジュールブッキングがぐちゃぐちゃで参加できず(>_<)
結局次のシンガポール、今回のマレーシアと、外国ばかり参加していることになる・・・
まあWing個人のワールドツアーでも、
中国国内は若いドラマーを育て、海外だけ私を呼んでくれてたので似たようなものだが、
何にせよこうして呼んで頂いて、外国にまで連れて行ってくれて、
こんなに感動的な時間を過ごせるのだからありがたいことこの上ないことである(感謝)。
さて今回、香港でのリハの初日は偶然にもWingの誕生日!!
56歳かぁ・・・ほんま若い!!
そう言えばこの香港の前に行った台州で、
熱烈なBEYONDファンがこんなCDを3枚も持っていた!(◎_◎;)
せっかくだということでご本人にサイン!!
MTVもみっけ!!
確か当時パーソナリティーを務めてたBay FMの番組の企画で、
Bay FMもBay、香港もBayということで「Love Our Bay」という曲を一緒に作ろう!!ということで始めたのだと記憶している。
今やこれは中国では非常に貴重な1枚ですな・・・
さて、リハも順調に進んでいってたのですが、
何と持って来たスティックが足りないことが発覚!!(>_<)
アジア最大の楽器屋チェーンのTom Leeでもファンキー末吉モデルは扱ってないらしく、
コンサートが行われるマレーシアでも入手困難だろう、と(涙)
何が「亜州鼓王」じゃ!!全然どうしようもないやん!!
と落ち込んでいたら、翌日ローディーのジャッキー君が家にあるのを持って来てくれた!!\(^o^)/
そやな、アジアじゅうの楽器屋で自分モデルのスティックが売られるようにとかいう夢よりも、アジアじゅうの若い衆んとこに自分のスティックが置いてあるみたいな方が現実的じゃぞ!!(笑)
さて、というわけで3日間のリハも終了し、一同マレーシアへ!!
香港のデモはまだ続いているが、
彼らが出している5つの要求は中国政府は絶対に呑まんと思うぞ・・・
数年前の雨傘運動の時に「民主の女神」と言われた、日本語も達者な周庭(アグネス・チョウ)をはじめ、全ての若者に「死ぬな!」と言いたい。
第二の天安門事件になることなく、事態が収拾することを心から願うぞ・・・
との思いを抱きながらマレーシアに着いた。
会場は首都のクアラルンプールではなく、そこからバスで2時間ほどのリゾート地らしい・・・
マレーシアで唯一のカジノがある総合レジャー施設!!
ちなみにイスラムは博打禁止なので、実質ここは中華系の客を主にターゲットとしている。
当然メシもまた中華!!
でもちゃんとイスラム系の食事も用意してある・・・
この施設がまた広いので迷うのよ・・・(>_<)
サウンドチェックに会場に向かうのにひとり迷ってしまい、
若い衆に迎えに来てもらう老人・・・(涙)
サウンドチェック!!
と言いつつこの儀式を忘れてはいけません!!
そう、世界平和のためにドラムを叩きます!!
噂に聞くとこの一連の「衝動効応」も実はこれが最後とかなんとか・・・
まあまた気が向いたら2人集まってその時にまた呼んでくれればいい。
もっと気が向いたらまたBEYOND3人集まってやってくれれば嬉しいそ!!
まあバンドやから色々あるやろからな。
かく言う私も何も知らん人から「爆風やって下さい」とか言われると腹たつもんな(笑)
まあ人生色々あるから、もしそんな「縁」があればやればいいさ。
しばらく個人活動頑張れ!!
色々連れてってくれてありがとう!!またやろう!!
Posted by ファンキー末吉 at:08:06 | 固定リンク
2019年8月11日
ラジオで生演奏生放送((((;゚Д゚)))))))
中国も変わったなぁ・・・先日監獄から出て来たばかりの爽子(Shuangz)を由緒ある北京广播电台で生放送で歌わせようとは・・・((((;゚Д゚)))))))
北京广播电台と言えば、45周年記念のイベントに爆風スランプで出て、
「客を煽り過ぎた」という理由(不明)で、コンサート中に警察がロック仲間である中国人スタッフを満場の客の前でめった打ち!!
そのまま制止を聞かずに最後まで演奏した私たちは銃を持った恐ろしい人たちに別室に監禁されるという事件があった・・・
また、ここのスタジオは李慧珍のアルバムをレコーディングしてた。
エンジニアのKeizoのギャラを計上して提出してたら、
「Funkyは私たちを騙している」
と問題になったなぁ・・・
当時、エンジニアはスタジオについているもので、
それを別に計上するなど「水増し請求」だというものである(笑)
いや〜このエンジニアっつのが全く芸術的ではなく本当に「機械エンジニア」(>_<)
夕方になったらさっさと帰るし!(笑)
いや〜色々と思い出のある北京广播电台であるが、
国家が運営するそんな老舗の放送局が、
ワシが知るだけでもう3回監獄に入っているこの犯罪者(笑)を生で2時間喋らせるというのはどういうことか!!(笑)
危険じゃないのか!!
そう言えばまた別の刺青だらけのラッパーがテレビで共産党にそぐわない禁止用語を連発して、それから刺青が目の敵にされ服とかで隠さないとテレビに出れない時期もあったなぁ・・・
まあ私が生放送だと聞いたのは実は放送局に着いてから。
それまでは客入れての公開録音ぐらいに思っていた。
そりゃこの状態では
「Funkyさん、回線が6chしかないから今回はカホンか電子ドラムにして下さいよ」
と言われてたのも頷ける。
カホンも電子ドラムも全くの「別の楽器」なので、
「ヤダ!!」と言って拒絶してたら、生ドラムどころかちゃんと大きなサブミキサーまで持って来てた!(◎_◎;)
さすがに初めてやなぁ〜北京广播电台の生放送スタジオにバンドが入って生演奏生放送!(◎_◎;) 生放送なのでドラムのチューニングもサウンドチェックもへったくれもない!!DJが喋ってない時に静かにセッティングして泣いても笑っても17時から生放送!! - Spherical Image - RICOH THETA
でもアンプはないのでギターはアコギ、
モニターはDJと同じ回線のヘッドホンをタコ足にして聞くことになる。
ところが私は張張(Zhang Zhang)が出すプログラムのクリックを聞かねばならない。
いつもイベントなどではクリック専用のイヤモニを渡されるのだが、
放送局にそんなものがあるはずもなく、
ミキサーも別回線でクリックを出すことは出来ない。
しゃーないなぁ〜・・・と張張(Zhang Zhang)がパソコンから直でクリックの回線を出す。
音量は大きくないがしゃーない、それで一度サウンドチェック代わりに演奏してみよう・・・
・・・って実はちゃんとそのためのサウンドチェックの時間が取られえているわけではない!!
日本でもよくある昼からの帯の番組のようで、
DJがオンエアに乗ってる時にはみんな声を潜め、
音楽や録音物を流している時にちょちょいと音を出す程度である(>_<)
ところが音を出してみると、
私はクリックとプログラム、まあこれは同じパソコンから出しているからいいとして、
ベースやキーボード、そして生音のアコギや歌なども全く聞こえない(>_<)
あかんやろ・・・(涙)
17時からの生放送の時間は刻々と迫っている。
人間追い詰められると脳みそが高速回転するらしい。
「そうだ!!みんなが聞いているそのヘッドホンの回線、あとひとつ余ってる?」
実は60歳の誕生日の時に李慧珍が誕生日プレゼントでこんなヘッドホンをくれたのだ。
もうね、6万円もするヘッドホンなんて失くすのが怖くて持ち歩けるかい!!
と思ってたら、一度飛行機で使ってみたらノイズキャンセリングが素晴らしく、
嘘のような静寂の中でiPadに落とした映画が楽しめる。
ちょうどこの収録終わったら最終便で寧波に飛ぶので持って来てたのよ〜
電源を入れずにケーブルを繋ぐと普通のヘッドホン!!
クリックを聞いているインナータイプのヘッドホンの上からこの大きなヘッドホンを被ればクリックと共にみんなのお供聞ける!!\(^o^)/
ちょっと圧迫で耳が痛いけど(笑)
というわけで生放送開始まであと5分のところで回線だけは確保した!!
そのまま本番!!!!
ちょっと心の片隅で心配してはいたが、刺青だらけのこの犯罪者(笑)、
DJに振られた話題を素朴にちゃんと真面目に答える。
ここで「Fuck You!!」など口走ったら冗談でなくこいつは終わる!!
「Fuckin Goverment!!」などと口走ったら一族郎党命が危ない(笑)
あとで聞いたのだが、
ラップなので中に危ない歌詞はいくつかあったらしい。
聞けばそれを瞬間的に察知して違う言葉に入れ替えたりハナモゲラにしたり、
物凄い反射神経でそれら全てを無事に乗り切ったらしい!(◎_◎;)
凄いぞ爽子(Shuangz)!!
そんだけの才能があるんだからもう監獄はやめような(笑)
2時間の生放送、なかなか緊張感の連続でかなり疲れたけど、
まあドラムもいいプレイが出来たしなかなか楽しい経験をしたぞ。
意外だったのは、セキュリティーがむっちゃ緩かったこと・・・
何せ放送局はクーデターが起こったらすぐに占拠されるところ。
昔だったら入口でIDやパスポート、持ち物の検査まで厳しかったのに、
いくら顔認証が発達しているからと言って、これだけの不審な荷物(笑)をノーチェックで持ち込めてIDチェックもしなかったというのは、やはり中国も少しは平和になったのか・・・
ならんならん(笑)
まあでもこんな犯罪歴のあるラップ歌手に2時間生放送で喋らせるんだから、
そういうことに対する緊張感は昔に比べたら確実に薄まっている。
逆に「ロック」自体がもう恐るべきパワーを失っているということか?
・・・考え過ぎか・・・
中国は恐ろしい速度で今も変化している。
私としてはこれが悪い方向ではなく、平和な世界へと向かっていることを願うのみである・・・
Posted by ファンキー末吉 at:20:43 | 固定リンク
2019年7月16日
還暦記念亜州鼓魂ライブ
7月13日は渡辺英樹さんの命日でもあるので毎年英樹さん絡みのイベントを行っていたが、今年は「60歳だろ?中国じゃもの凄いことなんだぜ」ということで中国の仲間がイベントを立ち上げてくれた。
曲順
M01:出发
M02:我爱你亲爱的姑娘
M03:羊肉面
MC
M04:流星
M05:小卢的初恋
VCR(BEYONDの3人からのメッセージ)
MC
M06:七到天门
M07:Memories(记念黄家驹)
VCR(艾梦萌からのメッセージ)
M08 红舞鞋
(ドラムのリズムに乗せて李慧珍登場)
M09 向前走
MC
M10 不安
MC
M11 亚洲鼓魂
M12 力量
M13 Let Me Be Free
VCR(爽子からのメッセージ)
MC
M14 这是我
MC
M15 礼物
EN 生日的歌
ライブはまず友人代表としてLuanShuのお話から始まった。
「Funkyさんは無私の心で中国ロックや中国流行音楽に多大な貢献をし・・・」
いや、一応お金もらってるんやから「無私」ではないと思うが・・・
まあ中国ロックの黎明期は楽器やCDや教材やら色々持って来てやったからな、その部分は「無私」かな・・・
以下は彼のWeChatの書き込み・・・
相识于1991,没想到会一路同行持续合作到今天,Funky桑不只是亚洲鼓魂,对待音乐的态度他是我一直学习的典范,他对中国流行音乐所作出的无私奉献和真爱值得敬佩,他是真正的摇滚战士[强]老方生日快乐
まあ出会ったん90年やけど・・・(笑)まあええか・・・
そして布衣!!
「布衣の曲でヒットした曲って全部Funkyの曲なんだよな・・・(笑)」
はい、でもVoThMの曲もやりました!!
英樹さんの命日やしな・・・
ここから二胡が入るわけだが、
今回呼んだのは上海で知り合った美人二胡奏者!!
そのまま「ろう君の初恋」!!
その後にBeyondの3人からのメッセージを流して、亜州鼓魂の最後のインスト2曲。
この時にどうしても喋りたいことがあったのよねぇ・・・
彼らと出会ったのは91年のこと。
同じ所属事務所の紹介で爆風の4人とBeyondの4人が会った時、
こちらの4人はみんながみんなWingがボーカルだと思って疑わなかった。
Beyondのライブも見たことがない日本人には、
やはり一番ルックスがいいのがWingだったわけである。
そして一番スケベなのもWingと黄家駒(笑)
「要日本的女朋友〜」とか言いながら毎日飲んでいたが、
結局色々女の子紹介しても黄家駒は全部玉砕!!(笑)
そんなバカな毎日のある日、
Wingから電話がかかって来て、黄家駒がテレビ局で事故にあって意識不明の重体と聞く。
急いで病院に駆けつけ、それから1ヶ月近くずーっと病院に詰めていた。
そして1993年6月30日、医者が臨終を告げた時に、
まるで映画のようにWingが卒倒して私の腕の中に倒れて来た。
そして気が触れたようにケケケと笑ってこんなことを言う・・・
「あいつは今、真っ白でとっても気持ちいい所にいるんだって・・・
そこは酒を飲むよりも、セックスするよりももっと気持ちいいんだって・・・カカカ」
私は思った、
音楽、特にJazzのような即興性の高い演奏の時に、
色んな偶然が作用して時々ふわっと身体が浮いたような、
そんな真っ白な世界に行く時がある・・・
そう、彼はそこにいる・・・
でもそこには7つの扉があって、
ひとつを開けたらまたその向こうに扉がある。
音楽を精進して、その7つの扉を全部開けた所に彼がいる・・・
だから亜州鼓魂の最後の2曲はこのコンセプトの下、
天界への7番目の扉〜Memoriesでアルバムを終える・・・
Memoriesは香港で行われえた黄家駒の葬儀の時に書いた、彼への追悼曲である。
日本でJazzなんかやってても誰にも興味など持たれず、
それでも毎月SOMEDAYというJazzのライブハウスでセッションをやっていた。
ある日Beyondの4人がライブを見に来てくれて、
演奏に大喜びだった黄家駒が私にこう言った。
「凄いよ!!全くもって凄い演奏だった!!
今度はいつやるんだ?次も絶対に見に来る!!」
それが彼が私と交わした最後の言葉となったのだった・・・
その後「艾梦萌」からのメッセージを紹介して、渋谷有希子が歌う「红舞鞋」、
間髪置かずにドラムのリズムから入って李慧珍の登場である。
この後のMCで、何やら彼女が長々と喋っている・・・
私は同期のクリックを聞くためにイヤホンをしてるし、
ライブ録音の回り込みを避けるためにモニターに何も返してないので全く聞こえないが、
見れば私への感謝の言葉とか思い出とかを喋りながら泣いているようだ!(◎_◎;)
彼女のWeChatの書き込み・・・おそらくこんなことを言いながら涙ぐんだのだろう・・・
18岁认识Funky桑,他把我从一个音乐小白一路教会我什么是一个专业歌手的品质,早早就让我见识什么是中国最顶尖的乐手,让我学习了当年最top的唱片制作模式~谢谢你Funky桑,爱你 [爱心][爱心][爱心]再次祝生日快乐
お前が泣くとこちゃうやろ!!ワシを泣かせるとこやろ!!(笑)
そしてLaoWuも参加して、
「小さい頃、このアルバムが欲しかったんだけど金がない。
だから仲間うちで献血に行って血を売ってこのアルバムを買ったんだ」
というMCに続いて、亜州鼓魂の1曲目から3曲目までをメドレー!!
圧巻やったな・・・
その後に爽子(Shuangz)のメッセージが流れるのだが、
実はもともと、このライブに彼も参加する予定だった。
ところが文化部に申請を出そうとしたある日、
「爽子が全く連絡が取れないんだ。きっとまた捕まって監獄に入れられたんだろう」
!(◎_◎;)
あのね、長いことイベントやコンサートやっとるけど、
出演者が監獄に入れられたから出演出来んなんてこいつぐらいや!!(>_<)
まあまたケンカだったらしいが、
監獄から出て来た時にはもう文化部への届出は終わっていて、
こうしてメッセージだけで参加というわけだ・・・
彼の代わりに四暗刻のラッパー揚洋(YangYang)が歌ってくれた。
そして本編最後の曲「礼物」!!
バイク事故で亡くなった唐朝楽隊のベーシスト「张炬(Zhang Ju)」のために作った曲である。
この追悼アルバムで「お前も何曲かプロデュースしてくれ」と言われ、
その担当となった布衣と初めて会って今がある。
これで本編終わってアンコール・・・と思ったら誰も引っ込まず、
結局そのまま続けてアンコール(笑)
亜州鼓魂の中に収録されている誕生日の歌、
原曲は24歳の誕生日だが、揚洋(YangYang)が今日のために60歳の詞を作ってくれてラップする。
それで全て終了なのだが、当然ながらアンコールが来る。
しゃーないなぁ〜・・・でドラムソロ!!
これで全て終了!!よくやった!!
これを見てたある人がこんなことを呟いた・・・
「歴史やな・・・」
そう、30年の私と中国との歴史がここにある。
願わくばこのまま歴史を紡ぎ続け、10年後にまたやろう!!
70歳記念ライブ!!(笑)
Posted by ファンキー末吉 at:10:44 | 固定リンク
2019年7月 1日
北朝鮮プロジェクトまとめ
<<プロローグ:北朝鮮? いいですよ、行きましょ!!>>
2006年のある日、中国は北京で暮らしていた私を訪ねて来た「荒巻」と名乗る日本人・・・
彼は学者で北朝鮮とチベットを専門で研究していると言う。
10年以上(当時)に渡り、20回を超える(当時)渡航歴の中で築き上げた「コネ'」がある彼は
「僕だけはどこでも歩けますし何でも撮ることが出来るんです」
と言う・・・
事実、当時テレビで流れていた北朝鮮の映像はほとんどが彼によって撮影されたものだと後で聞いた。
「ファンキーさん、北朝鮮に行きませんか?」
その一言が私の人生を「奇異なもの」に変えたのだ。
「同じ後悔するなら飛び込んで後悔したい」
という人生観を持っている私は二つ返事で行くと答えた。
そしたら荒巻はひとつのDVDを私に手渡した。
「じゃあとりあえずこれ見といて下さい」
ハリウッドの映画「スクール・オブ・ロック」!!
ロック馬鹿な主人公が、何かの間違いで優等生ばかりの小学校の教師となり、
何を教えることもないのでロックを教えていたらその学校が「スクール・オブ・ロック」、すなわち「ロック学校」になってしまったという、笑いあり涙ありの素晴らしい映画だった。
「見ましたよ。素晴らしい映画でした!!」
数日後こう言ってDVDを返しに行ったら荒巻は喜んでこう言った。
「そうですか!!じゃあ北朝鮮に行ってこれをやりましょう!!」
こうしてこの「北朝鮮ロックプロジェクト」は軽いノリで始まった。
当時の私は何の期待も不安もなくこのようにブログに記している・・・
ブログ記事:北朝鮮に行ってくる(?!!)
ところが行ってみて私の感覚は大きく変わった!!
彼女たちの笑顔が私の全てを変えたのである。
<<第1章:平壌をロックに染めてやる!>>
北朝鮮のビザは、諸外国のようにパスポートにハンコを押すのではなく、
このようにペラペラの紙に別紙として発行される。
Web記事:北朝鮮のVISA
北朝鮮に着くと「案内人(兼通訳・・・兼監視員?)」がふたり付く。
噂によると二人がお互いに関ししているという話も聞く・・・
ところが荒巻は長い渡航歴の中でこの案内人自体に「コネ」がある。
案内人というよりも案内人を派遣する団体との関係で、こうしてコネのある案内人を回してもらえるのだと言う・・・
そんな中で初めての北朝鮮渡航!!
ブログ記事:北朝鮮美女軍団ロックバンド
ブログ記事:北朝鮮渡航記
<彼女たちの笑顔こそが「ロック」だ!!>
この渡航によって私は180度変わった。
私の中での大きな「価値観」が変わってしまったのだ。
私は「北朝鮮の子供たちは笑わない」と思ってた。
笑ったとしても作り笑いしかしないと思ってた。
しかし実際にこうして子供たちと交流してみると、
笑ったり泣いたりケンカしたり、
日本なんかよりももっと個性豊かな子供たちがそこにいた。
日本の偏ったメディアの報道により、
中国で暮らしている私でさえ事実を歪んで捉えている・・・
それがイヤでこそ私はこうして日本を捨てて外国で暮らしていたのではないのか・・・
ここから私にとってのこの「北朝鮮ロックプロジェクト」が本格的に始まった。
<<第2章:北朝鮮のオリジナル・ロック曲>>
ブログ記事:北朝鮮にロックが響く(前編)
Web記事:世界はRockを求めてる!北朝鮮Girlsロックバンド計画
6月9日高等中学校の国語の先生にいくつか詩を書いてもらったのだが、
その中でこんな「ロック」な詩を見つけた!!
물음표(クエスチョンマーク)
ナヌンヤ ムルンピョ サランハジヨ
나는야물음표사랑하지요(私はクエスチョンマークを愛する)
나는야물음표사랑하지요(私はクエスチョンマークを愛する)
ジシグィ ノプンタプ サアガルスロク
지식의높은탑쌓아갈수록(知識の高いタワーを築けば築くほど)
ジヘソゲ セムソンヌン ナウィ ムルンピョ
자혜속에샘솟는나의물음표(知恵の中で湧き出る私のクエスチョンマーク)
コギウィ ビミルムン オソ ヨルラゴ
거기의비밀문어서열라고(その秘密の門を開きなさい)
ソンゴンウィ ヨルシェルウル アンギョズジヨ
성공의열쇠를안겨주지요(成功のキーを与えてくれる)
ムルンピョ ムルンピョ ナヌン ゾアヨ
물음표물음표나는좋아요(クエスチョンマーク、私は好きなんだ)
ウリ ハムケ オルダ ソクサギョ ズヌン
우리함께오르자속작여주는(みんな一緒に昇ろうとささやいてくれる)
ムルンピョ ムルンピョ ナヌン ゾアヨ
물음표물음표나는좋아요(クエスチョンマーク、私は好きなんだ)
オンゼナ センギョナヌン ムルンピョ
언제나생겨나는물음표(いつも生まれるクエスチョンマーク)
これを詞にして「北朝鮮初のオリジナルロック曲」を録音すべく、
録音機材、北朝鮮の機材は使い物にならなかったのでギターやベースも担いで2回目の渡航!!
途中「軍部からの中止命令」にも負けずこの曲が完成した!!
ブログ記事:北朝鮮にロックが響く(後編)
そしてこれらの活動を日本テレビのニュース番組で特集してくれることになった。
ブログ記事:放送日決定!!
「放送されたら、右側なのか左側なのか、どんな団体からどんな圧力をかけられるかわかりませんよ。ちょっと海外にでも身を隠してた方がいいんじゃないですか」
と言われていたが、局が用意した多数の苦情受付電話回線は鳴ることがなく、日本の人々に大きな感動を与えて番組は放送された。
<<第3章:チベットで発見した「ロックとは何か」>>
何か自分の能力を超える作品を生み出した時には、身体中の細胞がそのレベルに追いつこうとするかのように気が狂ったようになる時がある。
Runnerを生み出した時がそうであった・・・
荒巻は悩む私をチベットに連れて行って、そこでラマの高僧と問答を交わし、悟りを開いてゆく・・・
ブログ記事:チベットにて悟った「ロックとは何か」
<<第4章:次世代の部員との本気のセッション>>
3度目の訪朝はメディアでもブログでも多くは取り上げられていない。
しかし「交流」という点では一番実のある渡航であった。
今度は自ら少女たちの中に入ってドラムとアコーディオンの楽曲を録音。
心を通い合わせなければ完成しない楽曲のために、何度も話し合い、ぶつけ合い、1週間のガチのセッションの中で、少女たちから大きなものを教わる。愚かなのは実は自分だったのである!!
<<第5章:新人類たちとのロック>>
鎖国しているようなこの国でも世の中はどんどん変わってゆく・・・
ちょっと時間のあいた4度目の渡航では見るもの全てが大きく変わっていた・・・
荒巻とこの「6月9日高等中学校」とのコネだけで北朝鮮でこれだけのプロジェクトを行なっている。
しかし子供たちがここを卒業してしまえば荒巻のコネが届かないところに行ってしまう・・・
特に軍部に進んだ生徒は(北朝鮮ではそれが一番のエリートとなる)、もうどんなコネを使ってもこのような外国人と接触することは出来ない。
ところが校長先生の計らいで卒業生のひとりと会うことが出来た。
そしてこの世代の子供たちはもう「新人類」。
その子供たちと彼女たち自身の手による「オリジナル楽曲」を作り出す。
北朝鮮版「けいおん」である。
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝(初日)
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝2日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝3日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝4日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝5日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝6日目
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝最終日
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝番外編1:遊園地
ブログ記事:4度目の北朝鮮訪朝番外編2:よど号乗っ取り犯人と酒を飲んだ!!
<<第6章:はるかなる北朝鮮〜さようなら愛弟子たち>>
ブログ記事:北朝鮮ファンキー末吉ロックスクールの生徒たち
ブログ記事:5回目の訪朝
ブログ記事:無事出国!!北京空港にて
金正日体制が終わった直後の最後の渡航。
少女たちにとって「将軍様」とはどんな存在なのか?
あの涙はホンモノなのか?
この国はどうしてこんなに金があるのか?
そして何より、「何故このロックプロジェクトがこの国に受け入れられたのか」の謎が解き明かされる。
<<番外編>>
北朝鮮ロックプロジェクトは、これら一連の物語を本にまとめて出版すると共に封印されました。
ブログ記事:北朝鮮プロジェクトついに書籍化!!
その他ブログ記事
ブログ記事:北朝鮮初のオリジナルロック曲
ブログ記事:今日からまた北朝鮮・・・
ブログ記事:持ち込み成功!!
ブログ記事:北朝鮮のタブレット分析(序章)
ブログ記事:北朝鮮に初めてiPhoneを持ち込んで国際電話をかけた日本人
ブログ記事:北朝鮮のタブレット分析(フライング編)
ブログ記事:北朝鮮のタブレット分析(アプリ編)
ブログ記事:朗読CD本日より発売開始!!
ブログ記事:朝鮮学校の秋祭りでドラムを叩こう!!
ブログ記事:朝鮮学校のイベント
<<結びの言葉>>
ひょんなことから北朝鮮に「ロックの教え子」を持った。
でも国際情勢がこのようである今、私がこの「ロックの愛弟子」たちに自由に会いに行くことは出来ない。
こんな「世の中」にしてしまったのは誰でもない、私たち「大人」である。
この子たちの時代には、この子たちの世代の手によって、こんなバカげた世の中をなくしてくれることを心から願う。
<<書籍紹介>>
このプロジェクトを記した書籍はこちら
電子本はこちら
この書籍は朗読CDとしても発売されてます。
Posted by ファンキー末吉 at:12:07 | 固定リンク
2019年6月16日
ある愛の唄プロジェクトまとめ
「ある愛の唄」
1988年春、その1年後に爆風スランプから江川ほーじんが脱退することが決まり、「それまでにヒット曲を生み出せなければバンドを終わる」という状況の中、私は苦しみ抜いて「Runner」を生み出す。
同年のNHK紅白歌合戦にこの曲で出場し、願い通りこの曲はヒットするものの、「ヒット曲が続かねばバンドは一発屋として終わる」と言われ、また苦しみ抜いて「リゾ・ラバ」を生み出す。
その苦しみの果て頭の中でぽんと何かが弾けた私は、1990年5月に初めて中国北京を訪れ、偶然地下クラブで演奏するロックバンドのライブを見ることとなる。
「中国で本物のロックを見つけた!!」
インターネットもeメールも普及していなかった時代、興奮した私は所属事務所にそのレポートをFAXで毎日送りつけるが、所属事務所はそれを無視していた。その後、アジアブームが訪れ、アジアに進出したい所属事務所は私ではなく、別の歌手を北京に行かせて「彼が北京でロックを見つけた」という取材企画を組むこととなる。
爆風スランプがその事務所に移籍した時のトップとのミーティング。議題は末吉の個人活動について。社長は私にはっきりとこう宣言した。
「当社は爆風スランプの末吉くんとビジネスをしたいのであって、末吉くんの個人活動には興味がない」
つまり「お前は爆風スランプにだけ曲を書いとけ。ほかの曲には興味がない」ということ。爆風スランプっぽくない楽曲を生み出しても誰からも必要とされてない状況が続いていた。
「楽曲は生み出した自分の子供と同じである」と考える私は、爆風スランプの楽曲としては必要なしとされてしまった、膨大な数の生み出した楽曲をなんとか形に残そうとして、この「ある愛の唄」というコンセプトアルバムのデモ音源を作成した。
<デモ制作>
そのデモ音源は、当時近所に住んでいた歌手の卵である「キョンマ」こと岸恭子(現眞辺恭子)がアルバムの全編を歌って制作した。しかし私自身その後、日本に失望して中国に渡ってしまうことになり、いつしかこのアルバムのこと自体もすべて忘れ去ってしまっていた。
デモ音源
<コンセプト>
当時サンプラザ中野以外の詞が採用される状況ではなかったなか、このアルバムの詞は全曲私の手によって書かれた。ある女性が生まれる前から伴侶が死ぬ前までを組曲にしたコンセプトアルバムである。
のちに、池川明さんが「おぼえているよ。ママのおなかにいたときのこと」という本を出版されて、私もその本を読むことになるが、そのもっと前から私は「赤ちゃんが自分で母親を選んで生まれてくる」という考えを持っていて、それがこのアルバムのコンセプトの中心となっている。
<天安門にロックが響く>
さらに同時期、私は中国で出会ったロックの話を元に「天安門にロックが響く」という小説を書いた。
この小説が「小説現代」に掲載され文壇デビューとなった。
そしてこの小説が原作となって、漫画「北京の春」が発刊された。
この本は中国語に翻訳され、香港、台湾で発売された。
中国共産党のお膝元である中国大陸ではもちろんご法度であるが、中国人である私の妻(当時)の両親が北京から来日した時に見つかってしまいこっぴどく説教をされた。
「中国では絶対にやってはいけないことがふたつある。ひとつは色ごと、もうひとつは政治批判!!家族の中でそんなことやってる人間が現れたら一族郎党どんな目に遭わされるやらわからない」
と・・・
実は、この小説のモデルとなった中国の女性シンガーと、天安門事件で人民解放軍に殺される恋人との話が、アルバムに収録されている「ママの初恋」という曲になっている。
また、このコンセプトアルバムの主人公は、いくつかの大恋愛を経て最終的に中国に嫁いでゆき安住の地を手に入れるところなど、この小説とリンクされている部分も多い。
<キョンマとの再会>
私は長くこのアルバムのことを忘れていたが、デモですべての楽曲を歌っていたキョンマがこれを大切に保管してくれていた。
これを末吉に渡した時に彼女はこう言った。
「よかった。やっとこのアルバムを末ちゃんにお返しできた。この楽曲たちはあなたの生み出した大切な子供たちです。どの子もとってもいい子です。私もライブで時々歌うけど、聞いた人はみんな涙するんだもの」
私はまるで忘れていたこのアルバムを「初めて」に近い気持ちで聞くことになり、これを聞いて自分でも涙した。
その後、前回のクラウドファンディングでキョンマ自身が「出張ライブ」の出資者となり、このアルバムの楽曲をライブで再現しようということにもなった。
<制作開始>
そしてついにアルバムが仕上がった!!
(こちらで購入できます)
そして2019年5月19日にアルバム全曲再現ライブが行われた。
そして、このアルバムの楽曲は「世界中のより多くの人に歌ってもらいたい」というコンセプトにより、現在のところ「著作権フリー」にしている。
その流れを受けて、歌手の山下直子さんもこのアルバムを歌って下さった。
そして今、世界中の人たちに歌ってもらうべく、キョンマ自ら歌うベトナム語版、
そして中国の著名歌手「李慧珍」が歌う中国語版と、
カンボジアくっくま孤児院の子供たちが歌うクメール語版の制作が始まっている。
ブログ記事「ある愛の唄中国語版」
ブログ記事「ある愛の唄中国語版その後」
ブログ記事「中国の契約書との戦い」
ブログ記事「クメール語バージョン制作開始!!
ブログ記事「支援は人のためにあらず」
ブログ記事「クメール語版「中国のマドンナ」
Posted by ファンキー末吉 at:08:05 | 固定リンク
2019年6月 3日
ボーカルレコーディング@くっくま孤児院
くっくま孤児院に古いMacBook Airとインターフェイスやマイクなども置いて来て、バンドのメンバーが自分たちでボーカルレコーディングが出来るようにしている。
エンジニアはキーボードのティアルッ君。
キーボードプレイヤーの仕事というのは今やパソコンを使える人というご時世なので、「覚えておいて損はないよ」とばかり彼に色々と基本的なことを教えておいた。
「自分たちで録音してデータを送ってね」
ということで最初にデータが送られて来たのだが、
まあ最初なので仕方がないが色々不備があるのでまた指示をして送り返す。
これを数度やり取りしていると、ティアルッ君のスキルがどんどん上がり、歌録りの音質自体は今やもう何も問題がない。
ボーカルのスレイクォイのレベルも元々高いのではあるが、
ここにひとつの欠点を発見!!
まあここのみんなは音楽教育を受けたことがないので当然なのだが、
「ソルフェージュ能力」というか、
新しく与えたメロディーを把握する能力とか、一度間違って覚えてしまったら直せないところがあるようだ。
それだったらというわけでタイでボイストレーナーをやっているMIMIさんに声をかけてカンボジアまで来てもらった。
まずは発声法!!
これ歌の基本だそうで、「お腹から声を出す」!!
せっかくなのでバンドのメンバーや他の子供たちにもみんなに指導してもらいました。
そしていわゆる「ソルフェージュ」の基本!!
音を聞いてそれが何の音かがわかるようにする訓練をゲーム形式でやってみました。
ずっと昔に「笑っていいとも」のゲームコーナーで、お笑い相手に同じようなゲームをやっていて、ゲストの森口博子は全部一瞬で答えるのに、お笑いの人たちは「何でわかるの??!」とびっくり。
森口博子が逆に「何でわかんないの??!」とびっくり!!(笑)
確か小学校の音楽の聴音のテストでも同じようなのがあったのを覚えているが、
私は小さい頃ピアノをやってたせいか労せずして全部わかったが、
同級生が全くわからないのを不思議に思ったことを覚えている。
「才能」でも何でもない。
要は訓練!!平ったく言えば「慣れ」である。
コツがあって、「これはドの音です」の時に、頭の中に「ドレミファソラシド」を思い浮かべて、出題された音がその頭の中で鳴っている音のどれに当たるかを考えればそれで良い。
もし鍵盤を弾きながら「これかな」とか探してゆけば誰にでも出来ることで、
「要は頭の中で鍵盤を弾く」みたいなもんで、
これが出来ればメロディーを覚えるのも楽だし、
メロディーが違っていいれば頭の中で瞬時に違っていることを認識出来る。
初日はとりあえずここまで。
次の日はMIMI先生はボーカルのスレイクォイの個人レッスン。
私はヒマなので(笑)ドラムのダビッにドラムのいい練習方法を伝授した。
この練習はリズムのウラ拍を意識する為に非常に有効な方法で、
メトロノームを表で聞くと、どうしてもそれに合わせてリズムを「置いて」ゆくようになってしまうが、ウラで聞くとこちらがずれると容赦無く置いてかれるので非常にシビアなリズム練習となる。
いや初めてでこの速度でやれるようになるっつうのはなかなか大したもん!!
さてやるだけやったら最後に大目的のボーカルレコーディング!!
エンジニアのティアルッ君は私の知らないショートカットキーとかも駆使しながらなかなかのもの。
この曲のBメロの一部分、ボーカルラインを間違えて覚えているのでそれをやり直しているうちにトラブル発生!!
何度かやり直してるうちに、突然ボーカルのスレイクォイから何の反応もなくなったと思ったら・・・泣いているのだ!(◎_◎;)
よほど悔しかったのだろう。
泣いていることすら知られたくないという感じで両手で顔を押さえて泣いていた・・・(写真自粛)
水を打ったように沈黙が広がる・・・
私はメンバーの様子をまず観察した。
3人のメンバーは誰も言葉を発しない。
一緒にこの孤児院で暮らして来た「家族」である。
誰よりもスレイクォイのことを知ってるのだろう。
「こんな時こいつは何も言わずにほっとくのが一番なんだ」
と言わんばかりに「無言の暖かさ」で彼女を包み込んでいる・・・
5分だろうか10分だろうか・・・
かなり長い沈黙を破って彼女が口を開いた。
「大丈夫です。歌います!!」
彼女は逃げることなく、甘えることなく、自分で乗り越えた!!
これだからレコーディングをやると格段にレベルがアップする。
この修羅場を乗り越えた者だけが「次」に行けるのである。
かく言う私も爆風スランプの1枚目のアルバムをレコーディングする時に、
叩けなくてこっそりトイレに行って泣いた・・・
当時はアナログレコーディングなので、ドラムのパンチインパンチアウトなどがまだ出来なかったので尚更である。
ドラムが間違えたら全員最初からやり直し。
最初から最後まで間違えずに叩けて、そのレベルが自分や他が納得するものであって初めて他の楽器の録音が出来るのである。
今やもうデジタルの時代になって、ドラムであろうがどんなに細かいパンチインパンチアウトが出来るようになっても、この「経験」によって今の私がある。
「これぐらいパンチインパンチアウトなしで最初っから最後まで叩ける」
という「自信」が今の中国でのステジオミュージシャンの仕事をする上での何よりの「ルーツ」となっているのである。
人生においても、今後どんな困難があっても、
逃げることなく、甘えることなく、こうやって全て自分の力で乗り越えていって欲しい・・・
見ればMIMIさんが隣で涙目になっている(笑)
このまま録音して全て終了!!・・・と思ったら、
歌いすぎてスレイクォイの声が枯れて来ているので翌日に持ち越し!!
翌日も声は回復してなかったので、
前日のボイストレーニングで一番声が変わったベースのスレイレアッにコーラスを歌ってもらう。
そのレコーディング風景を見ているスレイクォイにも、
自分が歌っている時と違った目線でレコーディングを見ることが出来る。
「ああこういうことなのか・・・」
ということがわかったんじゃないかな・・・
頑張れみんな!!
こうやって自分の力で乗り越えてゆくことを、おじさんは「ロック」と呼んでいるんだよ。
こうやって自分の人生も「ロックの精神」で乗り越えていって欲しい・・・
カンボジア希望の星プロジェクトについてはこちら
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:13:17 | 固定リンク
カンボジア希望の星プロジェクトまとめ
<<くっくまバンドとの出会い>>
2018年8月、私は中国での仕事を終え、少しだけ空いた時間をどう過ごそうかと考えていた。
日本に一時帰国してもよかったのだが、往々にして日本行きのチケットは高い。
だが東南アジアなら往復3万円ぐらいでゲット出来る。
別にどの国でもよかったが、その時に一番安いチケットがプノンペンだったので、こうして2度目のカンボジア行きが「偶然」決まったのである。
プノンペンに着いて、別に何の予定があるわけではない。
前回来た時に立ち寄ったライブハウスに行ったり、
また、「デスメタルバンドがある」という噂を聞いたので情報を探したりしていた。
その時のブログ記事:希望の星になれ!!
カンボジアのデスメタルバンドには少々興味があった。
最初にカンボジアに来た時、ポルポトの大虐殺に関する遺跡を見て、この国で生まれた「ロック」というのはどんなロックなんだろうと漠然と考えていたからである。
結局デスメタルバンドを見ることはなく、私のSNS投稿を見た人が紹介してくれたくっくま孤児院に足を運んだ。
この孤児院は、もともと「ソバン先生」という、この方も孤児だった人が、自分たちで孤児を引き取って、自分たちのお金で孤児たちにご飯を食べさせて、学校に通わせていたのが前身である。
当然ながら資金には限界があり、運営が行き詰まった時に日本人スタッフと出会い、日本からの援助を受けて今の形になったのだという。
ソバン先生の素晴らしいところは、子供たちにカンボジア伝統舞踊とかの「芸能」を教え込んだところである。
実際、この孤児院の子供たちは、みんなで伝統舞踊を踊ったりして少しでも孤児院の運営費を稼いだりしている。
その流れの中に「バンド」があった!!
この子たちの演奏を聞いて私はぶったまげた。
音楽などを「仕事」にしていると、私の場合は普段、音楽を聞いて「楽しみ」にするということはない。
全て「仕事」になってしまうのだ。
楽曲を聞くと、その作り方、メロディーに対するコードの当て方とかアレンジとか、
そんなものを常に分析してしまって「疲れる」ので普段の生活では全く音楽などは聞かない。
ところが時々、そんな「仕事脳」というのをぶっ飛ばされる音楽に出会うことがあり、
この子たちの演奏がまさにそれであった。
この奇妙奇天烈なシンセフレーズ、
タイのルークトゥンを彷彿させる楽しいリズム、
元々はカンボジアの古い歌謡曲らしいのだが、
そのメロディーの作り方など、おおよそ日本人には全く発想にないこの音楽に「仕事脳」はノックアウトされてしまったのである。
ブログ記事:カンボジアRock!(◎_◎
これこそが「縁」、こうして私はくっくま孤児院のこのバンド「くっくまバンド」と出会ったのである・・・
<<希望の星になれ!!>>
この動画をSNSにアップした時に、それを見た人は多かれ少なかれ、この孤児院にこれだけの機材が揃っていることにびっくりしたようである。
これも日本からの支援なのであるが、
「他に支援が受けられない貧しい孤児院もいっぱいあるのに・・・」
という意見が出て来る前に、私はこう宣言した。
私はこの子達から演奏機材を取り上げて別の孤児院に回せばいいのではなどとは考えない!!
私が出会ったのはこの孤児院だったわけだから、まずこの孤児院に「音楽」を支援する!!
そして私はこの日、こう心に誓った。
「俺がこの子達をカンボジアで一番の大スターにする!!」
そしたらこの子達は下の子達を食わせていけるというだけではない。
この子達がカンボジアの全ての孤児達の「希望」になる!!
何の才能も環境もない孤児が、頑張ってこんなに成功したんだ!!俺だって!!私だって!!
そう思ってさえくれれば、もう泥棒や売春なんかやらなくたっていい!!
「孤児がのし上がるにはもうなにも犯罪を犯すだけが選択肢じゃないんだよ」
そんな世の中になったとすればそれこそ「大成功」ではないか!!
人を助けるには「力」が要る。
でももしこの子達がそんな大きな「力」を手に入れたとしたら、
この子たちはきっとそんな恵まれない孤児のためにその「力」を使うだろう。
絵空事を言ってるのではない。
この子達には「何か」そんな「力」があるように思えて仕方がないのだ。
考えてみれば、カンボジアの孤児達であるこの子達こそが直接的な「ポルポトの被害者」ではないか!!
だからこそ思うのだ。
この子たちの笑顔こそが「ロック」なんだ!!と・・・
老い先短いこの私が生きてる間にどれだけのことが出来るかわからんが、
たとえ私がいなくなっても、
たとえこの年長組の子達が就職したり結婚したり、バンドが出来なくなっても、
その下の子達がその「夢」を引き継いでゆけばそれでいい。
そしていつかこの国の「希望の星」になってくれればいい。
いつまでも「笑顔」で頑張って欲しい・・・
<<その後の活動>>
私は別のプロジェクトとして「ある愛の唄プロジェクト」というのをやっている。
まずはこの子たちにこのアルバムのクメール語(カンボジアの言語)バージョンを録音してもらおうと思い立った。
ブログ記事:クメール語バージョン制作開始!!
翻訳作業に入った子供たちがメッセージを送って来てくれた。
ブログ記事:支援は人のためにあらず
それから私はまた一度カンボジアに渡った。
この子たちはそれに合わせて一生懸命辞書を引きながら訳詞を考えてくれたようだ。
最初に取り掛かってもらったのが、アルバムの最後を飾る「ある愛の唄」という曲。
でもクメール語で歌ってもらった感覚としてはあまりいい感触ではなかった。
もちろん私自身はクメール語が全くわからないが、
なんとなく「乗っていない」というか、語呂が悪く聞こえたのだ。
そもそもはこの曲は長く一緒に暮らした伴侶の死に対して歌う歌である。
その内容が子供であるこの子たちにちゃんと理解出来ているかどうかにも疑問が残る・・・
そこでちょっと目先を変えて、アルバムの中の「中国のマドンナ」という曲をその場で内容を伝えてクメール語の詞として考えてもらった。
ブログ記事:クメール語版「中国のマドンナ」
ちなみにこのやり取りは日本語で行う。
この孤児院の子たちは日本の支援で大きくなったので、みんな片言の日本語を喋るのだ。
こうして2日がかりで出来上がったのがこのテイク!!
この歌声を聞いて、私は思わず涙が出て来た。
もちろんクメール語は全く理解してないのだが、何やら心の底から伝わって来るものがあるのだ。
私はこの動画にクメール語の歌詞とその意訳を載せようと思って、パソコンでクメール語の歌詞を打ってもらった。
ところがそれをGoogle翻訳にかけてみて発覚したのだ。
歌詞の内容が全然違う!!!(◎_◎;)
私はこの孤児院のお母さまである美和さんに連絡を取って、
一体どうなっているのかを調べてもらった。
全く違う文章が送られて来たのかも知れないし、
実際Google翻訳がバカだっただけなのかも知れない。
返事が来るまで私はひとり勝手な想像を巡らせた。
歌詞を書いているのはボーカルのスレイクォイ。
今回わかったことは、彼女は自分で作詞が出来る。
詞を書く時の非常に前向きな気持ちもひしひしと伝わって来る・・・
ひょっとして彼女には「書きたい詞」があって、私の説明を無視して勝手にその「書きたい詞」を書いたのではなかろうか・・・
これが私の頭をよぎった「想像」である。
こう考えると、2日目に2番の内容を説明して書き始めた時の、何やら「引いた」感じの態度に思い当たる節がある・・・
数日して美和お母さまが本人と話したと言って連絡をくれたのだが、
「日本語がそんなに完璧にわからないので、大元のとちょっと内容がずれたところがあるかも知れない」
ということであった。
でも私は自分の「想像」通りであったらいいなと逆に思う。
この子はこのメロディーを聞いて浮かんだ、「どうしても表現したい」ことがあった・・・
それはこの日本から来た「先生」の意見を無視してもどうしても書きたかった・・・
それは全然悪いことでも何でもない。
表現者としてそれほど強いものを持ってるということは非常に大切なこと。
そう考えると、クメール語もわからない私がこんなに強くこの歌に惹きつけられるのも頷ける。
この子はそうまでして「表現したいこと」があったのだ・・・
真相はどうなのかはわからない。
でもどちらかと言うと、私はそうであってくれた方が嬉しいかな(笑)
ひょっとしたらこの子はそれほど「強いもの」を持っている。
だからひょっとしたら本当にこの子はカンボジア一番の大スターになるかも知れない・・・
しばらくは勝手にそのように思い込んでおくことにした・・・
<<オリジナル曲作り>>
作詞が出来るとすると、制作方法は大きく変わってゆく。
私はもう既に日本で200曲を越える楽曲を作って発表しているので、
その中から彼女たちに好きな楽曲を選んでもらえれば「バンドのオリジナル曲」などすぐに出来てしまう。
とりあえず権利が自分だけにある自由に使用できる曲を100曲ほど置いて帰ったのだが、
この子たちがまず最初に選んだのはこの曲!!
元々中国のアイドル歌手に書いた「红舞鞋(HongWuXie)」という曲なのだが、
美和お母さまの話によると、この曲を再生した途端に「ワオー」とみんな飛び上がったらしい。
それならばということで、この曲に詞をつけてもらった。
ブログ記事:くっくまバンド新曲
これは最初のリハーサル風景・・・この後、この曲がどんどん進化してゆく・・・
2019年6月9日のリハーサル
2019年6月9日のライブ
そして2019年6月18日のライブ
<<仲違い>>
2019年6月9日にプノンペンで小さなライブを計画していたのでカンボジアに向かおうとしてた時、美和お母さまからメールが・・・
「メンバーが今仲違いして関係が険悪なんです・・・」
小さい頃から歌手になるのが夢であったスレイクォイ。
そして今ではプロの音楽家になりたいと思っているそれぞれのメンバーだが、
意識の点でも、「楽器演奏」という点でもボーカルと差が出て来てしまう。
歌を歌うという「楽器演奏」は小さな頃からやれるから経験値が高くなるが、
バンドメンバーはそれぞれの楽器演奏を小さい頃からやってる人などいないわけだからそれも当然である。
バンドあるある(笑)・・・
要はそのボーカリストがそのメンバーとずっと一緒にやりたいと思うか、
もしくはバンドメンバーを切り捨ててひとりでやっていきたいと思うかである。
美和お母さまがひとりひとりに考えを聞いて間に立つ。
でも初ライブに向けて練習しているうちにだんだんと雪解けを感じて来た。
ブログ記事:くっくまバンド初ライブ
考えてみればこの子たちは一緒にこの孤児院で育った「兄弟姉妹」のようなものである。
言わば「兄弟喧嘩」・・・
私が見るに、この子たちはむしろ「自分だけは」という考えは持ってないと思う。
一緒に育ったみんなと共に上を目指そう!!・・・そう思っていると思う。
力を合わせて頑張るのだ!!きっと君たちの夢は叶う!!
<<DTM>>
ボーカルのスレイクォイだけでなく、
今はバンドのメンバー全員が「プロになりたい」という夢を持っている。
ドラムのダビッはまあ私がドラマーなので教えることは多いとして、
ベースのスレイレアッも、まあ私が教えられることは何でも教えてゆこう。
だが困ったのはキーボードである。
「キーボード」という楽器はみんな小さい頃からピアノを習ってた人が担当する場合が多いが、
メンバーの中で一番年上のティアルは、孤児なのだから当然音楽教育など受けたことがない。
プレイヤーとしては大きくスタートラインから遅れているのである。
ブログ記事:キーボードという「楽器」
ところが昨今、ピアノも全然弾けないのにアレンジャーとして活躍しているミュージシャンは多い(私もそのうちのひとり)。
そのためにはコンピューターで音楽を打ち込む方法、DTM(デスクトップミュージック)」を習得することが必須となる。
くっくまのみんなのパソコンにはどっかから無料のDTMソフトをダウンロードしているようだ。
ティアルッはそれを私に見せて
「これどうやって使うんですか?」
と聞くが・・・
いや、ワシにもわからんし・・・(>_<)
自分だけの特殊な環境で慣れてしまうと、
他の人からのアドバイスは受けられなくなるし、
何より将来他のプラットフォームでの互換性がなくなるので、
ここはとりあえず私が使っている「Logic」というソフトを余っているMacにインストールして持って行った。
ティアルッよりソバン先生の方が興味を示している・・・(笑)
最初はMIDIでのキーボード録音のみ教えて、
何か曲が出来たら送ってもらったり、
こちらからLogicファイルを送ってそれを見て色々研究したり・・・
さらには2019年6月の渡航の時に、マイクとインターフェイスも持って行って、ボーカルをレコーディング出来るようにしておいた。
もちろんエンジニアはキーボードのティアルッをご指名である。
今後は毎月私が楽曲のオケを送って、それに詞をつけてボーカルトラックを送り返してもらう作業をする。
これは私の「業務」としてやってもらう。
何故なら最近中国で私の楽曲を購入したいという話が多いのだが、
私自身が歌っているDEMOだと「いい曲も悪く聞こえる」そうで(笑)、
彼女の声でちゃんとしたDEMOを録音してくれるとありがたい。
この「仕事」をやってもらいながら、
その中でバンドが気に入った曲があればそれを練習してもらうだけで「レパートリー」がどんどん増えてゆくという寸法である。
2020年10月には最上級生のティアルッが高校を卒業する。
それまでに何とか「音楽で食ってゆく」という足がかりが出来ていればなあと思う。
<<結婚式での演奏>>
カンボジアでは結婚式が盛大に行われる。
踊りや歌など、それこそ4時間5時間ぶっ通しで行われる。
この子たちは時々そういうところに呼ばれて伝統舞踊を踊ったりする。
そこでこの「バンドバージョン」の存在に重きが置かれて来るのだ。
日本のアマチュアバンドは本当に「出口がないなぁ」と思う。
毎回ライブハウスに決して安くない「ノルマ」を払って、
自分たちが呼んだお客さんの中だけで延々演奏し続けて、
一体「出口」はどこにあるのだろう・・・
私はカンボジアのこの結婚式の状況を聞いた時に、
カンボジアならではのバンドの「出口」があるのではと思った。
大きな結婚式では歌手や生バンドを呼ぶと言うが、
それはあくまで有名なカンボジアの曲を歌ってもらうための「コピーバンド」の仕事である。
日本でも同様に酒場などでの「箱バン」という仕事があるが、
その仕事の中には自分たちのオリジナル曲を演奏するチャンスはない。
しかしカンボジアでは4時間も5時間も演奏し続けるのだから、
中に何曲オリジナル曲を演奏しようが咎められることはない。
これを私は大きな「出口」だと感じた。
くっくまバンドは来たる乾季の結婚式シーズンに向けてカンボジアの有名曲のレパートリーを増やすために一生懸命練習している。
その中で歌えるオリジナル曲を増やしてゆきたい。
人前で演奏するということは大きな「経験」になる。
客の反応を見て演奏や歌い方、詞もひょっとしたら変えた方がよいかもとか色々試行錯誤することが出来る。
そうして「完成」されたオリジナル楽曲をCDに焼いて、
出来たらその結婚式で売ってゆけばよい。
将来カンボジア一番の大スターになって多額の金を稼ぐようになったとしても、
その始まりはいつもそんな数ドルの小さなものであるから・・・
だから私と一緒にやった2回のライブでは、
この子たちがその練習風景を録画したDVDを1ドルで売ることにした。
毎回ライブの度に何かを売ってゆこう。
今はそれが1ドルでも、将来それがもっともっと大きなお金で売れるものになってゆくはずである。
頑張れくっくまバンド!!カンボジアの希望の星になるのだ!!
<<その後>>
ボーカル録音開始!!
2019年9月14日のライブ
涙のボーカルレコーディング
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:12:14 | 固定リンク
ベトナム旅日記(クイニョン)
マグロの街トゥイホアからはバスで北上することにした。
取りあえず次の大きな街と言えばクイニョン〜
ホテルのフロントで聞いたバスターミナル!!
長距離バスで、何と寝台バス!!(◎_◎;)
大人が何人も寝転がって行ける・・・日本はどうしてこれを導入しないのか・・・
ネットで色々調べてたのだが、
何やらクイニョンの郊外にとてもいい手付かずのビーチリゾートがあるらしい・・・
夢のビーチリゾート ベトナムのクイニョンなら格安で贅沢! - Tabit Info
まあ急ぐ旅ではないのでここに行ってみることにした。
Googleマップを見ながら近くに来たら運転手さんに言って降ろしてもらう。
村の入り口にはこんな看板・・・
高知の池の浦のような小さな漁村・・・
浜辺まで降りてゆくとそこに噂のこのホテル「Life's a beach」がある。
門をくぐって中に入ってみたら驚いた!!
プライベートビーチ?!
なにこれ?!!天国かっ!!(◎_◎;)
さっそくピニャコラーダを頼んでみる・・・
ビーチはもうプライベートビーチ状態・・・
桃源郷にいます・・・ - Spherical Image - RICOH THETA
もうね、ここは桃源郷?・・・
このホテル、近所に「Life's a beach apartment」っつう「離れ」もあり、2kg南には「Life's a beach backpacker」っつうのもある。
最安値一泊6ドル!(◎_◎;)
これはもうここに泊まるしかないでしょ!!
夕方になると漁民が浜辺に出て来て磯焼きを始める・・・
磯焼き!! - Spherical Image - RICOH THETA
みりん干し(笑)があったので焼いてもらって取りあえずビール!!
これだけだと熱海と何も変わりがないので(笑)、
得体の知れないせんべいみたいのんを焼いてたので頼んでみる・・・
これがまたビールに合うのよ・・・(涙)
シーフードは今日はウニを選んでみる・・・
そのまま焼いてワサビと醤油で食えばいいものを、
何やらベトナム風の味付け・・・
美味い!!(涙)
もうね、ウニがフランス料理になるのね?(フランス料理食べたことないけど)・・・
もうこれで旅も終わり!!
何故ならもうこれ以上彷徨ってもここよりいい場所には出会えないでしょう!!
ビザが出来上がるまでここで余生を過ごすことにします〜
Posted by ファンキー末吉 at:10:27 | 固定リンク
2019年5月14日
布衣2019年春のツアーを振り返って
今回のツアータイトルは「一甲子」。
これは十干(じっかん)という「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」の10個の並びと、
十二支(じゅうにし)の「子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥」のそれぞれの最初「甲」と「子」の組み合わせは60年に一回であるということから、「Funky60歳記念ツアー!!」という意味合いがある(らしい)・・・
オフィシャルサイトからの回顧レポートによると、
《一甲子》巡演首轮36站半程回顾记,
(ツアーの最初の半分、36箇所を振り返るよ)
24载布衣,60甲子鼓魂,
(結成24周年の布衣、60歳のドラムスピリッツ)
50/70/80/90后,
(50年代生まれ、70年代生まれ、80年代生まれ、90年代生まれ)
9人布队,4万公里摇滚取经路,走着
(9人のメンバーが4万キロのロックの道を行くよ)
・・・4万キロ!(◎_◎;)・・・って地球一周??・・・
・・・って実はこれは秋のツアーと合わせての走行距離で、春の36箇所ではだいたい半周だとか・・・それでも凄いのう・・・
布衣は現在では中国のバンドの中で一番多くツアーを廻っているバンドらしい。
動員数ではまだまだこれを上回るバンドはあるが、
そんなバンドはもうこんなに細かくツアーを回らない。
大きな会場ばかりをピックアップして、必然的に本数は減ってゆく・・・
LaoWuと最初に出会った頃から、飲めば
「バンドはなぁ、ライブやで!!ツアーやで!!」
と言ってた私の影響をモロに受けていると言えよう(笑)
今では大ロックスターとなっている、友人の謝天笑が、LaoWuにこうアドバイスしてたのを聞いたことがある。
「ライブハウスもなぁ、選ばなきゃダメだよ。
アンダーグラウンドなとこに出演してたらいつまで経ってもアンダーグラウンド。
バンドが大きくなったらそれにつれて大きなところでやって箔を付けなきゃ」
いわゆる自らを「ブランド」にしていって大きくなってゆく手法だが、
LaoWuはそれを一喝してそれからもアンダーグラウンドな小屋を回り続けている。
「あんな田舎街のライブハウスなんてちゃんと演奏出来るの?」
という街に行って演奏して、
「布衣がライブやったらしいぜ」
ということで他のバンドも「じゃあやってみるか」になる。
つまりは「先駆者」である。
想像だが、小さな街のオーナーからしてみたら、
メシ奢るから、ホテル代ぐらい出してやるからというわけかも知れない。
ブッキングはまことに巧妙で、
そういう小さな街は平日にブッキング、
週末は動員力が見込める大きな街をうまくブッキングしている。
3月15日(金)広東省珠海
3月16日(土)広東省広州
3月17日(日)広東省深圳
3月18-19日:移動日、現地オフ
3月20日(水)広東省东莞
(ブログ記「布衣2019年春のツアー広東省」)
エピソード:ここでライブ前に広東メシ満腹食って終演後に吐く(>_<)
それ以降ライブ前には食わない!!
ライブ終了後にそのまま空港へ〜三亜まで飛ぶのではなく海口まで飛んで列車移動〜
3月22日(金)海南省三亚(飛行機移動)
3月23日(土)海南省海口
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー海南省」)
3月24日(日)福建省福州(飛行機移動)
3月25-26日:移動日、現地オフ(私はビザの申請のために北京にとんぼ返り)
3月27日(水)福建省厦门
(ブログ記事:「布衣2019年春のツアー福建省」)
3月28日:移動日
3月29日(金) 江西省赣州
3月30日(土)江西省南昌
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー江西省」)
3月31日(日)浙江省温州
4月1日:移動日
4月2日(火)安徽省黄山
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー浙江省と安徽省黄山」)
4月3日:移動日
4月4日(木)浙江省杭州(ブログ記事はこの中に)
4月5日(金)上海
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー上海」)
4月6日(土)江蘇省无锡
4月7日(日)江蘇省苏州
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー江蘇省」)
4月8日:移動日
4月9日(火)安徽省銅陵
4月10日(水)安徽省芜湖
4月11日:移動日(私はビザの申請のために北京にとんぼ返り)
4月12日(金)安徽省安庆
4月13日(土)安徽省合肥
4月14日(日)安徽省六安
4月15-16日:移動日、現地オフ
4月17日 安徽省淮南
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー安徽省」)
4月18日:移動日
4月19日(金)河南省开封
4月20日(土)河南省新乡
4月21日(日)河南省安阳
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー河南省」)
4月22-23日:移動日、現地オフ
4月24日(水)山东省临沂
4月25日:移動日(私はビザの申請のために北京にとんぼ返り)
4月26日(金)山东省青岛
4月27日(土)山东省济南
4月28日(日)山东省淄博
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー山東省」)
4月29-5月2日:移動日、現地オフ
5月3日(金)黑龙江省哈尔滨
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー黒竜江省ハルビン」)
5月4日(土)辽宁省沈阳
5月5日 吉林 长春
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー遼寧省「瀋陽」と吉林省「長春」」)
5月6-7日:移動日、現地オフ
5月8日(水)河北省沧州
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー河北省「沧州」」)
5月7日:移動日
5月10日(金)河南省郑州
5月11日(土)天津
5月12日(日)辽宁省大连
(ブログ記事「布衣2019年春のツアー河南省「鄭州」、天津、遼寧省「大連」」)
いや〜非常にうまく組まれている・・・
飛行機移動は海南島に渡る2本だけで、あとは全部列車移動!!
ちなみに海南島には橋とかトンネルで大陸と繋がってるわけではなく、
列車移動だとそのまま列車がフェリーに積み込まれて渡るらしい!(◎_◎;)
乗ってみたいのう・・・
(と言ったらアホかと言われた(笑)列車に缶詰で蒸し暑いらしい)
さてこのように上手いことツアーを組んでるので、9人の大所帯で廻っても何とか赤字にならずに廻れているのであろう。
中国のツアーと日本のツアーの相違点!!
中国の不利な部分、それはチケット代が圧倒的に安いこと(>_<)
日本だと5千円や6千円もザラだが、中国では200元(3千円ほど)もしたら学生にはもう手が出ないだろう・・・
布衣のチケット代は100元(1500円)前後。
この収入だけで全ての経費を賄い、
政府への楽曲の申請(なんと有料!(◎_◎;))や、Webでの宣伝費なども支払わねばならない・・・
でも中国のよいところは、交通費が圧倒的に安い!!
高速鉄道はだいたい1分乗ってる距離だと1元ぐらいの目処だと言われているが、
東京大阪が2時間だとすると中国だと120元(2000円)!(◎_◎;)
中国の高速鉄道は時速300km以上出るので厳密に正しくはないが、
1万円以上する日本の新幹線よりは格段と安いことに間違いはなかろう・・・
あとホテル代。
日本は「おひとり様おいくら」という世界でも珍しい料金設定で、
中国や諸外国のように「ひと部屋いくら」ではない。
私は「敬老精神」でひとり部屋を取ってもらってるが、
他のスタッフ、メンバーは全員ツイン部屋。
つまり9人いても部屋数は5部屋ですむ。
そしてホテル代が田舎に行けば絶対的に安い!!
ひと部屋2000円程度のもあった!(◎_◎;)
私的にはホテルが会場のすぐ近くにあるというのは非常に助かる!!
まず移動は、乗り打ちの場合、朝早く出発して昼ごろ着くように乗車券をブッキングしているようだ・・・
着いてメシ!!その後に昼寝!!(笑)
いやいや、この「シエスタ」っつうのが非常に助かるのだよ!!
その後、いつもだいたい3時頃からスタッフが会場入りするのだが、
私はドラムのチューニングがあるので一緒に入る。
4時頃メンバーがやって来て、
サウンドチェックはもう毎日やってる曲だから決まった2曲しかやらん。
5時にはホテルに戻ってまたごろごろ・・・これがいいのよ!!
中国のライブは(ってアメリカもそうで日本が早すぎる)だいたい8時半頃始まるので、
疲れている時とかはまたここで仮眠!!
長い列車移動も、iPadで映画を何本か見てればいいし、
飛行機と違って自由に立ち上がって車内をうろうろ出来る。
何より、飛行機は欠航という恐ろしい罠が待ち構えているので列車移動の方が確実である。
それもこれも中国の高速鉄道網が今ではこんなに網の目のように張り巡らされているから出来ることである。
春のツアーは南の方から東北の方まで廻ったわけだが、
秋のツアーでは今度は内陸部の西北を廻る・・・
移動距離がハンパないのよね〜地球半周以上するかも〜(笑)
今回の移動Map!!(直線距離で書いてるけど実際は色んな乗り換えで移動した)
日本の大きさと比べたらこんな感じ〜
Posted by ファンキー末吉 at:06:28 | 固定リンク
2019年4月25日
労働ビザとの戦い
アメリカがトランプ政権になってから外国人の労働ビザが取りにくくなったのと同じように、中国でもどんどんと厳しくなって来たようだ。
「ようだ」と言うのは、私は仕事の出来る簡単なビザを持っているのだが、それがどんどん厳しくなって来たそうで、そのままだとヘタしたらドラム叩いてる時に公安がステージに上がって来て、そのまま連行されて強制送還・・・なんて噂もある((((;゚Д゚)))))))
こりゃちゃんとした労働ビザ取らないかんなと思い立ったのが去年の夏。
それからずーっとその戦いを続けている・・・(>_<)
今ではこんなにややこしいのよ〜(涙)
何よ!このランク分けって(号泣)
これはねぇ、中国には今アフリカからの不法労働者が多く、
それが中国人の労働を奪ってるとか、
アメリカのメキシコ人みたいなことが起こっとるんですと・・・
だから「学歴のないヤツは要らん」と!(◎_◎;)
あのね、学歴に関係ない職業として音楽家を選んで、
ここに来て学歴で弾かれると・・・(涙)
あとね、60歳はもう定年でしょ?
何でビザ必要なん?
60歳になったら申請も受け付けんと!(◎_◎;)
もうね、だから去年から命がけでずーっと戦ってるのよ・・・(>_<)
まずは日本で色んな証明書を取り寄せる。
卒業証明書はまだいいが、警視庁行って無犯罪証明書!(◎_◎;)
よかった〜犯罪歴なくって(>_<)
まあ書類を、いっぱいいっぱい手に持って中国に渡る。
それを持って「就業許可証」というのを申請するんだけど、
これがまあ大変なこと大変なこと(>_<)
まず芸能ビザみたいな項目を見つけたのでそれで申請しようと頑張る。
「人民大会堂ぐらいの施設で自分名義のコンサートを行ったことがある」
という資格を見つけて、
「ワシ、爆風名義なら武道館どころか代々木体育館もやったことあるやん!!」
と思ったら、
「国の主催イベントじゃないの?じゃあ遊びでしよ?」
!(◎_◎;)
中国は国家に認められた第一級音楽家免許を持ってる人しか音楽家と認められんからなぁ〜
ロックなんかでそこで演奏したってそれは金出せば誰だって出来ることでしょ・・・みたいな?・・・(涙)
ワシなんかワシなんか、別に音楽大学出てるわけじゃないし、
職に関して何にも資格を持ってるわけじゃないしぃ!!(号泣)
もう学歴ないわ資格ないわ、ここに来てこんだけコンプレックスにさいなまさせられるとは夢にも思わんかったぞ(>_<)
そこでついに発見した・・・「経営者ビザ」!!
ワシは中国人が日本で起こした会社の代表取締役!!
曲がりなりにも立派な「経営者」ではないか!!
しかもその会社は中国の音楽ビジネスの会社の「関連会社」である!!
もうすぐ60歳でも経営者で申請したら通るかも知れんぞ!!
いや〜人助けやと思て会社起こすの手伝っててこんなところで役に立つとはのう・・・
というわけでそれで申請しよう!!
ところがここで問題が・・・
ここで「就業許可証」が出たとしたら、
今度はそれを日本に持って行って日本の中国大使館でZビザを発行!!
発行には数日かかるので、秋の布衣の長い長いツアーの合間にはその申請が出来ない(>_<)
じゃあ布衣のツアーが終わってから日本に帰って申請して、
それを中国に持って行って・・・
「末吉さん、それ持って中国に入国したら、1ヶ月から1ヶ月半は出国出来ませんよ」
!(◎_◎;)
では冬に日本で全くスケジュール入れずに北京に行ってひと月半滞在するか・・・
「あ、その時期は春節があるから無理ですねぇ」
(>_<)・・・あのね、ワシにどうしろと言うの(涙)
というわけで春節の辺りの日本ツアーの間に日本で申請して、
それ持って春の布衣のツアーで入国したらそのままひと月半どころか2ヶ月以上中国国内ですがな!!\(^o^)/
というわけで日本にて無事にZビザをゲット!!
ツアーは広東省から始まるので、
カンボジアかベトナムから直で広東省に入れば近いではないか〜・・・
っと思ってたら、
「Funkyさん、入国したらすぐに住居証明取らなきゃならないのに、広東省だと取れないでしょ」
!(◎_◎;)
しゃーないなぁ〜・・・というわけで広東省を飛び越えて一度北京まで飛ぶ(>_<)
北京の公安で住居証明書を発行!!
今回北京に戻って来たのはビザの申請のためなのよね〜 トランプ政権のアメリカと同じく取得がどんどん大変になる(>_<) まずは住宿登记表を取るために公安局・・・ 公安怖い・・・何もしてなくてもしょっぴかれそうで・・・中国ではシャレにならんからのう・・・ガクガクブルブル - Spherical Image - RICOH THETA
そしてそこからまた引き返して広東省からツアー開始!!
・・・ところが2週間後に就業許可証の申請のためにパスポートが必要というわけで、福建省の移動日に北京にとんぼ返り(>_<)
そしてまたすぐとんぼ返りでツアーに復帰したら、今度はまた2週間後に居留許可証の発行のためにまた北京に来いと・・・(>_<)
しかも!!
あなたは「経営者」ということでビザを申請してるんですからね!!
経営者らしい格好をして来て下さいよ!!
経営者らしい格好って・・・(>_<)
しゃーないからライブハウスのオーナーから借りた!!
これ・・・オーナーが結婚式の時に来たっきりなんですと・・・
ちなみに中の白いシャツは現地で買いました(>_<)
安徽省芜湖から始発の高速鉄道で、途中南京乗り換えの時に牛肉麺食ったら汁が飛んでこの有様(>_<)
着なれんものはこれやから・・・(>_<)
半日かけてやっと出入国管理局へ!!
ここで仲介業者に釘を刺される。
「中に入ったら中国語話さないで下さいよ!!喋れないことにしといたら私が全部自分で説明出来ますから」
ボロが出るのか?経営者のボロが出るのだな!!(涙)
でもまあ「面接」というほどちゃんとした面接ではなく、一応「本人確認」ぐらいで終了!!パスポートを預けてこれをもらう。
ここからツアーにとんぼ返りして、乗る飛行機、鉄道、ホテルのチェックインなど全てのところでこれがパスポート代わりになるのだ!!
嫌やなぁ・・・「これ何や」言うて職員に突っ返されるの(涙)
「もうこれで最後ね!!」
と仲介業者に確認するのだが、
「じゃFunkyさんはいつパスポート取りに来るんですか?」
!(◎_◎;)・・・3回北京に往復したらよかったんちゃうん?あんたがパスポートを旅先にでも送ってくれたらええやん・・・
「この紙がないとパスポート受け取れません」・・・(>_<)
それによく見ると「取証期限」というところに4月25日と書いてある・・・
その期限が切れたらこの用紙の有効期限が切れて列車や飛行機に乗れないかも・・・
((((;゚Д゚)))))))
スケジュールを見てみると、ちょうど25日は山東省临沂から同じく山東省青島までの移動日・・・
むっちゃ大回りになるけど北京行きます!!行かせて下さい!!(涙)
もうね、パスポート失くした時にあれだけ大変だったんだから、この紙切れの有効期限切れたら・・・終わる!(>_<)
というわけで今日!!
とんぼ返りで北京に帰って来てパスポートゲット!!
そこにはこんな居留証が押されてたのでした!!\(^o^)/
しかしここからまた戦いが始まる・・・
ビザは2年間あるが、それを更新する時には60歳を超えてるのでおそらく受け付けてくれないだろう、と・・・
!(◎_◎;)
ほなどうすんの?!!・・・
そうですねぇ・・・自分名義の会社でもこちらにあれば・・・
60歳になるまでに就労先を変更せねばならんので新たに会社起こすのは間に合わんぞ・・・
そうや!!日本の会社はLuanShuの会社の子会社なので、
そこの総経理であるワシを親会社の名義に入れてもらえばいいのではないか?!!
60歳まであと3ヶ月ない・・・間に合うのかワシ・・・
戦いは続く・・・そしてワシはどんどんホンモノの「経営者」になってゆく・・・
Posted by ファンキー末吉 at:20:36 | 固定リンク
2019年3月 9日
痒い話@カンボジア
1月4日からずーっと働きっぱなしだったので、
3月4日のX.Y.Z.→Aライブが終わってすぐにカンボジアに飛んだ。
「すぐに」と言っても激安チケットなので香港で14時間トランジット(>_<)
しゃーないなぁ〜・・・ベンチで寝ますか・・・
香港で14時間のトランジット(笑) しゃーないなぁ〜・・・ベンチで寝ますか・・・ - Spherical Image - RICOH THETA
と思ったら寒い!!(>_<)
香港人はどうしてこんな冷蔵庫のようなところで暮らすのだ!!
とばかり睡眠不足でカンボジア入りしたのがよくなかったのだろう・・・
着いてメシ食ってバタンQ(死語)したら痒くて夜中に目が覚めた。
見れば手足に湿疹のような赤い斑点がたくさん出て来ている・・・
真っ先に思いついたのが「寒暖差アレルギー」!!
前回カンボジアから浙江省に飛んだ時に出た「アレルギー」である。
しかしよく見ると、アレルギーの蕁麻疹に比べたらちょっと「ぶつぶつ」している気がする・・・
次の日になると右腕はパンパンに晴れ上がり、次に思い浮かんだのが「疥癬」!!
これは恐ろしい「虫」である。
なにせ皮膚に寄生して皮膚の中に卵を産み、身体中に繁殖してゆく・・・((((;゚Д゚)))))))
しかし疥癬の場合、皮膚の中に卵を産み付けて皮膚の中を移動して、また次のところに卵を産むために、その通り道に「疥癬トンネル」というものが出来るのだが、今回はそれがあるようなないような・・・
とりあえず病院に行こうというわけで、
聞けばカード付帯の保険により海外では無料だと言うではないか!!
アメックスに電話をして紹介してもらうのだが、
皮膚科の専門医のスケジュールは翌々日の午前中しか空いてないと言う(>_<)
一応そこも予約もして、翌日くっくま孤児院の25人のお母さま美和さんにプノンペンの日本語医院を紹介してもらう・・・
痒みを抑える薬と塗り薬を処方してもらって塗ったらちょっとはよくなった。
しかし、これがもし「疥癬」だったとしたら、疥癬専門の薬じゃないと死滅しないどころか、
前回などは「殺されちゃたまらん」とばかり大繁殖して、右手がそれこそゴーヤのようにぱんぱんに腫れ上がった(>_<)
翌日ドキドキもんで皮膚科の専門医に診てもらったら、
「一応疥癬の可能性もあるので」
ということで疥癬用の薬も出してくれた。
そうそう、「スミスリン」ね・・・
前回は薬屋に自分で買いに行って部屋中にこれ撒いて消毒してたし・・・
疥癬の薬と、その他ダニや南京虫の薬は併用してもいいということで、
結局こんないっぱいの薬が・・・(笑)
はい、今は徐々によくなりつつありますが・・・痒いです。
激安ホテルはこれがあるから怖いです(涙)
香港の重慶大厦(チョンキンマンション)泊まった時にもダニにやられたし・・・(>_<)
一応ホテルにクレーム言って部屋は替えてもらいました!!
・・・ということは次にそのベッドで寝た人は同じ目に合うのか?・・・
いやいや、やっぱ「体力」だと思うのです。
1月4日から働き詰めで、飲み続けて免疫力下がって、
香港でも寝てなくてベッドにバタンQ・・・
疥癬虫さん南京虫さん大喜び!!・・・(>_<)
かと言って高級ホテルに泊まる金はなし(涙)
こりゃカンボジアにひとつ部屋を借りるしかありませんな・・・
痒い話でした!!
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:08:22 | 固定リンク
2018年12月 4日
BEYONDの思い出の曲
黄家駒が生きてた頃は、ただ毎日一緒に飲んで遊んで、死んでから初めてBEYONDがこんなに偉大なバンドだと知った。
最初に愕然としたのがこの曲!!
AMANI
アイドルとして(?)人気絶頂の時にアフリカに行って戦争で焼け出された子供たちを慰問し、この反戦歌をヒットチャートに放り込んだんだから凄い!!
黄家駒の葬式の時だったか、
香港のどっかの広場でWINGと待ち合わせしてて、
なかなか来ないからひとりで開店寿司屋に入ってビール飲んでたのよね。
そしたらこの曲がテレビで流れて来てしかも字幕付き・・・
戦争の影でいつも傷つくのは
何の力もない子供たち
僕は歌うよ!!
以下AMANIのからの一節はスワヒリ語で「愛、平和、僕たちに力を」
もうね、ちょっと前に死んだ人間が
「僕は歌うよ!!歌い続ける!!」
と歌ってんだから、ひとりで号泣!!
ビールが日本酒に変わり、泥酔して葬儀に行った・・・(笑)
ところでこの曲の日本語バージョンがYouTubeにアップされてた!(◎_◎;)
あのね、これ私が作った日本語詞、夜総会バンドの音源なんですけど・・・(笑)
次にこれ!!光輝歲月!!
神に召された黒人の追悼曲で、
「彼の人生の意義は皮膚の色による差別との戦いだった」
とか
「虹が美しいのはそれぞれの色が分かれてないからだ」
とか、もう涙・・・(号泣)
もうこの辺は大スタンダードで、中華圏の酒場だけでなく、
タイのパタヤビーチやチャン島の箱バンまで演奏してた定番曲ですな!!(凄っ)
そして最近お気に入りなのはこれ!!
「理想よさようなら」と来て、最後には
「共にRock'n Rollと高らかに叫ぼう!!」
ですからもう涙が止まりません!!(号泣)
Rock'n Rollと言えば、人差し指と小指を立てたロックピースサインを初めて見たのは黄家駒の葬儀の時だった。
葬儀場から棺が運ばれる時に、道という道を埋め尽くしたBEYONDファンがみんな、このロックサインを掲げて泣きながら「BEYOND!!BEYOND!!」と全員で連呼していた・・・(涙)
そう、BEYONDは偉大な「ロックバンド」だった。
黄家駒は死んで「ロックの神様」になった。
その精神を残された私たちが継承してゆく・・・(まだ道半ば)
黄家駒の遺作となったこの曲
なんかを叩く時はいつも泣きながら叩いている。
「ドラムを教えてくれ」という中国人にはいつもこの曲を例に取ってこう言う。
この曲のな、間奏に入る前には今まで押さえつけてたものを全部解き放つかのようなオカズを入れるんだけど、間奏に入った瞬間にはちょっとだけ力を抜いてやるんだよ。
それが「悲しさ」を表現する・・・
「世の中にはどうしようもないことがあるんだ」
そんな気持ちをドラムで表現しながら天と会話するのだ。
この曲なんかも思い出深い・・・
これはBEYONDというよりWINGとの思い出・・・
思えば彼が一番どん底の時・・・
ドラムをやめて歌を歌い始めた彼が、
広東省の酒場でギターを弾きながらこの曲を歌ってた。
「何でバンドじゃないんだ!!バンドだったらどんなど田舎にも俺がドラムで一緒について行ってやるのに・・・」
などと思ってたら、十数年後にはWINGバンドで一緒にワールドツアーを廻っている(笑)
そして今度はPaulも一緒!!
あと2回リハーサルしたらマカオでコンサート!!
その後は広東省と四川省、タイとマレーシアとシンガポールが決まってます!!
今回3回も香港に往復してリハをやるスケジュールも含めて全部すっぽり合間に入ったけどさすがに広東省はスケジュールがぶつかった(>_<)
あとアメリカとカナダも行くんやと・・・スケジュール合いますように!!
Posted by ファンキー末吉 at:12:48 | 固定リンク
2018年10月26日
クメール語バージョン制作開始!!
このプロジェクトのクメール語(カンボジアの言語)バージョンの制作が始まった!!
日本語の楽曲を外国語に訳して歌う、というのにも色んな考え方があるようだ。
日中間で色々仕事をさせて頂いたことがあるが、
まずヤン坊マー坊の中国語版を作った時は、
「原詞から少しも意味を変えることなく」
というのがクライアントからの発注であった。
私たちの世代なら誰でも耳にタコが出来るぐらい聞いた、
天気予報で流れるあの「僕の名前はヤン坊〜」というアレである。
実はこの歌詞にはあまり知られていない3番があり、
その中に「双子」という言葉が使われていた。
ヤン坊とマー坊は双子の兄弟〜みたいな感じだったと思うが、
ところが「双子」というのは中国語で「双胞胎(ShuangBaoTai)」、
つまり「胎盤が二つ」と書くのでどうも歌詞にするにはよろしくない。
何とか「仲良し兄弟」とかに出来ませんかねぇ・・・
北京から日本のクライアントに国際電話までして、そう相談した記憶がある。
サンプラザ中野が北京オリンピックに合わせて
「Runnerと玉ネギを中国語で歌いたい」
という話もあって、LaoWuに歌詞を発注したのだが、
「どんな細かいところも変えてくれるな」
と言うので「無理!!(>_<)」となって、結局中国語の喋れる日本人に丸投げした・・・
だって中国にはロッカールームなんてないし~
ペンフレンドもようわからんし〜
コンサート会場の上に野菜が乗ってるって中国ではどうなの?(笑)
うって変わって二井原実。
X.Y.Z.→Aの英語版を出す時に彼は、訳詞の人に
「ええよ別に〜作りやすいように所々変えてくれても〜」
と言っていたのを覚えている。
私の場合は考え方が二井原に近い。
いつもやってるやり方としてはこうである。
まず日本語の詞をそのままその言語に直訳する。
私の場合、その時に色んな注釈をいっぱい書き加える。
例えばこのアルバムの歌詞で言うと、
M1の
「この人が私の父となる人 その愛ゆえに今 生まれてゆく」
はM10の
「ママがパパを愛してあなたが生まれたの これだけは覚えててね...」
とリンクしてますよ
とか
M4の
「河の見える小さな部屋で」
は後に結婚して住むM8の
「黄河のほとりの丘の上に 私たちの家がある」
とリンクしてるんですよ
とか、興醒めのようなことでもどんどん書き込んでおくのだ。
(このアルバムのDEMOフルバージョン)
歌詞は、奥に別の意味があったとしてもそれを限定させるように表現するのではなく、聞き手に想像させるように作ってゆく。
でも訳詞者にその裏の意味を託すのでは楽曲がまた違った意味になってしまう可能性もあるので、
無粋ではあるけれども敢えて細かく書き加えて、その直訳から「詞」にする時に、その人のセンスで、その人なりにぼやかせて貰えば良い。
いや私なんぞはむしろ、
「根本的な流れが合っていれば、細かいところなんかどんどん変えていってくれて良い」
ぐらいに思っている。
「中国のマドンナ」とか別にどこの国にしてもらってもいいし、別にシチュエーションは黄河のほとりじゃなくてもいい。
河でもいいし山でもいいし、要はM4とM10が同じシチュエーションであればそれでいい。
M3「ゴメンね」にしても、まだ初恋を知らない頃の青春の甘酸っぱさが表現出来れば、内容やシチュエーションが全く違ってもいいし、M11「娘の初恋」も、要は次の曲「娘の嫁ぐ日」が感動的になる「娘のエピソード」であればそれでいい。
要は「訳詞」というよりは、その言語で「作詞」して欲しいのだ。
この「クメール語(カンボジアで使われている言語)版」は、くっくま孤児院の子供達自身で詞を作ってくれとお願いした。
ところがこの詞の直訳用原稿を書いている時のこと、突然こんな考えが頭をよぎって筆が止まってしまった・・・
このコンセプトアルバムの物語は、主人公が雲の上で自分で両親を選んで生まれて来て、
母の愛から次には自分の娘への愛となり、
父の愛から恋人に対する独占欲や嫉妬心となり、
最後には愛する人と巡り合って幸せに暮らし、その伴侶を看取るまでの物語である。
でもこの子たちは孤児なのだから、ヘタしたら両親の愛どころか両親の顔さえ知らずに育っている?
母親から、父親から愛情を注がれたことなど全くない子供たちだっているんではないのか?・・・
そんな子供達にこんな物語を作詞させるのて・・・あまりに残酷なのではないか?・・・
そんなこと考えてしまったらもう全く筆が進まない・・・
数日間ずっと悩んでいたのだが、ある日やっとこんな考えに至った。
私は(当たり前だが)孤児になったことはないので、この子たちの本当の気持ちはわからない。
両親は仲悪くて離婚したけど、この子たちに比べたら幸せに育てられた自分が・・・
などと、私は「この立場」でこの子たちを見ていたのではないか?
高いところから低いところを見てるようなその考えこそが一番良くないことなのではないか?
そんな風に考えてることこそ、ずっとこの子たちとの間に「壁」を作っていることではないのか?
私がそんな真綿で包んであげるようなことをしたところで、この世の中はこれからも、容赦なくこの子たちに「現実」を浴びせかけてゆく・・・
異国の地でこの子たちを、母親代りとなって育てている楠美和さんの顔が浮かんで来た。
彼女は決してそんな風に、真綿で包むようにこの子たちと接してはいないだろう。
ある時はぶつかり合い、ある時は突き放し、いつも「同じ目線」でこの子たちと接しているに違いない。
20数人の子育てって・・・どんなん?・・・(涙・・・笑)
そもそもが「歌」などは全て実体験を歌っているものではないのだ。
「歌手」とは「役者」に似ているものだと思う。
自分の体験してないことを、自分が体験した経験からシミュレーションしてそれを「表現」する。
つまりはその世界観を「演じる」わけだ。
だからこの子たちなりに考えて、この子たちなりに「想像」して、この子たちなりに「表現」して欲しい。
年長組は、もう数年でこの孤児院を卒業して独り立ちする。
この国でこの社会に出た君たちは、また容赦なくいろんな「現実」を浴びせかけられ、強く逞しくそれと戦って生きてゆくことだろう。
そしていつの日か、あの時に「想像」した通り、理想の伴侶を見つけ、幸せな家庭を築き、子供を作り、命がけで子を愛し、育て、いつかこの歌のように伴侶を看取り、または看取られながら神のみもとへ召されてゆく・・・
そうなって欲しい。
まあその頃には私は絶対に生きてはおらんがの(笑)
雲の上からそれを楽しみに見ておくぞ・・・
この「クメール語版」は、この子たちを「希望の星」にするためのほんの序章。(関連記事)
まず「作品」を残して、それを自分たちの「商品」にする。
自分たちが売る「商品」を自分でたち自身で頑張って作るのだ。
一番好きな曲の順にそれをライブで歌って、その「商品」をお金にしてゆけばいい。
今回作ったクメール語版のCDをライブで売って、それで下の子たちを養っていけるようになれば言うことない。
上の子が巣立っていったら、下の子がまたこれを歌い継いでゆけばよい。
そんなこんなしてるうちに、次はバンドのオリジナルアルバムを作るぞ!!
このバンド
そしていつか君たちはカンボジアで一番の大スターとなって、この国の恵まれない子供たちの「希望の星」となるのだ!!
その時に、このアルバムの最後の一行、
「世界中の全ての人々が、本当に幸せに召されてゆくことができますように...」
とクメール語で歌って欲しい。
私が生きてるうちにその姿が見れるかな(笑)
このクラウドファンディングは、
「まあ100万円もあればアルバム一枚ぐらい作れるだろう」
ということで始めてますが、
このアルバムの先には、このようなもっともっと壮大な「夢」がいっぱい控えてます。
共感して下さる方は、是非ご支援のほどよろしくお願い致します。
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:06:53 | 固定リンク
2018年10月24日
「権利商売」はその先にある!!
「日本の音楽が危ない」第2弾としてこんなプロジェクトを立ち上げた。
「新しいビジネスモデル」と言われたってピンと来ない人が多いだろう。
まずは笑い話としてこのブログ記事を読んで頂きたい。
「笑い話」と言ったのは、中国ももうこのような時代ではないからである。
ナン億元も持ち逃げしたこの人は、
身分証がなければ飛行機にも列車にも乗れず、全国どこのホテルにも泊まれないこの国で、今はどのように暮らしてるのだろうと想いを馳せるばかりである。
さてこの笑い話を受けての反応は下記に大きく分かれると思う。
1、これだから・・・1円でもお金をもらえなきゃ着メロなんかに使わせないぞ
2、羨ましい・・・タダでいいから自分の曲も使ってもらいたい
おそらく日本人は「1」の人が多く、逆に中国人は圧倒的に「2」だろうと思う。
なにせ、このおかげで布衣は今や、
全中国をツアーで廻れる動員数を誇れるバンドのひとつにのし上がったであるから・・・
今ではこの曲は色んな映画に使われたりして、使用料が布衣を通して私のところに振り込まれたりする・・・
「権利商売」は実はこの笑い話のもっとその先にあったのである。
さて今度は日本のお話・・・
私はドラマーであるが作曲家でもある。
中国では基本、楽曲は「買取」で、書いたその場で「報酬」として現金がもらえる。
日本では「印税」というシステムで、書いた時点では一銭ももらえず、
後に売れた分だけの「印税」がもらえる・・・ことになっている。
しかし書いた楽曲が大ヒットすることって果たして何万曲に1曲の確率なの?・・・
私は運よく「Runnner」というヒット曲に恵まれたが、
この記事のように、今は出版社の意向で、JASRACからCM部分の管理を外されている。
例えば1000万円のCM使用のオファーが来たとして、
JASRACはそれを右から左へ出版社に振るだけで250万円の手数料を得る。
「濡れ手に粟」である。
「いちいち許諾先に連絡するのは面倒でしょ?うちが一括管理をしましょう」
などという考え方は、このITが進んで世の中でもはや化石なのでは?・・・
今の世の中、CMに使おうというような有名曲の許諾先を探すなんていとも簡単な作業である。
JASRACに250万払うぐらいだったら出版社自ら直接やって、そのぶん権利者みんなで分けましょ!!
これが出版社の意図だと思う。
そして実際にそうなった今、私の場合はRunnerのCM使用料だけが出版社から直接振り込まれることとなる。
今色んな楽曲をJASRACから引き上げているところだが、
私はだいたい200曲近い楽曲をJASRACに預けていた。
Runner以外の曲は今まで通りJASRACから振り込まれるのだが、
前回JASRACから振り込まれた印税額はなんと25円!(◎_◎;)
「リゾ・ラバ」などのヒット曲も含む200曲近い印税の合計額が、たったの25円!!(大笑)
これこそがこの国の「権利ビジネス」の成れの果て!!
我々日本の音楽家たちはこんなものにしがみ付いて生きているのですぞ!!
(注釈:こんなことを書くと、「JASRACが操作して末吉の印税をわざと少なくしている」と言う人が多いだろうが、それをやることは大きな「犯罪」なのでここではそんなことはないという前提で話を進めます)
さてこのプロジェクト、
100万円もあればアルバム1枚ぐらいは作れるだろうということで目標額をこのぐらいに設定しているのだが、決して「これで儲けよう」ということではない。
「ビジネスモデル」は他にあるのである。
例えば中国。
日本語版が完成したらそれを持って、私はとある私の大切な友人である女性歌手を訪ねてゆく。
彼女にこのアルバムの中国語版を歌ってもらうのである。
決して「売り込みに行く」わけではない。
「これ、あげるから歌ってよ」
というわけである。
「楽曲さえ気に入ってもらえば」という大前提だが、
タダでオケのデータ全部もらえると言うのだから断るわけはない。
そして彼女が歌えばこのアルバムは必ずヒットする。
そしたらそれこそ「桶屋が儲かる」・・・
なにせ
「美人とは金が稼げることなんだぞ(関連ネタ)」
という国である、「有名になる」ということはそれだけで「お金になる」ということなのである。
分かりやすく言うと、
このアルバムが中国でヒットすれば私の作家としての価値はまた上がり、
日本で言う「買取額」に当たる「報酬」がまた上がるのだ。
ちなみに中国ではもう今は「使用権」の買取であり、
楽曲の「権利」はそのまま作家に残る。
(通常そのような契約を結ぶという意味)
他の歌手がカバーしたい場合、また映画音楽やCMなどで使いたい場合は、
権利を持っている私自身にお金を払わねばならない・・・
そう、まさしく「権利ビジネス」はその先にあるのである!!
もちろんJASRACのような団体は必要ない。
そんなものなんかなくても、今の世の中、歌手に聞いたり発売元に聞いたりして、私の連絡先を調べるなんて簡単なことなのである。
さて日本・・・
前述の通り「作曲」という仕事で「報酬」は支払ってくれない。
必ずJASRACなどの団体に権利を譲渡してガチガチにされて初めて発売。
最終的にいくら入るかは出してみないとわからない。
そして自分の曲を自分で使おうとしてもJASRACなどに必ず許諾が必要である。
私は前回のツアーで「お持ち帰りCD」と銘打ってその日のライブの音源をその場で売ろうと画策した。
JASRACは裁判の中でも
「この楽曲はお前の楽曲ではない。JASRACに委託しているのだからJASRACの楽曲である」
という理論を声高に叫んだので、自分の楽曲であろうがJASRACに許諾申請をする。
ところがこの手続きがあまりに煩雑過ぎて、3枚売ったところでもう諦めた(>_<)
あとで徴収が来たので19円支払ったが、
自分の曲を自分で使って金を払うというのはまだいい。
(煩雑過ぎて)「自由に使えない」ことが一番の問題なのである。
また私は、毎年「サマードラムスクール」を開催しているが、
JASRACが音楽教室相手に徴収を始めて訴訟にまで発展しているので、
このドラム教室では自分の楽曲でもJASRAC管理楽曲は教材に使うわけにはいかない。
このため、もう色々な楽曲をJASRACから引き上げる作業をしているのだが、
ここに「JASRAC信託会員」というご無体な契約がある。
私はもう契約解除したが、
共作者がこの会員契約を結んでたらもうにっちもさっちもいかない(>_<)
当時はJASRACしか団体がなかったので気にしなかったのだが、
これは実はとんでもない契約なのである。
なにせこの契約、
「あなたが作った曲は、それを作った瞬間から未来永劫JASRACのものですよ」
というもの・・・
私も含め、多くの音楽家は当時、
「その方が得ですよ」
と言われてあまり考えずにこの契約を結んでいるので、
人によってはもう忘れてしまっている人も多い。
この契約があるとどうなるか・・・
まずこのプロジェクトのように
「自由に歌って、使って欲しい」
ということなど夢物語である。
なにせ、
「お前の作った曲は作ったその瞬間からお前のものではない。JASRACのもの」
なのだ。
「自由に使って欲しいなどという権利はお前にはない!!」
ということである。
このプロジェクトはクメール語(カンボジアの言語)に訳して、くっくま孤児院の子供たちに歌ってもらうことになっている。
(関連記事はこちら)
この子たちのオリジナルアルバムの前に、このこのプロジェクトのクメール語バージョンを歌ってもらって、
その後この子たちがライブの時に販売出来る「商品」にして欲しいと考えているからだ。
カンボジアは外国だからJASRACは手が出せないが、
もし私がまだJASRAC会員で、この孤児院が日本の孤児院だったとしたら・・・
JASRACは地獄の底までこの著作権料を徴収しに来るだろう・・・
「孤児であるこの子達の為に・・・」というこのプロジェクトはその時点で頓挫しただろう・・・
さて「もしも」の話ばかり言ってても始まらない。
日本の多くの音楽家、特に自分の楽曲を自分で演奏、歌唱している音楽家のことを考えてもらいたい。
「大手レコード会社と契約=プロ」という図式が崩れ去って久しいこの国の音楽界で、
そういう人たちが自分の楽曲をJASRACに預け、
そして自分でレコードを作って、自分で演奏、歌唱して、自分でお金を払う。
そう、まるで「みかじめ」のように・・・
印税には「一次使用料」と「二次使用料」というのがあるが、
大手レコード会社に所属して鳴り物入りでデビューでもしない限り、
多くのシンガーソングライター達がJASRACと契約すると、
レコードを出したりの「一次使用料」は自分で支払うという現状が多いだろう・・・
そして実際に収入が大きいのが「二次使用料」である。
ヒットすればカラオケで多く歌われたり、ラジオやテレビで放送されたり・・・
そして一番大きな収入が「CM」!!
そして私個人の現状ではCM以外は25円!!(笑)
音楽家の皆さん、こんな現実を見るに、最初っからJASRACに楽曲を預ける必要ある?・・・
もっと売れて来て、ラジオなどでガンガン放送され出してから契約したっていいのではないの?・・・
さて最初の質問、この笑い話を受けての反応・・・
1、これだから・・・1円でもお金をもらえなきゃ着メロなんかに使わせないぞ
2、羨ましい・・・タダでいいから自分の曲も使ってもらいたい
「1」の人・・・
「俺の曲使いたかったら金よこせ!!」
これって今の時代、よっぽど偉い人しか言えないよね・・・
私を含め、大抵の人は「タダでもいいからどんどん使って宣伝して欲しい」と思うんじゃないかなぁ・・・
例えて言うと、
バンドも歌手も契約以前から事務所やレコード会社に対して高い条件を突きつけて、
それで「もういいや」と言われて結局デビュー出来ない、
みたいな例に似ているのではないかと思う。
「デビューした瞬間からすぐに大金を稼げると思うな!!」
である。
「大金はお前が売れた後にいくらでもついて来る!!」
楽曲も同じ、「権利商売」はその先にある!!のである。
Posted by ファンキー末吉 at:10:46 | 固定リンク
2018年8月30日
希望の星になれ!!
「縁」というのはそもそもがこのようなものなのかも知れない・・・
この商売、「休みを取る」という感覚がない。
スケジュールがぽっかり空く時、それが「休み」である。
最近は北京でいる時よりも中国のどっかの地方都市でいる時の方が多いので、
その最後のスケジュールが終わってその後にスケジュールが入ってなかったりしたら、
「ムズムズ・・・どっか南の国に行こうかな・・・」
などと考え始める・・・
いや別に日本に帰ったっていいのだが、
往々にして日本への航空チケットは高い(>_<)
というわけでいつもその時々で一番チケットが安いアジア諸国を探すのだが、
それが今回はたまたまカンボジア!!
何と上海から往復で3万円ぐらいで来れたのだ\(^o^)/
プノンペンに着いて真っ先に前回ドラムを叩いたバーに行ってみたのだが、
なんと白人がカントリーを歌う店になっててがっかり(>_<)
他に生演奏をしてるバーはないかと探したが、
この日は月曜日なのでライブは休み(>_<)
しゃーないなぁ・・・と、ふと考える・・・私は一体何をしたいのだろう・・・
前回はドラムを叩いて楽しかった。(映像)
まあ「休み」なのに「仕事」であるドラムを叩くのも変な話だが、
「趣味」でもあるのだからそれは仕方がない・・・
まあドラムが無理なら、カンボジアにデスメタルのバンドがあるみたいなのでそれを探してもみたかった。
ポルポトの大虐殺の子孫がどんなデスメタルをやっているか興味があったのだが・・・
まあそんなこんなで初日は何の収穫もなく、ホテルのプールサイドでぼーっとしてたのだが、
何やらタイムラインに色んな人から書き込みが・・・
「プノンペンで日本人が運営している「くっくま孤児院」のお子さん達が「くっくまバンド」というのを組んで一生懸命練習しています(^^)機会がありましたらぜひ」
まあええよ、ヒマやし(笑)・・・そしてこれこそが「縁」だったのである。
何の期待もなく、ただヒマであるからということで向かったこの孤児院、
まあ一応ドラムセットはあるだろうということで、「ひとりドラム」が叩けるような準備だけはして行った。
まあどこでどんな状況で叩こうがやることは一緒なのでそれはまあいい。
問題はその後に彼ら達の演奏を聞かせてもらってびっくりした。
!(◎_◎;)・・・いい!!この音楽、むっちゃいい!!
聞けば彼らは当然ながら孤児なので音楽教育を受けたこともなく、
耳コピで見よう見まねで弾いているだけだそうなのだが、
この演奏が私の心を鷲掴みにした。
思えば1990年に初めて北京に行った時、地下クラブで偶然見た黒豹のライブ、
当時の稚拙な彼らの演奏から口ではうまく説明出来ない「何か」を感じて、
そしてその後の自分の人生が全く変わってしまって今も私は中国でいる。
同じような「何か」をこの演奏から感じ取った。
黒豹はその後中国ロック界の重鎮となったわけだが、
この子達にも「何か」を感じる・・・
実はこの子達とはまた別の小さな縁があった。
秋に日本語の歌を歌うイベントがあるらしく、
この子達が今練習している曲が偶然にも「Runner」。
この子達が歌ってくれる「Runner」を聞きながら不思議に思う、
「こんなこともあるんだなぁ・・・」
たまたま慰問に来た人間が、たまたまその時に練習してる曲の作曲者だっただなんて・・・
園長さんはこの曲を作ったのが私だということは知らなかったので、
「実はこれ・・・私が作曲したんです・・・」
と言ったら、子供達が私にこう言った。
「すごーい!!(◎_◎;)作曲ってどうやってやるんですか?!!」
その時に私は心に決めたのだ。
「俺が何でも教えてやる!!」
北朝鮮で「ロック」を教えて来た人間である。
カンボジアでこの子たちに何を教えるなんて私にとってはしごく簡単なことである。
Facebookの私の投稿を見て、ある人がこう書き込んだ。
「いよいよカンボジア編スタートですね*\(^o^)/*」
「北朝鮮プロジェクトに続いて」という意味なのだろう。
私はこう返信した。
「北朝鮮に比べたらはるかに障害は少ないですよ(笑)」
映像に立派な演奏機材が映ってるのを見て、後々
「なんだ、この子達は恵まれてるじゃないか。他にもっと大変な孤児院はいっぱいあるのに」
などと言う人が現れるかも知れないので先に言っておこう。
私はこの子達から演奏機材を取り上げて別の孤児院に回せばいいのではなどとは考えない!!(キッパリ)
そもそもが、この子達に小さい頃から伝統舞踊を教えたこの孤児院の創設者が素晴らしいのだ。
「貧しい人に食べ物を与えるのが援助じゃない。釣竿を与えて釣り方を教えて、その人達が自分の力で食って行けるようにすることが大切なんだ」
と言った人がいたが、その通り、この子達は実際に伝統舞踊を踊ったりして収入を得ている。
まだまだ日本などからの支援の額には及ばないが、
それでも「自分で食ってゆく」何らかの「技術」があることは素晴らしい!!
他にも困っている孤児院はいっぱいあることも事実だろう。
でも私は「たまたま」この子達と知り合った。
だからこの子達を先に援助する!!
そして私はこの日、こう心に誓った。
「俺がこの子達をカンボジアで一番の大スターにする!!」
そしたらこの子達は下の子達を食わせていけるというだけではない。
この子達がカンボジアの全ての孤児達の「希望」になる!!
何の才能も環境もない孤児が、頑張ってこんなに成功したんだ!!俺だって!!私だって!!
そう思ってさえくれれば、もう泥棒や売春なんかやらなくたっていい!!
「孤児がのし上がるにはもうなにも犯罪を犯すだけが選択肢じゃないんだよ」
そんな世の中になったとすればそれこそ「大成功」ではないか!!
人を助けるには「力」が要る。
でももしこの子達がそんな大きな「力」を手に入れたとしたら、
この子たちはきっとそんな恵まれない孤児のためにその「力」を使うだろう。
絵空事を言ってるのではない。
この子達には「何か」そんな「力」があるように思えて仕方がないのだ。
北朝鮮ロックプロジェクトが始まって最初に平壌に行った時、6月4日高等中学校軽音楽部の女の子達と初めて会って私はこう思った。
彼女たちの笑顔こそが「ロック」なんだ・・・
考えてみれば、カンボジアの孤児達であるこの子達こそが直接的な「ポルポトの被害者」ではないか!!
だからこそ思うのだ。
この子たちの笑顔こそが「ロック」なんだ!!と・・・
老い先短いこの私が生きてる間にどれだけのことが出来るかわからんが、
たとえ私がいなくなっても、
たとえこの年長組の子達が就職したり結婚したり、バンドが出来なくなっても、
その下の子達がその「夢」を引き継いでゆけばそれでいい。
そしていつかこの国の「希望の星」になってくれればいい。
いつまでも「笑顔」で頑張って欲しい・・・
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:09:33 | 固定リンク
2018年8月27日
中国ロックの叩き方
さて前回の黄绮珊(Huang QiShan)の次には、共に私がバックを務めた贝贝(BeiBei)という歌手の話・・・
一度彼女の新曲のプレスコンフェレンスに呼ばれてドラムを叩いたことがある・・・
曲のタイトルが「Young Rock Star」!(◎_◎;)
まあRockな喉を持って鳴り物入りでデビューした若いスターなのだからいいけど(笑)
デビューしたての新人歌手はオリジナルのレパートリーがそんなにないので、
新曲発表のプレスコンフェレンスとかならいいけど、30分とか演奏時間ではオリジナル曲が足りない。
必然的にカバー曲を歌うことになるが、その3曲が全て私が叩いてレコーディングした曲だった。
ますこの曲!!
名実共に一番成功したロック歌手のひとりである汪峰(Wang Feng)の曲。
(ちなみに嫁さんは大女優の章子怡(Zhang ZiYi))
毎回アルバムの時にレコーディングに呼ばれて半分以上の曲を叩くのだが、
この曲はこの時に叩いたのかこの時に叩いたのか、はたまた嫁さん連れて来たこの時に叩いたのか・・・
6/8のリズムでこれだけゴーストノート入れてたら中国の若いドラマーじゃぁなかなかコピー出来まい(笑)
案の定、贝贝(BeiBei)のライブ音源を聞いてみると、若いバンドのメンバーはかなり簡略化して叩いているようだ・・・
まあちょっとニュアンスが違って来るけれどもそれはそれでよかろう!!
大事なのは「スタジアムで叩いてる」感覚で叩いているかということだ。
これが若いドラマーには全く出来とらんぞ・・・
「武道館のステージに立ったことがあるバンドは違うね。
ライブハウスで演ったってオーラが武道館だもん」
と言われたことがあるが、
ステージとは「オーラを伝える」ところであるから、
「武道館ぐらいだったら一番後ろの席にも生音で届かせてやらぁ」
という「気迫」が必要である。
特にこの汪峰(Wang Feng)という歌手はいつもスタジアムで演っている人なんだから、
曲を聞いて、求められてるのはこんな感じだろうというのはすぐに伝わって来る。
特に3:18ぐらいからの間奏・・・
1:32からのドラム導入部分にも間奏があって、
これも初顔見世なので思いっきりテンションを上げて叩かねばならなかったが、
その後はAメロに入るので緩やかに落としてゆくけど、
この間奏はもうありったけのアドレナリンをぶち込んでテンションMAXで叩かねばならん。
私が電気ドラムを叩けないのは、
ただの「スイッチ」でしかないドラムパッドは、こんな時に押されるべき「根性ボタン」がないのね・・・
サビまで行って「フォルテ」まで持っていってたら、
その後のこの間奏は「フォルテ+根性」(笑)
もうアドレナリン出まくりで目つきヘロヘロ、ヨダレ垂れまくりで叩いてなくてはならない。
若い衆よ、お前はカッコばかりつけてるが、本当にヨダレ垂らしながら目がイって叩いたことがあるか?(笑)
そしてその後にはまたサビが来るので、そこで気が緩んではならない。
例えて言うと、生死を分けた戦いが終わって、
その瞬間に身体はまだそのまま戦ってるんだけど、
精神は両手を上げてガッツポーズをしてる感じ?・・・
ここでX.Y.Z.→Aだったら二井原が「イエィ!!」だとか「カモン!!」だとかシャウトをするのだ(笑)
ブースの向こうでは汪峰(Wang Feng)がこちらに向かって親指を立てる。
彼には見えてるのだ。
この部分で自分がスタジアムでどんな感情になって客がどのようになっているのかが・・・
ドラムはバンドの「指揮者」。
Funkyがそんな土台を作ってくれた。
あとの楽器はそれに合わせればいい。
自分はその全てに乗っかって歌うのだ、と・・・
この曲は細かいテクニックが色々あって説明に難しいのだが、
次の曲、これは簡単!!
要は「爆発力」である。
0:16や1:18秒からのこのサビの叩き方、
私の中にはこのようなフレーズはないので、
きっと若いプロデューサーの指定だったのだろう。
とにかくこれをアドレナリンばりばりでヨダレ垂らしまくりで叩く!!
要は「爆発力!!」これが欲しいから打ち込みのドラムでなくこのファンキー末吉を呼ぶのである!!
2:00ぐらいから次のAメロに向けて「落としてゆく」のだが、
そこからAメロは
「力を抜くんじゃねぇ!!タイトにするんじゃ!!」
という大切なことを語ろうと思ったらリズムBOXに差し替えられとるやないの!!(笑)
まあ機械にすぐ差し替えられるほどクリックに忠実であることも必要。
2000年頃最初に中国でスタジオ仕事をやった時、
そのプロデューサーが音楽仲間にその音源を聞かせて、
「これは機械ですか?人間ですか?」
と言われたという話を聞いた。
「機械のようなドラムですね」という意味ではない。
「人間ですよね、どうしてこんなに機械のように正確なんですか」
という意味である。
機械的なんてあり得ない。
「ファンキー末吉のドラム」というのはとかく「人間的である」ことであると思っている。
まあ「喜怒哀楽」が激しいんやろうな・・・
だから実際の生活でもそれで人とトラブる(>_<)
でもそんな性格のイビツさがドラムにもちゃんと出ている。
その喜怒哀楽豊かな表現が機械と完璧に同期していて、どの部分もリズムBOXに差し替えられ、もしくは両方生かせて使うことが出来る、
という部分も、私が中国ポップスのレコーディングに大きく貢献した部分のひとつだと思っている。
さてここまでは「喜怒哀楽」の「怒」であるが、
ここからが中国ロックの真骨頂!!
贝贝(BeiBei)がコンサートのラスト曲に選んだのはこの曲・・・
許巍という歌手は、
これも中国ロックの歴史に残る1枚であるのだが、『在別処』というアルバムを録音し、その後順風満帆かと思えばその後に北京の音楽界に失望して西安に帰る。
私はこの『在別処』のデモ音源を彼の部屋で聞かせてもらったことがある。
グランジ系のロックで「中国ロックもここまで来たか」と思った・・・
ここからは都市伝説だが、その後麻薬に溺れ、
禁断症状から抜け出すために家の入り口を釘で打ち付け、
自分で自分の身体を縛って(自分では縛れんじゃろ・・・笑)、
LuanShuがそのドアをぶち破って彼を助け(ぶち破れんやろ、普通・・・笑)
彼の縄を解いて彼を抱きしめた時に彼はこう言った。
「曲が出来たんだ・・・」
その曲がこの「蓝莲花(LanLianHua)」だったという・・・
「帰ろう!!一緒に帰ってアルバムを作ろう!!」
そう言ってLuanShuがプロデュースして作ったアルバムが、この曲が収録されている「时光漫步(ShiGuangManBu)」!
「メンバーは誰でもお前の好きなメンバーを呼べばいい。ドラムは誰にする?」
そう聞いたLuanShuに許巍は「Funkyがいい」と答えて、結局全曲私が叩くことになった。
そしてこのアルバムが中国ロックに金字塔を打ち立てるような大ヒットとなり、
私は今だに「許巍のドラマー」とよく言われる。
不思議なもんだ。
今では汪峰に録音した曲の方が多いはずなのに、「汪峰のドラマー」だと言われたことは一度もない。
きっと许巍の伝説のコンサートにいくつも参加してるので人々にはそのイメージがあるのだろう・・・
人々にはあまり知られてないが、
私の中で一番「伝説」のコンサートが、
アルバムが出来て最初のコンサート・・・
今ではスタジアムで演奏する彼だが、
その時は北京の小さな小さな小劇場で行われた小さな小さなコンサート・・・
実は私は前の日、全ての譜面を見ながらそれぞれの音源を聞いていて、
ある瞬間に彼の「詞」が流れるように頭に入って来た!(◎_◎;)
涙で譜面が霞んで来たのを覚えている・・・
コンサート当日、全ての曲のカウントを出すのは私だから、
曲つなぎかMCかを知っとく必要があったので出番直前に彼にこう聞いた。
「MCはどの曲とどの曲の間に入れる?」
それに対してキョトンとして彼はこう答えた。
「MC?・・・喋りなんか入れないよ。俺は歌いに来たんだ」
これもひとつの「中国ロック」の伝説である・・・
何曲目が終わったところだろう、
スティックをかざして次の曲のカウントを出す準備をしてたら、
ステージからいきなりいなくなった。
何も言わずにいなくなったのでこちらとしてはどうしようもない。
LuanShuも一瞬戸惑っていたが、うんうんと頷いて私に「待て」と指示した。
何分ぐらい待ってただろう・・・
5分?10分?・・・
何もアナウンスもせずに無言で待つ時間としてはとてつもなく長い時間だったのを覚えている。
だが不思議なことに、置いていかれた観客がひとりとして声を上げる人間はいなかった。
许巍のファンは熱烈である。
命がけで许巍を愛している。
そんな熱烈なファンが誰一人として騒いだりしなかった・・・
ステージ上のミュージシャンも客席の全ての観客も、
いつまでもいつまでも黙って许巍が帰って来るのを待っていた・・・
噂によれば「トイレで泣いてた」という都市伝説もあるが、
帰って来た许巍は何のエクスキューズもせずに、
何事もなかったかのように歌い始めて、
そして何事もなかったかのようにコンサートは終わった。
その打ち上げの席で偶然許巍の隣に座った私は、
昨夜の話、「突然歌詞が入って来たんだよ」という話から、
「どうして日本人から見たら構成がこんなに変わってるかと思ったら詞だったんだね」
という話・・・
そして最後にこう言った。
「わかったよ、お前の音楽が・・・
お前の音楽はなぁ、絶望の中で一筋の希望を見た、それを歌ってるんだろ?」
これには许巍自身もびっくりして、
「それ以上言わないで・・・俺・・・泣いちゃうから・・・」
また前置きが長くなってしまった。
では「絶望の中で一筋の希望を見た」という音楽はどうやって叩くのか?
これこそが「中国ロックの奥義」である!!
まずこの曲を聞いてみて欲しい。
「时光漫步(ShiGuangManBu)」の中に収録されている许巍の人気曲のひとつである。
そう言えばこのアルバムが発売された時、
突然黒豹のドラマーと零点のドラマーがこう言って電話して来た。
「感服しました。僕たちはゼロからもう一度あなたに学びます」
中国ロックの歴史の中で一番レコード売ったバンドのドラマーと、
中国ロックの歴史の中で一番金を稼いだバンドのドラマーにこんなこと言われるんだから大したもんである(笑)
スタジオ仕事なんか叩いたらどんな曲なのか全部忘れてしまうので、
それからこのアルバムをゲットして聞いたら、この曲のドラムに自分で感激した。
この曲が大好きになって、それこそ毎日毎日、何十回も何百回も聞いた。
聞くたびに思うのが、
「このドラマーはなんて悲しいドラムを叩くんだろう・・・」
ということである。
「このドラマーは、その人生でどれほどの絶望を味わったのだろう・・・」
などとも想像してしまう・・・
まあ自分の人生は自分がよく知っているので「絶望」でもなんでもない。
単に「喜怒哀楽」が人より激しいだけの話である(笑)
では物理的にどのようにその「哀」を表現するのか・・・
これは後で「そうなんだ」と思ったことであるが、
要は「力の抜き加減」である。
1:47からのサビ、
これまで押さえて来たものがもうすぐ全部爆発するぞ・・・みたいなフィルに続いて、サビに入った瞬間にふっと力を抜く。
それが「悲しい」のである。
レコーディングの時には詞など全くわかってなどいなかったが、
実は見事に詞とリンクしている。
「完美生活(完璧に美しい人生)」など「ありえない」のである。
同様に前曲の「蓝莲花(ハスの花)」も同じである。
中国には「どうしようもないこと」がたくさんある。
(中国でなくても実はたくさんあるのだろうが)
天安門事件で仲間を殺され、
中国共産党に目の敵にされてライブを潰され、
そして許巍のようにショービジネスの世界に絶望して故郷に帰ったり・・・
中国の同じ世界で生きて、中国の同じ空気を吸っている私にとって、
その「気持ち」は手に取るようにわかる。
だから叩けたのである。
ではなぜ力を抜くと「悲しい」のか・・・
それはその直前までに秘めている「爆発力」だと思う。
「スローボールは力のないボールではない」
という言葉があるが、同様に
「小さい音は弱く叩くのではない」
ということである。
つまり「力いっぱい命がけで小さな音を出す」のである。
この秘めた「爆発力」が「悲しさ」を生むのである。
「世の中にはどうしようもないことがいっぱいある」
というメッセージとなるのである。
当然ながら「爆発力」が大きいほど「悲しさ」が大きいということになるので、
音の大きなドラマーの方が表現力が大きい。
江川ほーじんが自分のアンプのことを語る時、
「デカい音を出すために大きなアンプを使ってるんじゃない、
綺麗な音を出すために大きなアンプを使ってるんや!!」
と言う。
容量の小さいアンプをボリューム全開で鳴らすより、
余裕のある大きなアンプのボリュームを絞って鳴らした方が、
同じ音量なら大きなアンプの方が音がいいのである。
それと同じ!!
最後に前述の「蓝莲花」の話・・・
歌詞ともリンクするが、許巍のコンサートで若いドラマーがこれを叩いているのを聞いたことがある。
もうね、どうしようもない(>_<)
「没有什么能够阻挡(もう何も阻止するものはない)」
という歌い出しから始まるこの曲は、
ドラマーが最初のシンバルをピシャンと何も考えずに叩いた瞬間に全てが終わってしまう。
強く叩くと詞の意味は「本当に何も阻止するものはない\(^o^)/」という意味になってしまうし、弱く叩くと「絶望の中の一筋の希望」さえもなくなってしまう・・・
その間のほんの一握りのチカラ加減、それ以外に「正解」はないのである。
「リズムとは初恋のようなものだ」
と言ったことがある。
強く抱きしめれば壊れてしまう、
弱く抱きしめれば逃げて行ってしまう、
この恋を失いたくなければ、命がけでちょうどいい強さで抱きしめ続けなければならない。
「命がけでちょうどいい強さで叩き続ける」のじゃよ!!
ほんの一握りの強さの違いで曲のメッセージまでガラッと変わってしまうって凄いでしょ。
ドラムなんて音程もコード感もない、
ただ音の強さと密度だけしかない楽器だけど、
それだけで詞のメッセージすら変わってしまうぐらい大切な楽器なのよ。
ドラムはバンドの「指揮者」!!
だから音楽に最大の「愛情」と、最大の「責任感」を持って挑まねばならん。
別に中国語が分からなくても出来ることである。
曲を作った人が、歌手にこのように歌ってもらいたい・・・
アレンジする人がこのように歌ってもらいたい・・・
「ドラムをどう叩くか」はそのメロディーやアレンジの中に必ず答えがある。
それを敏感に感じ取って、それを命がけで表現する。
それだけである。
・・・てなことを偉そうに言っておきながら、
実はこの日のコンサートの時、
この「Young Rock Star」がこの曲を最後に歌うっつうので、ついつい強く叩き過ぎちゃったのよね(>_<)
そこで「しまった」とばかり弱めたりするともっと目も当てられない。
即座に判断してそれよりちょっと落としたぐらいの自然な流れの強さにして、
結果的に
「私はYoung Rock Starよ!!もう何も私を阻止するモノはないわ!!」
みたいな曲になってしまった(>_<)
すまん!!許巍!!
まあこんな「バージョン」もあるんだということで許してくれ!!(涙)
Posted by ファンキー末吉 at:06:51 | 固定リンク
2018年4月23日
若者よ、もっと経験を積んで帰って来い!!
もう30年近い付き合いで「家族」のような関係であるLaoLuanからツアー先に電話があった。
「この前レコーディングしてもらったあの歌手なんだけどさぁ・・・」
一瞬あまり愉快ではない記憶が思い出されて来た・・・
この歌手である・・・
その後、この歌手の全国ツアーとかをやってくれとかの話もあったが、
私自身がもうこの布衣のツアーで出ずっぱりなので話が立ち消えになっていた。
「Funkyさん、请帮个忙(QingBangGeMang)!!」
つまり「ちょっと助けて下さいよ」・・・中国ではよく出て来る単語であるが、
この言葉から始まる会話は往々にして厄介な話が多い・・・(>_<)
「布衣のツアーにゲストで参加させてやって欲しいんだけど・・・」
いや、私は単なるドラマーとして呼ばれているだけであって、
私が布衣に対してゲストを入れさせる権限など持ってないよ・・・
「その辺の話はボーカルのLaoWuかマネージャーに言ってもらわないと・・・」
「いやそこには話を通してある」
というので、それだったら私がとやかく言う筋合いはない。
LaoWuが「やれ」と言えばやるし、断ったとしたら私の出る幕ではない・・・
・・・ってまあLaoWuも業界の重鎮であるLaoLuanから頼まれたら断れんわのう・・・(笑)
「那拜托了(Na BaiTuoLe:じゃあよろしく頼むよ)!!」
で電話は切れた・・・
かくしてその当日がやって来た。
場所は広東省広州・・・
毎度の如く他のメンバーより早く会場入りしてドラムのチューニングをしてたらマネージャーから連絡が入る。
「歌手がプログラムの件で打ち合わせをしたいらしいのでそちらに行かせます」
ジャンルは歌謡曲なのでギタートリオで再生出来る音ではない。
「プログラム走らせるからそちらで用意しといてね」
と予め伝えてある。
レコーディングでは、あれやこれや自分の作ったDEMOと同じようにしてくれと大きな「こだわり」を見せたので、当日リハでバンドに対してそれと同じ要求をされたんじゃたまったもんじゃない。
プログラムでほとんどの音を流してドラムとベースぐらいを生演奏、
ギターは入っている音に合わせて弾くぐらいでよい。
あわよくばそのままカラオケ流して「あてぶり」にしたいぐらいである(笑)
歌手がやって来た。
「声卡(サウンドカード)は?」
私は真っ先にこう聞いてみた。
通常プログラムを流す時には、
コンピュータを声卡(サウンドカード)と呼ばれるオーディオインターフェイスという機械につないで、
そこから外に出すLRのステレオのプログラム音源、
そしてドラマーだけが聞くクリックのトラックを出力する。
通常コンピュータはステレオでしか再生出来ないので、
もう1chドラマーが聞くクリックを再生しようとすると、
どうしてもこの声卡(サウンドカード)が必要となるのだ。
「声卡(サウンドカード)はFunkyさんのを使うって話ですけど・・・」
足掛け3ヶ月に及ぶ長いツアーで、布衣みたいなロックバンドでは使いもしない声卡(サウンドカード)なんて持ち歩きませんって(>_<)
LaoLuanにしてみたら、私がバンマスの仕事では私がそのプログラムを出す仕事もするので、当然ツアーにも持って来ているだろうと思ったのだろう・・・
まあサバイバルな現場を多くこなしているとわかって来る。
どんな状況ででもやり方はあるのである!!
「じゃあ君の持っているプログラムのデータを、
左側はクリック、右側を音源にしてステレオのmp3で出力してメールで送って」
ちなみにこのやり方は私がひとりドラムとかでやっているやり方で、
外に出す音をモノラルにすることによって、
音を出す機械はiPadでもスマホでも何でもよく、
あのしちめんどくさい声卡(サウンドカード)とか持ち歩かなくてもすむのだ。
「それだったら出力がモノラルになっちゃうじゃない」
などと言おうものなら、
「お前が声卡(サウンドカード)持って来ないのが悪いだろ!!」
と叱り飛ばしてやるところだが、
幸い彼女はその辺をスルー(ほっ)、ところが今度はこんなことを言い出して来る。
「それってどうやって作るんですか?
私出来ないんでFunkyさんやってくれませんか?」
(>_<)
「请帮个忙(QingBangGeMang)」で始まって、
「拜托了(BaiTuoLe)」で終わる要件なんて往々にしてこんなもんである(涙)
サウンドチェックを中断してデータ作り・・・
今日は女性歌手のゲストが入るんですと・・・ この若きシンガーソングライター(>_<) https://www.funkyblog.jp/2017/11/post_1204.html 業界の重鎮LaoLuanから「頼むよ」の電話。 「俺はただのドラマーだからバンドのマネージャーに言ってくれないと」 ボーカルのLaoWuから「頼むよ」(>_<) まあ曲コピーしてドラム叩けばいいんでしょ、バンドがそれでいいなら俺は別に・・・ 「プログラム走らすなら用意しといてね」 いざ蓋を開けてみたら・・・ - Spherical Image - RICOH THETA
幸い彼女が使っているソフトがLogicだからよかったものの、
私が使ったことのない他のソフトだったら一体どうなったことだろう・・・
まあ私がその新しいソフトを一瞬で使えるようになればいいわけね(>_<)
中国の仕事は往々にして、このように日本では想像出来ないぐらいに私の経験値を上げてくれるのだ・・・(笑)
さて無事に音源も出来上がってリハーサル。
見ればLaoWuのマイクをそのまま使って歌うようなので、PAエンジニアにこう助言する。
「お前らの持ち歩いてるシステムのイヤモニって4chあったよなぁ。
俺がイヤモニ使ってないからそのシステムを彼女にそのまま使わせてやればモニターし易いんじゃない?」
ドラマーは少々モニター環境悪くても演奏出来るけど、
歌う人はモニター悪かったらもう歌えんからね・・・
そしたらPAエンジニアが、彼女がすぐそばにいるにも関わらず私にこんなことを聞いてくる・・・
「彼女はイヤホン持ってますか?」
まあちょっとイライラしてたのだろう、
「俺は彼女の父親じゃねえ!!お前中国語話せるんだろ?俺に聞くな、直接彼女に聞かんかい!!」
などと口走ってしまい、ちょっと反省・・・(>_<)
まあ笑い話で終わってリハーサル開始!!
「プログラムの音が大き過ぎる、ちょっと下げてちょうだい」
彼女もまた私に向かってそう言うので、
「あそこにPAエンジニアのおじさんがいるでしょ?あのおじさんに直接言いなさい」
・・・とこれが後々大きな問題になるとはこの段階で想像だにしていない・・・
本番が始まる。
彼女の歌う曲は、布衣で女性ベーシストのLinNaが歌ってた「彩虹」、
そして彼女のオリジナルで「再見19歳」、
そして中国ロックの創始者「崔健(CuiJIan)」のカバーで「新長征路上的揺滾」の3曲。
LaoWuから
「彩虹は世事难料の次ね」
と言われていたので、
いつものようにど頭からド派手に始まろうと勇んでステージに上がって行ったら、
どういうわけかLaoWuがステージに上がって来ない!(◎_◎;)
「どうしたんだよ〜」
とステージ袖にひっきりなしに合図を送るが、
どういうわけかLaoWuではなく彼女が上がって来て客に向かってMCを始める!(◎_◎;)
「ここで歌うのか?」
大慌てでプログラム再生の準備をして、
ぽかんとしている小畑に日本語で指示を出す。
ベースはよーしーずではなく2軍の中国人ベーシストなのだが、
さすがは中国人、全く慌てていない。
慌てているのは私と小畑、日本人だけである(笑)
「では先輩方の前にちょっとだけ私が歌わせてもらいますのでお付き合い下さい」
私が聞きそびれていたか勘違いしていたか・・・まあそういうことだったのね?・・・
「最初はとってもロックな曲です」
と言って「崔健(CuiJIan)」の「新長征路上的揺滾」を紹介する。
私は「その紹介はあかんじゃろ」と思ったが、
譜面とかプログラム再生の準備でしっちゃかめっちゃかだったのでそのままカウントを出して曲が始まる。
どうして「あかんじゃろ」と思ったかと言うと、
布衣のファンはいわゆる「ロックファン」で、
この日も会場に5〜600人ほど集まってぎゅーぎゅーにひしめき合ってる観客はみんながみんな、布衣の曲を聞いて大暴れに暴れに来ているのである。
またLaoWuの声は崔健(CuiJIan)によく似ている。
きっとLaoWuがこの曲をカバーしたら客は狂喜乱舞することであろう。
ところが女性歌手である。
あんな野太い声やロック的な歌い回しをするわけでもなく、
アレンジもどっかの歌番組でどっかの女性歌手がカバーしたという音源が送られて来たので、その打ち込みのどうしようもない(失礼)バージョンでコピーしている。
客はこのMCで一気に期待度がマックスに上がっている。
おそらくはLaoWuがオリジナルと同じアレンジでこの曲を歌うような、そんな世界を想像してしまっただろう。
盛り上がるに盛り上がれない雰囲気で1曲目が終了!1
2曲目は布衣の曲だったらLaoWuがここで出て来てまた引っ込むことになるので、ここは彼女のオリジナルであることは間違いない。
この曲はプログラムを使うので、
私は再生ボタンに手をかけて彼女のきっかけを待つ・・・
曲タイトルを言ったのですかさず再生ボタンを押してカウントを出す。
そしたらイントロの途中で彼女が曲を止めた!(◎_◎;)
「プログラムの音が出てないんじゃない?」
後ろを向いて私にそう聞く。
私に聞かれたって外に出ているかどうかドラムの位置でわかるわけはない。
もう一度プログラムだけを走らせて「出てるか?」とスタッフに確認する。
「出てる」ということで演奏を再開・・・その間、客はぽかんと待っている・・・
続いて布衣の「彩虹」を歌うのかと思ったら彼女は挨拶してステージを降りたので、
ああ、あの位置で歌うのは「彩虹」1曲なんだな・・・とやっと理解(>_<)
いつものような感じで布衣のステージが始まる・・・
こんな感じ・・・
もうこれだけの客が何事もなかったかのように大暴れ(笑)
途中に彼女のゲストコーナーも布衣の曲なので大盛り上がり。
最終的には何も・・・問題ない。
中国の仕事は始まる時は「どうなるんだろう」と心配になることは多いが、
いつも「必ず終わる」のである。
ライブ終わってPAエンジニアに聞いた。
「プログラムの音、出てたの?」
「ずーっと出てましたよ」
きっとリハーサルでモニターの音量を下げたので、
本番は客が入ってかき消され、それで彼女は「出ていない」と思ってしまったのだろう・・・
老婆心がまたむくむくと湧き出て来て、打ち上げの席で彼女に優しく説教した。
「お前は创作歌手(シンガーソングライター)なんだろ?」
以下お説教本編(実際は中国語でとても優しく語ってます)
お前が客に聞かせたいのは何だ?完璧なアレンジか?
それだったらライブではまず不可能だ。
ライブなんて毎回どんなトラブルが起こるかわからないからね。
演奏まで中断して「プログラム出てる?」なんて聞く必要がどこにある?
ステージ上で俺に聞いたところで俺にだってわかるわけはないだろ?
「もしエンジニアがボリュームを上げ忘れてたとしたら?」
なんて考えてたとしたら、
それって同じ「チーム」の一員であるエンジニアを全く信用してないってことだよね。
でもね、お前は创作歌手(シンガーソングライター)なんだろ?
しかもギター弾きながら歌ってる。
プログラムがなくったって、それだけで最低限「歌」と「楽曲」は伝えることは出来るんじゃないのか?
お前が伝えたいのがお前の「歌」と「楽曲」だとしたら、
もうそれで最低限は伝えることが出来るんだよ。
わざわざ演奏を止めてまで客を待たせる必要はないだろ?
ついでに言わせてもらうと、
たとえバンドのメンバーが演奏間違えたとしたって、
例えばLaoWuだったらギター弾きながら指板見せて「違う!このコード!!」とかやるだろう。
それが「创作歌手(シンガーソングライター)」の底力だよ。
ボーカルはステージに立って最前線で「観客」と対峙する。
誰も助けてなんかくれないんもんなんだよ。
俺に頼って来たって残念だけど何にも助けてあげられない。
お前も创作歌手(シンガーソングライター)だったらお前が自分で戦って、
そして後ろにいる俺たちを引っ張っていってくれ!!
(以上お説教内容)
「説教をする」ということは一種の「愛情」である。
言いながら、「何とかこいつも一人前になってくれればいいのにな」と思って来る。
悪いけど、彼女がレコーディングでこだわったアレンジの細かい部分、
実はライブではいくつか無視させてもらっている。
例えば2番の頭からドラムが入る?
その前の間奏どうすんの?ドラムぼーっとしとくの?
間奏から入るでしょ、ここは・・・
しゃーないなぁ・・・
実は間奏からドラムはしっかり叩いている。
この方が「自然」なので彼女はきっと変えたことすら気づいてないだろう。
その他、レコードバージョンでは色んな部分が「自然」ではない。
そりゃそうだ。
ライブをやって何度も何度も観客と戦って、
打ちひしがれて何度も泣いたことなどない。
「これがいい!!」
自分でパソコン弄って打ち込んで、
それをそのまま生楽器に入れ替えただけの音源がライブでそのまま通用するか?
いや、「ライブバージョン」と「レコードバージョン」というのは存在してしかるべきだろう。
でも、今回初めて知ったであろう「ライブバージョン」のいい部分、
それをレコーディングの時にもし少しでも知ってたら、
いや、ちょっとでも想像出来てたら・・・
レコードバージョンだってこんな形では終わってなかったんじゃないのか・・・
生楽器は「人間」が演奏する。
その「人間」が演奏しにくい不自然なフレーズには「魂」を込めることは出来ない。
そんな「人間」が何人ステージで雁首を揃えたって「1+1」は「2」にもなりやしないよ・・・
年寄りの話も聞いとくもんだ・・・
いや、先輩の話だけを鵜呑みにして自我のないような若者なんかにこれっぽっちも魅力はないが、
年寄りはお前の持ってない「経験」を持っている、
話ぐらい聞いといて参考にしてみたって「損」にはならんぞ。
姥捨山に捨てるにはまだまだ惜しい「年寄り」だと思わんか?(笑)
次は5月の青島。
プログラムのデータを自分で作ってみることから初めて、
この老兵を一番活躍させるようにステージを考えてみたらどうだい?
お前は19歳、まだまだ若い。
もっともっと「矢面」に立って、
もっともっと悔しい思いをして、
流した涙の数だけ成長するだろう・・・
だから若者よ、甘えるな!!
ひとりで立ち向かって全部それを「経験」にしろ!!
少しは成長したお前を青島で待ってるぞ!!
Posted by ファンキー末吉 at:14:52 | 固定リンク
2018年4月 3日
布衣(BuYi)の内乱
もう10年以上北京での生活を共にする布衣(BuYi)の全中国ツアーに参加している。
知り合った頃は10人も客がいなかったバンドが、
今ではどの地方に行っても100人以上は動員するバンドとなったのは驚きである・・・
今回のツアーメンバーはドラムが私ファンキー末吉、
ベースがよーしーずこと渋谷有希子、
そしてギターは小畑秀光というラインナップで、
「寧夏のバンドだった布衣が今は日本のバンドじゃねぇか!!
いっそのこともうボーカルも日本人に変えちまえ!!(笑)」
と冗談を飛ばす・・・
実はこのメンバーは、私がプロデュースした新しいアルバムのレコーディングメンバーで、まだアルバムは発売前ではあるが、今回のツアーはその新しいアルバムの曲を中心に演奏されるツアーである。
・・・と、このように書くとバンドも順風満帆にと思われることだろうが、実は数ヶ月前にとても大きな事件が勃発していたのである・・・
事件の発端はある日のこと、
「エンジニアの方言(FangYan)がツアー先で酔っ払って足の骨を折ってねぇ・・・」
寧夏から車チャーターして北京の病院に運び込んだんだよ・・・と、共に暮らす北京の院子でLaoWuがそう言った。
「あいつも飲むと酒癖が悪いからなぁ・・・」
その時にはそれぐらいにしか思ってなかったのだが、それが後に大きな問題となって取りだたされるなるとはその頃には夢にも思っていない・・・
前回のツアーの最終地、内モンゴルの赤峰というところに呼ばれた。
その時のブログにも書かれているように、
もともと私は「大太鼓を叩く」ということで呼ばれている。
つまりは「いてもいなくてもライブは出来るのだが、よかったら来て大太鼓でも叩いてよ」という立場である。
ところがその日は結局ドラマーも来なかったので私がドラムを叩いた。
その時には「何か用事があって来れなくなったのね」ぐらいにしか思ってなかった。
何せこのバンドは昔から「メンバーが急に来れなくなったから」と言って代わりのメンバーとして私や他いろんなミュージシャンが駆り出されることはよくあったからである。
まあ当時は全くと言っていいほど金にならないバンドだったので、
何か金になるオイシイ仕事があったらそちらを優先することは「しゃーないなぁ・・・」という状況だったのだから仕方がない。
ところがここ数年は布衣の方が見入りがいいのか、当時は「Funkyが忙しくて来れないから」と言って駆り出されていた芳芳(FangFang)が正式メンバーとして居座って(笑)いるので全く呼ばれなくなったなぁ・・・と思っていたのだ。
その時に言われたメンバーチェンジの話も、今から思えば私にとってはちょっと引っ掛かる話だった・・・
何せこのLaoWuという男、自分から「バンドをやめてくれ」と言うことが出来ない男なのだ。
最初のドラマーをクビにする時にも一年言い出せずに待っていたと言うし、
ベースのLinNaが妊娠した時も「バンドは新しいベースを探す」とは言えずに「じゃあその間休んでいてくれ」ということにしていたことも私は知っている。
ある時、日本にLaoWuを呼んでどっかのバーで一緒に飲んでた時にこんなことを言ったことがあった。
「実はギターのZhangWeiがバンドをやめちゃうんだ」
LaoWuのとても悲しそうな表情が印象的だった・・・
私は逆にとても明るくこのように言い返した。
「そりゃよかったなぁ!!これでバンドはもうお前ひとりのもんだ!!
今までみたいにZhangWeiに譲歩しながらやってゆく必要はない。
もうこれからはお前の思うようにバンドをやっていけばいいんだよ。
おめでとう!!(笑)」
LaoWuはとてもびっくりしたような顔で私を見て、
そして何か吹っ切れたようにちょっと笑って私と乾杯した。
布衣というバンドは元々ZhangWeiのバンドで、
そこにLaoWuは後から加入して来た。
当時寧夏の田舎街でいち早くロックをやってたZhangWeiは、
当時LaoWuを含め、田舎の若者たちの憧れの存在だったのだ。
だからLaoWuはいつもこう言ってた。
「俺はバンドで歌わせてもらってるんだから・・・」
どこかで聞いたことがあると思ったら二井原が私にこう言ったことがある。
「俺はな、こんな素晴らしいミュージシャン達と一緒に音を出して、そこで歌わせてもらってることを本当に幸せに思うんだ」
歌手(Singer)とボーカリスト(Vocalist)の違いというブログでも書いたが、
私にとって本当に「こいつってバンドのボーカリストなんだな」と思うのは二井原とこのLaoWuだけである。
二井原がバンドのレコーディングリハの時に他の誰よりも早くスタジオに来て、
いそいそとマイクをセッティングしてリハを録音し、
それに自分のアイデアを家でダビングしていそいそとバンドみんなにメールしている姿と、
朝早くからZhangWeiの機材を積み込んで会場入りして、
ZhangWeiが来るまでにその機材をセッティングしてあげてるLaoWuの姿はいつもダブって見えてたのだ。
バンドのリハーサルでいつもLaoWuとZhangWeiが喧嘩してたのは見てたし、
そんなZhangWeiがバンドをやめるとなったらむしろホッとするんじゃないの?
それでもLaoWuは悲しいのか・・・いいヤツだな(笑)などとその時は思っていたのだ。
だからバンドのメンバーがまとめて3人も脱退するなんて私にはちょっと信じられない事実であったが、
「まあバンドには他の人が知らないいろんなことがあるからな」
とその時はそれぐらいに思っていた・・・
脱退した後に、実は私はギターのMiaoJiaとLaoWuとを同じイベントにブッキングしていた。
「もう一緒にステージには立てないから」
とLaoWuが言うので
「こいつみたいなヤツでもここまで人と揉めるんだなぁ」
とびっくりした。
布衣としてはギターに小畑秀光を呼ぶのでそれでよいが、
爽子のバックバンドとしてもMiaoJiaをブッキングしているので外すわけにはいかない。
まあ呼び出したんだから私としてはMiaoJiaと酒でも飲む。
「バンド脱退したんだってねぇ・・・」
そう聞く私に彼は
「いや〜ギャラが安くてやってらんね〜よ」
と笑いながらそう言った。
「子供も生まれて今俺は最低でも月に2万元の稼ぎが必要なんだ。
とてもじゃないけどやってらんね〜」
多い時にはバンドを9つ掛け持ちしていたこいつだが、
最近は布衣ひとつになったので生活してゆけなくなったのかな・・・
その時はそのぐらいに思っていた・・・
しばらくして、親しくしている業界人LaoLuanから電話が来てこんなことを言う・・・
「おい、知ってるか?LaoWuとFangYanのこと・・・
実はあれはツアー先で二人が酔っ払って喧嘩して、LaoWuがFangYanの足をへし折ったってよ・・・」
!(◎_◎;)
「このことはFangYanは何も言わないんだけど業界の噂でね」
と言い足してから電話は切られたが、私にはちょっと信じられないような話である。
10年以上一緒に暮らしていて、LaoWuは人と喧嘩をするようなそんな人間ではないのである・・・ましてや人の足を折るほどの暴力を振るうなんて・・・
私はすぐにLaoWuを呼び出して詰問した。
「お前と俺は家族だ。
最終的には人が何を言ったって、最終的には俺はお前の言うことを信じる。
俺にだけは本当のことを言え。それがどんな事実だったとしても俺は家族としてお前を守る」
LaoWuの反応は、私から突然そんなことを言われてびっくりしたのと共に、
今から思えば「状況はそこまで来たか・・・」という表情もあったようにも思える。
「そんなことはあり得ないよ!!その現場は寧夏の友達がみんな見てたし」
真っ正面から否定するLaoWuの表情にウソはないように思える。
いや、そもそもそんなウソをついたり出来るような男ではないのだ・・・
「じゃあ誰がそんな噂を流した?FangYanは自分からはそんなことは言ってないと言ってるぞ」
答えを聞くまでもない。
その場にいたのは当事者であるLaoWuとFangYanと寧夏の友人たち、
そして「バンドのメンバー」だけである・・・
「MiaoJiaか?」
私はとっさにギタリストの名前を口に出した。
他の二人のやめたメンバーは性格的に攻撃的な人間ではないので、
そんな悪意を持った中傷を流すならこいつかな、と私は思ったのだ。
「ちょっと彼と膝付き合わせて話に行くよ・・・」
とLaoWuが言ってそれでこの話は終わっていた・・・
しかしそれから後に、想像もしなかった大きな問題が起こるのであった。
今年に入って私は70本近くの日本ツアーを行っていた。
そのツアー先で、とある業界人がこんな文章が出回ってると送って来てくれた。
声明:布衣楽隊は正式にボーカルのLaoWuをクビにします!!
!(◎_◎;)
全くもって理解に苦しむ声明である・・・
私の見解では、布衣はZhangWeiが脱退した後にはもう「LaoWuのバンド」なのである。
誰がこんな声明出したの?・・・
この声明には、LaoWuがどれだけ酷い人間か、
マネージャーと結託してバンドの収入を独り占めしてるとか、
暴力的な人間でエンジニアのFangYanの足を叩き折ったとか、
まあ目を覆うようなことが書かれていて、
最後には脱退したメンバー3人の名前が連盟で書かれている・・・
私はツアー先からすぐにLaoWuに電話をした。
「何なの?これ・・・」
正直全く意味がわからなかったのだ。
こんなことして誰が得をすんの?・・・
私は真っ先にそれを思った。
何せ布衣の詞曲のほとんどを作っているのはLaoWuで、
その3人がLaoWuをクビにして布衣を名乗ったところで、
別のボーカルがそれらを歌って今よりも歓迎されるはずがない。
つまり今まで2万元も稼げなかったんだとしたら、
これを断行したところでもっと稼げるようになるわけがないのだ!!
明らかにこれは「嫌がらせ」・・・
誰も得をしないんだったら憎っくきLaoWuに損をさせる目的以外の何ものでもない。
布衣側としては正式に声明を出して、当然の如くこれを否定した。
その後、何事もなかったかのようにツアーが始まっている。
ツアー前の取材で
「今回のツアーは大幅にメンバーが変わってその影響などはありませんか?」
という質問に対してLaoWuはこう答えている。
「何言ってんですか、今回のドラムはアジアドラムキングのFunkyですよ。
布衣の1枚目のプロデューサーでもあります。
レベルが上がることはあっても下がることは決してない!!」
つまり「Funky」という名前を「品質保証」に使ったわけだ(笑)
よいよい、いくらでも使うがよい!!
私の仕事はその期待を裏切らないプレイをすることである。
ずーっとそれをやって来たから今がある・・・
やめた3人のメンバーにも言いたい。
お前たちが戦うのはそんなところではない、「音」で戦うべきなのである。
今回のツアーで
「やっぱ昔のメンバーの方がよかったよね」
と言わせられればお前らの勝ち、
「今回の布衣は前の布衣より数段よかったよね」
などと言われたとしたらお前らの惨敗である。
まあ悪いけど惨敗で終わるじゃろうな・・・(笑)
そんな人を陥れるような文章を考えるヒマがあったら、
どうして「他のプレイヤーには絶対に出来ない音」
(テクニック的にという意味だけでなく、独自のスタイル、サウンドという意味で)
ををもっと頑張って作り上げとかない!!
少なくとも日本人のギタリストにコピーされて「そっちの方がよかった」などと言われたとしたら、ボーカルをクビにする文章を送りつける前に、お前はバンドで何をやっていた?
悪いが私は今回のツアー終わって次に別のドラマーが代わって叩いたとしても
「やっぱFunkyさんの方が凄かったな」
と言われるようなプレイをしてる自身はあるぞ!!
まあ今から言ってももう遅いだろう。
お前も次の自分のバンドで頑張ってそれを成し遂げろ!!
何か助けが必要なら遠慮なく言え!!いつでも助けに行ってやるぞ、説教付きでな(笑)
今回の事件で私が真っ先に考えたのは、私がこの争いに「巻き込まれ」たりしないかということだったが、どうやらそれも杞憂に終わったようだ。
昔もっと大きな事件零点(LingDian)のボーカルとのメンバーとの訴訟劇があった時も、私は「中立」の立場を貫いた。
ボーカル小鸥(XiaoOu)のバックもやるし、零点のアレンジもやる!!
そもそもスタジオミュージシャンなんて究極にはゴルゴ13みたいなもんなんだから(笑)、請け負った仕事は思想、宗教などに関係なく完璧にミッションを遂行すればそれでよい。
この敵ばかりを作りたがる中国人社会の中で、
長年に渡って誰からも敵視されない希有な立場にいられるのもこのポリシーがあってのことである。
大事なのは仕事、音楽!!・・・そして「人間性」である・・・
LaoWuが酔っ払ってケンカしてFangYanの足を叩き折ったなんて誰がそんな話信用するだろう・・・
もし信用したとしたらそれはLaoWuの「日頃の行い」である。
かく言う私も日本でとある大きなプロジェクトのミーティングでこんなことを言われたことがある。
「問題なのはお前の性格だ!!お前はキレやすい!!」
私は悩んで色んな人に相談したが、みんな笑って取り合わない。
「末吉は仲間うちの中では相当温厚な方やと思うよ」と和佐田。
「もし末吉さんがキレたとしたら、それはその人はきっとよっぽど酷いことをしたんでしょうね」と沼澤。
だから人と争ったりしてはダメなのだ。
(JASRACとの戦いは別にして・・・(笑))
LaoWuにもこう言って説教をした。
「お前ももう昔みたいな無名のアンダーグラウンドミュージシャンじゃない。
人はな、有名人のいいところなんて見やしない。
悪いところを見つけてはそればっかり吹聴するんだよ。
だからもうお前も人と争うな」
これは自分にとっても大きな戒めとなる。
いい歳こいて人と争って人生何が楽しい?・・・
余談として、長年LaoWuやFangYanと暮らした院子が取り壊しのため出て行けと言われている。
LaoWuは今まで通りみんなで一緒に暮らそうと思っているようだが、
FangYanの方はもうLaoWuと一緒には暮らしたくないようだ。
きっとべろんべろんで何も覚えていない状態で、人から
「LaoWuがお前の足を叩き折ったんだよ」
などと言われて
「そうかも知れない」
などと思っているのかも知れない(笑)
まあ「人の感情」ばかりはいくら兄貴分の私としても立ち入ってコントロール出来たりするもんではない。
問題はどちらもが「Funkyは自分と一緒に住むだろう」と思っていることである。
私は迷わずFangYanを選んでLaoWuにそう通達した。
「お前の周りにはもう色んな人がいて、俺がいなくたって十分楽しく暮らしていけるだろ?
FangYanは俺がお前んとこ行ったとしたらきっと寂しく思うだろうからな」
ロックとは「強い」音楽である。
だからロックを志す者は常に弱い者の味方でなくてはならないと思っている。
足を折って数ヶ月働くことが出来なかった「家族」のひとりを、
今度は私が助けてやらなきゃなんないんじゃないかな・・・
性格的にはめんどくさいヤツなんやけどな・・・しゃーないなぁ・・・(笑)
Posted by ファンキー末吉 at:04:01 | 固定リンク
2017年11月26日
プノンペンで心のスキマ埋められる・・・
どういう流れでカンボジアまで来たかということはまた別のブログ記事に書くとして、
私はタイから朝一番の空路で、私を誘ってくれたホーチミンのレオさんは陸路で向かい、
プノンペン市内の日式ホテル「東屋」で合流ということになっていた。
レオさんはバスで6時間かけて向かっているということで、
それまで屋上の露天風呂にでも浸かりながら待とうということになった。
貸切状態でこんな感じ・・・
ところがここにひとりの日本人が入って来た。
(まあ「国籍」を確認したわけではないが、このホテルを利用するんだから勝手に「日本人」と思っただけなのだが・・・)
サウナで汗を流しながら色んな現地情報を聞いていたのだが、
「じゃあビールでも飲みますか!!」
ということになって、カンボジアビールで乾杯!!
ホーチミン在住の刺青だらけのベーシスト(今バスでこちらに向かっている)が取ってくれたホテルが完全日本式なで、露天風呂に入ってたら地元の日本人と意気投合してカンボジアビールで乾杯!! - Spherical Image - RICOH THETA
夜は市内のライブハウスでドラムを叩くからそこで会おうということでとりあえずここで別れた。
地元の人たちに連れて行かれたプノンペンの歓楽街・・・
プノンペンの歓楽街なう〜 ここにライブハウスがあるらしい・・・ ドラムでも叩けたらちっとは世界を平和に出来るかな・・・ - Spherical Image - RICOH THETA
ライブハウスというよりは箱バンの入ったガールズバーという感じだったがとりあえずドラムを叩く!!
ライブハウスというよりは生演奏の入ってるガールズバーみたいですが叩きますよ〜!!! 世界平和のために!!! - Spherical Image - RICOH THETA
そう、私は昼間の約束を全く忘れてしまってたのよね(>_<)
というわけで彼から連絡が来て合流〜
そして連れて行かれたのがこんな店!!
入り口に看板はない。
民家のような雑居ビルの1階のとあるドアを開けて入るといきなりこんな空間が現れるのだ!(◎_◎;)
「ここは日本料理屋です。
普段は予約でしか営業してくれず、
しかも予約は1日1組までしか受けてくれません。
今日は特別に開けてもらいました」
そんな店があるのか!!(◎_◎;)・・・しかもカンボジアで・・・
そして彼は私に強くこう注意した。
「この場所を人に教えてはいけません!!
オーナーの写真を取ってもいけません!!
オーナーの名前をアップしてもいけません!!
約束ですよ〜」
とりあえず日本でもなかなか手に入らないという珍しい酒を頂く・・・
つまみはまず海ぶどうが出て来る・・・カンボジアなのに・・・
茄子とイカの塩辛の一品!!
モッツァレッラチーズの一品!!
漬物も絶品!!
ここは果たしてカンボジアなのでしょうか・・・
カンボジアのプノンペンにある看板の出てない日本料理屋・・・私は心のスキマを埋められたに違いない・・・ - Spherical Image - RICOH THETA
もう夜中の2時は過ぎてるであろうか・・・
「ほなもうぼちぼち帰ろうかな・・・」
そう言った私に、写真をぐるりと回して向こう側に座っている彼がこう言った。
「お代は要りません。ここは私が払っておきますので・・・」
!(◎_◎;)
「ファンキー様が満足されたらそれが何よりの報酬でございます。ホーッホッホッホ!!」
そう言って彼はトゥクトゥクに乗って帰って行った・・・
翌朝、目が覚めたら二日酔いで頭が痛い・・・
一体どれだけの酒をあそこで飲んだのだろう・・・
試しにポケットをまさぐってみるとお金は全然減っていない・・・
今晩もあそこに行くのだろうか・・・
いや、今晩行ってみたら、きっと昨夜入り口だったところは壁になっててドアが消えているのだ・・・
プノンペンの夜に心のスキマ埋められた・・・
よろしければクリックを〜
にほんブログ村
Posted by ファンキー末吉 at:12:18 | 固定リンク
2017年10月 7日
布衣(BuYi)メンバーチェンジ?
ダナンで原稿を書いている時に、LaoWuから連絡が来た。
「赤峰のコンサートに小畑秀光を呼べないか?」
まあヤツもヒマなら来るだろうということでスケジュールを聞いてやる。
いつもならチケット取ってやったり色々するのだが、
何せもうJASRACとの戦いで散財してしまって日本円も中国元もほとんど残っていない(>_<)
「スケジュール空いてるみたいだからチケットはお前らで取ってくれや〜ワシ金ないし〜」
などと返信したからだろうか、
「じゃあFunkyもおいでよ〜」
ということになってワシも今、内モンゴル赤峰にいる。
3曲だけゲストで、あとは中国大太鼓でも叩いといてや〜
という仕事はむっちゃ楽である。
ドラムならそうはいかないけど、大太鼓だったら知らない曲でも何とかうまく合わせられるし〜\(^o^)/
見ればよーしーずこと渋谷有希子もベースで呼ばれて来ておる。
ギターの小畑と何やら深刻に曲の確認作業などをやっておる。
頑張るのぢゃ〜ワシは大太鼓じゃけんのう〜
・・・などとタカをくくっていたら、
「ドラムのFangFangが来れなくなったって。Funkyさん全曲叩いて〜」
!(◎_◎;)
というわけでワシが全くタッチしていない新しいアルバム等の曲を一生懸命譜面にしている。
「叩けない曲は別の曲に変更していいから」
とか言われるのだが、
「叩けない」などと言われたらワシ自身の「メンツ」に関わることなので、こうして全曲譜面にしているというわけだ。
さてそんなわけで今回のこのツアー、
最終日の赤峰コンサートは、どういうわけだかボーカル以外全員日本人のバンドになってしまったというわけだ。
全くもってこいつらはいっぱいツアーをやる。
この規模のツアーを年間数本やっているのでLaoWuは全然家に帰って来ない・・・
旦那がずーっと家に帰って来ないわけだから、ブチ切れた奥さんの愚痴を時々ワシが聞かねばならないという毎日である(>_<)
まあ知り合った頃には食うや食わずのバンドだったこいつらが、
今ではこうして全中国ツアーが出来て、
どの都市でもライブハウスが満杯になろうというほどになったのだから、
奥さんはともかく(笑)ワシにとっては非常に嬉しいことである。
だいたいにしてこのLaoWuという男、
およそ「成功したい」とか「金が欲しい」とかに対して全く無頓着な人間である。
バンドはヒット曲が出ればボーカルひとりで金が稼げるというのに、
「今回のライブはひとりで来て下さい」
などと言われたら、
「じゃあ4人友達連れてっていいか?寂しいから」
などと言うような男である。
メンバーチェンジも自分からは絶対に言い出せない。
最初のドラマーをチェンジするのに一年かかったという話も聞いたことがある。
爆風銃(Bop Gun)のメンバーを40人もメンバーチェンジして、
最後にはケンカ別れしてバンドを解散させたワシなんかと真反対である。
女性ベーシストのLinNarが妊娠した時も、
生まれても子育てとかあるわけだからメンバーチェンジを考えていたのだが言い出せない。
「じゃあしばらく休めよ」
となって、彼女は子育てのためアメリカに移住。
でも
「アメリカにいたってただの主婦、でも中国に帰ってくればロックスター」
というわけで最近また長いツアーの時には子供を預けてバンドに復帰している。
とある音楽関係者がワシにこんなこと言ったことがある。
「いいバンドなんだけどねぇ・・・惜しいよねぇ・・・ドラムとベース・・・
どうしてメンバーチェンジしないのかねぇ・・・」
そんな男じゃないんですよ、そう言いたかったんだけど、説明が難しそうだったからその言葉を飲み込んだ。
ところがここに来て、メシ食ってる時にLaoWuがこんなことを言った。
「来年からツアーはこのメンバーで廻ることにするから〜」
!(◎_◎;)
「とりあえず春は3ヶ月ぐらい、夏はフェスとかに出て、秋はまた3ヶ月ぐらい・・・」
!(◎_◎;)!(◎_◎;)
バンド内に何があったのかはわからない。
ケンカするような男じゃないから、きっとみんなこの長いツアーには疲れ果ててしまったのだろう。
ドラムのFangFangもギターのMiaoJiaも子供が生まれたばっかり、
ベースのLinNarも子供ずーっと旦那に預けてほとんどツアーなんか廻ってたらそれこそ家庭崩壊してしまうだろう・・・
ワシはええよ、どうせそんな人生やし(笑)
しゃーないなぁ〜お前がそんなに家に帰りたくないならワシが付き合ってやろう!!
しかしワシまで院子におらんなったら誰がLaoWuの奥さんの愚痴を聞いてやるんじゃろう・・・
まあバンドマンと結婚したんだからと思って我慢して下され!!
Posted by ファンキー末吉 at:10:27 | 固定リンク
2017年1月12日
去年の移動距離
和佐田が「去年は何本ライブをやった」とか自慢するので、
じゃあワシは「去年はどれだけ移動した」と自慢し返したろうと思って集計してみました!!(ヒマなんかい!!(笑))
1/1 新余 武漢 500 km
1/2 武漢 大阪 2000 km
1/3 大阪 豊橋 200 km
1/4 豊橋 高知 400 km
1/9 高知 東京 600 km
1/12 東京 名古屋 300 km
1/13 名古屋 北京 1800 km
1/14 北京 连云港 600 km
1/16 连云港 北京 600 km
1/23 北京 上海 1300 km
1/25 上海 北京 1300 km
1/29 北京 名古屋 1800 km
1月ぶん合計:11400km
2/1 名古屋 大阪 100 km
大阪 北京 1800 km
2/5 北京 大阪 1800 km
2/7 大阪 東京 400 km
2/14 東京 志賀高原 200 km
2/18 志賀高原 名古屋 200 km
名古屋 上海 1500 km
2/20 上海 無錫 100 km
2/22 無錫 上海 100 km
上海 连云港 800 km
2/23 连云港 青島 500 km
2/25 青島 北京 800 km
2月ぶん合計:8300km
3/2 北京 青島 800 km
3/3 青島 北京 800 km
3/8 北京 東京 2100 km
3/10 東京 北京 2100 km
3/21 北京 東京 2100 km
東京 野沢温泉 200 km
3/24 野沢温泉 東京 200 km
3/26 東京 香港 2900 km
3/30 香港 クアラルンプール 2500 km
クアラルンプール シドニー 6600 km
3月ぶん合計:20300km
4/7 シドニー クアラルンプール 6600 km
4/10 クアラルンプール 東京 5300 km
4/13 東京 大阪 400 km
4/14 大阪 名古屋 100 km
4/15 名古屋 東京 300 km
4/18 東京 北京 2100 km
4/29 北京 洛陽 700 km
4月ぶん合計:15500km
5/1 洛陽 蘇州 800 km
5/2 蘇州 寧波 200 km
5/3 寧波 北京 1200 km
5/12 北京 東京 2100 km
5/15 東京 豊橋 200 km
5/16 豊橋 名古屋 100 km
名古屋 北京 1800 km
5/19 北京 岳陽 1200 km
5/21 岳陽 株洲 200 km
5/22 株洲 北京 1600 km
5月ぶん合計:9400km
6/4 北京 西安 900 km
6/6 西安 東京 2800 km
6/7 東京 上海 1800 km
上海 長沙 900 km
6/9 長沙 北京 1300 km
6/23 北京 東京 2100 km
6/25 東京 上海 1800 km
上海 永康 300 km
6/26 永康 北京 1300 km
6/27 北京 天津 100 km
6/29 天津 東京 2000 km
6月ぶん合計:15300km
7/1 東京 浜松 200 km
7/2 浜松 東京 200 km
7/4 東京 名古屋 300 km
7/5 名古屋 上海 1500 km
7/7 上海 名古屋 1500 km
名古屋 岩見沢 1000 km
7/9 岩見沢 富良野 100 km
7/11 富良野 札幌 100 km
札幌 東京 800 km
7/16 東京 バンコク 4600 km
7/18 バンコク 北京 3300 km
7/23 北京 青島 800 km
7/25 青島 北京 800 km
7/29 北京 太原 400 km
7月ぶん合計:15600km
8/2 太原 銀川 600 km
8/4 銀川 北京 900 km
北京 東京 2100 km
8/10 東京 高知 800 km
8/13 高知 東京 800 km
8/15 東京 バンコク 4600 km
バンコク 西安 2600 km
8/21 西安 北京 900 km
8/26 北京 長春 900 km
8/28 長春 北京 900 km
8/31 北京 東京 2100 km
8月ぶん合計:17200km
9/2 東京 河口湖 100 km
9/3 河口湖 東京 100 km
9/5 東京 北京 2100 km
9/14 北京 天津 100 km
9/15 天津 北京 100 km
9/16 北京 恩施 1600 km
9/18 恩施 重慶 600 km
9/20 重慶 成都 500 km
9/21 成都 北京 2000 km
9/23 北京 上海 1300 km
9/25 上海 北京 1300 km
9月ぶん合計:9800km
10/2 北京 泰山 600 km
10/4 泰山 北京 600 km
10/6 北京 重慶 1900 km
10/7 重慶 大理 1500 km
10/9 大理 昆明 400 km
10/10 昆明 北京 3000 km
10/12 北京 ミラノ 8000 km
10/16 ミラノ バンコク 9000 km
バンコク 東京 4600 km
10/20 東京 北京 2100 km
10/22 北京 淄博 600 km
10/24 淄博 北京 600 km
10/26 北京 バンコク 3300 km
10/30 バンコク 北京 3300 km
10月ぶん合計:39500km
11/2 北京 東京 2100 km
11/6 東京 クアラルンプール 5300 km
クアラルンプール バンコク 1200 km
11/9 バンコク クアラルンプール 1200 km
クアラルンプール 東京 5300 km
11/11 東京 天津 2100 km
天津 北京 100 km
11/18 北京 上海 1300 km
11/23 上海 北京 1300 km
11/26 北京 宣化 200 km
11/27 宣化 北京 200 km
11/29 北京 東京 2100 km
東京 高知 800 km
11/30 高知 岡山 200 km
11月ぶん合計:23400km
12/1 岡山 神戸 200 km
12/2 神戸 大阪 100 km
12/3 大阪 東京 400 km
12/8 東京 名古屋 300 km
12/9 名古屋 上海 1500 km
上海 バンコク 2900 km
12/15 バンコク 北京 3300 km
12/17 北京 义乌 1700 km
12/18 义乌 北京 1700 km
12/20 北京 済南 500 km
12/21 済南 青島 400 km
12/22 青島 昆明 3300 km
昆明 大理 400 km
12/25 大理 昆明 400 km
12/26 昆明 北京 3000 km
12/29 北京 三亜 3400 km
12/31 三亜 北京 3400 km
12月ぶん合計:26900km
一年の合計:212600 km
地球一周をだいたい4万kmとして、去年はだいたい5周半した計算になるな(笑)
見れば10月はひと月でほぼ一周しとる!(◎_◎;)
やっぱイタリアは遠いということやな・・・
Wingさんがまたワールドツアー入れてくれたら今年は地球6周も夢ではないな(笑)・・・
Posted by ファンキー末吉 at:19:44 | 固定リンク
2016年12月21日
桃源郷は遠くにありて思ふもの・・・
日本での10本連続来日ツアーで(というよりその飲み会で)風邪をひいてしまい、
治すべく暖かいタイに飛んでまた飲み過ぎで風邪を悪化させてしまい、
北京に帰って風邪をおして仕事などをしてたら何と今までにない環境汚染!(◎_◎;)
今抱えている仕事はプロデュース関係だけなのでパソコンさえあればどこでも出来る!!
とばかりに北京脱出を試みた・・・
寒くなくて空気もよくてのんびり出来るというならやはりここではないか!!
以上はこのブログ記事より雲南省大理
以下はこのブログ記事より雲南省麗江
わざわざ外国になんか行かずとも自国にこんな桃源郷があるのだからそちらに行けばいいではないか!!!
というわけでチケットを探す・・・
大理や麗江までは直行便はないので雲南省の省都である昆明で乗り換えるのだが、
北京ー昆明は当日のチケットはさすがに高く、
済南ー昆明なら1万円以下であるぞ!!!
というわけでポチリ!!
あとは陸路で済南まで行けばよいだけである。
方言(FangYan)が用意してくれた防毒マスク(笑)を付けていざ山東省済南まで!!
ちなみに旅は気のまま風の吹くままということで、
この時点でまだ北京ー済南の切符は押さえていない。
時間はあることだしゆっくり北京南駅まで行って、
着いてから乗れる便の切符を買って乗ればいいと・・・
ところが列車に乗った途端にメッセージが届いた。
【去哪儿网】【航班取消通知】您在去哪儿网购买的2016-12-20 济南到昆明 KY8206航班已取消。
!(◎_◎;)
慌ててブッキングした去哪儿网のアプリで確認するがそちらは取消、
だがもうひとつのアプリでは遅延になっている・・・
キャンセルだろうがどうだろうが、
もう列車の切符を買って乗ってしまっているのだ。
このまま降りて北京に引き返すわけにもいかない・・・
とりあえず済南空港まで行ってみて、
遅延だったらそのまま乗って、
キャンセルだったら一泊して次の日のにでも乗ればいい。
とりあえずは北京を脱出出来たらそれでいいではないか・・・
・・・と思ってたら済南に着いてみたら北京に負けず劣らずむっちゃ汚染(>_<)
調べてみたら汚染は北京だけではなく中国東部は全部汚染されてるではないか!!
北京から逃げて来たつもりで汚染の真っ只中の山東省・・・(>_<)
視界不良で高速道路は封鎖され、
済南西駅から空港までタクシーはのろのろ運転・・・
空港に着いた頃には予定飛行機の出発時刻でした・・・
もし遅延ならそのまま乗ればと思っていたところ、
遅延どころか全ての便が欠航!(◎_◎;)
まあこの視界不良ではねぇ・・・
というわけで済南宿泊決定!!
・・・と言ってもやることはいっぱいある。
まず昆明に取っていたホテルのキャンセル。
そして明日の朝一番で取ってた昆明ー大理の便のキャンセル・・・
しかしこの航空券は航空会社が違うためキャンセル不可能(>_<)
まあ数千円やったからええか・・・
明日雲南まで行ける便がないかと探したら、
西安経由で麗江まで行ける便があったのでそれを押さえておく・・・
そしてホテル!!
空港には欠航で乗れなかった人がたくさんいるためどこも満室!!
そんな中で空港からも近い素敵な客栈(ホテルよりもランクが低い宿泊施設)があったのでポチリ!!
お金も払っていざその場所に行ってみるとそんな客栈など影も形もない・・・
載っている番号に電話しても使われてないので仕方ないので飲む!!
飲みながらサイトにクレームを入れるのだが、
サイトとしてもこのような事態はあまり経験がないらしく、
結局全額払い戻してくれて一件落着!!
・・・と思ったら今度はまた別のメッセージが入る・・・
【去哪儿网】【航班取消通知】您在去哪儿网购买的2016-12-21 济南到西安 JR2429航班已取消。
!(◎_◎;)・・・西安行きも飛ばんか・・・こりゃもう空路ではこのスモッグだらけの街から出れんな・・・
そんな中、ネットではこんなCNNニュースが流れていた。
そうかぁ・・・ワシのような人間を「スモッグ難民」と言うのか・・・(納得)
とりあえずは陸路でこの街を脱出することを考えよう・・・
Posted by ファンキー末吉 at:06:56 | 固定リンク
2016年10月12日
またもや中国ロック界を騒がすインタビュー記事
目が覚めたらまた微信(WeChat)でこんな記事がいっぱいいっぱいリツイートされている。
这个日本人亲身经历了黄家驹的离世,见证了中国摇滚26年,如今却待在中国不愿离开
(この日本人は黄家駒の死を経て中国ロックの26年を見届け、今も中国にいて離れたくないと思っている)
自分の記事がネットを騒がすことはよくあったが、これはちょっと大きいな・・・
ちょいとここに残しておこうと思う・・・
不得不说,日本的大仙儿太多了。但要科普的话,滚君最先想到的不是什么大牌乐队,而是常年混迹在中国的"怪蜀黍"Funky末吉。
(言うまでもなく、日本には大仙人はたくさんいるけれども、一番伝えるべきだと私が思うのはどんなビッグなバンドよりも、この長年中国にいる「変なおじさん」Funky末吉であろう)
最近のネット言葉「怪蜀黍(変なおじさん)」で始まるこの長い長い文章は、
その膨大な取材力と筆者の思い入れと共に、
読み進むにつれて、本当にこの変なおじさんが中国ロックと共に長く生き、尻尾が8つに分かれた妖怪となってこの世に存在しているかの印象を受けるようになって来る(笑)
很多朋友都见识过他的鼓技
(たくさんの友人たちは彼のドラムの技術は目にしたことがあるだろう)
ということで紹介されているのが許魏(Xu Wei)の楽曲と伝説のコンサートでの鼓三儿とのドラムバトルの映像(ワシ・・・ほとんど写ってないがな・・・笑)
その後鼓三儿も死んでしまったのでこの映像も伝説化してしまってるなぁ・・・
そしてどこから拾って来たのかX.Y.Z.→Aのアー写を爆風スランプとして紹介してるのはご愛嬌として、Funky末吉が90年から黒豹やBEYONDと出会った話が始まってゆく・・・
そしてこのインタビュー映像となるのだが・・・
愛ちゃんの結婚インタビューの中国語に比べたらワシの中国語・・・ヘタやな(>_<)
ある日香港からインタビューさせてくれと言われて、
微信(WeChat)の無料音声通話で寝っ転がって話していた記憶があるが・・・
こんな風に使われていたのね(笑)
この写真なんかどこから探して来たんやろ・・・
WINGおらんし・・・喜多郎さんおるし・・・(笑)
そしてここからが不思議なのだが、
他曾家日本的高知新闻上连载过几期他与Beyond的故事,其中就详细描述了家驹去世时的场景
(彼は日本の高知新聞での連載においてBEYONDの話や、その中には家駒がこの世を去る時の場景について書かれてある)
高知新聞の連載を香港で入手したのか?!!!(◎_◎;)
そしてその文章を中国語に訳している・・・
新聞の写真まであるし・・・(驚)
まあその内容は私の自叙伝に書いたのと同じなのでここでは割愛するが、
日本人に向けて日本語で書かれた本がこうして中国語で紹介されるのは初めてのことで、
それがやはり中国人にとってはインパクトがかなり大きかったのだろうと思う・・・
世界中の中華圏では知らない人はいない日本では全く無名なロッカーがその日本で死んでゆく・・・
その無念さ、無力感、絶望感・・・
それを胸に抱いて亜州鼓魂というアルバムを作り、
そしてその中の家駒への追悼曲「Memories」の音源が紹介される・・・
なんかねぇ・・・この中国語の文章を読んでるうちにいろんなことが思い出されて来て胸が熱くなった。
ワシが絶望したのは「人が死ぬ」ということではない。
この高知新聞のタイトルでも書かれているように、
「無名は価値がないのか?」
ということなのである。
まあいわゆる「芸能界」というところの価値観とこの日に「決別」したのであろう・・・
そして中国に渡って、この新しい「仲間たち」と新しい価値観を求めて戦って来た。
Funky和中国一代最朝气、最热血的年轻人一起变老,也见证了中国摇滚乐的兴衰和发展
(Funkyは中国のあの輝ける世代、最もエネルギッシュな若者と一緒に年を取り、そして中国ロックの繁栄と衰退を見届けて来た)
そして最後には当時のステージ衣装であった毛沢東のTシャツ、
つまり「毛沢東を背負って」ドラムを叩く写真が紹介されている。
まさしく「怪蜀黍(変なおじさん)」(笑)
この記事は黄家駒を中心に綴られていてあまりにも「伝説」っぽ過ぎて、
「何や俺・・・もうすぐ死ぬんちゃうん?」
などと思ってしまうが、
このまま生き続けてドラムを叩き続ければきっと尻尾が8つに分かれて「怪蜀黍(変なおじさん)」が更にもっと怪物化してゆくことだろう・・・
人間を超えるぞ(笑)
日本では自分のインタビュー記事なんか破って捨ててしまいたいものばっかりだったが、
大きな情熱でこの記事をまとめて下さった著者に敬意と感謝を捧げます。
どうもありがとう・・・
Posted by ファンキー末吉 at:06:59 | 固定リンク
2016年4月 4日
葉世荣(Yip Sai Wing)という男
この男とはもう25年の付き合いになる。
いい時も悪い時も一緒・・・というより、
人間やはりどん底の時に一緒にいた友達関係は一生の付き合いになるのかも知れない・・・
中華圏で今だにどのバンドも超えることが出来ない大成功を収めたバンド、
そのバンドのボーカリストが日本で事故で亡くなり、バンドは活動停止して、
残された彼はドラム台を降り、立ち上がってギターを持って歌を歌った。
今までリードボーカルなどそんなに取ったことがなかった彼にとってかなりの苦難の道だったようだ。
彼がギターを持って広東省の田舎町のキャバレーなどを廻っているのによく遊びに行ったりした。
その後のBEYOND再結成からは残された3人で立派にリードボーカルを割り振りし、
(今思えばC-C-Bのようじゃ)
今では彼は歌手として中国大陸では3人の中で一番成功しているように見える。
でもねぇ、お金的にはどうなのだろう・・・
彼はいつも自分のバンドWING BANDを連れて廻り、
経費だけを考えたら、あの時のようにギター片手に、もしくはカラオケ持ってBEYONDのヒット曲歌って廻ったら莫大な富を稼げたはずである。
ワシは長年の付き合いでなしくずしにWING BANDの一員にされているが(笑)
彼は大陸の小さな都市などでのコンサートにはワシではなく香港の若いドラマーを連れてゆく。
「若手を育てたい」という考えてなのだろう、ワシは今回のように海外の舞台や、北京や香港など大事な大きな舞台にだけ呼ばれるという感じである。
そしてワシがドラムを叩くコンサートでも必ずその若いドラマーも一緒に呼び、
ゲストのバンド部分や彼にもドラムを叩く場を用意する。
経費だけを考えてたら人数を減らせば減らすほどいいのは当たり前だが、
彼の頭にはそういう考えてはどうもないようだ・・・
その昔一緒に飲んでた時、
「ビジネス的にオイシイ話が来たので投資したい」
みたいな話をしてたので
「やめとけやめとけ」
と言ってたら、
「僕は理財の才能があるから大丈夫」
などと言ってたから本気で止めた。
直接は知らないが、この男は過去にどれだけの人間に騙されて金を失ったことだろうと想像する・・・
だいたい金儲けの上手い奴なら若いドラマーなんてギャラが安いから利用してるだけで、扱い方自体が違うはずである。
また、前回の北京公演の時に感じたことがある。
彼はオープニングアクトとしてマレーシアから「异种(YiZhong)」というバンドを呼んだ。
言っちゃぁ悪いがいい年したおっさんのバンドである。
金のことだけを考えてたら売れ線のバンドとかにチャンスを与えて、
それが成功したらそこからまた自分にお金が落ちて・・・
というのがむしろ「普通」であるのだろうが・・・
「Funky、紹介するよ、このバンドはなぁ・・・」
それを聞いてワシは「ああこいつらしいな」と思った。
彼らは1988年にBEYONDが最初に北京公演をやった時のオープニングアクトだったバンドであったそうだ。
何処かで再会した彼はきっと彼らにこう言ったのだろう。
「懐かしいなぁ・・・まだバンドやってんの?じゃあ世界ツアー一緒に廻ろうよ」
そんなWINGのワールドツアー、香港での楽屋でワシにとっても懐かしい人と出会った。
元BEYONDの敏腕マネージャー「レスリー」である。
BEYONDを中華圏最大の成功に導いた立役者、
北京に紅星レコードを設立して中国大陸のロックブームの火付け役となった敏腕マネージャー・・・
その後はBEYONDと契約関係でもめたとか、
紅星では目の出ないロックバンドを片っ端から青田刈りしてるとか言われていたが、
ワシの名前を中国じゅうに響き渡らせた「許魏(XuWei)」をはじめとして、今中国で一線で活躍する数多くのロックスターは、彼がいなければ世に出てなかったかも知れない・・・
実はその紅星で制作を任されていたのが、
現在ワシが一番一緒に仕事をしているLaoLuanである。
つまりワシはLaoLuanと共にレスリーが大陸でやり残した大きな仕事を引き継いでいるとも言えるだろう・・・
そのレスリーも音楽業界を退いて長い。
噂ではオーストラリアに移民して音楽の仕事は一切していないという噂だ・・・
そんな彼をWINGが自分の香港でのコンサートに呼んだ。
北京コンサートにも旅費や滞在費を出して呼んだと言う・・・
何故か?・・・
ここからは想像でしかないが、
ワシがその前にレスリーと会ったのは1993年東京女子医大病院、
つまりBEYONDのボーカル黄家駒が命を落とす間際である。
全くの想像でしかないが、
レスリーはその時ちょっと居場所のない感じだった。
BEYONDとは契約関係でもめていると聞いてたし、
そのBEYONDと契約したアミューズはレスリーを目の上のタンコブのように思っていたのだろう、そんなレスリーが病室に現れてアミューズのスタッフが右往左往していたのを覚えている。
その後、黄家駒も死んで、BEYONDのメンバーもそれぞれの活動を開始して、
「レスリー元気かい?僕は今歌を歌ってるんだ。よかったら見に来てくれないか?」
そう言ってWINGがレスリーをオーストラリアから香港、そして北京へと呼び寄せたことは想像に難くない。
特に北京では、30年近くの時を越えて、同じこの北京で、自分がマレーシアからブッキングした「异种(YiZhong)」と再会することとなる。
どんな気持ちだっただろう・・・
レスリーの気持ちに火がついたと言えば言い過ぎだろうか・・・
結果的にはレスリー自身がこのWING世界ツアーのオーストラリア公演をブッキングすることとなったというわけだ・・・
もちろんWINGは計算ずくでそう仕組んだわけではない。
WINGの「気持ち」とその「友情」に答えたのではないかとワシはそう思う。
元敏腕マネージャーは頑張った!!
蓋を開けてみたら会場は中華系のオーディエンスで満杯!!
中華系以外のオーストラリア人には全く無名のこの男が歌う、
自分が昔プロデュースしたBEYONDの曲を、
自分が一生懸命プロモーションして集めたオーディエンスが全員で大合唱する・・・
そんな姿をレスリーはどんな気持ちでステージ袖から見ていたのだろう・・・
自分が30年前にBEYOND北京公演のオープニングアクトでブッキングしたマレーシアのバンドが、30年の時を越えて今度は自分の住むオーストラリアの自分が作り上げたステージの上で歌っている・・・
そんな姿を彼はどんな気持ちで眺めていたのだろう・・・
コンサートは大成功に終わり、一行は打ち上げ会場に向かう。
また豪勢な中華料理を想像してたのだが、予想に反して打ち上げ会場は中華系のカラオケ屋。
ここでワシはだんだんとこのツアーのからくりを理解してゆく・・・
いくらチケット代が十数年前のKISSよりも高くたって、
アリーナクラスではない会場に高々数百人満杯にしたところで、
これだけの数のツアーメンバーの旅費と食事、
そしてこの豪勢なホテル代を全部支払ったら元が取れるわけがない。
おそらくこの豪勢なホテルのオーナーも、
豪勢な食事を食べたレストランのオーナーも、
そしてこの中華系カラオケ屋のオーナーも全て中国人!!
その中国人実業家達がこのコンサートのスポンサードをしていることは間違いないだろう。
だからその主役であるWINGはそのスポンサーの店は廻らねばならない。
WINGがスポンサー達を接待して、
スポンサーは命がけでワシらバンドメンバーやツアーメンバーを接待する。
そんな一風変わった変な循環がワシには感じ取れた・・・
世も更けてカラオケ屋で出前の中華をつまみながらレスリーの帰りを待つワシらに、グループチャットでレスリーが写真を送って来た。
「まだ終わらないよ〜」
ワシらが飲んでいる間に、主催者であるレスリーは現地スタッフと共にまだ片付けをしている。
どんな気持ちで片付けをしてたのだろう・・・
祭りの後の寂しさ?・・・もしくは昔のこんな風景を思い出してノスタルジー?・・・
次の日、WINGは地元の大金持ちのプライベートジェット機で遊びに行った。
バンドのメンバーは3人は香港に帰ったが、
ほとんどの人間は次のマレーシア公演までここに滞在する。
そして地元の人達はワシらバンドメンバーやツアーメンバーを接待する・・・
こちらに来て1食目の中華料理屋さんで今晩の晩メシをご馳走になった。
そして料理がない打ち上げのカラオケ屋に料理を差し入れたのもこの中華料理屋だったのだが、
ここのオーナーのロゼッタは実はBEYONDの初期スタッフだった。
爆風で言うと初期ファンクラブスタッフの「みのよ」みたいなもんだろうか・・・
アマチュアだったBEYONDに惚れ込んで押しかけスタッフをして、
そこにレスリーが契約書持って現れて、
「じゃあ私はもういいわ」とバンドから離れて、
その後BEYONDは大ブレイク・・・
その後レスリーもBEYONDを離れて、
気がついたら偶然にも同じオーストラリアに移民して、
こうして今度は一緒に助け合ってこのWINGのコンサートをサポートしている・・・
オーストラリアではワシらは北京語、広東語、そして英語を使って会話をするが、
英語で的確に言い表せない言葉がある・・・
縁・・・中国語で「缘分(YuanFen)」
WINGのお陰で切れていたいろんな「缘分(YuanFen)」がまた繋がってゆく・・・
かく言うワシもびっくりするような「缘分(YuanFen)」があった。
マレーシアのバンド「异种(YiZhong)」のベーシスト
(まあ彼は若いから新メンバーなのだろうが)
は実はワシがマレーシアで行ったひとりドラムの時、ブログでも「全作大人買いしてくれた青年が」と書いているその青年が彼だったのだ!!
WINGがワシにくれたのは毎回いくら入ってるかわからないギャラ代わりの「红包(HongBao)」だけではない。
お金では買えないいろんな「缘分(YuanFen)」をくれた。
レスリーやロゼッタも、決してWINGの金儲けに利用されて動いたのではない。
きっとお金で買えないいろんなものをWINGからもらったのではないかと思う。
お金のことだけを考えてたらカラオケ持ってひとりでくればいい。
こんだけのバンドメンバー連れて、マレーシアからオープニングアクトのバンドまで連れて来たんじゃWINGだけじゃなく誰も金を儲けることなんか出来ない。
でも金じゃないいろんなものを得たと感じるのはワシだけではないと思うぞ・・・
最後に少し・・・
彼はコンサート当日に突然『風継続吹』という曲をを歌うと言い出した。
送られて来た音源を聞いてみたら山口百恵の『さよならの向う側』である。
実はこの日、4月1日は彼の友人でもあったのだろう、自殺したレスリー・チャンの命日。
「1コーラスだけでいいから彼の曲を歌いたいな」と思ったのだろう。
人は生きていればいろんな出会いがあって別れがある。
それを引っくるめて中国語で「缘分(YuanFen)」と言う。
バンド仲間の事故死、フィアンセの事故死、そしてお父さんの死・・・
そんなものを全て乗り越えて、彼はその亡くなったバンド仲間の歌を歌う・・・
そしてそこにまた新しい「缘分(YuanFen)」が生まれてゆく・・・
葉世荣(Yip Sai Wing)・・・
友達思いで後輩思いで、バカでお人好しで本当に金儲けがヘタな男・・・
ワシのとても大切な友人である。
Posted by ファンキー末吉 at:02:31 | 固定リンク
2016年4月 1日
WING世界ツアー2016年オーストラリア初日
香港でのリハを終え、今回のワールドツアーの最初の公演地であるオーストラリアはシドニーにやって来た。
「僕は中国人がいる国だったらどこにでも行くよ。逆にその他の人間は僕のこと知らないからね」
と笑って言ってたWINGさん。
確かにオーストラリアには80万人近くの中華系の移民がいるらしく、実際こちらに来てみてから感じたのは広東語を話す人なんかもかなり多いということである。
着いて最初の食事である昼メシの時に行った中華料理屋さんでも、決して広東料理専門店ではないのに従業員は全て広東語を話してたし、晩メシの超高級中華料理屋でも広東語が普通に話されてた。
そうそう、
「香港人とツアーに行くと中華しか食べないんだよ」
とよく言われるが、
WINGの世界ツアーでも毎回ほぼ全食中華である(笑)
ワシなんかは「オーストラリアと言えばオージービーフ」で、
過去のWINGツアーでもそうだったが、オーストラリアならぶっちして自分ひとりでオージービーフとオーストラリアワインと行きたいところなのだが、
ご一緒してると滅多に食べられない高級中華にありつけるのでそのタイミングが難しい・・・
今回は何とカジノが入っている高級ホテルに宿泊なのだが、
晩メシはその高級ホテルのオーナーなのか何やら偉い人と共に食事である。
今まで見たことがない巨大なカニ!!(◎_◎;)
足の部分だけでこんなに!!
巨大甲羅にて焼きそば!!これが上品な味にカニ味噌の香りで絶品!!
そしてアワビ!!
をしゃぶしゃぶ!!!(◎_◎;)
でもね、料理だけではない。
この後「じゃあ飲みに行こう」となって行ったのが何とカジノのVIPルーム!(◎_◎;)
どうもWINGの席に座ってた偉い人たちの中にはこのカジノのオーナーがいたらしく、その人の案内によるものらしい・・・
「パスポートは持ってるか?」
どうもVIPルームに入るにはパスポートが必要らしい・・・
「僕はパスを持ってるから」
とWINGはそれ専用のペラペラ紙を見せてくれた。
カジノなんか入るのは生まれて初めてで、
入ったら入ったでスロットマシンやルーレットなどギャンブル台が並んでて映画なんかで見るカジノと全く同じなのでむっちゃ緊張した。
(写真自粛・・・というか禁止か?)
そのカジノを抜けて専用エレベーターで最上階の17階に上がる。
いくつかのギャンブル台が並んでて中国人がディーラー相手にブラックジャックをやっている・・・
賭け金:最低1,000$最高500,000$
!(◎_◎;)・・・大雑把に計算して最低で10万円足らず?!!!
最高額賭けたら一勝負5億円?!!!(驚)
どんな人がこんなギャンブルをやってるのかと思ったら全員中国人!(◎_◎;)
賭けてるチップが100万円だとすると、
それで賭けてる人は優に毎回何百万の勝負をしている・・・
最上額のチップであろう、少し大きくて値段が書かれているのは100,000$・・・ってあーた!!いっせんまん?!!!(◎_◎;)
とある中国人・・・そのチップを何枚も賭けて、一勝負で高級マンションがぽんぽん飛んでゆく・・・(眩暈)
興味深いのはそれを見ているワシらは額を計算して目がクラクラしているのに、
そんな大金を賭けているご本人は買っても負けてもさほど気にしてない様子なことだ。
恐らくこれぐらいは「はした金」なのか、
もっと大きく勝ち負けした時にだけ感情を表に出すのだろう・・・
ワシらは隅っこのテーブルに座って、時々立ち上がってはその「はした金」の勝ち負けを覗き見してたのだが、
「コニャックでも飲むか」
と言うのでワシは大きく頷いた。
そもそもは、何やらここでしか飲めない数十万のコニャックをご馳走してくれると言うからついて来たのだ。
これ!!
日本円で80万円ほどする代物らしい!!!(◎_◎;)
(ちなみに瓶はクリスタルガラスで作られているらしい・・・)
これを惜しげもなくワシやバンドのメンバーに振舞ってくれる(驚)
まあ一瞬のうちにマンション何軒かが買える金が動いているこのカジノのオーナーにとってはこのコニャック一本ぐらい「はした金」みたいなもんか?・・・(恐)
飲みながらこんなことを考えた・・・
オーナーがもしこの貧乏バンドメンバーからコニャックの元を取ろうと思ったとしたら、一人に一枚ずつチップを振る舞えばよい。
スタッフも合わせて20人ほどが一度だけそのチップで博打をすればそれでいいのだ。
10万円が動くその勝負を一度だけ体験すればそれでいい。
20人いたら2〜3人は運良く勝つ人が現れるだろう・・・
その人は「10万円儲かった」と言ってすぐにそのチップを両替するか?
またその20万円を賭けて勝負をしたらもう後には引けない・・・
このホテルにはATMも山ほど設置されてるし、聞くところによるとクレジットカードでチップも買えるらしい・・・
20人いて一人がひと財産全部スってしまえばコニャックどころかみんなに配った最初のチップぐらいすぐ元が取れてしまうんではないのか・・・(恐)
帰り際にパスポートを返してくれたのだが、
それぞれにWINGと同じくこのVIPルームのパスが配られた。
でもワシはもう足を踏み入れないと思う・・・
博打は人生だけでもう十分!!
Posted by ファンキー末吉 at:12:44 | 固定リンク
2016年3月 6日
青島の领导(LingDao)たち・・・
志賀高原から湯沢温泉にも行って日本を堪能したLuanShuは、
ちょうどワシがひとりドラムツアーで青島に着いた頃に北京に帰り着いたようだ。
「お前が青島にいるなら俺も行く!!
旧正月は里帰りしてないからどうせ行かなきゃなんないしな・・・」
などと言ってた彼も、さすがに帰国してすぐに青島には来れなかったようだ。
ワシも北京に帰って一緒に飲んだ時、
「俺は3月2日に里帰りするけどお前はどうする?」
と言うので、
「どうするって・・・じゃあ行こうかな・・・」
というわけでまた青島に行くことになった。
「じゃあ飛行機取ってやるよ」
と大盤振る舞い。
しかも
「悪いなぁ、チケット取ったんだけどファーストクラスじゃないんだ、ごめんね」
ってワシ・・・国内でファーストクラスなんか乗ったことないんですけど・・・(笑)
じゃあ2日の朝に空港で〜というわけで当日、
ワシは早めに空港に着いたのじゃがLuanShuが待てども待てども来ない(>_<)
道が混んでたからのようだが、さすがはVIP!!
飛び込みでギリギリ身体だけは乗れたようだ。
その代り荷物はNG!(>_<)
しかし翌日にはコネを使って別便で荷物をホテルに送り届けるほどのVIPぶり(笑)
そのホテルっつうのもまた高級ホテルでね〜
毎回梁棟(Liang Dong)が毎回無理していいホテル取ってくれるんだけどそのレベルを軽く超えたな・・・
(もちろんホテル代も出してくれている)
さてこのホテルを拠点に毎食の暴飲暴食が始まるのだが、
その相手が全部青島市のお偉方ばっか!(◎_◎;)
青島市長だの青島電視台の局長だの・・・
ちなみに中国語でこれらの偉い人のことを「领导(LingDao):指導者」と言う。
こんな人たちと一体どんなモノを食うかと言うと、
ある日の昼食などは日本で言うと迎賓館(行ったことないからわからんが)みたいなところで食事!!!(◎_◎;)
食事が始まります!!
テーブルに並べられた前菜の中でひときわ目を引くのがこれ!!
これ・・・霜降り牛肉で小鍋でしゃぶしゃぶして食うのかと思ったら、
なんとこれ・・・マグロのトロの霜降り!!!(◎_◎;)
こんなん初めて見たわ・・・(驚)
そしてスープ!!
このふわふわしたもんは実は豆腐!!
それに包丁でむっちゃ細かく切れ目を入れてこのようにしているのだ!(◎_◎;)
もう料理と言うよりは芸術!!(驚)
カニーーーーーー!!!!(涙)
これ何の泥魚かと思ったらフグーーーーー!!!(驚)
こんな料理法するのね・・・
しかもキモがちゃんとあるし・・・パクリ!!(感涙)
もうね、朝鮮人参なのか食ったことないようなんもあるし、
全部料理載せきれんぐらいのフルコース!!(涙)
極め付けはシメのラーメン!!
ラーメンは中国ではなく日本の文化だと思ってたが、
ここに来て初めて覆されるこの旨さ!!(涙)
中国人やれば出来るんでねーの!!
これそのまま「東京ラーメン」として売り出しても大流行りになるのではというレベル・・・
いや、何が使われてるかわからんがきっとコストが合わんな・・・
デザートのヨーグルトは自分で具を入れてお好みで!!
みたいな・・・
そんな豪勢な料理と、
結局青島に来て青島ビールを飲まずに高級ワインばかりを飲んでいるのだが、
またこの领导(LingDao)たちが飲むのよ〜・・・
ワシも最初のうちは場違いやし偉い人と一緒やと緊張するからイヤやったんやけど、
なんか人間酔っ払うとみんな一緒ね(笑)
晩飯食い終わって一緒に生バンドが入ってるパブに行くのぢゃが、
LuanShuがステージに上がって弾き語りで歌うのはいいとして、
その领导(LingDao)たちも代わる代わる上がって歌うのな(驚)
ちなみに市長だか誰かはワシのために「昴」を日本語で歌ってくれた。
(写真自粛)
面白いことに、领导(LingDao)が歌う時には照明を真っ暗にする!(◎_◎;)
聞けば、こんな偉い人がこんなところで歌なんか歌っている映像がUPされたら、
後々それがどのように使われて政治生命を脅かされたりするのを防ぐためだそうで、
なるほど中国・・・という感じである・・・
さてそんな音楽好きの领导(LingDao)たちがワシらを何やらとある共産党の施設に案内してくれた。
「共産党入党宣言」と書かれた物々しい張り紙の前で演奏するのは共産党お抱えのバンド???・・・
前の晩に领导(LingDao)と酔っ払って熱く語り合ってたLuanShuがワシに
「Funky!!喜べ!!青島で新しい仕事が始まるぞ!!バンドもんだ!!」
と叫んでいたが、このことか?・・・
共産党の歌や毛沢東を讃える歌など革命の歌を披露するのだが、
どこかで感じた似たような感覚・・・
そう!!北朝鮮!!!
でも大きく違うのがこの若いミュージシャン達がみんな「ロック」の洗礼を受けていること・・・
おそらくは物心ついた頃に聞いたのがこのLuanShuの在籍していた黒豹の音楽?
青春時代はワシが参加した許魏(Xu Wei)など中国ロックの名盤?
そんな二人が雁首揃えて自分の演奏を見てる・・・
そんなとてつもない緊張感の中、ディストーションのパワーコードや早弾きソロを駆使しして共産党の音楽を奏でる・・・
思えば中国のように「制度は社会主義、経済は資本主義」に進んでいる北朝鮮・・・
牡丹峰楽団などを率いて新しい革命の音楽によって国を治めようとしている金正恩第一書記がやりたかった音楽はこの世界なのではないか・・・
演奏後に领导(LingDao)に即されてアドバイスを述べるLuanShu・・・
「バンドの仕事ってこれか???・・・」
まあお前がやるんやったらやるけど・・・(笑)
思えばワシが初めて北京に来た25年前には共産党はこのLuanShuをはじめ中国のロックを目の敵にしていた。
それが今ではそのロックの人に教えを請う時代になった。
北朝鮮がいつかそうなる日が来てもおかしくない・・・
どれどれ今年また一回行って来るかな・・・
(注:写真は単なるイメージです。出典元はこちら)
Posted by ファンキー末吉 at:03:17 | 固定リンク
2015年12月28日
銃を持ったコンサート警備員
先日行われた内モンゴル自治区「包頭(BaoTou)」での布衣(BuYi)のコンサートに呼ばれて参加して来た。
彼らもちゃんとしたドラマーがいるのだからワシを呼ぶ必要は全然ないのだが、
まあきっと「楽しいから一緒に行こう」というノリなのだろう、
「とりあえず中国太鼓とロートタム叩いてね、ゲストでドラムも数曲」
という居ても居なくてもいいような存在として呼ばれて行った(笑)
ところが会場についてびっくり!!
なんとこの街最大の大劇場である!(◎_◎;)
暗くてちゃんと写ってないが2階席にもちゃんと人が入っている!(◎_◎;)
・・・いや〜偉くなったのう・・・
まあでもそんなでかい会場でのワンマンコンサートでも、
普段着でジャンバー着たまま自分でセッティングをしているのが老呉(LaoWu)らしくてよい(笑)
舞台監督もローディーもいない、
同行スタッフはファン上がりの女性マネージャーと、
PAエンジニア(中国では録音エンジニアがPAもする)の方言(FangYan)とその助手だけ。
舞台にはドラム台とアンプなどの楽器しかなく、
ただバックに大きな電光掲示板があるのでそこそこ大会場の雰囲気は出る・・・
まあこんな巨大な会場でも手作り感満載のまるで高校時代の自主コンサートのような雰囲気なのだが、
ひとつだけ大きな違いが警備員!!
中国ではコンサート会場は全て「国」の持ち物。
特に大勢の人間が集まるような会場は全て中国共産党が管理する。
そりゃそうだ、どっかの団体が大勢の人間集めて反政府集会なんかやられたら中国共産党としては黙っちゃいられないからね・・・
そこで(だと思うのだが)警備として派遣されるのは人民解放軍だったりして、
ワシも大きなコンサートなどでは迷彩服着た人民解放軍の一糸乱れぬ警備風景に背筋が冷たくなる思いをしたりする・・・
というのも、
1992年に爆風スランプを北京に連れて行ってラジオ北京の45周年記念イベントで演奏した時、
4曲演奏の予定だったのが1曲目で煽り過ぎたのか司会者が出て来て送り出しを始める。
構わずに2曲目のカウントを出して演奏を始めると司会者はすごすごと帰ってゆくのだが、
ステージから見下ろす位置にあるPA席で異変が起きた。
その迷彩服の人民解放軍(だと思う)が二人、PA席にやって来て音を全部落とさせようとするのだ。
日本から来たエンジニアは真面目なので必死に抵抗する。
そこでこのイベントをブッキングしてくれた中国のロック仲間がそれを止めようとやって来て間に入るのだが・・・
当時、長髪の若者が街を歩いているような時代ではなかった。
彼のような長髪は文字通り「ロックのシンボル」であった。
人民解放軍は止めに来た彼が中国人だと認識した瞬間に、
外国人PAエンジニアに対する態度とは明らかに違う態度を示した。
いきなり彼に殴る蹴るの暴行を行ったのだ。
中国のコンサートはアリーナに客を入れず真ん中に円形ステージを作るが一般的なのだが、
PA席はアリーナにあってその様子は2万人の観客全てから見えている。
そんな状況の中で人民解放軍は彼をめった打ちにし、
うずくまった彼に容赦なく軍靴で蹴りを入れた。
客席は騒然となり、ペットボトルが投げつけられて飛び交う中、
人民解放軍はもう動けなくなった彼の、ロックのシンボルとも言える長髪をつかんでボロ雑巾のように引きずって出て行った。
PAを完全に落とされ、音の出なくなったマイクと、
アンプの生音とドラムの生音だけで届け出を出した4曲を演奏し、
胸を張ってステージを降りたら・・・
そこには銃を持った人民解放軍が待ち構えていてワシらを別室に軟禁・・・
「さてどうなったでしょう・・・続きは本を買ってお読み下さい」
とワシはいつも「ひとりドラム」の時にそうやって話を締めるが、
こんなことが実際にあった時代、そんな時代も今は昔・・・
この日の布衣のコンサート、終わったらCDの即売会が行われ、
ワシも呼ばれて一生懸命サインなどをしてたのだが、
ファン達との記念撮影が終わって、最後にこの警備員達が恥ずかしそうにサインを求めて来た。
ご覧の通り、手には銃を持っている。
一番左の若者は写真撮影のためにわざわざ銃を構えてポーズをした・・・
腕章には「特警」と書かれている。
「武警(武装警察)」やこの「特警(特殊警察部隊)」などは人を射殺する権利を有すると聞く。
もしもこのコンサートで反政府的な活動をして暴動と発展したとしたら、
この人たちはお国のためにきっと容赦なく「暴徒」達を射殺するのだろう・・・
そんな「純粋な」若者がニコニコしてCDを買ってサインを求め、
こうして一緒に記念撮影をして笑顔でワシに握手をして帰ってゆく・・・
これが「中国」・・・今の「中国」なのである・・・
Posted by ファンキー末吉 at:09:34 | 固定リンク
2014年11月20日
マグロ漁船出航決定!!
前回のマグロ漁船が出航しなかったため、声をかけた渋谷有希子さんには大きな迷惑をかけてしまった。
と思ったらまたすぐに大きな話が転がり込んで来るのがここ中国である。
ことの始めは青島コンサートのリハーサルの時、
歌手として参加する馬上又が小声で話しかけて来た。
「ファンキーさん、大きな仕事があるんだけど是非あなたにやってもらいたい」
小声で話しかけて来るのでまるで「悪だくみ」である。
「ここでは詳しく話せないが」ということでワシはリハ終わりに彼に電話をかけた。
まるで一緒に悪だくみをしてるようである(笑)
聞けば本番30本の上にリハーサルが60本入り、
その全てのギャラが日本より高い(驚)
あまりにも大きな企画なので中国の音楽界にはまだ秘密にしたいのだろう、
というわけで詳しい内容はまだここでは書けないが、
要はロックミュージカルみたいな仕事である。
但し、いつもみたいな音楽監督の仕事でもなく、演奏者としての仕事でもない。
いや、厳密に言うと「演奏者」なのぢゃが、むしろ「出演者」である。
「え?俺・・・演技なんか出来んよ・・・」
戸惑うワシに彼はこう説明する。
「演技をする必要はない!!
ファンキーさんはいつものようにドラムを叩いてくれればいい!!
ドラムを叩いてるだけでヘタな役者より表現している、そんなプレイヤーを探してるんだ」
というわけで同じぐらい存在感を持つプレイヤーとして彼から田川ヒロアキの名前が上がった。
どこかで会ったかな?・・・映像でも見たのかな・・・と思ったら、
何度か田川くんを北京に連れて来てライブをやったうちの1本を偶然見に来ていたそうだ。
いろんな人を北京に連れて来たが、
それがこうして「仕事」としてつながってゆくということはおせっかい冥利に尽きることである・・・。
ドラムとギターは決まった、じゃあベースは?・・・
ということで先日の北京ライブに監督はじめ関係者全員が渋谷有希子さんのプレイを見に来たというわけだ。
結果は満場一致で決定!!
ついでにその時に出演してた小畑秀光まで乗船決定となったオマケ付きである(笑)
ちなみに彼は終演後に送って来たメッセージの中でこう語った。
「監督たち飯に連れてくから先に出るよ。
みんなみんなあんたのこと大好きだって、ばっちしだよ!!」
このライブは彼にとっては「ファンキー末吉ありき」のこの作品を監督にプレゼンする大事なライブでもあったのだろう・・・。
彼は昔からワシに絶対的な信頼と尊敬の念を抱いてくれてる。
きっかけはこんな些細なことだった。
一緒にレコーディングとバックバンドをやって中国ロックの新しい時代を作った許義(XuWei)の最初のライブの時・・・
当時ワシはこちらのスタジオミュージシャンとして絶頂期で、
多い時にはヒットチャートのほとんどのドラムはワシが叩いているような状態だった。
中国ロックに憧れてこっちに移住して、
やっていることは音楽を金に変えるような毎日じゃ日本でいたって同じじゃないか・・・
そんな悩みを抱えていた頃で、
それを「神がかり」ということで解決しようとしていた。
エイトビートの4拍子の曲なんてもうどんな状態でも叩ける、
でもだったらそれで満足するんじゃなくもっと上に行こう・・・
楽屋で出番直前までひとり、譜面とにらめっこをしているワシに彼が声をかけた。
「ファンキーさんはいつもそうやって真面目に仕事しますけど、
それはやっぱ日本人特有の気質というものによるんですか?」
ワシは一瞬きょとんとしたが意味がわかって笑ってこう答えた。
「ほら、神業ってあるじゃん・・・
でも人間はいくら頑張っても神にはなれない。
偶然時々神が降りて来る時があるだけよ。
人間が出来ることは努力と準備だけだからね。
それしか出来ないならそれを出来るだけやっとかないともったいないだろ」
結果その許魏(Xu Wei)の北京ライブは伝説のライブとなった。
神が降りて来たのだ・・・
それ以来、彼はワシの「仕事」には絶対の信頼を置いている。
今回このマグロ漁船を出向させるために提出した数かぎりない資料、
それを監督、制作会社、投資方に見せる時に彼は胸を張ってこう言ったという・・・。
「ほら、ファンキーの仕事は完璧だからね」
ところが人間は神にはなれないのでその後いろいろミスが出て来るのだが・・・(>_<)
さて、そんな彼ももう偉くなった。
当時はいちキーボード奏者だったが、今では音楽プロデューサー、歌手として有名になった。
ワシが音楽をやって大ヒットした映画「疯狂的石头(クレイジーストーン)」の続編映画は、
ワシではなく彼がその音楽を担当したのだからもうワシなんかよりは「大御所」だろう(悔)。
何度も「一緒にバンドをやろう」と誘われた。
「三顧の礼」よろしく貧民街にも何度も足を運んでくれたが、
こちらのスケジュールは直前に決まり、日本は数ヶ月前に決まるので、
ライブ収入が全てのバンド活動で「その日は私は無理です」ではこちらでバンドなんかやっていけない・・・
そんな彼からの仕事なので間違っても前回のように「ドタキャン」はなかろうとは思うのだが、
自分だけならいざ知らず、日本人ミュージシャンを呼ぶんだったらやっぱ「前金」である。
スケジュール押さえるなら「まず前金」!!
というわけで9日間のツアー中ずーっと4人のスケジュール調整、仮契約書の作成、
等いろんなことをやってたのでいつものように旅先ブログ更新が出来なかったわけだ。
ちなみにこの「仕事」で一番キツいのが「中国語」(>_<)
ワシレベルの中国語で契約書クラスの翻訳は無理なのだが、
契約書の草案も全てワシが作った。
簡単な契約書である。
「これこれのスケジュールをいついつまで押さえさせてね〜お金いくら払うからさ〜」
本契約はまたちゃんとやるとして仮契約は簡単であるほどよい。
これにサインして前金さえもらっておけば、後は仕事が潰れようが友情は潰れない(笑)
というわけで田川くんは日本にいるので後回しとして、
末吉、ユッコ、小畑が中国にいるうちにそれぞれ契約をしてとっとと前金を受け取っておくことである。
誰かひとりでも前金を受け取って初めてマグロ漁船「出港!!」ということになる。
白羽の矢が立ったのが小畑秀光!!
彼の帰国スケジュールだけが二人より早く、
14日の10時から12時までなら北京空港でインターセプト出来る。
契約書の内容を何度かやり取りして最終的なものにして、
小畑に見せても中国語なんでどうせわからんし、とりあえずこう命じた。
「10時に北京の国内線に着いたら国際線の出発ロビーに行って、
ギターを抱えたまま時刻掲示板の下で待ってろ!!」
ただでさえ高所恐怖症で飛行機に乗れない男が、
格安航空券のせいで寧波ー北京ー上海ー東京(ちなみに寧夏と上海はすぐ近所)という3度も飛行機に乗らねばならないスケジュールの上にこんな大仕事を仰せつかったのだ、本人も気合を入れたのだろう・・・
ここなら見つけてくれるだろうと思ったのかこの大きなぼんぼりの下を選んで、
このギターをルパン三世の五右衛門よろしく抱きかかえて座っていたらしい(笑)。
さて音楽プロデューサーの馬上又、どうやって本人を見つけるのか不安でしょうがなかったが、
ワシが「絶対見つかるから」というので不安を抱えながら行ってみたらすぐ見つかった。
「まるで武士やなぁ・・・(笑)」と彼の弁・・・
しかし実はこの馬上又という男、ガタイがデカい上にロッカーなので全身刺青である。
そんな男に声をかけられ、全然言葉も通じない上にいきなり中国語の契約書を見せられ
「サインしろ」
と言われる・・・
やっぱ偉いな、小畑秀光・・・失うもんがないというのはホンマに強い!!
こいつはきっと臓器売買の契約書でもサインしてたやろうな・・・(笑)
というわけで前金ゲット!!!!!!!
よくやった小畑秀光!!これにてマグロ漁船出港決定!!!
日本のみなさん、来年は基本的に中国にいますので日本の仕事は・・・
企画がぽしゃれば喜んでやります!!(キッパリ)
これがあるから中国はまだまだ安心出来んな・・・(笑)
Posted by ファンキー末吉 at:17:24 | 固定リンク
2014年10月27日
朝鮮学校のイベント
日本の至る所に朝鮮学校が存在していることは知っているが、
普通に日本人社会だけで暮らしていたら、そこに足を踏み入れたり、
ましてやこうしてそのイベントに出演する機会などは滅多にない。
ワシの場合この辺のおっちゃんおばちゃん達の知り合いが増え、
北朝鮮ロックプロジェクトがきっかけになってこのようなチャンスが増えて来た。
朝9時に学校に入ってみたら校庭には何とも立派なステージが組まれていた・・・
しかも客席にはテーブルまで並べられていて、
「飲むのか?飲むのだな!!」
という雰囲気満載である(笑)
ちなみにテーブルの高さがあまりにも低すぎるのではという疑問が頭をかすめたが、
この時点では「普通のテーブルの数が足りなかったのね」ぐらいにしか思わなかったのだ。
後にこれには長年のイベントによって培われた大きな理由があることが判明する・・・
テーブルには今日のプログラムと屋台で売られている食品等のメニューが貼られている。
食うのか?食うのだな!!(笑)
とりあえず屋台の営業が始まるまでに自分の物販売り場を確保!!
客も多いだろうということで全てのアイテムを大量に持って来た。
ちなみにワシは知っている。
このイベントで立ち並ぶ屋台には実は朝鮮学校存続の大きな役割があることを・・・
前回この学校を訪問した時に、あまりの生徒数の少なさにびっくりした。
6年生などは生徒がおらず、人数の少ない学年は他の学年と一緒に授業をする。
まるで過疎地の学校のようだが、
これも在日が5世6世の時代となり、民族教育の必要性が薄れて来たためなのか、
それよりも気になるのは、そうなると学費による収入がなくなるわけだから当然ながら学校自体の運営が厳しくなるわのう・・・という余計な心配が頭をかすめる。
ちなみに先生は朝鮮語で授業をするので、
少なくともネイティブに近い朝鮮語を喋れる在日の人とかに限られる。
決して本国北朝鮮から教師が派遣されるわけはないのだから、
「さぞかし人材不足やろうなぁ・・・」とまた心配もしてみる・・・
学校の3階にある資料館にはこの学校の歴史が写真と共に綴られているが、
それを見るとまさに「日朝間の政治に振り回されて来た学校」である。
歴代の大阪府知事の歴史の中ではこの学校に多額の援助をした時代もあったし、
ご存知のように橋下知事はその援助を一切カットした。
横山ノックの写真もあったので横山知事の時代は援助をしていた方なのだろう・・・
ここで日本国の税金を使って朝鮮学校を維持するべきかどうかの議論をするつもりはない。
大阪府民が選んだ代表者が自分たちの民意を反映すればそれでいいだけの話である。
ただおっちゃんおばちゃん達は何とか自分たちの母校を存続させようと思っている。
そこで考えついた・・・というか自然発生的なのかどうかはわからんが、
父兄や卒業生たちが自分とこの食材などを持ち込んでそれをここで売って、
そのお金を学校に寄付して存続して来たのだと言う・・・
アジア的というか大阪的というか、その発想の面白さや、
おっちゃんおばちゃん達の母校も大変なんやなぁという思いもあって、
ワシも仕入れ値がかからないいくつかの物販の売り上げは寄付することにした。
本当は一番ピンポイントであるこの本をそうしたかったのだが、
本の場合はお金を払って出版社から仕入れるので、
この学校の運営のみならずうちの家計も大変なのでそれは通常に売らせて頂いた・・・
昼頃になると会場にはいい匂いが満載して腹が減る・・・
朝鮮独特のメニューで言うと、まず代表的なチジミ!!
日本ではちょっと珍しい(沖縄ではあるそうだが)豚足のおでん!!
定番のキムチ・・・
やはり定番の焼肉・・・
え?焼肉?・・・焼肉ってどうやって焼くの?売店で焼いてくれるの?・・・と思ったら・・・
何とこの低すぎると思ったテーブルは七輪を置いてちょうどよい高さなのだ!!(驚)
さすがは何十年の間に培われたこのシステム・・・
ちなみに七輪には学校の名前が書かれている七輪もあり、
長年のこのイベントの歴史が伺える・・・
・・・ってか焼肉焼きながら見るイベントって珍し過ぎるやろ!!(笑)
生徒たちの出し物に続いて焼肉の煙の中でワシの出番!!
叩く前は飲めないからこの匂いが大変なのよ・・・(笑)
そうそう、ワシのつぶやきやFacebookの投稿を見て、たまたま大阪にいた落合みつを君がかけつけてくれた。
いや〜勇気あるなぁ・・・
「朝鮮学校」と聞いただけで「怖い」という人や、
ワシがこんなおっちゃんおばちゃんと仲良くしてただけで反感を感じる日本人もいる中で、
わざわざこうして自分から飛び込んでくる歌手もいるんやなぁ・・・
というわけで、せっかくなので一緒に1曲歌ってもらう!!
一緒に連れて来たベースの浅田くんは多少ビビってたらしいが(笑)、
いや、みんな来てみたらええんやと思うよ。
実際自分の目で見てからいろんなことを自分で考えればいい。
見えてない部分が多くて論じることがいろんな問題を生んでいるというのも事実やしな・・・
ちなみにベースの浅田くん、新潟から大阪に引っ越して来てまだ1ヶ月で友達もまだ出来てないと言うが、日本人の友達より朝鮮人の友達の方がいっぱい先に出来たな(笑)
そしてこのイベントでワシが一番やりたかったこと。
平壌6月9日高等中学校軽音楽部のみんなと作ったムルムピョをこの朝鮮学校の子供たちとコラボして歌ってもらうことである!!
あれからもう7年・・・彼女たちとまた会ってこの曲を演奏することは叶わないけど、
海を越えてその同胞たちに歌ってもらうのは感慨深い・・・
次には是非軽音楽部とかと一緒に演奏も生でやってみたいね。
他の朝鮮学校の人からも声かけて頂いたし、来年には是非!!
というわけでライブ終了!!食うぞ!!!
おっちゃんおばちゃん達、いろいろお世話になりました。
7時には酔いつぶれて終了致しました!!
この辺にはしょっちゅう来ますんでまた飲みましょう!!!
ひとりドラムツアーの軌跡はこちら
北朝鮮ロックプロジェクトまとめはこちら
Posted by ファンキー末吉 at:05:10 | 固定リンク
2014年10月23日
さようならSoftBank!!もう貴方とは付き合いません!!
iPhone6plusをゲットした。
もちろんSIMフリーである。
ワシのように海外に多く行く人間は日本のキャリアに縛られるわけにはいかんのよね〜
中国に行ったら中国のSIM、香港に行ったら香港のSIM、
タイやマレーシア、最近ではミャンマーでも手軽にSIMをゲット出来るようになったのでそれを挿せば現地で快適にネットや電話生活を送ることが出来る・・・
ところがワシはiPhone4sのまま5には行かなかったので、SIMはまだmicroSIMである。
中国の携帯電話機がmicroで、iPadも古いiPadなのでmicroだし、
ひとつだけnanoになってもややこしいなぁと思ってそのままにしておいたのだ・・・
ところがご存知のようにiPhone6はnanoSIMである。
中国では至る所でSIMをぱっちんと切ってくれるが、
日本では一応その行為は違法とされているようだ。
アホな法律ではあるが、
だから日本ではそれをサービスとしてやっているところはなく、
でもAmazonなんかではSIMカッターが堂々と売られてたりする。
ところがSIMカッターって買ってもその一回きりしか使わないので、
家を探してみると「通常SIM→microSIM」のカッターがごろごろ転がっていた(>_<)
これでまた「microSIM→nanoSIM」カッターを買って、
しばらく使わなくてそれがゴロゴロしてるのも悔しい。
何よりも一応日本国民として違法である行為をするより、
堂々とSoftBankに行ってSIMをnanoに変えてもらった方が早いと思って出向いて行った。
ところがSoftBank八王子の店員さんが言うには、
「ではプランがスマホーダイになります」
と抜かしやがる(怒)
「ワシ・・・別にネット要らんし、電話だけかけられたらええし・・・」
ちなみにワシのSIMは電話だけしかかけられないようにしているプランで、
月々980円である(安い!!)
ネットはWiFiルーターで接続する。
これがSoftBankのやつで、最初の頃は「速い」と喜んでいたが、
使ってるうちにやはり「つながらない」「パケ詰まりする」など不満が続出(>_<)
そうなると月々3880円は高いなと思いつつ、
2年縛りという恐ろしいシステムのおかげで今では娘に使ってもらっている・・・
今ではiijというdocomo回線を利用するSIMで月々1000円ちょいである。
2年縛りが解けたらこんな糞ルーターなどぶち捨ててしまってこれ一本にすれば月々の通信費がどれだけ安く収まるか・・・
まあここでSoftBankにまた月々5000円だの、
安いプランでも月々3000円だののプランに強制的に変更されたのではたまったもんじゃない。
「プランを変えずにSIMのサイズだけ変えてくれたらそれでいいんですが・・・」
ところがこんな簡単なことが日本という国では出来ないのである。
「いえ、必ずスマホーダイのプランになってしまいます」
激怒!!!!!
ネットで調べたらこれは代理店が儲けるために嘘を言ってるという話も出たが、
実はMNPでSoftBankのオペレーターに聞いてみてもそういうことらしい。
上に政策あれば下に対策あり(中国の諺)でいろいろ考えてみる・・・
「ではしばらくその3000円だののプランを使ってみて、
ダメだったらまた元の大きさのSIMで元のプランに戻してもらえますか?」
ワシのこのシステムの唯一の欠点はこの980円プランでは携帯回線から添付ファイル(例えば現在地情報とか)を送れないことである。
ちょっと使ってみてよかったらずーっとそのプランでもよいかもと思ってのことである・・・
ところが店員さんの返事は凄まじかった。
「プランを変えたら最低でも2年間はそのプランになってしまいます」
まあそれは2年縛りなので仕方がないかとも思うが、
「ホワイトプラン自体が今年で終わってしまうので、来年からは全ての契約はスマホーダイとなってしまいます」
まあ今ホワイトプランの人は何も変更しなければ継続のままでいいと言うが、
これにはワシは心底頭に来た!!
これって例えて言うとこういうことではないのか・・・
ワシはここのラーメンが好きでずーっとこのラーメン屋に通っていた。
ラーメンの値段は980円である。
ところがこのラーメン屋がいきなりこう言いだした。
「ラーメンだけのメニューはありません!!
必ず餃子とラーメンとビールのセットになってしまいます!!
値段は合わせて3000円です、お得でしょ!!」
お得でも何でもない!!
ワシはお前んとこにラーメンを食べに来ているのだ。
餃子とかビールとか要らんし!!
同様にSoftBankには万が一かかってくる時のために電話番号だけが必要で、
その他の繋がりにくいネットとか要らんし!!
餃子とビールが飲みたかったらワシは他の店に行く!!
お前んとこにはラーメンだけを食べに来てるんじゃ!!
お前んとこも電話会社やったら電話回線だけを売れ!!っつうこってある。
SIMカッター買って来て、
もしくは次に中国に行った時にカットしてもらえば今まで通り使えるのであるが、
このままこんな会社と付き合うのがほとほと嫌になったのでMNPでiijに乗り換えることにした。
音声付きSIMで月々1600円!!
来月には今のiijのSIMを解約して、
SoftBankのルーターも解約すればデザリングも出来るしこれだけでよいではないか!!
ネットで注文したらSIMが届くまで電話が不通になってしまうので、
即日乗り換えが出来る都内のビックカメラに行ってきた。
案内のお姉さんがもの凄い親切で好感が持てる。
いろいろ手続きをして30分後にはSIMを渡してくれるというので飯を食ってまたビックカメラに戻って来た。
もらったSIMをiPhone6に挿してちゃんと通話やネットが出来るか確認・・・
「APN設定はお済みですか?」
さすがプロ、iijのSIMは自分でAPNを設定せねばならないのだ。
「済んでますよ〜OS8から手動で出来なくなったんですよね〜
プロファイルをDLしてやりましたよ〜」
など無駄話を叩く。
「あら、お詳しいですねぇ・・・」
に答えて、なぜこんな発言をしたのか自分でも不思議なのだが・・・
「はい、週刊アスキーに連載してたりもして、デジタルにはちょっとウルサいんです」
そこでその店員さんが思わぬ発言をした。
「そうだったんですか・・・八王子のお店には一度伺ったことがあります」
え?!!!
呆然とするワシに店員さんがちょっと慌ててこう答えた。
「はい、私・・・渡辺英樹さんが大好きで一度ライブを見に伺ったんです・・・」
おいおい、昨日の夕方まで一緒におったがな・・・
というわけで今日のライブには仕事のため来れないそうだが、
今月のライブには是非どこかで見に来て欲しい!!
ツアーお疲れさんライブ
10/23(木)八王子Live Bar X.Y.Z.→A
http://www.livebarxyz.com
開場:18:30 開演:19:30 当日のみ4000円(+ミニマム1000円の飲食代が必要です)
都内近郊ツアー
10/28(火)さいたま新都心Heaven's Rock
http://www.heavensrock.com/index.html
開場:18:30 開演:19:00
前売3500円当日4000円
10/29(水)新宿Wild Side Tokyo
http://ws-tokyo.com/
開場:18:00 開演:18:30
前売3500円当日4000円
10/30(木)柏Thumb Up
http://www.kashiwa-thumbup.com/
開場:17:00 開演:17:30
前売3500円当日4000円
10/31(金)熊谷Heaven's Rock
http://www.heavensrock.com/index.html
開場:18:00 開演:18:30
前売3500円当日4000円
Posted by ファンキー末吉 at:14:35 | 固定リンク
2014年8月14日
日中友好こども(大人も可)サマードラムスクール2014無事終了!!
マッド大内先生が飲みながら言ったこんな言葉が忘れられません。
「ほら俺たちがさぁ、20年前呼ばれてパールのサマースクール行ったじゃない。
あれが楽しくってさぁ、今だに忘れられないじゃない。今回の参加者もこれ、一生の思い出になるよ」
そうそう、あの時はマッドさんがうちの部屋のベッドの上で飛び跳ねてベッドの床をぶち抜いてしまったのね・・・忘れられません!!(笑)
今回は器物破損もなく、けが人もなくホントに無事で何よりでした。
問題と言えばただひとり、衛藤浩一先生です!!(キッパリ)
次回の課題として残ったのが、今回一番大変だった本庄駅までの送迎・・・
また駅までこんなに遠いとは思わんかったのな・・・
それなのにえとーさん、講師は1時間前に集合のところ案の定「遅刻します〜」のメール・・・(>_<)
困るのよねぇ・・・車何台も何往復するようにして送迎をプログラムしてるのに・・・
おかげで初っ端から送迎スケジュールがぐっしゃぐしゃ・・・(>_<)
夜は夜で酒飲んではしゃぎ過ぎて、最後には声が出なくなって授業どころじゃないし、
最終日は二日酔いで起きれなくて自分のドラムセットも片付けず、
結局中国人が手分けして片付けてくれたという有り様・・・
えとーさん、来年もお誘いしますが、宣言しときましょう・・・減棒!!!
えとーさんのギャラを減らして、
そのぶん浮いた金でみんなでもっと美味しいものを食いましょう\(^o^)/
そうそう美味しいものと言えば一番大変だったスタッフは厨房スタッフでした。
50人分を超える食事を毎食作らねばならないということで、
上海から居酒屋勝グループの総帥Kさん、通称「被告勝山」(笑)
(Live Bar X.Y.Z.→Aのオーナーということで私と共にJASRACに告訴されてます)
を呼びました。
中国人は有り余るぐらい料理を出さなければ満足しないし、
イスラム教だのいろいろ難しい部分があるのでこの人以外無理だろうということで、
「ほな頼むわ〜」というと総勢5人で上海からやって来た。
それにLive Bar X.Y.Z.→Aからあーちゃんと赤間くんとまさえもん、
この8人が不眠不休で料理を作る・・・
朝ご飯が7時なので毎日4時起きで、
夜はえとーさんはじめワシも含めて2時や3時までガンガンに飲んでいるので寝られない(スマン)
しかしこの頑張りのおかげで中国人も大喜び!!
海苔や漬け物など日本のものだけでなく腐乳や皮蛋など中華の小鉢も用意してるし、
中華が恋しくなった頃にはちゃんと中華も作ってくれる。
途中で出た「西红柿炒鸡蛋」や「麻辣烫」などは日本人にも嬉しいメニューだったのではなかったかな・・・
終止天候には恵まれず、
準備のため前乗りした私と調理スタッフは逆に死ぬほど暑かったので心配してたが、
結果的にはずーっと雨だったので涼しかったのでよかったのではないか・・・。
毎日キャンプファイヤーで野外ライブの予定が、初日以外は全部屋内になってしまったが、
結果ワイワイ騒げる感じでよかったのではないかと思う。
今回の課題曲はJASRACからクレームが来ることを念頭に置き、
全曲JASRAC管理楽曲ではない曲を選んだ。
私の曲が中国語の曲が2曲あり、それを生演奏となると誰かが歌わねばならない。
小畑秀光と衛藤浩一に一応カタカナ中国語で歌えるようにとミッションを与えていたのだが、
中国から参加の生徒の中に歌える人間がいて、
結局は毎日生バンドの生歌でのセッションとなった。
初心者ドラマーが石川俊介さんのベースと田川ヒロアキさんのギターで一緒に演奏出来るなんて夢のようですぞ・・・
・・・と言うのもワシは中国のドラム教育の実情を垣間みて、
ワシがやるんだったら絶対に「生演奏」と決めていたのだ。
全中国を50カ所以上廻って、多いところにはひとつのドラム教室で1000人を超える生徒がいる(驚)
当然ながら天才ドラム少年少女も多数いるわけだが、
そのほとんどがバンドというものを経験せずに大人になる。
そんな中のひとりに相談されたことがある。
「私もファンキーさんみたいにレコーディングやコンサートの仕事をしたいの!!」
彼女は出会った頃は17歳の天才ドラマー少女だったが、
結局はずーっとクリックと伴奏のみでしか演奏したことがない。
そんな彼女が今や先生になってまた100人以上の生徒を教えて、
そんな天才ドラマー少年少女をたくさん育ててゆく・・・
ワシは彼女にアドバイスをした・・・「バンドをやりなさい!!」
しかし「住んでるところが違う」というのはいかんともし難い。
「バンドってどうやればいいの?・・・」
だからこのスクールでは「バンド」を体験してもらう。
しかも一流の演奏で、だ。
日替わりでゲストを呼んで、一流の演奏というのを聞いてもらう。
「ああバンドって楽しいんだな・・・」
そう思ってもらえば、このファンキー校長が一番教えたい部分はもうクリアである。
日中関係が冷え込んで久しい昨今、
日中のロックを愛する人達、ドラムを叩きたい人達が、一緒になって拳を上げ、一緒になって酒を飲む。
ワシは日本のアホなメディアの方々に聞きたいが、それってこの日中関係で「少数派」か?
いや違う!!ヘイトスピーチをする日本人団体が日本で多数派ではないのと同じように、
日本企業を焼き討ちする中国人は決して多数はではない。
世界中でこのような人間こそが「多数派」であることを私たち人類は絶対に忘れてはいけない!!
子供は一緒になって遊ぶ・・・
今年はその半数近くは日本語も中国語も喋れる子供だった。
ワシは「日中友好」なる言葉が大嫌いで、
「ファンキーさんは日中友好の架け橋ですね」
などと言われると虫酸が走った。
ワシは別に日の丸背負ってロックをやってるわけではない!!
ワシは普通に「ロック」をやってるわけであって「日中友好」をやってるわけではないのだ。
ワシは偶然中国にいっぱい「仲間」がいるだけの話であって、
「日中の架け橋」と言うならばうしろこんな子供たちこそではないか・・・
尖閣問題やいろんなことがあって、ワシは今回初めて「日中友好」という言葉を自分から使った。
でも参加した人は全て思うだろうが、
アホな日本人(講師含む)とアホなワシの仲間の中国人が集まってロックやって楽しく時を過ごしただけのことである。
来年は100人規模での開催が決まった。
この時期は中国でドラムのイベントが多いという問題や、
お盆の近くは飛行機代がベラ高いという問題があるので開催日はまたゆっくり検討します。
とにかく中国側は来年は当初の予定通り50人で来ることが決定!!
日本人は50人集まるかな?・・・
集まったら集まったで送迎スタッフと厨房スタッフが死ぬな(笑)
今回集まってくれた方々、ボランティアの方々、
協賛して頂いたたくさんの企業の方々、差し入れをしてくれたたくさんの方々、
本当にどうもありがとう御座いました!!
来年もまた盛り上がりましょう!!
こちらにギャラリーをUPしました。
参加された方でいい写真をお持ちの方がおりましたらこちらにお送り下さい。
掲載させて頂きます。
Posted by ファンキー末吉 at:10:04 | 固定リンク
2014年8月 6日
カラムーチョZ〜秘密組織コイケヤのテーマ〜制作秘話
知り合いからこんな仕事が廻って来た。
作曲と音楽制作依頼
内容:コイケヤの新製品カラムーチョZの音楽
歌う人:水木一郎
水木さんとは一度アウェイインザライフの舞台でご一緒した。
奇しくもあの「マジンガーZ」のテーマをバンドで演奏したではないか!!
その時の資料でもらった「マジンガーZ」を聞き返しながら考える・・・
ワシの音楽のルーツはひょっとしたらアニソンかも知れない・・・
小学校の頃、統計かなんかを勉強する時の材料だったと思うが、
「昨日何時間テレビを見ましたか?」というアンケートに、
みんなは「30分」とか「1時間」とか書いているのに、
先生が1枚の紙を取り出して「これは長いですねぇ・・・」と言うので、
それはてっきりワシだと思ったら「2時間」とかで、
それだけでも教室は「凄〜い・・・誰なの?」と騒然としてたのに、
ワシの書いた紙を取り出した瞬間に先生が絶句した。
6時間・・・
いや、別に毎日それだけテレビを見ているわけではない。
うちは両親が商売をしてたので家には誰もいないし、
その日は確か風邪気味で学校から帰ったらテレビの前に布団を敷いてずーっと寝っ転がっていたのだ。
そしていつの日かテレビの内容よりも(まあそれもあるのだが)そのテーマソングに興味を持つようになって来る。
覚えている一番古い記憶で「子連れ狼」、
このテーマソングを一生懸命テープレコーダーに録音してた。
録音と言ってもテレビのスピーカーの前にテレコを置いて、
エアダビングでテレコのマイクで録音していたのだ(笑)
その後アマチュア無線などをやり出して電気に興味を持ち、
家にあったステレオを分解し始める。
そこでスピーカーが左右にあることを発見し、
よく聞くとブラスセクションがひとつのスピーカーからしか聞こえず、
反対側はそのリバーブ音だけが聞こえてたり、
右と左のコードをショートさせると音が真ん中から聞こえて来たり、
片方を逆につなぐと今度はベースとか真ん中の音が逆相で打ち消しあって消えて左右に定位している音だけが聞こえたり、
そんなことをやって遊ぶようになり出した。
その時によく聞いていたのが仮面ライダーやバビル二世や、
その辺のアニソンだったのだ。
その頃のアニソンはオーケストラで一発録音のが多く、
音に興味を持ち始めたばかりの末吉少年は必然的にブラスだストリングスだとオーケストラに興味を持つ。
その後中学生になってからロックの洗礼を受けることになるが、
今にしてみればドラマーの分際でオーケストラのアレンジが出来たりするのはこの頃の原体験があるからだと思う。
話が横道に逸れたが、だからワシにとっては
ストリングスはサビでタリラリラーンと走るもの!!
ブラスはパパラパパーと歯切れよく!!
など自分のオーケストラアレンジはアニソンの影響は大きい。
だからアウェイインザライフでマジンガーZを演奏するとなった時には血湧き肉踊った。
あの歌のキモはティンパニであるが、
子供の頃はわからんかったが今聞くとあれが大きくリズムがズレてるのな(笑)
ティンパニを打ち込んで同期させてもどうしても雰囲気が出なかったので、
あのオケをそのまま使ってリズムを補正して、
EQとかでティンパニ以外の音を目立たないようにして使ったもんなぁ・・・
そうそう、「時代」なのであるが、冒頭のピューンという安っぽいシンセ、
あれが入るだけで当初はむっちゃ「新しいマシン」というイメージやったのが、
今となってはあの音を再現するのは難しいからあれもそのまま使ったような記憶がある。
もちろんサビで走るストリングスもそのままのラインを打ち込んで使ったぞよ(笑)
そんなこともあってワシはマジンガーZをかなり分析し切ってたので、
今度の仕事は漠然とあの頃のアニソン、
つまりオーケストラ一発録音でブラスがリズムを刻み、ストリングスが走り回るサウンドをイメージしていた。
さて歌詞が届いた。
蓋を開けてみたらこの仕事は「詞先」の仕事だったのだ。
燃えあがれ 勝負だゼ
パリッとしようぜ男なら
夢を掴むその日まで
カラムーチョ Z!
地球を愛す おーおーノンフライ
時空を超えたレッドサタン
激辛バトルだ 涙を拭くな
ナ・リ・マ・ス、成増
世界一に
火を噴くぜ (おしりがいたーい)
秘密のサンカク (教えてあげないよ)
デンセツ! 伝説の! 秘密組織コイケヤ
おうっ!!やはり「Z」という部分が入っている!!
これはやはりマジンガーZのように「ゼーット!!」と叫んでもらわねばならぬ(笑)
当然ながらそこが一番盛り上がる部分になるのだが、
ところがマジンガーZと違ってこの詞の場合は冒頭にそれがある。
「詞先」の場合その詞が「構成」までも支配してしまうということがやっかいな部分である。
そこでマジンガーZを聞き返してみて分析するに、
この曲もおそらくは「詞先」だったのだろう。
AーBーAの形式のようで、最初のAは8小節使って低いところからゆっくりサビまで盛り上がってゆくのに対して、
最後のAは一瞬で「ゼーット」まで持ってゆく。
これは「曲先」で詞もなく純粋にメロディーだけを作る人のアイデアとしては非常に奇妙である。
「詞がこうだから」という理由でそうなったと考えると心なしか納得する。
(真実のほどはわかりませんが)
そこでワシも頑張る!!
詞の並びが自分の考えていた構成と違ってたって、
純粋にその詞が「歌いやすい」ように組み合わされてさえいれば、
マジンガーZのような「黄金比率」の構成になるのだ!!!
というわけで詞とにらめっこの日々が続く・・・
まあワシはドラマーが本業なので日々はセッションだひとりドラムだの生活の中で、例えば電車や車や飛行機(これが一番多かったりするが)に乗っている時間や、
その他うんこや日々の余った時間を活用してまずは大雑把に考えるのだ。
そんなこんなで第一回目のミーティングの日が近づいて来たので本格的に考える。
理数系なので物理的に消去法などを使って考えるに、
「ゼーット」が冒頭にあるのならもう何をどうしようがサビ始まりしかない!!
問題は、そうなるとこの詞は4部構成となってメロディーがつけにくくなってしまうということである。
マジンガーZのようにストリングスが走るあのBメロはどの部分になる?・・・
当初は「火を噴くぜ」の部分をこのような展開にして、
マジンガーZよろしく最後はAメロに似た一節だけで終わろうと思ったのだが、
そうするとAメロが長すぎてどうも間持ちがしない・・・
そこでまた詞とにらめっこをしながらふと見ると、
(おしりがいたーい)とかはメロディーではなく子供の掛け声でよいではないか!!
ではそこからまた最初のサビと同じメロディーではどうだろう・・・
試しに最初のサビのメロディーに乗せてみるとこれが偶然見事に乗った!!
「カラムーチョZ」と「秘密組織コイケヤ」は字数が違うが、
それはまあ「最後だけはちょっと違うんですよ」で十分成り立つだろう・・・
ちなみにワシが曲を作る時はまずサビから作る。
これはRunnerやリゾラバや、
当時の「必ずヒットする曲を作れ!!」という無茶苦茶なミッションの中で体得した一種の手法論なのだが、
サビの次に作るのはAメロの歌い出しである。
まあサビの歌い出しとAメロの歌い出しさえキャッチーであれば、
まああとはヒットするかヒットしないかはプロモーション次第だよと開き直れる(笑)
この曲のAメロはフック(引っかかり)を作るために、
わざとドレミファソラシド以外の音を使っている。
キーがCの場合はメロディーは鍵盤の白鍵だけで弾けるものとなるが、
わざとそうではない音を使うためにそれ用のコード付けがある。
キーがCの場合のB7などがそうなのだが、
歌い出しの小節1拍目にちょうどレ#、つまり黒鍵で弾く音が来るようにしている。
ちょっと「あれ?」という感じでいいツカミになるのよ〜にであるが、
ちなみに単調なサビメロにちょっと変化をつけるために、
サビのコード付けのところにもこの手法を使っていてる。
キーがAmの場合Fのコードは通常Fメジャー7になるのだが、
わざとF7にしてちょっとオルタードな雰囲気にしているのだ。
まあメロディーこそここには落ちてないが、
このサビのようにベタな五音階旋律の場合やはりちょっとフックをと思ってミの音をわざとフラットさせているのである。
まあこのミbはメロディーでは歌ってないが、後にストリングスとかブラスで強調するという計画である。
さて理屈はさておいて、サビーAメロと来たら自然に流れるBメロを作るが、
この時にあまり欲をかいてはいけない。
Aメロ、Bメロ、サビのことを英語でVerse Bridge Chorusと言う。
つまりBメロは「橋渡し」をする部分であり、
そこにサビのようなキャッチーなメロディーを持って来る必要はない。
要はAメロから自然に受け継いで、サビに入った時に気持ちよければそれでよい。
さてこうして一応メロディーは出来た。
ここからワシの最大の難関が始まる。
「デモ作り」である・・・
二井原はワシに言った。
「せっかくいいメロディーなんやからお前が歌うな!!
お前が歌えばどんないいメロディーも悪く聞こえる」
・・・(涙)・・・
しかし往々にして「クライアント」というのはシンセメロでメロディーを聞かせてもイメージ出来ないものである。
それは例えて言うと新製品のお菓子のプレゼンでワシなんかに、
「これはまだ完成品ではないのですが、これに手を加えてこのようになることを想像して食べてみて下さい」
と言われてもワシら素人にはそれが最終的にどのような味になるかは皆目見当がつかないのと同じである。
だからせめて「仮歌」で歌ってやらねば「歌」に聞こえないのだから歌うしかない・・・(涙)
アレンジの方向性はワシの頭の中にはあるもののまだ決定ではないので、
まあ「メロディーのプレゼン」ということでギターと歌(とこれをシンセメロにしたもの)だけでデモを作る。
またこの「プレゼン」っつうのが緊張するのな・・・(恐)
ワシにこの仕事を紹介してくれた会社の人と、
コイケヤの担当者とが雁首並べて店にやって来てくれた。
恐る恐るとりあえずシンセメロバージョンを聞かせる・・・無反応・・・
あかんやん!!・・・というわけで禁断のワシの仮歌による歌入りデモ・・・
これ・・・ホンマ博打やな(笑)
シンセメロで「うんなかなかいいじゃない?」と思ってた人達にヘタしたら冷水を浴びせかけることになりかねない(笑)
結果はその時には結局結論は出ず、
とりあえずちゃんとしたデモを作って送ってくれということになる。
さてそうなるとそこからが「アレンジ」という作業である。
このアレンジによって曲のイメージが固定されるから、
「こんな風に」が「違う風に」なってメロディー自体を否定される可能性も出て来る。
あのう・・・
ワシは自分のルーツである昔のアニソン、
オーケストラ同時録音風でラッパがパパラパーと鳴ってストリングスがタリラリラーンと走る、
そんな感じのイメージを一生懸命説明する・・・
いやっ!!
クライアントがきっぱりとそれを否定した。
「曲のイメージはヘビーメタルにして下さい!!」
げっ!!!
しかしメタルというのは得意分野なので逆に気が楽である。
メタルアレンジというのは即ちギターアレンジ、
つまりギタリストによってそのサウンドは大きく変化するので、
取りあえずはワシはこのギターを弾いてもらう候補として思い付いた田川ヒロアキの映像を見せる。
一同唖然・・・
よっしゃー掴んだ!!
これで田川くんに発注決定!!
〆切を決めてそれまでにアレンジ込みのデモを作成することになる。
さてアレンジであるが、
これに一番大切な部分は「イントロ」である。
イントロにキャッチーな掴みを作ることがアレンジ作業の一番のキモであるので、
ここにたっぷり数日時間をかけてイントロのフレーズを考える。
ロック系のイントロには、
1、メロで持ってゆく
2、リフで持ってゆく
等いろんな手法があるが、
歌メロがアニソンよろしくポップに作ってあるのでドイントロはやはりリフで攻めることにした。
「田川さんのギターもフィーチャリングして下さいね」
というクライアントの意見も取り入れ、
とりあえずその次にすぐにギターメロに行くようにしてとりあえずイントロは完成!!
ちなみにこの時点でワシはそのギターメロまで作ってデモ(田川くんに渡す段階)にしているが、
それは「指定」ではなく自由に変えていいようにする。
ギターも弾けないアレンジャー(ワシのこと)がいろいろ指定するよりも、
ギタリストが自分のフィーリングで弾いた方がより「ロック」になったりするからである。
さてイントロさえ出来ればワンコーラスまではすんなりアレンジ出来たが、
ワンコーラス終わってからはたと頭を抱える。
この詞の構成は2番も1番と同じく
サビーAメローBメローサビ
となっている・・・
本当は1番がサビで終わった場合は流れとしては次はAメロから入るのが一番流れがいいのよーん(>_<)
2番は冒頭のサビをカットするか・・・いやいやそれではキモである「ゼーット!!」がなくなってしまう・・・
しばらく悩んでいるうちにひょっとクライアントの要望を思い出す。
「出来ればファンキーさんのドラムもフィーチャリングして頂ければ嬉しいのですが・・・」
そこで決断!!
通常のポップス構成、いわゆる2ハーフという
1番ー2番ー間奏ーBメロもしくはサビ
という構成はあきらめてもっと変則的な構成にしよう!!!
1番が終わったらとりあえずドラムをフィーチャリングして、
そこから長いギターソロ!!!
たっぷりと田川くんをフィーチャリングした後に仕切り直してまたサビ始まりでワンコーラス歌う!!
これしか物理的に方法がないのだ!!
もし「これはちょっと・・・」と言うならもう歌詞を削るしかない。
せっかくイントロを作ったのだから一回だけしか聞かせないのももったいないので、
それをそのままエンディングに持って来てフルコーラスのデモ(田川くんに渡す段階)完成!!
「田川くーん〜これにギター入れて〜」
とメールでデータを送りつける。
打ち込みのギターではどうしても「メタル」感が出ないので、
デモ段階と言えどホンモノで弾いてもらわねばならない。
「デモやからね〜大体でええからね〜」
そしてこの言葉を必ず付け加えねばならない。
「ついでに仮歌も入れといて〜」
これが何より大事!!
一生懸命作ったデモでもワシの仮歌ではそれが原因でイメージが悪くなりボツになってしまう(笑)
こうして田川くんの完璧な仮歌によるデモが完成した(笑)
構成やアレンジのOKを待つ・・・
ところがこれがなかなか返事が来ない・・・
「ひょっとしてボツになったかなぁ・・・」
と思って待つこと数日、
「水木さんからOKが出ました!!これで本チャンレコーディングして下さい!!」
え?水木さんがOK出すの?・・・
・・・と不思議に思ったのだが、クライアントは既にOKを出していても、
やはり歌ってもらう水木さんが乗り気でなければこのプロジェクト自体が成功しないということだろうか、
兎にも角にもこのテの仕事では非常に珍しく「一発OK!!」
私も田川くんも飛び上がらんばかりに喜んで次の作業に入る。
まずはドラム録り!!
それが終わらなければベースとかギターとか上モノは被せられないのでこれだけは早急に録音する。
まあドラムは本職だし自宅スタジオでちょちょいと(でもないが)出来るのでツイキャスしながら録音した。
ドラムのデータを田川くんところに送って、あとは本チャンギターと、
ベースはエンジニアとして発注した仮谷くんに「弾く?」と聞いたら、
めんどくさがったのか「弾かない」と言うのでそれも田川くんに頼んだ。
ワシはここからは単なる「こだわり」なのだがやはりルーツである昔のアニソン風のストリングスと、
まあ現代っぽく(という言い方が既に古い)デジタルモノのシンセ等を被せる。
まあ「ダビンガー」が二カ所で同時にダビングしているようなものである(笑)
ストリングスは将来(あるんか?)本物を録音する時にも対応出来るように、
バイオリンパートとチェロパートで作っておく。
まあこの辺も「こだわり」なのだが、
「こだわり」がなくては100%「仕事」である。
「こだわり」があって初めて「音楽」になるのだから、
この「仕事」としては無意味なことにも思いっきり時間を使わせて頂く。
これにてワシの作業は終了!!
あとは田川くんの作業が終わり次第歌入れ!!!
というわけで初めてアニソンの帝王水木一郎さんの歌入れとやらをディレクションする羽目となった(緊張)
いや〜何も申し分ありません!!冒頭の「ゼーット!!」で全てOKでした。
その時に水木さんがおっしゃった。
「アニソンの流れを世襲しながら新しいものを大胆に取り入れた新しいアニソンの世界・・・名曲です!!」
恐縮です。
何千曲もレパートリーがあるアニソンの帝王が、
ここまでこの曲を気に入ってくれて、
私としては本当にこだわった甲斐がありました!!
この曲は本日こちらより配信開始!!
レコチョクはこちら〜
プロモーションビデオはこちら〜
Posted by ファンキー末吉 at:13:00 | 固定リンク
2013年5月24日
税関で捕まった(>_<)
先日の北京ライブのことを書きたいのだが、
残念ながらこんなおもろいネタが飛び込んで来たのでこれからUPさせて頂きます(笑)
そもそもがどうしてワシが身銭の中国元を払って中国でこの小畑秀光のグッズを制作せねばならないのか・・・
「幸せの壷」なるものを売り歩く輩がいると聞くが、
この無名のギタリストはそれと同様の才能があるらしく、
可哀想なのもあり、何やら本当に幸せになれるような気がしたりするから、
ついついとよけいなおせっかいを焼いてまたこちらまで貧乏になってしまうのだ・・・
ワシはもともとは音楽の仕事などなくなってしまったに等しい日本の音楽業界ではなく、バブル真っ盛りの中国での仕事で人民元を稼いでいるのだから、
当然ながら人民元がダブついて来る。
高い手数料など払って両替などしてはいられない。
中国で必要な経費、
例えばFunkyスタジオ北京は持ち家ではなく借りているのでその家賃やら、
アホではあるが今ではなくてはならない大切なスタッフになってしまった方言(FangYan)などを住まわせてスタジオ自体を維持しているわけなのだからその結構な維持費などは全て中国の仕事で賄っている。
日本は日本でセッションなどして、また忘れた頃に入って来る印税などで嫁子供が暮らしている。
両方面の収入はまあ低空飛行ながら順調で、
幸いながらここ数年、日本円から両替だの中国元から両替だのしなくてはならなくなったことはなかったのだが、
ここに来てこの小畑秀光のせいで久しぶりに日本円から中国元に両替した。
何せこんなアホなグッズを思い付いては山ほど作るのだからその支払いで人民元が底をついてしまったのだ(涙)
今回は更に小さな旗とステッカーを作ったので、
前回持って来れなかった半分のTシャツと合わせるとまたとんでもない量である。
今回の滞在は3日間だったが、
こんなことも想定してちゃんと大きなトランクを持って来ている。
前回はトランクに入り切らず、
ズタ袋にまでTシャツを入れて持って帰って来たので、
今回はそれも想定して機内持ち込み出来る小さなトランクまで持って来ている。
しかし、グッズを詰めながらふとイヤな予感がして、
その更に半分のTシャツをたまたま上海から来ていたLive Bar X.Y.Z.→AのオーナーKさんに託してしたのがよかった。
何と今回初めて日本の税関で止められたのである。
「3日間でこの荷物は多過ぎですねぇ・・・中を見せてもらえますか?」
若い税関職員がこう言った。
開けたら中身はこれである・・・
(涙)!!!!
税関職員の呆れたような情けないような、そんな表情が忘れられない・・・
絞り出すように彼は言った。
「これは・・・何ですか?・・・」
ワシは二日酔いの頭をフル回転させて考える・・・
まずは相手の質問に答えることである。
「ティ・・・Tシャツです・・・」
それは見ればわかる!!
税関職員が聞きたいのはそうではなくて、
こんなものをたくさん持ち込んでどうしようという気なのかということなのである。
「これは・・・中国で作ったんですか?」
ワシは二日酔いがいっぺんに冷めてしまって、
錆び付いた頭がオーバーヒートするまで考えた。
だいたい「大ウソ」というのはよっぽど悪人でない限りなかなかつくことは出来ない。
つけるとしたらせめてその中にいくらかでも本当のことを入れておかねば、
小市民ではなかなかそれを突き通すことが出来ないのだ。
「昨日ライブで売ろうと思って持って行ったんですけど・・・結局売れませんでしたねぇ・・・」
ちなみに昨日ライブがあったということは本当で、あとはウソである。
「売れませんでしたねぇ」の部分に大きく頷いて税関職員は真顔でこう聞き返す。
「これは日本で作って持って行ったんですか?」
そもそもワシはそこまで大ウソをつけないからこそこのような回りくどい言い方をしたのだ。
それを税関職員は真っ正面から突いて来るんだから真っ正面からウソをつくしかない。
「はい、日本で作って持って行きました」
この時点でワシの心臓はもうばっくんばっくんである。
ひとつのウソが次のウソを生む。
こうやって世の中ではいくつも
「小さな犯罪を犯した小市民が大犯罪者になってしまう転落劇」
が起こってしまうのだろう・・・
「ちょっと開けさせてもらっていいですか?」
税関職員は手慣れた手つきでTシャツの袋を開けて中身を広げる。
タグを広げてそこに書かれている「Made in CHINA」という文字を、
わざわざワシに見せつけるようにしながらこう言った。
「これは中国で作られたものですよね」
犯罪者の心理というのはおおよそこのようなものであろう・・・
ウソをつくならとことんつき通さなければならないのだ。
そのウソが本当になるまでつき通さなければならないのだ。
「いや、これはバンドのメンバーが日本で作ったもので、
それを私が北京でライブがあるんで売って来ようと持って行ったんです」
頭の中ではこの小畑秀光という無名のギタリストと一緒にバンドをやってる姿を一生懸命シミュレーションする。
「バンドのメンバー・・・ですか?」
税関職員が理解に苦しむような顔をするのですかさず胸を張ってこう言う。
「この太陽の顔の本人です!!彼と一緒にバンドをやっていて、
このTシャツは彼が作ったグッズなんです!!」
ここでもかなりの割合でウソを散りばめているのであるが、
頭の中ではそれを「本当だ」というまで信じ込まなければならない。
「でもこれはMade in Chinaじゃないですか!!」
税関職員は冷静にそのように言い放つ。
「さ、さぁ・・・日本で発注した業者が実は中国で製作してたんじゃないでしょうか・・・」
そのような事態が可能性としては起こり得るという自信と共になるだけ胸を張ってそう言い張る。
「つまり、中国で作ったものが日本に入って来て、
それをまた中国に持って行って、またそれを持って帰って来たということですか?」
税関職員が分かり易くそれを言い直すが、
ワシはそれを一生懸命シミュレーションしてそのように心から思い込むしかない。
「その通りです!!」
何やらそのような気がして来た。
このTシャツは全て自分と一緒にバンドをやっている小畑秀光という人間が、
ワシの知らないところで作って、それがたまたまMade in Chinaであっただけなのだ!!
しかしいくらシミュレーションだとは言え、
あんな男と一緒にバンドをやっている50男が、
こんなわけのわからないモノを日本で作って、
それを山ほどトランクに入れて中国に行ってライブをやり、
それを一生懸命売ろうとして結局売れず、
そのままトランクに詰めて帰国している図は悲し過ぎるぞ・・・
今にして思えば「宗教」にしてやればよかったのだ!!
「太陽神」を崇める「MAX教」かなんかで、
「これを崇めればあなたもきっと幸せになります!!」
とでも言って一生懸命お祈りでもしてやればよかったのだ・・・
「とりあえず別室へ!!」
税関職員が荷物と共にワシを別室に連れてゆく・・・
まるで取調室に連行される犯罪者のような気分である・・・
別室と言っても普通の税関のカウンターと全く同じで、
ただそれが小屋のようになっていて外から見えないようにされてあるだけである。
「全部開けさせてもらっていいですか?」
ワシはうなずいて全ての荷物、バックパックからポシェッットまで全てをそのカウンターに並べる。
小さなトランクにはワシの着替え、
バックパックにはパソコン類、
ポシェットにはWi-Fiやディバイス系、
・・・とまずは大旨確認した後、
税関職員はまずは問題の一番大きなトランクの荷物を全部取り出す。
37枚のTシャツを取り出した後に現れるのは旗である。
「こ、これは何ですか?・・・」
またもや税関職員の呆れたような情けないような、そんな表情が忘れられない・・・
ワシは何もウソをつく必要がないので胸を張ってこう答える。
「旗です!!!」
それは見ればわかる!!
税関職員が聞きたいのはそうではなくて、
こんなものをたくさん持ち込んでどうしようという気なのかということなのである。
売り物ですと言うとまためんどくさそうなのでこう言った。
「これはステージ上に並べるんです!!
毎回ライブではステージ上が旗ばかりになります!!」
ワシはその様子を頭に浮かべてシミュレーションの中に組み込みながら、
だんだんと情けない気分になって来るのを隠せない・・・
「これも日本から持ち込んだんですか?」
税関職員はそのように聞くが、
小市民のワシはもうこれ以上ウソを積み重ねてゆくことに精神がついてゆけなくて折れてしまう。
「これは・・・向こうのバンド仲間が作ってくれたんですけど・・・
ライブで売ってみたら・・・やっぱ売れないですよねぇ・・・」
税関職員はその「売れないですよねぇ・・・」というところで大きくうなずいてまた仕事を続ける。
「これは何ですか?」
次に取り出したのはステッカー。
また「中国の仕事」であるからして、
切れ目を入れてるのが図柄の位置より中になっているところが情けない。
頭をかしげている税関職員に捲し立てる。
「これも向こうのバンド仲間が作ってくれたんですけど・・・
こんな作りじゃぁ・・・やっぱ売れませんよねぇ・・・」
また「売れませんよねぇ・・・」というところで大きくうなずくものの、
もともと税関職員が頭をかしげるのが、
「何故にこのような売れないものばかりをこんなに多量に日本に持ち込もうとするのか」
という「作り手の頭の中」が不思議でならないのだ・・・
次に取り出したのはアホのアシスタント方言(FangYan)がキム姐さんに頼まれて買った中国のタバコ・・・
こればっかりは税関職員は鬼の首を取ったようにこう言った。
「これは持ち込み制限数を越えてますよねぇ・・・」
二日酔いだったので何カートンあるかも考えずにそのままトランクに放り込んでいたのだ。
「あ、友人に頼まれたのですが、
すみません、自分はタバコを吸わないのでうっかりしてました」
これは素直に罪を認めるしかない。
本当に自分はタバコを吸わないのでうっかりしていたのだ。
「ご自分で買われたのですか?」
ここでハッとして気付く、
知らない人から荷物を頼まれて、
そこに麻薬なんかが入ってたりして知らぬ間に「運び屋」にされてる事件が多いと聞くではないか。
まあ相手が方言(FangYan)なのだから実際にはその恐れはないのだが、
問題はそう思われたら取り調べがもっと大変になるということである。
「私が買いました」
これは100%ウソなのだがそう答えるしかない。
ヘタしたらそのタバコを全部開けられて一本一本全部調べられる羽目になってしまうだろう・・・
「ウソをつく」ということは大変なことである。
ひとつウソをつけば、それを本当にするためにもっとたくさんのウソをつかなければならないのだ。
税関職員は更に荷物を調べる。
文字通り「隅から隅まで」である。
そして税関職員はトランクのサイドポケットに入れている雑誌の切り抜きを見つけた。
ワシが北朝鮮に行って少女たちにロックを教えている記事である。
それを取り出して今度はもっと真顔でこう聞いた。
「今回行って来たのは本当に中国だけですか?」
いや〜前々回北朝鮮から帰った時に同じことを聞かれて、
全ての北朝鮮での購入物を没収されたことを思い出す。
犯罪者の心理というものは大旨こんなもんであろう。
こうやって次から次へと過去の犯罪が連鎖的に暴露されてゆくのだ・・・
一瞬目の前が真っ暗になったが、ワシの頭は二日酔いながら更にフル回転して、
このような言葉を税関職員に浴びせかけた。
「お兄さん、今回北朝鮮行ってそれが今こうして記事になってるわけないでしょ!!」
それもそうだ・・・と税関職員はその記事をしまった。
そもそもこの変な男が北朝鮮まで行ってそれでこんなわけのわからないものを持ち込んで来ているとしたら更にもっとわけのわからないことになってしまうのだ(笑)
実は税関職員が探していたのはそんなものではない。
伝票・・・だったのだ。
中国でモノを作って日本に密輸入している「業者」は、
必ずそれを証明する伝票のようなものを持っている。
それが「商売」なのだから必ずそれに関するものを持っている。
しかしワシの荷物にそれらしきものは一切ない。
そりゃそうだ、ワシは中国のロック仲間にグッズ製作を頼んで、
出来上がったら現金でそいつに金を払い、
領収書だの伝票だのそんなものは一切持ち合わせてないのだ。
そしてトランクの中から税関職員が見つけたのは、
無造作に放り込まれているレポート用紙の束。
往々にしてこのように「伝票」は発見されるのだ。
税関職員はそれを開いて見たのだが、
更にわけがわからないような表情をしてこう聞いた。
「これは何ですか?・・・」
税関職員が首を傾げるのも仕方がない。
これは喜国雅彦先生が書いてくれた激鉄♪MAXの絵コンテだったのだ。
税関職員、もうますますわけがわからない。
この変なルックスの50男は一体何をやってる人間なのだ・・・
ワシは助け舟を出すつもりで優しくこう言った。
「いや、税金だったらいくらでも払いますから・・・」
以前タバコや酒を規定量以上持ち込んだ時にも、
ちゃんと申請して税金を払えば何も問題はなかったではないか。
要は税金さえ支払えばそれでいいのである。
税関職員の仕事はもう大詰めとなり、
あとは税金の額を決めて支払ってもらうだけである。
しかしタバコは別として、
この怪しげなグッズが一体いくらの値打ちがあるかが皆目わからない。
伝票さえあれば細かい金額が出るのだが、
それがないのだからだいたいでここで決めてしまうしかない。
「Tシャツ1枚いくらぐらいで作りましたか?」
そもそもワシはまとめて金をどんと払うだけなので1枚いくらまではとっさに出て来ない。
「うちのボーカルが作ったんでそこまではわかりませんが・・・
まあだいたい500円ぐらいじゃないですか・・・」
税関職員はTシャツを500円として計上、
問題は山ほどの「旗」である。
「この旗はいくらで?・・・」
と言いかけて税関職員はあきらめた。
きっと「こんなものいくらも値打ちがないだろう」と踏んだのだ。
「旗と・・・このステッカーは・・・いいです」
かくしてTシャツとタバコの持ち込み税金ぶん、合わせて1万円ほど支払って無事に取り調べ終了!!!
ワシは最後に税関職員に聞いた。
「麻薬とか摘発したこともあるんですか?」
税関職員は言った。
「ここではしょっちゅうですよ」
日本国家のために税関職員はこうして一生懸命仕事をしている!!
彼らの仕事に敬意を表するぞ!!
そんな皆様のお手を煩わせてどうもすみませんでした!!
というわけで噂の太陽神グッズ
■TシャツS、M、L、XL、3,000円(現在は黒のみです)
■ハチマキ白、黒 各1,000円
■旗 大2000円 ← 一番偉い、中、小 ← 安い 発売未定
お問い合わせ、ご注文はコチラから↓
>>> http://hidemitsu.jp/mail.html
Posted by ファンキー末吉 at:00:16 | 固定リンク
2013年3月 7日
北朝鮮に初めてiPhoneを持ち込んで国際電話をかけた日本人
今年から北朝鮮に携帯電話が持ち込めるようになったということはネットニュースなどでも伝えられて来た。
ところが「持ち込めるようになった」のと「実際に持ち込める」のとは大きな違いがある。
例えば中国など国際免許が通用しない国で、
「現地で免許が取れる」
という風には早くから伝えられていたのだが、
ところがワシのような不法就労の身では
やれ居住証だやれZビザだと現実的には
「免許など金でバッタもん買った方が早い」
というのが現実である(笑)
「北朝鮮で外国人用にSIMカードの販売が開始され、
携帯電話で国際電話がかけられるようになった」
というニュースは既に流れていたが、
「実際私たちのような旅行者が本当にそれが出来るのか」
というのとは現実としてまるで違うのである。
奇しくもワシは今年になって北朝鮮に入国した最初の日本人であるらしい。
北京発平壌行きの飛行機は相変わらず中国人客を満載してたが、
平壌空港に着いたらその中国人客は皆携帯電話を税関職員に差し出してるではないか・・・
「ほら見てみぃ」という気持ちで私も携帯電話を差し出した。
大体にしてニュースというのはこんなもんである。
誰もそれを確かめもせずに流しているのだから・・・
あきらめてそのまま税関を出ようとしたら、
いつもの案内人がやって来て
「携帯電話の預かり証はもらいましたか」
と言うので、
「あ、そう言えばもらってねえや」
とばかり引き返す。
案内人が二言三言税関職員と話していたと思ったら、
職員はなんとそのまま携帯電話をぽんと渡してくれた。
「え?!!ウソー!!」
ワシはつい取り乱してしまったが、
追い打ちをかけるように案内人はこう言った。
「外国人用に電話のカードも売ってますけど買いますか?」
ワシはついに絶叫した!!
「え?!!ホントに買えるの?!!すっげー!!!」
空港内であまりに狂喜乱舞していたので案内人に注意されたぐらいである(笑)
見れば税関を出た所にこんな看板がある。
まるでネットにつなげんばかりのポスターではないか!!(ワクワク)
ワシは迷わずSIMカードを購入した。
一番安いパックを中国元で支払う。
450元・・・日本円でだいたい7000円ぐらいであろうか・・・
中国から持ち込んだGSM携帯もあったが、
ここでは3G携帯しか使えないと言うので、
迷わずiPhoneにこのSIMを挿すことにした。
「iPhone5か?」と聞かれるので「4Sです」と答えたが、
よく見るとカウンターの裏にはSIMカッターが2つ置いていて、
おそらくひとつがmicroSIM用、もうひとつがnanoSIM用で、
客の電話の種類によって通常のSIMをカットするのだろうと思う。
SIMにはPINコードが設定されていて、
カウンターのお姉ちゃんが「0000」打ち込んだら、
なんと見事にiPhoneはこの北朝鮮製のSIMを認識しているようだ。
試しに電話をかけてみたいのだが、
「この携帯は国内にはかけられません。国際電話だけです」
と案内人が言う。
まあどうせこの国内に電話をかけるような友達はいないのだ。
ワシは迷わず嫁の携帯に電話をした。
ワシは興奮している。
なにせ日本人で初めて北朝鮮国内から日本に携帯で電話しているのだ。
それを受ける歴史的な相手は嫁!!
平壌から愛を叫ぶのだ〜!!!!!!!!
電話の呼び出し音が鳴る。
ワシの心臓は興奮でもう飛び出しそうである。
嫁が電話に出た!!
ワシは興奮してまくし立てる。
「奥さん?!電話番号表示されとる?!!
これ平壌のSIM!!凄いやろ!!携帯で電話しとるんやで!!」
嫁:「ふーん・・・」
この歴史的な大きな目撃者であるべきその相手は「ふーん・・・」(号泣)
ワシは涙を拭いて携帯を切った。
兎にも角にもワシは北朝鮮にiPhoneを持ち込んで国際電話をかけた初めての日本人となったのだ!!!(涙)
見ればKoryoLinkからメッセージも届いている。
Thank you for choosing koryolink.You have 4200.00 Won and valid until 2013-03-05To recharge your account or check on your balance please
「おうっ!!」とばかり嫁にSMSを送ってみるが、
残念ながらSMSは送れないようになっているらしい。
同様にネットにも接続出来ないらしい。
しかしこの記事によれば2月末からネットに接続も出来るという話である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130306-00000021-jij-kr
まあわからんけど・・・
「出来るようになった」と「実際出来る」というのは大きな違いなのだから・・・
さて、このKoryoLinkのSIMなのであるが、
高い金を出した割にはあっと言う間にチャージがゼロになってしまった。
中国と同じで受信しても通話料を払わねばならないのだろうが、
受信もちゃんと出来た。
「パパ〜あれどこに置いとったっけ?」
これでおそらく1000円は吹っ飛んでいるのだろう(笑)
まあいい、たっぷり楽しんだ!!
ファンキー末吉、北朝鮮で最初にiPhoneで国際電話をかけた日本人・・・
携帯オタク以外には自慢出来んか・・・
ちなみに中国、日本から持ち込んだ全てのSIMはローミングが出来なかったので、
現状あの国で携帯を使うのはこのSIMを購入する以外ない!!!
以上!!携帯マニアにはヨダレもののレポートであるが、
実はもうひとつとても大切な事実がある。
核実験を行って世界的に孤立している北朝鮮であるが、
それと相反するように実は外国人に対してどんどん門を開いているということだ。
アメリカと敵対しているというこちらの報道だけを見たのでは頭を抱えるだろうが、
実際同じ飛行機に乗り合わせたアメリカ人女性は、
アメリカの会社が平壌に開いた事務所に赴任して来る人であった。
テレビ等のニュース等では読み解けないいろんなものが世界にはある。
この目で見て自分で判断しないとなかなかホントのことはわからない
というのがワシの持論である。
天安門事件だって日本で報道されているのとはだいぶ違ってたし、
チベットやモンゴルの人権問題に関してもワシが見て来たものと報道とは大きくかけ離れている。
報道が「視聴率」つまり「ウケ」を追求するようになったからこうなるのだろう。
情報が溢れている昨今であるがゆえに、
我々はもっといろんなことを考えながらその情報を選択しながら受け入れていかねばならないのではないかと強く思う。
北朝鮮ロックプロジェクトまとめはこちら
Posted by ファンキー末吉 at:22:07 | 固定リンク
2013年2月13日
潜入!!ミャンマーの巨大売春系キャバレー
ミャンマーでの本の即売飲み会の時、
現地の日本人の若者と飲んで盛り上がった。
「ミャンマーの女の子は素朴で可愛いよね」
という話になった時、どういう流れか
「売春系のキャバレーもありますよ、行ってみますか?」
という話になった。
時は夜の8時半、ワシは9時半には店を出発してソウルに出発せねばならない。
「滞在時間15分でも行ってみるか!!」
というわけでその場でいる人全員(男ばかり)が席を立つ。
タクシーに乗り込んだワシらを心配そうに見送るオーナーのKさん。
「9時半までに戻って来れんで飛行機乗り遅れたらあんたたちに飛行機代出さすけんね!!」
と釘を刺した。
まあワシとて別に女遊びがしたいわけではない!!(キッパリ)
この純粋無垢な可愛い女性ばかりのこの国に、
売春婦というジャンルのミャンマー女性が存在するのか?
そしてちょっと前まで軍事体制だったこんな国にそんな売春キャバレーなんかが存在するのか?
それに対する興味が大きかっただけなのである。
タクシーに(文字通り)揺られること15分、
屋台なんかが立ち並ぶ素朴な街角とは打って変わって、
巨大なネオンサインが眩しい街角に着いた。
案内する地元の若者がタクシーを降りると、
彼と顔見知りのようなガードマン(警察の制服だった気も・・・)が声をかけて、
そのネオンサインのビルにワシ達を案内する・・・。
ビル自体は古い住居ビルのような感じで、
噂通りこの店は軍事政権の頃から何年もこうして営業されていたのだろう。
エレベーターも普通の住居ビルのようなエレベーターで、
階上に着いた途端に耳をつんざくようなディスコミュージックが飛び込んで来た。
建前としては「ディスコ」として営業しているということだが、
エレベーターを降りた途端に着飾った女の子達がわっとワシらを取り囲む。
店内は非常に広く、フロアでは何組もの着飾った女の子と客らしき男性とが踊っている。
店の人が女の子にもみくちゃにされているワシらをボックス席に案内するが、
すぐさま20〜30人ぐらいの女の子がそのボックスを取り囲んだ。
「私を指名して!!」ということなのだ。
日本語でアピールする女の子もいる。
中国でも何度かこのテのキャバレーに連れて行かれたことがあるが、
ワシはこの「選ぶ」という作業が非常に苦手だ。
ついつい「選ばれなかった女の子」の気持ちを考えてしまうのである。
ワシは中国で何人ものそんな女の子たちと友達になり、
彼女たちの生活をいろいろ聞いた。
ミャンマーではどうか知らないが、
中国では基本的に「選ばれてなんぼ」、
誰も指名してくれなければ収入はゼロなのだ。
当然ながら客は「ヤリに」来ているわけで、
そんな客はワシのように素朴でぽつんとたたずんでいる田舎もんの女の子などを指名したりはしない。
女の子たちは選ばれ易いように精一杯セクシーな服や派手なドレス着て来るのだが、
実はそのその洋服代や化粧品代も基本的に全て自腹なのである。
多くの女の子が同郷の先輩などを頼ってこの世界に入り、
その先輩に、もしくは店に、ミャンマーだったらひょっとしたらブローカーに借金をしてその服や化粧品を買う。
「売春は元手がいらない商売」などというのはそんな女の子たちの生活を知らない人達が言う言葉である。
この店にはざっと見て100人近くの女の子がいるが、
その中でちゃんと指名をもらってその日の稼ぎを得る子などほんの一握りなのだ。
そして運良く「お持ち帰り」をしてもらって生活費を稼げる子はそのうちの更に何分の一かである。
「お前が選べ!!」ワシは若い衆にそう命じた。
そもそも自分で選ぼうにも店内が暗過ぎて暗闇に弱い老眼のワシには選ぶに選べないのだ(笑)
若い衆はiPhoneをライト代わりにして女の子を照らす。
女の子はしまいにはそのiPhoneを奪い取って代わる代わる自分を照らす。
こうして最初に選ばれた女の子が隣に座った。
名前を聞いたがミャンマー語なのでよくわからない。
年は20歳と言ってたが、見た感じ16〜8歳ぐらいであろうか・・・
彼女は座るや否や「この子を選んであげて」と知り合いらしい女の子をアピールする。
きっと彼女が頼ってこの店に入った「先輩」なのであろう。
「あの女の子も選んだげて!!」
ワシは若い衆にそう指示した。
なんじゃかんじゃで女の子が人数分揃って椅子に腰掛けた頃にはもう9時を回っていた。
もうぼちぼち出発せねばならない。
「ここのシステムどうなってんの?チップは直接払うの?」
若い衆に聞いてみる。
どうやらチップは店の勘定に含まれているらしい。
しかし座って5分で帰ってしまったら、
逆に「お前のサービスが悪いから怒って帰ってしまった」と女の子たちが店から責められるかも知れない。
「店にも十分金落とすからじゃんじゃん酒頼んどいて!!」
女の子たちも飲むか聞いてみるが、どの子も首を横に振る。
思うにこの店は日本のキャバクラのように別に飲み物代で儲けているわけではなさそうだ。
運ばれて来た缶ビールを一口飲んでもう席を立とうとするのだが、
女の子たちのことを考えると、
せめてワシについた女の子ぐらいには直接チップを払ってあげたい・・・
そう思い立ってポケットに手を入れてミャンマー紙幣を取り出すのだが、
店が暗い上に、一番目につく紙幣の数字がミャンマー文字で書かれているのでとっさにいくらなのかよくわからない。
(言ってみれば漢数字で書かれているお札を見る欧米人の感覚)
まあ去年来た時の最高額紙幣は1000チャット、
今回は新しく5000チャット紙幣が登場してたが、
それでさえ日本円にしてみればたかだか500円、ワンコインなのである。
無造作に紙幣を一枚取り出して女の子に握らせた。
ところが偶然ながらその紙幣は最高額紙幣の5000チャットだった。
女の子が目を白黒させている。
「よし、帰るぞ!!店にも迷惑かけないように多めに金置いていけ!!」
若い衆にそう指示する。
若い衆は店には1万5千チャット(日本円で1500円)にイロをつけて支払って、
全ての女の子にチップとして1000チャット紙幣を握らせた。
この時点でワシの隣の女の子はチップを2重取り、
いや、店からも配当がもらえるとしたら3重取りである。
これでいいのだ!!
5分しか滞在しない客なのだ、
「お持ち帰り」をして彼女たちの生活を豊かにしてあげるようなこともない。
人よりも多くお金を落としてあげてしかりである。
ワシは残ったビールを全て一気に飲み干してすっくと立ち上がってエレベーターに向かった。
エレベーターの近くまで来たらワシの隣に座った女の子が追いかけて来た。
「Thank you very much」
彼女はちょっと背伸びをしてワシの頬にキスをした。
一緒に来た他の日本人客はまだ残っているようだが、
ワシと若い衆2人はすぐさまタクシーに乗り込んで帰途に着いた。
お会計はしめて3万チャット(日本円で3000円)。
更に「お持ち帰り」をするならば、
女の子に2万チャット(日本円で2000円)払えばそれでいいらしい。
売春が悪いことだというのは周知の事実だが、
世界中どこに行っても売春がない国はない。
戒律があれだけ厳しいイスラム国であるマレーシアにもいた。
黒髪を他人に見せることすら神への冒涜である国で、
セクシーな服を着て客を挑発するようにダンドゥットを踊る彼女たちは、
自分があの世で神にどのように罰せられても後悔しない「覚悟」があるのだろう。
お金があるのに売春をするのは日本ぐらいであって、
世界じゅうのそのほとんどの女の子たちは何か事情があってこの世界に足を踏み入れている。
ミャンマーの彼女たちの先輩たちも、軍事政権の厳しい国情の中で、
恐らく軍部が経営しているであろうこの店に、
何かしらの事情を抱えて飛び込んで来て、
その中でも彼女たちなりに頑張って明るく生きてゆく。
中国のLINEみたいなアプリでWeCHatというのがあるが、
ワシの携帯にはその中にひとつ、そんな中国の女の子からのメッセージが入っている。
「Funky、その節はいろいろありがとうね。
私、故郷に帰って結婚したの。
こっちに来ることがあったら連絡して!!ダーリンを紹介するわ」
ワシはそっとそのメッセージを開いて読み返して、また閉じた。
ミャンマーのこの店で働く全ての女の子たちも、
一生懸命頑張っていつか本当の幸せを手に入れて欲しい。
暗くて顔はよく見えなかったが、
年端も行かない女の子が精一杯セクシーな洋服を着て、
精一杯の厚化粧をして背伸びしてキスしてくれた、
右側のほっぺがいつまでも暖かかった。
Posted by ファンキー末吉 at:12:50 | 固定リンク
2012年7月14日
小畑秀光のプロフィール
アジアを股にかけて活躍していたビジネスマンのMさんが、
「老後は古巣のマレーシアで暮らそうと思うんですよ」
と永住のビザの申請を始めたと聞いて、
「ほなマレーシアでまた何かおもろいことやりまひょか」
と盛り上がった。
手っ取り早いのは、
マレーシアでも有名なBEYONDのドラマーWINGのエージェントをやることである。
あれからしばらくマレーシアにも行ってないので、
バンバン仕事取って来てくれる人がいたらWINGも嬉しいはずである。
「ほな挨拶代わりに何か仕事取って来ておくんなはれ」
と言うとMさん、さっそくひとつ仕事を取って来た。
「安売りするつもりはないんですけどねえ、
このぐらいのギャラしか出ないそうなんです・・・」
さっそくWINGに連絡してみる。
「安いそうじゃがやるか?」
「没問題!!」
中国人はまっこと決まれば仕事が早い。
まあなかなか決まらんだけのことなのじゃが・・・
かくして正式にプレゼンするのに、
バンドのメンバー全員のプロフィールが必要ということになった。
バンドって香港のんは取り寄せて、
あとはワシと・・・小畑くんは行くのか?・・・
一応あの日、
「どや?このギタリスト?」
と言ったら
「ええなあ」
と言っていたではないか・・・
「あいつも連れて行きまっか?」
と電話したら、
「是非そうしてくれ」
と言うのでさっそく小畑くんにプロフィールを送って来させる。
日本語で送られてもワシが翻訳せねばならんので、
「大きなミッション!!
マレーシアをブッキングするのに君のプロフィールが必要です。
英語もしくは中国語で作成しなさい!!
・・・無理か・・・(~_~;) 」
とつぶやいておいた。
まあ無理であろうが、
Twitterでつぶやくと英語が出来るファンが助けてくれるかも知れない。
数日たって、英文のDMが送られて来た。
「Hidemitsu JET Obata The best vocalist & guitarist in Japan!
You've never seen a show like this before.
Bringing world peace through ROCK!」
一生懸命考えたのだろう。
しかしこれは「プロフィール」ではない!!
「宣伝文句を書くのでなく音楽経歴を書くのじゃー!!!!
日本語でええから送って来なさいー!!」
まあここまでは予定通り。
本人も「了解致しました\(^o^)/」としばらくしてから送られて来たのがこれ。
「1979年産まれ1998年日本デビュー
2000年最強激メタルバンドFULLAHEAD結成
ヤングギターにインタビューでほぼカットされる
2008年最強激バンドSTEEL ANGEL結成
2012年北京で自分の居場所発見
ファンキー末吉さんの後を追って絶賛世界平和中!」
お前なあ・・・これを訳してマレーシアに送って仕事が取れるか?・・・
「アメリカツアーしたやろ? CD何枚出したとかそういう事実をたくさん書くのぢゃ!!」
と言って送って来たのがこれ。
「アメリカでは私だけ社長に付き合わされ一人で何処かわからない場所でギターを弾く。
CD1万枚擦ったのにJASRAC登録をせず現在9000枚の在庫CDが倉庫に眠る」
お前なあ・・・(涙)
「こういう風に書くのです。
何年デビュー 何年ツアー 何年アメリカ 何年二井原 何年それが発売」
そしたらやっとそれらしいのを送って来たのじゃが・・・
「1998年デビュー
1999年全国ツアー120本制覇!
2005年アメリカギター引き倒し
原住民に君ならハリウッドの山に素手で登れると言われる
2008年二井原実SOLO LIVE参加
2008年二井原実SOLO LIVE参加それがCDとして発売!!!」
もうええです・・・こっちで適当に作っときます・・・(涙)
「つたない文書でしたが1週間分の脳みそをフルに使ったでMAX\(^o^)/」
はいはい・・・(涙)
Posted by ファンキー末吉 at:21:03 | 固定リンク
2012年6月 6日
ミャンマーROCK!!
やっちんツアーから車で東京に帰る間、
ミャンマーで買ったロックバンドのCDを田川くんと聞いていた。
「いや〜こんなギター弾いてて許されるんですねえ(笑)」
と田川くん。
むっちゃくちゃメタルなギターからそのライブアルバムは始まった。
現地のミャンマー人に嫁いだ美冬嬢のダンナ様、
MYO MYOがワシのために選んでくれたお気に入りのROCKのCDは、
その辺のスーパーのCD売り場で買ったやつなので当然ながらマニアックなやつではない。
日本ではROCKのCDを聞く人は「ROCKファン」であり、
一般人民は「J-POP」というジャンルの音楽だけを聞く。
当然ながら品揃えが薄い店には「ROCK」というジャンルのCDは置いてない。
在庫がハケ易い「J-POP」、しかもチャートの上位のCDしか置いてないということである。
ミャンマーがどれだけ特殊な国だとしてもこの辺の事情に変わりはないだろうから、
必然的にこのメタルな音楽はミャンマーでは、
「限られた人だけが聞く音楽」ではない!!
これがこの国で売れている音楽だとしたら、
この国では一般人民、すなわち知識階級から農民まであらゆる人達がメタルを聞くのだ!!
何と素晴らしい国ではないか!!
ワシは感激しながらCDを聞き進めていった。
売れ線のバラードや、民族的なメロディーの曲もあるものの、
そのライブCDは基本的に「メタル」であった。
ヘビーでちょっとメロディアスなROCKはアジア各国でも人気である。
中国でもそうだったしタイでもマレーシアでもそうであった。
でもミャンマーのこれはあまりにもメタル過ぎてないか?!!
ワシはわくわくしながらCDを聞き進めた。
ワシが初めて中国に行った1990年頃、(天安門事件の翌年)もそうだったが、
上から押さえつけられている民衆は「大きな音で叫ぶ音楽」つまり「ROCK」を愛する傾向があるとワシは感じている。
軍事政権で世界中から経済制裁を受け、
貧困と政治不安にあえぐこの国の人民がROCKを愛したとて何ら不思議はない。
「凄いぞ!!ROCKはこの国ではこれほど民衆に愛されているんだ!!」
前回行った時にその空気から
「この国ではROCKが流行っている」
と感じたのはやはり間違いではなかったのだ!!
田川くんとそんな話をしながら聞いていたら
「あれ?・・・これ・・・バンヘイレンの曲ですよ。しかもミャンマー語で歌ってます(笑)」
と田川くん。
CDのインデックスを見てみるがクレジットはミャンマー文字なので読めないが、
確かにライブ音源なのでこの膨大なオーディエンスは全員その曲をミャンマー語で大合唱している・・・
その他、
「あ、この曲もうちにCDあります。誰の曲だったっけなあ・・・」
と田川くん。
つまりこういうことだ!!
こいつらは欧米のゴリゴリのROCKをコピーして、
それをミャンマー語に訳して歌っている?!!
ひょっとして自分らの曲だと言い張ってCDを出している?・・・
まあさすがにバンヘイレンも自分の曲がこのアジア辺境の地でどのように勝手に使われているかは管理し切れんわのう・・・(笑)
まあ著作権的にはそれは大きな問題なのではあるが、
何よりもワシは「それほどまでしてメタルをしたいのか?」ということに更に感激してしまう。
売れるためにビートルズのメロディアスな音楽をパクっているではない!!
ヤツらがやっているのは「メタル」なのだ!!
その辺がワシを感激させてやまない・・・
売れたいのならビートルズでええやん!!
何で好き好んでこんなメタルなプレイをせなあかんねん!!(笑)
ROCK少年ならまあそれもよくある話だろう。
しかしそんな音楽でスタジアムを満杯にして、
そんな音楽に熱狂するその満杯のオーディエンスが凄いと思う。
ROCKを知らない人民がそれこそが「ポップス」だと思い、
それに熱狂し、支持している。
理由はどうであれミャンマー人民はこれほどまで熱狂的にメタルを求めているのだ!!
勝山さん、こりゃミャンマー店の3Fは是非ともLive Barにせないかんでしょ!!
小畑秀光を1年ぐらい放り込んで更なるメタルムーブメントを作るらせるのぢゃ!!
ワシと田川くんが熱狂したバンド(基本的にはソロシンガーとバックバンドらしいが)の映像をネットで探したらたくさんヒットした。
ちなみにCDに書かれていた彼のキャッチコピーは
「俺はもう13年ROCKをやっている!!」
だった。
ミャンマー熱いぜ!!!
Posted by ファンキー末吉 at:13:53 | 固定リンク
2012年5月19日
ミャンマー着!!ネット接続や闇両替との戦い!!
噂通りミャンマーのネット環境はよくない。
空港でSIMを売ってたので買おうと思ったが、
どのSIMもネットにはつなげないというのであきらめた。
噂によると最近ネットにつなげるSIMが発売されたと言うが、
その値段は日本円で3万円と高く、
それでもどこも売り切れで入手困難である。
ホテルのネットは部屋にはなく、ロビーにWi-Fiが飛んでいるのだが、
その速度があまりに遅くて使えない。
現地の比較的速い速度であるというネットカフェに行って、
そのWi-Fiのパスワードを500円で買って試してみたら何とかツイキャス配信が出来た。
見てた人の書き込みによるとぶれた静止画が紙芝居のようにペラペラ変わるだけのレベルらしいが・・・
まあ週刊アスキーの担当者が見ていて
「ミャンマーからツイキャスは日本初、ひょっとしたら世界初ですよ!!」
と書き込んでたのでとりあえずよしとしよう・・・
またチャンスがあったら配信します。
(こちらにて)
さて街に繰り出す。
経済制裁を受けている国にしては物が豊かである。
北朝鮮もそうだったが、
世界中が一生懸命経済制裁をしようが中国がどんどん物を流すので意味がないのである・・・
しかしいくら警備だとは言え街中に銃を持った警備員がいるのはいかがなもんか・・・
でもスッチーさんは噂通り国民には大人気らしい・・・
(ノートブックの表紙はスッチーさん)
さて、まずは闇両替屋を探さねばならない。
ホテルや銀行ではドルやユーロしか扱っておらず、
日本円や人民元の両替は闇両替に頼るしかないのだ。
ホテルの近所のマーケットを歩いていると日本語が堪能な男の子が声をかけて来る。
彼に連れられて行ったところはマーケットの中の普通の商店。
その店が闇両替をしてくれるのであろう、
彼は流暢な日本語でレートを交渉。
Kさんは「ネットで調べたレートより安い」と言うと、
「ここはヤンゴンね!!これはヤンゴンのレートだから仕方ないね!!」
と反論。
いくつか別の闇両替屋も行ってみたがまあどこも似たようなもんだったのでとりあえず数万円ばかし両替!!
1万円が10万ミャンマーチャットで、最高紙幣は千円程度なので札束がどんと来る。
数えるのが大変である・・・
相手はその間それが偽札かどうか調べるのが大変である・・・
かくして現地の美冬嬢と合流、新店舗となる物件をチェックに来る。
彼女はKさんと一緒にミャンマーに店を出す長谷川さんの従姉妹で、
ミャンマー人に嫁いで言葉も達者な美女である。
物件は3階建てで非常に広く、
3階スペースは住居にしようとか言ってたので、
「いや、ここはライブが出来るようにしてLive Bar X.Y.Z.→Aの支店にするのじゃ!!」
と強く押す!!
八王子でライブをやったミュージシャンはバンコクの店でライブをやって、
そのままミャンマーでライブをやって、
帰りに上海に寄ってライブをやって帰ればよい。
もしよければそのまま数ヶ月居残ってくれてもよいが・・・(笑)
そのまま一行は電気街にある楽器屋に向かった。
音響設備も楽器も品揃えが豊富である。
ライブをやるからこの楽器屋に来たのかと思ったら大間違い!!
実はここは美冬嬢のダンナ様の友達で、
日本から楽器を輸入しているので多額の日本円を闇両替出来るというのだ。
開店資金として持って来た日本円を両替したら何とこのむちゃくちゃな現地紙幣の量!!
数えるのも大変である・・・
運ぶのも担いで運ぶ・・・(笑)
続く・・・
Posted by ファンキー末吉 at:22:55 | 固定リンク
2012年4月22日
ドラムを叩くということ・・・
響太という高校生ドラマーがいる。
小畑秀光というキチガイが
「こいつは見どころがあるんですよ」
と言って連れて来たので相当のキチガイかと思ったが、
まあワシの印象としたらおとなしくて可愛い普通の「子供」である。
人はワシと北朝鮮の子供達との交流の番組を見て、
「ファンキーさんって子供好きなんですねえ」
とか言ったりするが、
誤解なく言うとどちらかと言うと子供は「嫌い」である。
「自分の子供は例外である」と言うが、
その例外がファンキー村の7人の子供達、
そして北朝鮮の「ロックの生徒達」に広がっているだけで、
どちらかと言うと子供好きかどうかと言われれば嫌いだと思う。
「子供ドラマー」というのがまた嫌いで、
全中国をドラムクリニックで廻っていると、
「これでもか」というほど中国の「ちびっ子天才ドラマー」と出会うが、
その親や先生などから
「ファンキー先生、どうですかねえこの子は?プロになれますかねえ」
と質問される度にうんざりする。
「ちょっと見どころがあるなあ」と思った子供に世話を焼いたところで、
そのほとんどが10年もすればドラムなんて叩いてないのである。
世話を焼くだけ無駄である・・・
と言いながらどちらかと言うと「出会い」は大切にする方なので、
大人ドラマーだ子供ドラマーだは関係なく、
それはそれでひとつぐらいドラマーとしてのキーワードを与えておいたりする。
それが心の底から理解出来たドラマーだけが次のドアを開けることが出来る、
そんな「宿題」を与えてたりするのだ。
そもそもが「音楽」に大人だ子供だは関係ない!!
子供ドラマーのそのほとんどが「子供である」ということで拍手をもらっている。
中国で「スーパーちびっ子ドラマー」の演奏を見た後も、
必ず惜しみない拍手を与えなければならない。
「お前のドラムは音楽以前の問題だよ!!」
などと「本当のこと」を言おうものなら、すぐさま
「何て大人げない」
と総攻撃を受けることとなる。
これは一種の「暴力」である。
「拍手は芸人を殺す」という言葉があるが、
そんな拍手が子供ドラマーの「才能」を容赦なく殺してゆく。
あのアホな大人ドラマーを見ればわかるだろう。
有名であるがだけでちやほやされているドラマーにろくにドラムが叩けるヤツがいないのは、
「その人であればそれだけでいい」
というミーハー共の拍手によってその「芸」が殺されてしまったからに他ならない。
「いや、響太は違うんです!!
こいつはもう自分は音楽で生きてゆくしかないと思ってますから!!」
と小畑秀光のキチガイは言う。
「何言うてんねん!!子供ドラマーである限り、
ステージで失敗したってシマッタという顔したらみんなカワイイと思って許されるだろ。
お前や俺がステージでそれやって許されると思うか?
ステージは何だ?!!戦場だろ!!俺らは生きるか死ぬかでステージやっとるんじゃ」
とかつい「本当のこと」を口走ってしまうと、小畑秀光のようなキチガイでさえ、
「そんな大人げない・・・」
という目でワシを見る・・・
「いいよ、わかったよ!!21日のX.Y.Z.→Aのライブに連れて来い!!
ドラムの後ろでずーっとその命懸けの戦いを見させとけ!!
それで何かを感じることが出来たら一生音楽でも何でも好きにやればいい!!」
というわけで昨日のライブは響太がずーっとドラムの後ろで見ていた。
リハの時に
「ここに座って1ステージずーっと俺のドラムを見とけ」
と言ったらドラムの後ろでちょこんと正座して見てたので、
「楽にしてみてたらいんだよ」
と言い直した(笑)。
どうもワシは「顔が恐い」らしくよく人にこのような緊張感を与えるらしい・・・(笑)
本番が始まる前にワシは響太にこう言った。
--------------------------------------
間違ってもオカズなんか聞いてんじゃないぞ。
「これどうやって叩いてるんだろう」なんてこと考えた瞬間に、
もう「音楽」を聞く状態になってない。
オカズなんて何叩いたって「音楽」になるんだ。
注意深く聞くのはむしろ「スネア」だよ。
「パーン」って音が鳴るだろ、
その「パーン」を全部呑み込むつもりで叩くんだよ。
「ン、パーン、ン、パーン」と音が続くだろ、
それを全部呑み込みながら叩いてるんだ。
オカズ叩いてる時にもその「パーン」が聞こえてるようなつもりで叩く。
その「感覚」を覚えておいて、
次に自分がドラムを叩いた時に同じように「パーン」を呑み込むように聞きながら叩く。
「あれ?何か違うなあ・・・何が違うんだろう・・・」
と思ったらそれこそが「音楽への入り口」よ。
スネアの音にはいろんな「表情」があるからそれを聞くんだ!!
特にバラードなんかではその音色がとても「悲しい」ものになったりする。
「どうやったら叩けるんだろう」は次の段階だ。
要はその「表情」が「感じ取れる」かどうかよ。
感じ取れなかった一生それを叩くことは出来んからな。
例えばAメロとBメロ、そしてサビは全部その「表情」が違う。
オカズを叩く。
何を叩いたっていい。ただ「今からサビですよ」という「気持ち」が大切だ。
そしてサビに行く。
「パーン」というサビの「音色」を、
今度はサビの間じゅう「同じ音色」になるように踏ん張って叩く。
それを「聞く」んだ。それを「感じる」んだ。
ドラムなんて所詮は「同じ音量」の「同じ音色」を「同じタイミング」で叩くだけに尽きるんだよ。
それに命を賭けてるだけの話だよ。
--------------------------------------
要は「責任感」の問題である、とよく人に説明する。
オカズを叩く、人間なんだから当然ちょっとヨレる、
次のスネア一発でそれを強引に、
いや強引だとは気付かれないように命懸けでそれを修正する。
「あ、今度はちょっと強過ぎた」それを次の一発で修正する。
一発一発を命懸けで「キープ」するのだ!!
その繰り返しを「リズム」と言う。
だからリズムには「人生のドラマ」がある。
「戦いの連続」なのだ!!
チャラチャラした性格のとある大人ドラマーにこう説教したことがある。
「お前、今その瞬間にヘラヘラ笑って誤摩化しただろう!!
何でそれを次の一発で命懸けで取り戻そうとしない?!!
お前はずーっと人生をそうやって生きて来たんだ。
ヘラヘラ笑ってたら今まで全て許されて来たんだ。
俺は違う!!俺がそれをやってたらもう周りに誰もいなくなる。
だから俺は戦って生きるしかなかったんだ!!
だから今も命懸けで戦う!!それだけだよ!!」
ちんちんに毛も生えてない子供には分かるはずもないので今回は言わなかったが、
中国の若い衆にはこれをよく「初恋」に例えて説明する。
「初恋の感覚を思い出せ!!
強く抱きしめたら壊れてしまう。
弱く抱きしめたら逃げてしまう。
じゃあお前はどうする?
あ、強かった・・・死にもの狂いで次の一発で何とかするだろ?
弱かった・・・命懸けで次の一発を何とかするだろ?
その連続がリズムなんだ!!
要はどれだけ"愛してるか"だよ・・・」
こんな話をしていると昔プロデュースした萌萌(MengMeng)という歌手を思い出す。
「恋の歌が歌えないの・・・だって私・・・恋したことないから・・・」
と言ってた彼女、華々しくデビューして以来そう言えばあまり噂を聞かないなぁ・・・
「ママなんて捨ててもいい。何を失っても、全て捨てても私はこの人と一緒にいたい」
そんな気持ちになったことがない人間に人の心を打つ歌なんか歌えるわけなんかないじゃろ・・・
「人生」とはそんなにうまいことばっかいくもんではない。
その証拠に現実の「恋」はそのほとんどが「大失敗」に終わる。
だからドラムを叩くときぐらいは失敗はしたくない。
ここは自分だけの「ドリームキャッスル」なのだ!
「失敗するぐらいなら死んだ方がまし」なのだ!!
「戦場」なのだ!!戦って生きるのだ!!
それを人は「ロック」と言う。
響太は素直な男の子である。
怖い顔した変なオッサンにわけのわからんことを言われて、
緊張してドラムの後ろに正座して、
ひょっとして言われた通り結局はスネアだけ聞いて何も理解出来なかったかも知れない(笑)
でもいいのだ!!ワシはこう言った。
「今日俺が言ったことが理解出来なくてもずーっとこれを覚えとけ!!
いつかひょっとしたらわかる時が来るかも知れない。
ああ、あの時に聞いたことはこれこれだったんだ、と」
ワシは響太の父親でも何でもないので、
「お前はこう生きろ」などということは出来ない。
自分の人生なのだ。
子供だろうが何だろうが、自分で決めて自分でそれに向かって戦ってゆかねばならない。
社会に出ればいずれわかるだろう。
恋をすればいずれわかるだろう。
まっとうに生きたってどうせ人生なんてシンドイもんなのだということを。
そしてキチガイとして世間と戦って生きたってシンドイもんなのだということを。
神様はこの部分だけは人間を平等に作った。
「人生はどんな人間にも平等にシンドイ」のである!!
初恋をして、熱病のように「この人といれたら何も要らない」と思うような同じ気持ちで、
「何を捨ててもいい、一生貧乏でもいい、僕はロックで生きるんだ!!」
と思った時にまたワシのところに来ればいい。
その時にまたドラムの後ろで正座してこのドラムを聞いてみろ。
初めてこのオッサンがどう生きて、
どう死んでゆくのかを「感じる」ことが出来るだろう。
頑張れ響太、お前の人生はまだまだ長い!!
逃げてはいけない!!戦って生きるのだ!!
Posted by ファンキー末吉 at:09:06 | 固定リンク
2011年6月 7日
ドラムを教えるということ・・・
こうして全中国をクリニックツアー(もう既に「コンサートツアー」となってしまっているが)で廻って、
全国各地のいろんな老師(先生)達と会う。
「僕は北京でドラムやってたんだけどやめて田舎に帰って、
全然違う仕事についたんだけどやっぱ音楽のそばにいたいと思って、
それで脱サラしてドラム教室始めたんだ」
という老師もいれば、
「ドラムなんか叩いてて金になりますか?
生徒集めて教室やった方が全然儲かるじゃないの!」
という老師もいる。
人それぞれである。
ワシはもちろん前者の老師の方が個人的には好きだが、
まあ人の人生である。ワシがとやかく言うことではない。
日本では有名ドラマーがモニターとなってドラムの売り上げに貢献するが、
中国ではこの老師たちがモニターとなる。
それはパールドラムの中国の代理店である中音公司の、
そのドラム担当である沙が考え出した中国ならではのシステムである。
「有名ドラマーをモニターにしたって、
若い衆は必ずしもパールドラムを買うとは限らない!!
先生をモニターにしたらその生徒は必ずパールを買うではないか!!」
という発想で始めたそうだが、
まあ今のところはそれが中国マーケットでは成功してると言えるだろう。
そして、日本のドラム教室はロックをやりたい若者が習いに来たりするが、
中国ではピアノなどの習い事と同様その生徒のほとんどは子供である。
ロック好きには時々、
「あいつのどこがモニターに値する腕がある?!!
あんなのは子供騙して金にしてるだけじゃないか!!」
などと言うやつもいるが、
ワシは決してそうは思わない。
「いいドラマーが必ずしもいい先生とは限らない」
そしてその逆もまた真なのである。
まあ稀には菅沼孝三のように
世界的なドラマーでもあり教室をいくつも持つ優秀なドラム教師でもある人もいるが、
ワシはと言うとやはり根気がないのか「人に教える」というのはからっきしである。
ある時、院子に若いドラマーがワシを訪ねてやって来た。
「僕は今までドラムを練習して来てわかった。
僕が伸び悩んでいる原因はいい老師と巡り会わなかったからだ!!
高名なファンキーさん、お金はいくらでも払います。
是非僕を弟子にして下さい!!」
ワシは聞いた。
「君はどうなりたいの?」
「決まってるじゃないですか、あなたのようになりたいんです。
国内の大きなコンサートは全部僕が叩き、
レコードは全部僕が叩き・・・」
無理〜!!!!
更にこう聞いた。
「じゃあどんな音楽が好きなの?」
「何でも好きです。ロックもジャズも・・・何叩いたっていいです!!」
ワシはこんこんと言った。
「お前は決して音楽が好きなわけではない。
金儲けが好きなだけだ。
本当に音楽が好きなら俺と一緒にここで住めばいい。
1年も一緒に住めば俺から学べることはいっぱいあるぞ!!」
まあ住んだとしてもだいたい数日で泣いて逃げてゆくだろう。
酒飲んで毎晩さんざん説教されてスティックも握らせてもらえないんだから・・・
日本の職人気質に、
「お前はまだ料理の心を知らん!!
包丁を持つなんて10年早いわ!!!」
みたいなのがあると聞くが、まさに「ドラム道」だとてそれだとワシは思う。
不思議なことにドラマーにはひとりもいないが、
ベースの韓陽、キーボードの張張などはワシから巣立って行って、
今では若手で一番仕事の多いミュージシャンのひとりとなった。
ワシから「音楽とは何か」、「仕事とはどうやってするのか」、
など、まさにワシの生き様からモノを学んだのだ。
全くもってワシはいい「先生」ではない。
ワシが教えられるのは「生き様」であって「ドラム」ではないのだ。
今回非常に熱心な老師がいて、何かと言うとワシに質問する。
「ファンキーさん、
やっぱシングルストロークはテンポ200まで練習しないとダメですよねえ」
菅沼孝三だったらそこで的確なアドバイスが出来るだろうが、
そんな「基礎練習」とやらをやったことのないワシは、
非常にバツが悪いのではあるが「知りません」と答えるしかない。
テンポ200でツーバスを踏むこともあるが、
それは「その楽曲をどうしても演奏しなければならない」ので
単に死にもの狂いで叩いているだけである。
ただ「プロ」として、「大人」としてそのことに「責任感」があるから、
テンポ120の時と同じようにヨレずにモタらずに、
また絶対にくじけて音量が下がったりしないように、
とにかく「負けない」、「誤摩化さない」で人生を賭けて戦っているだけのことである。
これで負けたらワシのドラム人生はその時点で終わりなのである。
そしてその日、教育熱心なその老師はひとりの子供ドラマーにドラムを叩かせて、
それをワシに聞かせてこう言った。
「どうです、この子は? 上手いでしょ? この子の前途をどう思いますか?」
そんなことを聞かれて
「うん上手いですねえ、頑張りなさい」
以外に一体何を答えてやればいいのだろう・・・
前途も何も、これら数多くの子供ドラマーのうち、
大きくなってもまだドラムを叩いてる子はほんの一握りなのだ。
またそうなったとしてもどうせ今と同じように伴奏に合わせてドラムを叩いて、
一番うまくいったところでこの老師たちと同じように、
また同じような子供達を集めてドラム教室をやっているといったところである。
ドラム教師が悪いと言う意味ではない。
今まで行った中で大きな教室では生徒が600人以上いる。
ひとりが2000円ずつ月謝を払ったとしても月収100万円は下らない商売なのだ。
その昔、17歳でバリバリに叩きまくる女の子ドラマーのDVDを見たことがある。
その娘も今では先生となって北京で教室を開いている。
「どうして私にはファンキーさんのような音楽の仕事が来ないのでしょう・・・」
呼び出されて相談を受けた時にワシはこう答えてあげた。
「そりゃそうだよ。生きて来た世界が違う。
あんたはいつもひとりでドラムを叩いて来た。俺はずーっとバンドをやって来た。
それだけの違いだよ・・・」
多くの子供ドラマーは決して「音楽」をやっているわけではない。
ただ「ドラムを叩いている」だけなのだ。
その証拠に、もし最後まで決して「子供だ」ということを隠して、
果たして彼らの「音」が大人のそれと同じように通用するか?
それを聞いた人は同じように拍手をするか?
「それを聞いた人は同じように涙するか?」
と書こうと思って気がついた。
そもそも彼ら自身が本当に涙したことがあるのか?
「世の中はこんなにも矛盾に満ちている」と、
その「怒り」をドラムにぶつけたことがあるのか?
「世の中にはどうしようもないことがあるんだ」と、
その「悲しみ」をドラムで表現したことがあるのか?
彼らにはその表現すべき「人生」がないのだ。
ワシは老師達にはよくこう言って話を誤摩化す。
「まあ彼らが大人になって、初恋でもして失恋でもして、
その時にまだドラムを叩こうと思ってたら、
それが彼らの音楽へのスタート地点じゃないですか」
と・・・
そんな子供ドラマーの中に、
広州に住む日本人の男の子がいた。
前回会ってから時々メールをくれるのだが、
今回はちょっとメールの内容が大人びていた。
「先生のドラムを聞いてドラムの素晴らしさを実感した」
ワシはちょっと興味を持って彼を食事に誘った。
身体も大きくなってもう中学2年生だと言う。
同じような質問をする。
「君はどうなりたいの? 何をしたいの?」
少年から今までどんな中国の若者が答えたのとも違った答えが返って来た。
「どんどん音楽が好きになって来て、だんだんこんな風に思って来たんです。
出来たら将来もずーっとドラムを叩いてるか、
もしくは何か音楽に関する仕事について僕はずーっと音楽のそばにいたいって」
彼ははもう入り口まで来た。そこからが「音楽」のスタートだ。
別に音楽は他の仕事をしながらでも出来る。
高校行ってバンドをやるもよし、どっか大学行ってバンドをやるもよし。
「君のその夢は必ずかなうよ」
日本の高校に行くことになったら、
家もそんなに遠くないというから、うちの店でアルバイトでもすればいい。
うちに出ているいろんな素晴らしいミュージシャン達の生き様を見て、
そこから何かを学んで自分の生き方を考えればいい。
貧乏さえ苦にしなければ、一生音楽と共に生きてゆくなんて簡単なことなのである。
「僕は音楽で僕の気持ちを伝えたいんです」
と彼は言った。
果たして10年後、彼が本当に音楽をやり続けているかどうかはわからない。
その「伝えたい気持ち」を別の仕事で表現してたとしても別に構わない。
彼の音楽は・・・つまり彼の「人生」は今始まったばかりなのである。
今からどんな「人生」を作ってゆくのか、それこそが彼の「音楽」なのである。
また広州か、八王子で会おう!!(笑)
Posted by ファンキー末吉 at:10:42 | 固定リンク
2010年12月28日
何よりも大切なのはパソコン?データ?
前回のシステム総取っ替えで買った新しいパソコンが朝起きたらお亡くなりになっていた・・・
「まだ買って一ヶ月やん!!」
と怒るよりも先に困り果ててしまった。
ワシは知っている〜Macの修理は非常に時間がかかるのよ〜
今日は明日幕張で行われるカウントダウンジャパンの筋肉少女帯のリハ。
そのままリハ終わりに会場の近くに用意してくれたホテルに泊まり、
翌日はX.Y.Z.→Aのライブ終了後にそのままマレーシアに行ってしまう。
そのまま年を越してしばらく滞在するのだが、
その間パソコンがなければ仕事どころか何も出来ないのだ・・・
メールやTwitterなどはiPhoneやiPadでも出来るが、
何よりも前回のシステム総取っ替えでインストールしたLogicを使ってアレンジの仕事や、
Finaleを使って譜面作業が出来なくなってしまう・・・
旅ばかりやっているワシはパソコンさえあれば全てが出来るようになっているが、
逆にパソコンがなければ何も出来ないのだ・・・
新しいのを買うか・・・
一応嫁に相談してみる。
「ええよ、買うたら」
となかなか反応はいい。
ちなみに末吉家は家計は嫁ではなくワシが握っている。
結婚当初、北京で住んでた頃は嫁が握っていたが、
ミュージシャンという浮き草稼業、
仕事がある時は1ヶ月寝ずに仕事をしてるが、
ないときは1ヶ月何もないというのざらである。
ある時「パパ〜今月家賃も払えんよ・・・」と泣きが入る。
「んなもん何とかなるがな」
実際何とかなって来たから今こうして生きてられるのだが、
嫁は精神的にこれが性に合わない。
「毎月こんな思いをするのは心臓に悪い」とばかり財布を返上、
今に至る・・・
またワシが四国生まれのくせに落語に出てくる江戸っ子ばりに宵越しの金を持たないのよ・・・
よし!!ビックカメラに買いに行こう!!
一応お亡くなりになったパソコンも持ってゆく。
修理より何より、「初期不良」で新品に交換してくれるならそれにこしたことはない。
パソコンにはかなり強い方だが、
インストールディスクで初期化も出来ないというのは異常である。
昔ビックカメラで初期不良のパソコンをすぐに交換してくれたことがあったので、
持ち前の「言ってみるもんや」の精神である。
慌てて家を飛び出す。
なぜならリハに行くべく橘高王子がもうすぐ車で迎えに来てくれることになっているのだ・・・
着くや否や「時間がない!!」とまくしたてる。
「ワシはパソコンには強い!!
週刊アスキーで連載してるほどである。
そのワシが言ってるのだ!!これは初期不良である!!」
店員がびびって上の者を連れてくる。
ワシは更に捲し立てる。
「初期不良ですぐ交換してくれるならそれでよし。
さもなくば新しいのを買って帰るのですぐに返事をしろ!!
ワシは時間がないのじゃ!!王子がもうすぐ迎えにくるのじゃ!!」
上の者はびびりながら
「初期不良かどうかはお預かりして調べなければならないので」
と丁重に説明してくれるが、
「あ、そう。じゃあ買うわ。これの上位機種のこれね。
カードで払うとポイントが減る?ほな金引き出しに行ってくるから!!」
立ち去ろうとするワシを呼び止める。
「お客様、在庫があるかどうか確認して来ますのでしばしお待ちを」
「待たん!!時間がないんじゃ!!お前が調べとけ!!
その機種がなかったらその下位機種な、ほな!!」
嵐のように去ってゆき、また嵐のように戻って来た時には
商品は既に用意されていて店員はお亡くなりになったMacを調べている。
「ほなこれ買うし、それは修理しといてや!!」
嵐のようにレジに行く。
店員が金魚のウンコのように着いて来て、
隣で一生懸命梱包してるが、
「梱包なんかいらん!!それより修理の預かり証持って来い!!
金払ったらすぐ帰るぞ!!王子が迎えに来るのじゃ!!」
と一括する。
「あのう・・・Macはうちでは修理はお受けしてないんです。
銀座のMacセンターに持ち込んで頂かないと・・・」
言い終わるか終わらないかぐらいですかさず一喝する。
「お前んとこで買うたんやお前んとこが何とかせい!!
不良品売りつけてそれをたらい回しにするつもりか?!!」
店員がまた上の者を呼ぼうとするので、
「とりあえず電話番号置いとくからどうなるか決まったら連絡せい!!」
電話番号を置いて、
買ったばかりのパソコンを持って嵐のように去って行った。
パソコンのデータはAppleのタイムカプセルにバックアップしている。
無線LANルーターにもなって、
接続している間に自動的にバックアップしてくれるスグレモノである。
これを引っこ抜いて筋肉少女帯のリハに持ってゆき、
ドラム叩いてる横でゆっくり復元していればそれでよい。
ところがここに来て大問題が発生!!
なんとパソコンがタイムカプセルを認識しないのだ!!
データが復元出来なければパソコンなんてワシにとってただの「箱」ではないか!!
いろいろ試行錯誤してみるがやはり駄目。
困り果てている頃に電話がなった。
先ほどのビックカメラである。
「先ほどはどうもすみませんでした」
君に謝られるような覚えはないが・・・
と突っ込む前に店員はこう言った。
「先ほどのMacですが、直りました!!」
げっ!それでは24万かけて買ったこの「箱」は・・・
と一瞬思ったが、よく考えたら前のんは13インチで老眼のワシには少々使い辛かった。
15インチに買い替えたということで、
後は13インチからデータを移行すればそれでいいではないか・・・
「ワシ八王子に戻るわ!!電車で幕張入るし・・・」
リハ会場の高井戸から東京の西にある八王子まで京王線で行き、
パソコン取ってJRで東に向かう。
新宿も東京も通り過ぎてもっと東の千葉県まで・・・
立派に東京を横断しとるやないの・・・
まあいい!!
ただの箱と認識しないタイムカプセルを持ってホテルに入った日にゃぁ、
ワシはきっと徹夜でそれを認識させようとしてしまうのだ!!
ホテルに着いたらゆっくりデータ移行しよう・・・
ビックカメラに着いた。
心なしか店員がワシにびびっている。
ワシは意識して笑顔を作りながら店員に聞いた。
「どうやったら直りました?」
店員は自信ありげにこう言った。
「インストールディスクから無事に初期化出来ました!」
ガーン!!!するとデータはもう残っておらんではないか・・・
いやいかん、顔に出てしまった。店員がまたびびっている。
君のせいではないのじゃよ。タイムマシンが悪いのよ!!
ワシはおとなしくお礼を言ってビックカメラを後にした。
今からひとり電車で東京を横断するのだ・・・
背中には今朝買ったばかりの「箱」を背負い、
手には新たにゲットした「箱」を持って・・・
Posted by ファンキー末吉 at:08:58 | 固定リンク
2007年1月13日
イスラム文化のリハーサル
新疆ウィグル族の友人、阿布都(写真)がうちにリハーサルに来るようになってもう半年以上になる。
ロックバンドと違って、生ギター2本にパーカッション、エレキはあってもベースぐらいなので、ボーカルもPAで拾わなくてもいいし、ほぼ「アンプラグド」と言ってもいい編成なので、隣でレコーディングしてようが何してようが全然邪魔にならないのがいい。
毎日のリハーサルのかいあって、なんかもうすぐアルバムのレコーディングに入ると言うことで、ワシに数曲ドラムを叩いてくれと頼まれた。
まあそんな嬉しいことはないので二つ返事で引き受けて、今度はワシも一緒にリハーサルと言うことにあいなった。
北京の貧民街にある我がFunkyスタジオは、リハーサルルーム(図面左下のRehearsal Room)にも簡単なレコーディングシステムがあり、特にバンド物などリハーサルが必要なものはここでリハーサルをやりつつ、テンポや構成を決定したらそれをマルチトラックに録音出来る。
今日び、レコーディングはドラムから順番に別々に録ってゆくのじゃが、ドラムを録音する時にはガイドとしてその他の楽器や仮ボーカルが必要なので、このシステムだとリハーサルが終わった瞬間に、もうドラムの本チャン録りの準備は出来上がっていると言うシステムなのである。
便利である。
かくしてリハーサルが始まる。
新疆ウィグル地区の民俗音楽がベースになっているので、さりげなく変拍子などが出てきたりもするので、とりあえず彼らだけで一度演奏してもらってそれを譜面にする。
そしてテンポを決めてそのクリックに合わせてドラムも一緒に録音しながら演奏してみる。
基本的なリズムアレンジなどに問題がなければそれでOK!
次の曲に・・・と思ったらいきなりリハーサルが中断し、お祈りが始まる。
文化が違えば大事にするものも当然違うので、それを尊重して彼らのお祈りが終わるまで待つこととなる。
前回お祈りに遭遇した時には、彼らは中央の院子(図面の真ん中、Terrace)で土砂降りの中一心不乱にお祈りしているのを見かけたが、今ではこのスペースには卓球台が置かれているのでここでは無理である。
っつうか、マイナス15度の北京の冬には屋外でお祈りは無理である。
次に広いスペースはリハーサルルームなので、「ここでやれば」と言うのだが彼らはそれを聞かず外に出て行ってしまう。
聞くところによると、部屋の中に酒を置いてあるような部屋だとか、不浄な飾りつけをしてる部屋とかはお祈りに適さないと言う話である。
結局彼らが見つけたのはレコーディング用のドラムセットを置いてあるレコーディングブース(図面右上のBooth)である。
ここはこのスタジオを一緒に作ったWyn Davisに「Empty room!」と言われ、なるだけ余計なものを置かないようにしているので、きっと彼らの言う「不浄な飾りつけ」などがないのであろう。
まあ飾りつけと言えば、
XYZ結成の時、パール楽器がわざわざアメリカのREMOに発注してくれて作ってくれたバスドラのヘッド(しかしデザイン的に穴を開けるスペースがなかったので結局使わずじまい)がドラムの後ろに掲げられているのじゃが、そう言えばこのもうひとつのヘッドを院子に掲げている時にもお祈りをしていたので、XYZのロゴはありがたくも「不浄なもの」ではないのであろう。
そうすると、リハーサルルームの何が不浄なのかと見渡してみると、いつぞやのドラムクリニックのポスター、
つまり「不浄なもの」、すなわちワシの顔!!・・・
まあよい、彼ら自身がそんな不浄な顔のワシにレコーディングを頼んでいるのである。
どこでお祈りをしようと暖かい目でみてあげようではないか!!
と言うわけで彼らのお祈りも無事に終わり、(あまりに厳粛なので写真撮影をする勇気はなかった・・・)次の曲のリハーサルが開始される。
次の曲は6分を超える民族調組曲で、構成を確認したりリズムアレンジをいろいろやっていたらもう夕方になってしまった。
何とかフルサイズで録音し終わると、「夕方のお祈りの時間なので今日はこの辺で」と言うことでお開きになってしまった。
家まで帰ってゆくとお祈りの時間に間に合わないのか、またドラムブースに引きこもってお祈りが始まる。
しかし・・・これって仕事的には非常に効率よくないのでは?・・・
イスラム社会・・・今だに謎である・・・
Posted by ファンキー末吉 at:20:37 | 固定リンク
2006年9月21日
MengMeng(モンモン)の物語
重田から電話があったのがもう数ヶ月前。
「末吉さん、テレビ見ましたぁ?」
「いや、うちテレビないから・・・」
「超級女声、何気に見てたらMengMeng(モンモン)が出てて吐きそうになりましたよ」
超級女声とはいわゆるアサヤンの中国版みたいなオーディション番組で、
数年前からこれが大ブームになり、ここで優勝すれば、
いや、参加していいとこまで行くだけで、もう国内では大スターとなる。
「MengMeng(モンモン)」とは、ワシが昔プロデュース「させられてた」女の子。
「吐きそうになる」と言うのは、
この母親であるモンモン・ママが、北京の2大有名ママのひとりで、
これと関わりあったらタダ同然の仕事を延々とさせられたりして、
ワシの周りの人間は既に「MengMeng(モンモン)」と言う名を聞いたり、
見たり、電話がかかって来たりするだけで吐きそうになるのである。
北京にはこう言う親子はけっこういるらしく、
だいたいにして父親はおらず、歌好きの子供のマネージャーを母親が務め、
まあいわゆるリエママのようにステージマネージャーまで務め、
往々にして娘は男と付き合ったこともなく、
24時間、完全無菌培養で「成功」することだけに「人生の全て」をかける。
書いてるだけで吐きそうである・・・
「MengMeng(モンモン)」も例外なく男と付き合ったこともなく、
変な話、一緒に遊びに行く友達もいない(と見受けられる)。
ワシら仲間の鍋会に来た時も、
まあその時は珍しく(ほんとに珍しく)モンモン・ママが一緒に来なかったので、
「こりゃMengMeng(モンモン)が羽目を外すのを見ることが出来るかも・・・」
と思ってたら、8時を過ぎた頃から矢のように電話が入り、
結局MengMeng(モンモン)は鍋食ってそのまま自宅に帰ってゆく。
後で聞いたらそれでもかなり門限破りの時間だったらしく、
結局MengMeng(モンモン)はこっぴどく怒られてしまったらしい。
全てにおいてこんな感じだから彼氏なんて出来るわけもなく、
また本人も別に恋愛なんぞに興味もなく、ある時なんぞ
「私バラード歌えないんだよね、何が悲しいのかさっぱりわかんないし」
などとほざいてたので
「これはいかん!」とばかり、モンモン・ママに意見したことがある。
「プロデューサーとして失礼を承知で言わせてもらうけど、
MengMeng(モンモン)がこれほどの才能を持ちながら伸び悩んでいるのは、
ひとつにはあなたが完全無菌状態で育て過ぎているところにあると思う。
例えば彼女の好きなR&Bのルーツはブルースである。
汚れ、傷つき、ボロボロになって搾り出すような心の悲鳴、
それが美しい魂の叫びとなって歌となる。
このままで行くと彼女は一生そんな歌は歌えないよ」
まあいささか失礼ではあるのだが、
「まあたまには遊びに行ったり恋したり、失恋したり、
傷ついて初めて成長するっつうのもあるんじゃないの?」
と言うことである。
そしたらモンモン・ママはぴしゃりと一言。
「女の子は傷つかずに一生を終えるのが一番幸せなんです!!!」
年の頃は50過ぎ(かな?)
二井原の嗜好で言うとストライクゾーンど真ん中
であるこのちょっと中年太りのこのおばさんの顔を見ながら、
人から聞いた、とある悲惨な物語を思い出した。
その歌手も、同じくこのように無菌培養で母親に育てられ、
20も後半になって初恋を経験し、もちろんのこと母親に大反対され、
まあそれもそうである。
母親としたら娘を取られたら本当にひとりぼっちになってしまうのである。
結果その娘は思い悩んだあげく自殺してしまった・・・
・・・まあ人の家庭である。もうこれ以上とやかく言うのはやめよう。
その代わりこの思いを歌にしてプレゼントしてやろう。
そして出来上がったのが「紅舞鞋」と言う曲。
その靴を履いたら死ぬまで踊り続けてしまうと言う伝説の靴の話である。
DEMOを作り、詞のコンセプトを説明する。
「あんた達はもうこの靴を履いてしまってるんだよ。
もう脱ぐことは出来ない。死ぬまで歌い続けるんだね。
それでいいんだよね」
そしてその曲は
中国文化部主催オリジナル曲新人歌手コンテストで全国グランプリを受賞した。
そんな彼女を見初めたとある企業が彼女をイメージガールに起用し、
その企業のイメージソングを作って彼女に歌わせようと言うことで
去年(もっと前か?)ワシにその製作依頼が来た。
当時「紅舞鞋」はまだコンテスト参加のための録音状態で、
伴奏のみのラフミックスしかなく、歌入れもTDもしていない。
彼女達は彼女が歌を歌って稼ぐ収入だけで暮らしているので、
歌入れしようにもTDしようにも金がないのである。
北京に出て来たこんな親子を食い物にする悪い奴らもいるらしく、
デビューを餌に騙されたことも一度や二度ではないらしく、
ワシとしても結果的に彼女達から金をむしりとるみたいなのはいやなので、
「ないならないなりのモノでいいじゃない!」
と言うことで、その予算で出来る限りのこと(つまり伴奏のみのラフミックス)
で終わらせておいたのである。
モンモン・ママはワシにこう言った。
「ファンキー、だからあんたはこのイメージソングの製作費で、
何としてもあの紅舞鞋を完成させて!」
つまり1曲分の製作費で2曲録れと言うことである。
吐きそうになってきた・・・
じゃあスタジオ代どうすんの?
エンジニア代どうすんの?
ミュージシャンfeeどうすんの?
みんな1曲いくらよ?2曲ぶんないじゃない・・・
「ファンキー、大事なのは紅舞鞋よ。
こっちの曲は思いっきり手ぇ抜いていいから。
そっちの金ぜんぶ紅舞鞋につぎ込んで!」
かくしてそのイメージソングはワシの新しいシステムの実験台となり、
(関連ネタ:http://www.funkycorp.jp/funky/ML/102.html)
そんな思いっきり手を抜いたその楽曲は、
そのまま中国のエコロジー楽曲コンテストに出品され、
「エコロジー楽曲大賞」を受賞した。
呼ばれて会場にも行ったが、
あまりにお恥ずかしいので呼ばれても壇上には上がらんかった・・・
あとで主催者が激怒していたと言う話である。
「何であんな手抜きの曲がグランプリなんか取るんじゃろ・・・」
と人に漏らしたことがあるが、彼はその時こう答えた。
「手ぇ抜いたからグランプリ取れたのよ。
一生懸命作ってたらきっと落選してた。
それが中国よ!」
なんかわかったようなわからんような・・・
ワシは昔、李慧珍の「猜愛」でも十大金曲賞を受賞しているので、
(関連ネタ:http://www.funkycorp.jp/funky/fixed/sakkyokusyou.html)
実は都合3つも賞を取ってる作曲家である。
何の役にも立たん!!
この国で儲かるのは歌手のみ!
裏方は何も儲からんのである。
さてMengMeng(モンモン)であるが、
じゃあそれから順風満帆かと言うとそうでもなく、
レコード会社から手が上がることもなく、
いや、現実には上がっているがモンモン・ママがその話を潰してると言う噂もある。
実際ワシの知り合いのレコード会社はワシを通してコンタクトを取っているが、
モンモン・ママは
「あんな小さいレコード会社じゃ話にならん!」
と話を断っている。
現実そのレコード会社は半年で潰れたのでよかったと言えばよかったのであるが・・・
さて1年ほど連絡もなく、平和に暮らしていたワシにいきなり電話がかかって来た。
「ファンキー、久しぶり!!私よ、モンモン・ママ!!」
吐いたらいかん!吐いたらいかん!!
唾液を一生懸命飲み込みながら話す。
「超級女声で勝ち残ってるらしいじゃない?よかったよかった。おめでと!」
「それなのよ。私達は瀋陽地区から参加したんだけど、
そのおかげで北京でのプロモーションがあんまし出来てないのよね。
ちょっと協力してくれない?
何社かインタビューに行くから思いっきり褒めちぎってちょうだいね。
あと、誰かロック界でMengMeng(モンモン)褒めちぎってくれる人紹介して」
「ロック界?なんで?・・・」
「あら、うちの娘ロック歌手じゃないの!ロック界からも賛辞を頂きたいわ」
吐き気通り越して頭が痛くなって来た・・・
かくして次の週にはいよいよ飛び道具「紅舞鞋」を歌うと言うので、
ワシは初めて「超級女声」と言う番組を見に行った。
見に行ったと言うのは、うちにはテレビがないので、
その時間に合わせてテレビがある村のレストランにテレビを見に行くのである。
情けないと言えば情けないが、なんか普通の村人になったみたいで心地よい。
金曜日夜8時、生放送である。
出稼ぎ労働者で満席のそのレストランのテレビにかぶりつく。
始まっていきなり勝ち残っている6人で踊りを踊る。
最終的な6人に残っていると言うのは相当なもんである。
一緒にテレビを見ている老呉(LaoWu)の話によると、
彼の知り合いの歌手は地区大会の第3位で落選したが、
それでも全国的には超有名で、それ以降すでにバンバン稼いでいると言うから、
地区大会第1位で、現在最終的な6人と言うのは物凄い成績である。
6人が2人づつのペアに分かれ、その2人が戦い、勝ち組と負け組みに分けられる。
つまり第一試合は勝ち抜き線なのである。
司会者はそれぞれにインタビューし、歌う曲の名前を聞いてゆく。
MengMeng(モンモン)は、いきなり「紅舞鞋」である。
なんでいきなり最終カードを切るの?!!
ワシはもう気が気ではない。
老呉(LaoWu)の話によると、今日はこの6人の中から5人を選ぶと言うことは、
この第一試合に勝ち残っておくことが一番近道なので
ここでまずこの最終兵器を先に出したのであろう。
久しぶりにこの曲を聞くが、何かアレンジがちと違うような気がする。
見ればワシのアレンジではなく、生バンドが勝手にアレンジを変えている。
お前ら!コードまでかってに変えんなよ!!
音もちょっと外してたみたいだったし大丈夫だろうか・・・
ドキドキしながら審査発表を待つ。
結果は・・・・落選!!!
最終カードを使いながら落ちてしまった!!
まるでウルトラマンが最初にスペシウム光線を使って怪獣は倒れなかった!!
みたいな衝撃である。
楽曲と言うのは不思議なもので、
言うなれば自分が生み出した子供のようなものである。
どんな駄作でも可愛いし、
でも時々、親のひいき目なしにとんでもないいい子が生まれる時もある。
何か自分が書いたのではなく、別の大きな力が書かせたような、
そんな楽曲がワシにも何曲かある。
ランナーやリゾラバのような商業的に大成功した楽曲だけでなく、
人知れず名曲と言われる曲もあれば、
誰にも歌われずにお蔵入りしてしまっている曲もある。
ワシのような自分で歌う人間でない限り、
生み出された子はすぐによそにもらわれていってしまい、
生みの親より育ての親、つまりそこでどのように歌ってもらうかで運命が決まる。
「紅舞鞋」はひいき目なしに名曲であるとワシは思うが、
MengMeng(モンモン)にその運命を預けた以上、
MengMeng(モンモン)ダメならもうそこまでの運命である。
老呉(LaoWu)曰く、
「詞ぃ誰が書いたんだ?コンセプトはいいんだけど言葉選びがあんましよくねぇなぁ・・・」
しかしそれも仕方が無い。
もらわれて行ったところで詞を与えられ、それを歌われて初めて楽曲なのである。
負け組みに落とされた彼女は、またその中で敗者復活戦に臨む。
その間、他の2組の戦いが終わるのを待たねばならない。
ビールを飲みながらひたすら待つ。
そして敗者復活戦!!
と思いきや、次は歌ではなく、人気投票による戦いである。
全国から携帯電話による投票、それには1票につき1元のお金がかかる。
ひとりで100票投票してもよい。100元かかるだけの話である。
人気の歌手だとひとり1000万票集めることもあると言うから、
このビジネスだけでも相当なビジネスである。
1000万元と言うと、日本円にすると1億5千万円なのである。
少なくともこの投票の段階だけで3億円以上は動いている。
恐ろしい番組じゃ・・・
さて、この投票で敗者復活かと思えばそうではなく、
これは勝ち残った3人の中からひとりを「落とす」のである。
日本の試合方式は「受かる」人をだんだん作ってゆくが、
中国ではどうも「どんどん落としてゆく」方式であるらしい。
かくしてこの投票により、
3人の勝ち組と3人の負け組だったのが2人の勝ち組と4人の負け組みに分けられ、
その負け組4人がまた2人組で勝ち抜き線を行うのである。
番組の進行がカメよりも遅いだけでなく、CMもいたる所に入るので、
番組開始から既に1時間以上経過し、
レストランではもう既に門を閉め、従業員のメシの用意が始まっている。
「知り合いが歌い終わったらすぐ帰るからね」
そう言ってビールを更に追加する。
すぐに敗者復活戦が始まるのかと思ったら、更にゲストのコーナーがあり、
3人のゲストがそれぞれ持ち歌を1曲づつフルコーラス歌う。
やっと始まるかと思ったら、その3人のゲストが一緒に更に1曲歌う。
もうやめてくれー!!早く歌ってくれー!!
さすがに番組もすぐには歌わせない。
それぞれの参加歌手のイメージビデオ、ファンへのインタビュー、
そしてまたCM。
最高視聴率を誇るこの番組のCMは最高値段がついていると言う・・・
やっと敗者復活戦が始まった頃には既に番組開始から2時間以上たっていた。
MengMeng(モンオン)が歌う。
今度はミディアムテンポのダンスナンバーである。
「受かると思う?」
一緒にテレビを見ている老呉(LaoWu)に聞いてみる。
「ちょっとアブナイところだなぁ・・・
聞いてみろよ。他の歌手と違って声援が断然少ない。
親衛隊がいないんだな。
それも結構不利じゃないかなぁ・・・」
確かにほかの歌手の応援団は若い健康的な男女が多いが、
MengMeng(モンモン)の応援団はどうもオタクが多いと見受けられる。
メガネをかけたデブのオタクがびっしょり汗をかいて応援している。
吐きそうである。
「この娘、ちょっとココ・リーに似すぎてるなぁ・・・」
老呉(LaoWu)がそうつぶやく。
ココ・リーとは台湾で活躍するアメリカン・チャイニーズの歌手である。
そう、彼女はココ・リーに似ているから
「小ココ・リー」としていろんなイベントでココ・リーの歌を歌って生きてきた。
それで母子ふたりが食ってこれた。
ココ・リーに似てるからここまでこれた。
そしてココ・リーに似てるからここまでしかこれなかった。
今歌っているこの曲もきっとココ・リーの曲なのだろう。
彼女が一番得意で、そして一番歌ってはいけないナンバー。
しかしバラードが歌えないんだから仕方が無い。
最終カードの紅舞鞋はもう歌ってしまっている。
彼女にはもう切るべきカードが残ってないのである。
・・・審査発表・・・
これで勝ち残れば勝ち組である。
後は残った負け組ふたりが戦って負けた方が落選。
「負けるだろうなぁ・・・」
残ったビールを飲み干し、更にビールを追加しようとしてたらいきなり、
「勝者は・・・MengMeng(モンモン)!!」
やったぁー!!!残ったぁ!!!
と言うわけでビール腹をさすりながら家路に着いた。
めでたしめでたし・・・
数日してまたモンモン・ママから電話があった。
「見てましたよ、テレビ。よかったじゃない。次で決勝戦でしょ」
もうここまで来たら優勝できなくても既に超有名人である。
「違うのよ。また今週戦って初めて決勝戦なのよ。
あの番組はとにかく戦わせるから・・・
(間髪入れず)
ところで!今週の金曜日空いてる?
MengMeng(モンモン)の後ろでドラム叩いて欲しいのよ。
アジアドラムキングがバックで叩いてくれたら絶対票も集まると思うのよ」
かんべんしてくれーーーーー
丁重にお断りして電話を切った。
来週も村のレストランで影ながら応援させて頂きますぅ。
Posted by ファンキー末吉 at:00:18 | 固定リンク
2000年9月30日
岡崎猛が動脈瘤によるクモ膜下出血で緊急手術
先日、五星旗のライブで愛知県犬山市に行った。
その時の打ち上げことである。
ギターの岡崎はんが酒飲みながら、
「あれ?変やなあ、右半身が何か痺れて来たなあ・・・」
とつぶやいた。
「またまたー・・・酔っ払ってるんちゃうん!」
と俺たち。
「あれ?目も何かおかしいなあ、物がふたつに見えたりするなあ・・・」
「それ飲み過ぎ!」
そしてホテルに帰る頃には
「何かふらふらするなあ・・・」
「それ完璧に飲み過ぎ!」
と俺たち。
そして東京に戻って来た次の月曜日、
彼は医者に行った。
そしてこの話はそこから始まる。
「入院せなアカンねん」
電話がかかって来た。
病名は動脈瘤。
脳の動脈の壁のある部分に血圧がかかり、
そこがぷくっとふくれて瘤になる。
血管の一部が風船のように膨れてるんだから
当然ながら破れ易い。
破れればクモ膜下出血となって死に至る。
そして彼の動脈瘤は脳の一番奥深い所に出来ていて切開手術は不可能。
しかも1.7センチと言う巨大な動脈瘤である。
医者に「破裂したら死にますよ」そう言われてビビリまくって
とりあえず仕事関係の人に電話を入れたと言うわけだ。
命に関わる病気なのだから仕方がない。
10月9日の沖縄のイベントと、
突然ブッキングされた10月21日のマレーシアには、
トラとして名ギタリスト、団長をブッキングする。
そんな事務処理をしてたある朝、突然胸騒ぎがして早く目覚めた。
カラスがカーカー鳴いている。
縁起でもないなあ・・・
「ちょっと病院行って来るわ」
早朝から出かけて行った。
受け付けで部屋番号を聞いて上がってゆくと、
何のこっちゃないいつものブサイクな寝顔で彼が寝ていた。
まあ寝かせておこう・・・
座って本を読んでいると
「わっ、びっくりしたー」
突然目が覚めてびっくりされてもこちらがびっくりする。
「あんた別に入院しても家でおっても変わらんなあ。
何するでもなく朝からゴロゴロと・・・」
得意の毒舌のひとつも言ってやる。
「ほんまやなあ・・・」
と彼。
「何か欲しいもん、あるか?家まで取りに行ったるで」
「いや、オカンが来とるからかまん」
「オカンが来とるんかいな」
「医者が家族呼べ言うて」
「ひょっとしてオカンってあんたのあの部屋で寝とるんかいな」
「せやで」
「そりゃオカンも災難やなあ」
などやりとりがあった後、
「たいくつでしゃーないからギターとラジカセ取って来てや」
と頼まれる。
ふらふらっと自転車で来てそのまま入院になったんで、
その放置自転車も家まで持って行ってくれと言う。
玄関に行ってみると、自転車には張り紙がしてあって、
「ここに放置しておくとケガ人が出ますのですみやかに移動しなさい」
と書かれている。
ケガ人どころか重病人の自転車なんやけどなあ・・・
家には初めて会うオカンがいた。
「初めまして」
ギターとラジカセとCDを持ってオカンと共に病院に戻る。
CDは「暗いんはいらんでぇ、気が滅入る」と言うが、
どのCDが暗いかようわからんので、
棚にあるJazzのCDのうち自分の聞きたいものを物色した。
そして病室でせっせとパソコンに取り込む。
俺は一体何をしに来たんやろ・・・
「ほな!」
目ぼしいのを取り込んだ後、仕事に出かけた。
まるでCD取り込みに来ただけである。
「岡崎はんが入院してなあ・・・」
仕事先では会う人会う人に笑い話である。
だいたいこのテの病気は40の若さでは珍しいらしい。
「老人病や、老人病。普段家でゴロゴロしてギター弾いて酒飲んで・・・
せやからこんな病気になんねん」
そんなこんなで夕方まで仕事してたら、
後から見舞いに行った事務所社長の綾和也から連絡があった。
「WeiWeiと見舞いに行ってなあ、
元気に待合室まで一緒に行って喋ってたら突然ロレツがまわらんようになって、
アカン、頭が痛いわ、言うてベッドに戻っていったでぇ。大丈夫かなあ・・・」
夕方連絡を回していたジャズクラブSのマスターが見舞いに行って連絡が来た。
「末吉か、シャレんならんでぇ、クモ膜下出血や。破裂したらしいんや」
とんぼ返りで病院に戻った。
京都の家族、親戚に招集がかけられる。
絶対安静の病室には家族は付き添うわけにはいかず、
本当はロビーも人が泊まってはいけないのだが、
オカンが悔いが残らんようにどうしても息子のそばを離れたくないと言うので、
特別にロビーでいる分には認めてくれた。
しかしロビーは夜9時には消灯。
真っ暗なロビーの中で不安でどうしようもない年寄りひとりでおらすわけにはいかんので、
結局俺も夜通し付き合うことにした。
本人よりもとりあえずオカンの方が心配である。
少しでも気を紛らわすように岡崎はんのアホ話をたんとしてるうちに、
京都からご家族ご一行が到着した。
ロビーで泣き出すご親族もいる。
「まあまあ、今は特別にここでいさせてもらってるんで何とぞお静かに・・・」
聞けば途中の新幹線で居ても立ってもいられなくてビールを飲んだらしい。
少々取り乱していた。
酒かあ・・・
家族が来たら俺は必要ないので病院を後にする。
病院内は携帯電話禁止なので、外に出てメッセージを聞くと、
ジャズクラブSのマスターから留守電が入っていた。
「末吉か、これ聞いたらすぐ電話くれ。店でおる」
ただごとではなさそうなので店に直接向かう。
マスターはひとりでライブの後片付けをしていた。
「おう、来たか。飲むか?」
ビールが出てくる。
おかしい。ガメツイので有名なこのオッサンが店のビールをタダで出すわけがない。
「実はなあ、あの病院の医者とか看護婦とかうちの客やねん。
そいで電話して調べたら、明日の手術の担当っつうのがうちの常連やったんや。
たまたまそいつは今日休みでなあ、自宅に電話かけていろいろ聞き出した」
医者曰く、最善を尽くしてはみるが、見込みは少ないと言うことであった。
まず場所が非常にやっかいなところなんで切開手術が出来ないと言う。
それにこんなに大きな動脈瘤が出来てて、
本人がこんなに正常だと言うのがそもそもおかしいらしい。
そしてすでに破裂してしまった。
破裂したら死にますと言われてたんだから、
考えてみたらまだ生きてるだけでももうけもんである。
「何で破裂する前にすぐ手術せんかったんや!
破裂したら死ぬから入院せぇと言いながら病院で破裂するとは何ごとや!」
当然ながらマスターは怒る。
しかし医者としては、
「だいたいあんな大きな動脈瘤を持ちながら
自分で自転車乗って病院まで来たと言うのが不思議なぐらいなんです。
普通だったらそのまま路上で破裂して倒れて死ぬ場合が多い。
行き倒れで死んだ人が、
調べて見たら実は動脈瘤が破裂してたと言うことはよくある話なんです。
だからと言って、病院では例えば検査とかをしますよね。
血管の検査をしている時に突然破裂する可能性もある。
それは患者さん側から見たら検査したから破裂した、なんですよ。
どう言うわけかわからんが本人が何故か正常なんですから、
安静にしてゆっくり調べるより他なかったんですよ」
その実、もう運び込まれた時点で
この場所のこの大きさの動脈瘤だともうお手上げで、
現実的に効果的な処置が見つからなかったと言うのもあったらしい。
とにもかくにも破裂した。
今本人は薬で眠らされている。
目が覚めて興奮したりするとさらに大破裂して死に至る。
「今すぐ手術するわけにはいかんのかなあ・・・」
「何か足らん道具があって至急取り寄せとるから、どうしても明日の夕方になるらしい」
裏事情通のマスターである。
「手術まで眠らせとくわけにはいかんのかなあ・・・」
「そやなあ、明日もういっぺん電話してビシっと言うといたる。
ちゃんとせんかったらジャズクラブS出入り禁止やぞ!」
出入り禁止ぐらいが脅しの材料になるとは思えんがなあ・・・
でもこうなったらとにかく医者を信じるしかないのである。
後は神か?
「俺、もう助からんのちゃうかなと思うねん」
飲みながらぼそっとそうつぶやいてみる。
中学生の頃、姉が亡くなった時の感覚に物凄く似ているのだ。
「確率的にはそやろ、まず助かる確率は低い。医者も手遅れや言うとった」
裏情報通のマスターである。
今は五星旗の2枚目のアルバムが仕上がったばかりである。
ミキシングやマスタリングで今回はいつになく積極的に頑張ってやってた彼である。
「遺作んなるんかぁ、シャレんならんのう・・・」
岡崎はんとの思い出が浮かんでは消え、浮かんでは消えてゆく。
最初に会ったのはジャズクラブSのジャムセッション。
新大久保に住んでると言う立地条件もあって、いつも泊まらせてもらってた。
そうじゃなくても酒飲む時にはいつも呼び出して飲んでた。
当時人は、自分で思ってるほど俺のことをJazzミュージシャンだとは思ってくれず、
たまにお誘いがあっても、爆風スランプの名前で動員数を稼ごうとする輩ばっかりだった。
純粋に腕を買われて○○カルテットとかのドラマーで呼ばれたかったが、
そんな酔狂な輩はいなかった。
そんな中、岡崎はんだけが自分のカルテットに俺を呼んでくれた。
客の入らん小さいライブハウスから、
新宿のカクテルバーの夜中の生演奏までやった。
当時の俺はヘタなJazzメンよりもJazzのライブが多かった。
街角の超マイナーな場所でストレイト・アヘッドなJazzを叩く俺を偶然見かけた
近所に住むJazzミュージシャンなどがびっくりして声をかけたりした。
そうして俺はJazz界でやっとJazzミュージシャンとして認められていった。
ある日のラウンジでの演奏で、
突然ある曲で偶然ブラシを使うコツを習得した。
「どしたんや、オッサン。突然ブラシがうもうなったなあ、別人みたいやで」
演奏後の彼の嬉しそうな顔を思い出す。
思えば彼こそが俺のJazzの師匠であった。
彼から、そして彼と一緒に俺はJazzのいろんなことを学んでいった。
ロックや中国音楽の要素も混ぜて五星旗を結成した時、
やはり俺はギタリストとして彼に声をかけた。
それからは彼に彼の知らないJazzではないいろんなことを教えてあげた。
CDデビューが決まり、評判もよく、
プロデューサーのN氏は
「五星旗が売れたら次は岡崎さんのソロアルバムを作りましょう」
と言っていた。
「それが岡崎はんの幸運期とちゃうん!」
数年前のJazzツアーの時、四国のとある占い士が岡崎はんに
「あなたは数年後に人生最大の幸運期が訪れます」
と言ったのが、仲間内ではずーっと酒の肴になっていたのだ。
でも実際今のなってみれば、彼の人生最大の幸運と言うのは、
飲み友達のアルバム2枚でギターを弾いただけやったんか?・・・
「こんなことやたらさっさとソロアルバム録っといたらよかったなあ・・・」
と俺。
「俺もそう思とったんや、何でやっといたらんかったやろってな」
とジャズクラブSのマスター。
俺が事務所やレコード会社の契約で悩んでいたある時期、
ある人が俺にこうアドバイスことがある。
「そんな大会社がそりゃお前のやりたいそんな音楽をやるわけはない。
でもなあ、その音楽は来年にはない。きっと今しかやれん音楽や」
結局俺は日本ではなく中国でそれを発売し、そして今に至る。
五星旗の前身と言える姿がそこにあった。
そう、音楽っつうのは空気を震わせて、そして消えてなくなるもんである。
レコードと言う「記録」をせん限りはそれでおしまいなのである。
でもヤツが死んでもうたらもうそれを記録出来るチャンスは永遠になくなる。
ヤツとの数々のセッションは、
俺にとったらほんまにかけがいの無いVSOP
(Very Special Onetime Performance)
やったんやと実感した。
「岡崎ぃ、死ぬなよなぁ」
とマスター。
「しゃーないでぇ、人間がどうのこうの出来る問題ちゃうし」
と俺。
「岡崎死んだら追悼Jamセッションブッキングしたる」
「マスター、間違うてもそれで儲けたら許さんでぇ」
「当たり前じゃ!いくらワシでもそこまではせんわい」
ガメツイので有名なマスターと5時まで飲んだ。
すでにべろんべろんだが、やっぱ気になるので病院まで行ってみる。
ところが家族がいるはずの待合室には誰もいない。
「アカン、とうとう死んだんや」
あわてて病室に飛び込んでみると、岡崎はんひとりが薬で寝ていた。
「ご家族の方はみなさんお帰りになりましたよ」
面会時間外に酒臭い息を絶対安静の病室に持ち込むふとどきな輩を
看護婦さんがそう言ってたしなめる。
「すんません」
待合室に帰って来て、俺は結局そこで寝た。
朝になると入院患者でいっぱいの待合室。
目が覚めると、病院の待合室で酔いつぶれてる変な男を、
みんなはけげんそうな目で見て見ぬふりをしていた。
しゃきっとしたふりをしながらご家族の到着を待つ。
「おはようございます」
まるで今来たかのようなふりをしながら挨拶を交わす。
「じゃあ僕は仕事に行きますんで・・・」
病院を出て携帯の留守電をチェックする。
病院内が携帯禁止なのでまことに不便である。
ふと見ると隣にホテルがある。
そそくさとチェックインした。
「今晩からホテルに泊まるから」
嫁と事務所に連絡する。
「そこまでする必要があるんか?」
「やかましい!いつ死ぬかわからんのやでぇ。
もしもの時に病院が俺の携帯に連絡くれるか?
ご家族にそんだけの余裕があるか?
ホテルに詰めて、1時間に一回でも様子を見に行くだけでそれでええんやがな」
新大久保から仕事に通う毎日が始まった。
ホテルは携帯が通じるだけでもかなり便利である。
それに、もしもの時には待合室ではなく、ここを関係者の溜まり場にすることが出来る。
コマが死んだ時のことを思い出す。
XYZのライブステイションでのゲリラライブにリハと本番の間にまた病院に戻って来た。
手術が予定より2時間早く始まっていた。
「道具が早く揃たんやな・・・」
裏事情を推測する。
「一度目が覚めてから手術室に入ったんですか?
それともあのまま寝たまま手術室に?」
話を聞くとそのまま寝たまま手術らしい。
結果的に理想の形である。
安心してライブステイションに引き返す。
本番が終わって山手線に飛び乗ると携帯が鳴った。
ジャズクラブSのマスターである。
「今電車の中やから着いたらかけ直します」
こんな時にもマナーにはウルサイ俺である。
「今ちょっとだけ聞いてくれ」
電話を切らせないマスター。不吉な予感が頭をよぎる。
「4時に手術室に入って、たった今まで4時間。
手術は成功してその担当医が今からジャズクラブSに飲みに来る。
成功や。わかるか。とりあえずすぐ死ぬことはもうない」
興奮してそうまくし立てる。
病院に行くと、ご家族が偉い先生から話を聞いていた。
「動脈瘤は塞ぎましたが、
クモ膜下出血は基本的にいろんな合併症を引き起こすので安心は出来ません。
現在は意識障害や麻痺などがあり、最悪はこのまま植物人間になることも考えられます。
脊髄液に血液が混ざって循環が悪くなると水頭症になって、
脳内の圧力が上がって脳を圧迫して痴呆になる可能性もあります」
そのままジャズクラブSに飛び込む。
今日の出演者は「岡崎ブラザース」。
トランペットの岡崎好朗とサックスの岡崎正典のグループである。
マスター手書きの入り口の看板を見ると、
「本日の出演者」のところに
「岡崎好朗」ではなく、「岡崎猛」と書かれていた。
しかもご丁寧に「岡崎猛 Gt」である。
おいおいオッサン、岡崎猛は今病院じゃろ。
今日の出演者にギタリストがおるんかい!
オッサン、何じゃかんじゃクールに装っててもよっぽどパニックしてたんやなあ・・・
店に入ろうとすると、マスターがそれを制止する。
「店に入ったらミュージシャンの手前チャージを取らんわけにはいかん。
俺は岡崎のことでは出来る限りのことは全部やった。
公私混同はしとないし、最後にケチつけとうないんや。
ライブ終わるまで外で待っといてくれ」
ガメツイと評判のマスター。
でもそれはミュージシャンの千円二千円のチャージバックを守るためだったりもする。
「かまへんで。チャージ払うがな。お祝いにええ演奏聞かせてもらうわ」
店に入ると、1ステージ目の最後の曲をやっていて、
一角だけやたら大盛り上がりのテーブルがある。
いかしたオブリには「イエイー!」、
いいソロが終わると「ウォー!」、
曲が終わると「ワーワー!」、
まるでキチガイである。
「あれがお医者さん?」
「せやで」
見ると、すでにテーブルの上にはバドワイザーの空き缶が所狭しと並べられている。
「初めまして」
M氏と言うその担当医と、そのアシスタントに挨拶をした。
「いやー、Jazzギタリストだと聞きましてね。
出来る限りのことはやりました。
後は本人の体力と頑張りです」
病院で聞いた偉いお医者さんと同じ説明をしてくれる。
「素人質問で悪いんですけど、
切開手術が出来なくてどうやって手術するんですか?」
この際なので素朴な質問をぶつけてみる。
「腰あたりの血管の中からテグスみたいな糸を入れて、
それをレントゲン見ながら患部まで何とか到達させるんです」
「ちょっと待って下さい。腰から頭言うたらえらい距離がありますがな。
なんで首からとか入れんのですか?」
「場合によっては首から入れる時もありますけど、
頭に近ければ近いほど危険だと言うのもありまして、
だいたいの場合は腰からが一番いいとされてます」
「でも動脈言うたらいろいろ枝葉に別れてて、
道を選ぶだけでも大変やのに、患部までの正しい道のりにテグスを導くって大変でしょう」
「いやー、ほんと指先ひとつですよ。
入り口のところでテグスをちょこっと回すんです。
そしたらテグスの先がちょこっと方向転換するんです。
それをレントゲンで見ながら患部まで持って行くんですね」
「そりゃ確かに大変ですわなあ。4時間っつうたら、よく集中力が続きますねえ」
「いやー、根性ですよ。何回もくじけそうになりますけどね」
「でも患部に到達してからどうするんです?」
「このテグスは到達したら先っぽが丸まるんです。
それで動脈瘤の中でくるくるとテグスをコイル状に丸めていくんです」
「丸めたら何のええことがあるんです?」
「例えば川のほとりに水溜りが出来たとするでしょ。
そこに水が流れ込むようになれば水溜りはどんどん大きくなる。
これが動脈瘤です。
ですからその水溜りを小石かなんかで埋めてしまうんです。
そうすると水が流れ込まないので川の流れはそのままと言うわけです」
「でもコイル状になったはええけど、
そのままテグス抜いたらコイルもほどけて抜けてしまうやないですか」
「そのテグスには、電流を流すとあるところで切れてしまうように作られてるんです。
その部分まで丁重にコイル巻きして詰めてやるわけです」
すんごい作業やなあ・・・・
「先生はトランペットを吹かれると言う話ですけど、
そんな器用な指先っつうのはトランペットによって鍛えられたとかありますか?」
まるでインタビュアーのような質問をしてみる。
「トランペットがどうのこうのと言うより、手術はそもそもJazzと同じですよ」
「は?・・・と言いますと・・・」
「Jazzのコード進行と同じように、
手術にも確固たる守らなければならないセオリーがあります。
でもそれだけでは手術は出来ないんです。
患者の反応とか状況を見ながら、それに合った風に変えていかなければならない。
つまり人のプレイに反応するJamセッションと同じなんです」
「そりゃすごい。ほなセンスの悪い人に当たったら最悪ですね」
驚く俺にアシスタントが耳打ちする。
「この先生、こう見えてもこのジャンルでは日本で3本の指に入る名医なんですよ」
ひえー・・・
岡崎はんの大幸運期はこの人とめぐり合うっつうことやったんか・・・
今後のこともいろいろ聞いてみる。
「今まではいつ大破裂するかわからない状態だったんで、
集中治療室で外界からの刺激を一切なくして薬で眠らせたりしてましたが、
もう破裂することはまずないですから、
今度はどんどん刺激を与えてあげなければなりません」
「それって、ほな例えばJazzとか聞かせるのってええことなんですか」
「そうですね。でも実は僕の手術の時にはいつもJazzかけながらオペしてるんですよ」
ほな岡崎はんも4時間Jazz聞きながら手術受けてたんかぁ。
そりゃ本人幸せやなあ・・・
とか何とか言ってるうちに2ステージ目が始まった。
「ワーワー、ギャーギャー、イエイ!」
このふたりはまことにウルサイ。
でも俺もステージで演奏する側として、
こんな客が実は一番嬉しい客であることを知っている。
的確なところで的確に騒いでミュージシャンを盛り上げてくれる。
言わば客席にてミュージシャンとセッションしてるようなもんである。
「そうかぁ。このセッションで岡崎はんは助かったんかぁ・・・」
何だか気が抜けて酔いがまわった。
ステージでのご機嫌な演奏を聞きながら、
「ああ、俺も岡崎はんもこの世界に住んでる人間なんやなあ」
と実感する。
そして偶然にも岡崎はんの命を救ったこの医者も同じ世界で住んでいた。
それをその媒介にここのマスターがいた。
みんな同じ世界に生きているのである。
俺もいろんなトラブルを起こして今の環境で音楽をやっているが、
いつも感じてたのが、「住んでる世界が違う」と言うことだった。
そしていつもこんなJazzクラブやライブハウスに戻って来た。
そして今は何の因果かレコード会社までやっている。
何のためにレコード会社をやっているのか・・・
そりゃXYZのために作ったのではあるが、
でも大きく考えると、リリースしたい物をリリースするためにやっとるんではないか・・・
最初にこの五星旗の前身とも言える音楽を持って行った先はSONYレコード。
俺は契約上SONY以外からリリースすることは出来なかったのだ。
爆風スランプのメンバーのソロプロジェクトと言うことで、
偉い部長がじきじきにJazzクラブまで来てくれて、
そして会議室でミーティングまで開いてくれた。
そして最後に一言。
「これが50万枚売れるんですか?」
この人達とは生きている場所が違うんだ!
そう強く感じた。
「よし、岡崎はんのソロアルバム作るぞ!」
現状、彼が再びギターが弾けるようになるのはまだまだ先だろう。
まずは健常な生活に戻れることからである。
それからリハビリが始まる。
運が悪ければ合併症で死ぬ。
このまま意識障害で社会復帰出来ないかも知れない。
でも運が良ければまた元通りギターが弾ける。
5年後なのか、10年後なのか、
でもひょっとしたら半年後かも知れない。
生きてると言うことは素晴らしい。
またギターを弾ける可能性があると言うことである。
死んでしまえばそれは永遠にゼロである。
岡崎ぃ。生きててよかったなあ・・・
しかし生きてゆくには大変なことも多い。
努力もいるし、金もいる。
岡崎はんの過去のライブ録音の中から名演と呼ばれるのを集めて、
「岡崎えーど(関西弁風に上がり口調で読む)」と題してソロアルバムを作ろう。
プレス代等リスクは全部俺が被ろう。命拾いした岡崎に対するご祝儀じゃ。
ガメツイので有名なマスターにも今度ばかりは無料でマスタリングしてもらおう。
問題は音源である。
本人の家、友人の家のテープ類を漁るが、
もしみなさんの中で、岡崎はんのライブの隠し録りのテープがあったら、
その中で「名演」と言えるものを是非無料で提供して欲しい。
ミュージシャンへの許諾は俺がとる。
もちろんギャランティーは泣いてもらおう。
「これが50万枚売れるんですか?」
いえいえ500枚がええとこでしょう。
でも500枚を越したら利益が出る。
そしたらヤツのリハビリの大きな役に立つやないかい。
これが俺の生きてるところである。
そんなことを考えてるうちに2ステージ目は終了した。
「いかした演奏をありがとう」
メンバーに挨拶に行く。
「先生もどうもありがとう御座いました」
先生にも丁重に礼を言うが、
「いやー、当然のことをやっただけですよ」
と謙遜する。
「でも先生の腕がよかったから彼の命があるんですよ」
「オペがうまくなるよりもトランペットうまくなりたいんですけどね・・・」
いやいや、オペの腕がよくって本当によかったっすよ。
Jazzキチの周りにこのJazzキチあり。
飲んだビールは2人で18缶。
支払いをしようとする先生を制止しながら
今日だけはガメツイので有名なマスターが支払う。
ミュージシャンへのチャージもマスターがちゃんと支払う。
人はとやかく言うけど、俺はこんなマスターが大好きである。
「まさか18本も飲むとは思わんかったなあ・・・」
「ええやん、それで岡崎はんが助かったんやから・・・」
現在岡崎はんは、手術後の経過も順調で、
麻痺しとるはずの手足もばたばた動かすし、
ロレツのまわらん口で
「こんなことやっとる場合とちゃうがな」
と口走ったとか口走らないとか・・・
死にかけて初めてやる気っつうもんを出したなあ、こいつ。
・・・と言うわけで友人のみなさん、ファンのみなさん。
今のところまだ家族以外は面会謝絶ですので見舞いには行けません。
集中治療室から出て病室に移ったらまた連絡しますが、
岡崎はんに関することへの問い合わせも真に勝手ながらかんべんして下さい。
以上の情報が全てです。
また今回のこのメルマガに対する返事は結構です。
次号からまたアホネタに戻ります。
五星旗は当分ギターに千葉”団長”孝を迎えて活動します。
「岡崎えーど(関西弁風に上がり口調で読む)」への音源提供の方は、
住所と連絡先を書いて下記の住所まで送って下さい。
まずそちらの方で厳選してから送って頂くと助かります。
ただでさえ今から莫大な量のテイクを聞いていかねばならないので・・・
153-0064
目黒区下目黒3-24-14目黒コーポラス405
ファンキーコーポレーション
「岡崎えーど(関西弁風に上がり口調で読む)」音源提供係まで。
・・・と言うわけで今回は特別な「ひとり言」でした。
失礼!
ファンキー末吉
ps.この原稿を書いた後、岡崎は無事退院し、ちょっと後遺症は残っているものの元気にギター弾いてす。
タバコは自主的にやめたが、酒は相変わらず飲んでます。
医者曰く、別にほどほどにする分には何をやってもええそうな・・・
よかったよかった・・・